灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
水都ラトには、道がない。
正確には、道より水のほうが多い。百を超える小島を白い橋が結び、その下を細長い舟が行き交っている。家は水面から直接生えたように並び、青い屋根が冬空を映していた。
「きれいです」
ノエが言う。
「落ちたら寒そうだ」
「感想が暗いぞ、カイ」
ティルが橋の欄干から身を乗り出す。
「お前はまず落ちない歩き方を覚えろ」
樹都を出て五日。左足首の腫れはほとんど引き、右肩も荷を背負えるまで戻った。ガランの黒い手甲だけが冷え込みで動きにくくなり、朝は革紐で指を開かせている。
王家の通行証のおかげで外門は通れた。問題は、その先だった。
最初の橋に銀色の門がある。係の女が通行証を見て、にこやかに木箱を差し出した。
「王路の入都は免除されています。島間記憶税は、お一人一片です」
「記憶税?」
「橋と水門の維持費です。最近食べたもの、道中で見た景色、誰かと交わした短い会話。日常の小片で結構ですよ」
木箱には透明な針が四本並んでいる。こめかみへ当て、思い出を抜く道具らしい。
「金では駄目なのか」
「もちろん。お一人銀貨五枚です」
四人で二十枚。俺たちの財布だと、橋を二つ渡れば野宿が決まる。
「記憶を何に使う」
「水門炉の安定材です。願火と違い、生者の記憶は名を保ったまま流れに馴染みます。市民の皆様が少しずつ負担する、公平な制度ですよ」
公平。
樹都でも似た言葉を聞いた。一人から一生を奪う代わりに、全員から少しずつ。確かにましに見える。
「俺が払う」
ティルが針を取った。
「待て」
「大したもんじゃない。道で食った酸っぱい林檎の味にする」
こめかみに針を当てる。透明な管へ薄赤い光が溜まり、ティルは一度まばたきした。
「どうだ」
「腹が減ったのは覚えてる。でも何食ったか分かんねえ」
「気分は」
「損した」
冗談を言える程度には平気らしい。ガランは灰衣の古い免税章を見せた。係の女は嫌な顔をしたが、通した。
俺も針へ手を伸ばす。
「カイ」
ノエが止める。
「私は、樹都で見た霜を渡せます」
胸の中で何かが切れた。
「駄目だ」
「まだ、好きなものは他にもあります」
「数の問題じゃない」
「私の記憶です。私が選べます」
「選べるからって、払っていいわけじゃない!」
声が大きくなり、橋の客が振り返った。ノエは目を見開く。
俺は彼女へ選べと言ったばかりだ。今は、自分の好きな記憶を出すという選択を怒鳴って止めている。
けれど、霜はノエが自分で見つけたものだ。千人からもらった知識ではなく、道でしゃがみ込み、自分の指で溶かした。そんなものを通行料にされてたまるか。
「悪い。でも、それは駄目だ」
「理由を説明してください」
「お前の記憶が少ないから」
「少ない人は、自分で使えないのですか」
正しい質問が痛い。
「……俺が、なくなるのを見たくない」
結局、俺の都合だ。
ノエは針から手を離した。
「今は、分かりました。次は、私が決める前に怒鳴らないでください」
「分かった」
係の女が咳払いする。
「お支払いは」
「俺が二人分出す」
朝に食べた固いチーズの味を選んだ。なくなっても困らない。針をこめかみへ当てると、冷たい糸が頭の中へ入り、記憶を引っかけた。
灰灯が勝手に光る。
透明な管へ流れたのは、チーズの白ではなかった。赤い火。春の墓地で姉ちゃんと作った花冠の景色が、針へ吸い込まれかけている。
「離せ!」
針を投げた。ガランが空中でつかみ、黒い手甲で管を折る。赤い火が俺のこめかみへ戻った。
係の女が青ざめる。
「器具は希望した小片だけを――」
「俺のは違ったぞ」
「記憶の価値に応じて、水門炉が選ぶことがあります」
「それを先に言え!」
「通常は、より安定性の高い記憶と交換されるだけです」
交換。
俺が灯継ぎで失った場所へ、器具が食いついた。姉ちゃんの記憶は暁炉の核とつながっている。だから高く売れる。
係の女の視線が灰灯へ移る。驚きが、計算する目に変わった。
「お客様の記憶であれば、橋百本分として買い取れる可能性がございます。査定所へ――」
「行かない」
俺は灰灯を外套の内側へ隠した。
周りの全員が、俺の頭を値踏みしている気がした。橋の客も、係も、舟の船頭も。ガランが免税章を持っていることさえ、俺たちをここへ連れてきた罠ではないかと思う。
「別の橋へ行くぞ」
ガランが言う。
「そこも同じだろ」
「制度は同じだ」
「なら、あんたは知ってたのか。俺の記憶が抜かれるって」
「高く反応するとは知らなかった」
「知らなかったで済むと思ってるのか」
ガランの顔は動かない。それが認めているのか、隠しているのか分からなくて、余計に苛立つ。
「カイ、ここでは目立ちます」
ノエの声まで、俺を止める側に聞こえた。
「じゃあ、お前は記憶を払うのか」
「それは別の話です」
「同じだ!」
違う。本当は分かっている。俺は記憶を奪われかけて怖くなり、誰が敵か決めれば楽になると思っている。
ティルが欄干の下を指した。
「喧嘩は舟でやろうぜ」
「舟も金がいる」
「あれなら、いらない」
橋の影を、黒い舟が進んでいた。船首に灰色の布。中央には細長い棺が二つ載っている。
「葬舟だ。死体は税を払わない」
ティルは欄干を越えた。
「待て、馬鹿!」
三歩下の係留柱へ飛び降り、縄を伝って黒い舟へ着地する。船頭の老婆が長い竿で頭を殴った。
「死んでから乗りな、小僧」
「兄貴が記憶庫にいる! 裏水路まで乗せてくれ!」
「生きた客は銀貨十枚」
「橋より高いじゃねえか!」
老婆は片目を細め、橋の上の俺たちを見た。灰灯で視線が止まる。
「その灯り、マウラの型だね」
俺は緑の糸で結んだ灰袋を押さえた。
「マウラを知ってるのか」
「昔、葬舟の竿であいつを水へ落とした」
「何をしたらそんなことになる」
「あたしの酒を薄めた」
マウラならやりそうだ。知り合いだと信じる材料には弱いが、想像できすぎる。
橋の係が衛兵を呼んでいる。悩む時間はなかった。俺たちは欄干を越え、順に舟へ降りた。ガランだけは無駄なく着地し、老婆に舌打ちされる。
「灰衣まで乗せるとは聞いてないよ」
「今は元だ」
「腐った魚が、干物になった程度の違いだね」
ガランが黙った。口で勝てない相手がいたらしい。
老婆はミレと名乗った。七十近くに見えるが、竿を押す腕は太い。黒い葬舟は橋の下へ入り、日の当たる大水路から、家々の床下を通る細い水路へ曲がった。
「どこへ行きたい」
「葬務院の記憶庫。ユアン・レクを捜してる」
俺が答える。
「あそこへ正面から入るなら、頭を全部置いていく覚悟がいる」
「記憶税と関係があるのか」
「税は水門炉へ流す。余った分は記憶庫へ貯め、白炉へ送る。死者の願火が暴れないよう、生きた記憶を混ぜるのさ」
全員から少しずつ集める制度は、一人を燃やさないためではなかった。別の炉を安定させる材料を、気づきにくい大きさで集めている。
「第三の鐘は」
ノエが聞く。
「記憶庫の水門中枢だ。まだ鳴らすつもりの馬鹿が残ってたとはね」
ミレは棺の下から油紙の包みを出した。水染みだらけの紙を、俺へ放る。
「八年前、別の馬鹿から預かった。本人が捕まったら、次の墓守へ渡せって」
開く前から、字が分かった。
少し右へ傾く、勢いのある筆跡。俺へ灰札の書き方を教えた手。
表には、こう書かれていた。
『白炉停止に関する宣言 リナ・リュゼ』
姉ちゃんが安全弁を壊す前、自分で書いた言葉だった。