灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
姉ちゃんの字は、昔より細くなっていた。
勢いよく右へ傾く癖は同じだ。書き損じを黒く塗りつぶさず、横に小さな火の印を描くところも。幼い俺が灰札を間違えるたび、姉ちゃんは「燃やして送ったことにしよう」と笑って同じ印をつけた。
声は思い出せる。笑い声の音色だけが、もうない。
俺は葬舟の床へ座り、油紙を開いた。水路の反射が文字の上で揺れる。
『白炉停止に関する宣言』
『王立葬務院が運用する大白炉は、願火から名と関係を剥ぎ、残滓を灰除け結界へ転用している。名を失った願いは消えず、地下炉脈へ蓄積し、虚獣の発生源となる』
ここまでは、リナの帳面で読んだ。
『私は葬務院へ三度、段階停止と個別送火への移行を要請した。回答はいずれも、結界維持を優先し却下。昨夜、炉心深度が危険域を超えた。次の満月まで運転を続ければ、王都内側で大規模な虚獣化が起きる』
日付は、灰雨の前日だった。
『よって私は、明朝、東西の安全弁を開放する。炉圧を落とし、蓄積願火を七本の旧弔い路へ分散する。急な送火による灰雨、結界の一時低下、炉区の水没が予測されるため、夜明けまでに炉区および東市街を避難させること』
指が止まった。
急な送火による灰雨。
姉ちゃんは知っていた。
何も起きないと思って安全弁を開けたのではない。危険を計算し、それでも実行すると書いている。
「避難はされたのか」
ティルが俺の肩越しに読む。
「されてたら、四百人も死んでない」
言葉が尖った。ティルは離れた。
続きを読む。
『大白炉を止めれば、王都結界は最短六時間、最長二日低下する。この間の虚獣被害は予測不能。ただし運転を続けた場合、炉心崩壊による死者は最少で一万二千と試算する』
四百十二と、一万二千。
数字を並べれば、姉ちゃんは少ないほうを選んだことになる。
だから正しい?
セインなら、救った人数で話すかもしれない。姉ちゃんが止めなければもっと死んだ。それで四百十二人の墓へ、仕方なかったと言えるのか。
『私はこの手段が正しいと主張しない。時間を失ったのは、院の却下後も命令が変わると期待し、単独実行を恐れた私の責任である。避難に失敗した場合、死者の責任を院だけへ負わせない』
逃げていない。
それが、余計に腹立たしかった。
「一人でやるなよ」
紙へ言う。
「怖かったなら、誰かに言えよ。俺には無理でも、マウラやミレや……仲間がいただろ」
姉ちゃんは昔から、家では弱音を吐かなかった。旅で怪我をして帰っても、土産を先に広げた。痛いと言えばいいのに、俺が心配するからと笑った。
格好いいと思っていた。
違う。あれは、他人に選ばせない癖だ。
自分が危ないことを隠し、助けたい側の気持ちだけで決める。俺がノエへしていたことと同じだ。
「最後を読め」
ミレが船尾から言った。
『白炉を止めた後、願火を個人弔いへ戻すには十年単位の移行が必要となる。生者の小さな願いを結界へ束ねる旧式灰鐘を各地で再起動し、国が死者だけへ依存しない炉網を作ること』
『誰か一人を核にするな』
その一文だけ、二重に線が引かれていた。
『多数のためという言葉で、一人から名前も時間も選択も奪えば、白炉を止めても同じ仕組みが残る。炉を支える者は、自分で関わる範囲と期間を選べなければならない』
姉ちゃんはそう書き、自分一人で安全弁を開けた。
「矛盾してる」
「そうだね」
ミレはあっさり認めた。
「リナは、自分を一人へ数えるのが下手だった」
胸が詰まる。
姉ちゃんを潔白にする手紙ではなかった。名剥ぎを止めようとした証拠であり、危険を知って単独で実行した証拠でもある。
「ミレは、これをいつ受け取った」
「灰雨の朝。あの子を東安全弁まで乗せた。怖くないかって聞いたら、弟に怒られるのが一番怖いと言ってたよ」
胸の中で、姉ちゃんの声がその言葉を読む。
まだ思い出せる。
「俺が怒るって、分かってたんだな」
「分かってても、やった」
涙が紙へ落ちそうになり、袖で目を拭いた。泣けば姉ちゃんを許すことになる気がした。怒れば四百十二人の側へ立ち、姉ちゃんを捨てる気もした。
どちらも違う。
「俺は、姉ちゃんを助けたい」
声に出して確かめる。
「でも、勝手に一人で決めたことには腹が立つ。危険を知ってたなら、死んだ人へ責任もある」
紙の姉ちゃんは答えない。
ノエが隣へ座った。
「両方でいいと思います」
「都合がよくないか」
「一つを消すほうが、都合がいいです」
確かにそうだ。善人か人殺しか、どちらかに決めれば考えなくて済む。姉ちゃんを知っている俺は、そんなに簡単な墓へ押し込めてはいけない。
宣言文の最後には、協力者と受領者の署名欄がある。
ミレ・サージ。葬舟主。避難輸送担当。
マウラ・エンデ。旧灰鐘資料の照合。
エイル・ノルド。炉脈分散計算。
旅の始まりで弔った男の名だ。姉ちゃんと同じ計画にいた。
その下へ、別の筆跡があった。
ガラン・ヴォルク。王立葬務院灰衣審問官。
「これは何だ」
ガランは舟の中央で水路の先を見ていた。
「あんたの署名だろ」
「そうだ」
「協力したのか」
「していない」
紙を裏返す。署名の横に小さく『押収確認』とある。
腹の底へ冷たい水が溜まった。
「押収した?」
「灰雨の朝、安全弁へ向かうリナ・リュゼを止めた。宣言文を証拠品として預かり、署名した」
「止めたなら、どうして安全弁が開いた」
「俺が着いた時、東弁はすでに開いていた。西弁へ向かう彼女を拘束した。その直後、暁炉が過負荷運転へ入り、東弁から願火が噴いた」
聞きたいことが多すぎて、何から殴ればいいのか分からない。
「姉ちゃんを、どうした」
「逮捕した」
ガランは俺を見る。
「八年前、リナ・リュゼへ封炉破壊および大量殺人の容疑を告げ、俺が暁炉へ連行した」
黒い手甲が、欄干の上で固く閉じる。
「彼女が炉心へ接続されるところまで見た」
姉ちゃんを奪った男が、最初から隣を歩いていた。
村の墓を掘り、マウラの灰を運び、俺のパンを平気な顔で食べながら。
「どうして今まで黙ってた」
「話せば、俺を殺すことに時間を使うと思った」
「それを決めるのも、あんたか」
拳を握る。左足が勝手に前へ出る。
ノエが立ち上がったが、俺は止まれなかった。
ガランの頬を殴った。
舟が大きく揺れた。ティルが棺へしがみつき、ミレが舌打ちする。
ガランは避けなかった。
それが一番、許せなかった。