灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
殴った拳より、殴らなかったガランの手のほうが腹立たしかった。
「避けろよ」
「殴りたいんだろう」
「俺に罰を与えさせて、少し楽になろうとするな!」
もう一度振った拳は、黒い手甲に止められた。ガランの金属の指は冷たく、握る力は弱い。それでも俺は振りほどけなかった。
「楽になるつもりはない」
「だったら最初から話せ!」
「話して、旅をやめるか」
「決めるのは俺だ!」
同じことを姉ちゃんにも叫びたい。
俺はガランの手を振り払い、葬舟から岸へ飛び移った。裏水路の細い石段。どこへ続くか知らない。ただ、同じ舟にいたくなかった。
「カイ、待ってください」
「待てない。記憶庫へ行く」
「場所を知っているのか」
「捜す!」
ノエにまで怒鳴ってから、自分が子供みたいだと分かった。分かっても止まれない。
ティルが舟から跳ぶ。
「俺も行く。兄貴がいる」
「お前はミレに道を聞け」
「じゃあお前も聞けよ!」
正しい。正しい言葉ばかり追ってきて、耳へ刺さる。
その時、水都中で鐘が鳴った。
三度、短く。水門の緊急放流を告げる音だとミレが叫ぶ。水路の流れが逆向きになり、葬舟が岸へ押しつけられた。
「記憶庫の排水だ」
ミレの顔から冗談が消える。
「地下牢を空にする気だよ」
「中の人は?」
「水ごと外堀へ流す。記録も囚人も、まとめてね」
緑冠商会の契約が公開され、水都の記憶庫まで調べられる前に証拠を捨てる。驚くより先に、ティルが俺の腕へつかみついた。
「兄貴が!」
「行く」
ガランが岸へ上がる。
「正門は閉じる。西の監査水路から入る」
「あんたの道は使わない」
「怒りは後にしろ」
「八年後に話す奴が言うな!」
俺はミレを見た。
「裏道は」
「ある。だが水中だ。排水が始まれば戻れない」
「連れていってくれ」
「カイ」
ガランが低く呼ぶ。
「正門を破るほうが生存率は高い。俺が灰衣の権限で止める」
「その権限で姉ちゃんを炉へ入れたんだろ」
ガランの言葉が止まった。
勝った気がした。最悪だ。相手を黙らせるため、姉ちゃんを使った。
「ミレ、頼む。ノエは水門の声を探せ。ティルは兄貴の房を見つけろ」
俺は三人の返事を待たずに葬舟へ戻った。自分が急ぐから全員も急げ。そう命令した。
ミレは一度だけガランを見た。
「腐った魚でも、後ろへ置いときな。流れが変わったら竿が要る」
ガランも乗った。俺の判断を認めたのではない。止める時間がなくなっただけだ。
葬舟は家々の下を抜け、鉄格子で塞がれた暗渠へ入った。ミレが水へ飛び込み、底の鎖を外す。七十の体とは思えない速さで潜り、格子を持ち上げた。
その先は記憶庫の排水路だった。
透明な記憶片が水中を流れている。赤い夕焼け、犬の毛、母親の歌、初めて握った手。誰かの生活が魚の群れみたいに俺たちの横を通り、外へ捨てられていく。
「止められないのか!」
「元栓は中枢だ!」
ミレが舟へ上がりながら答える。
「先に人だよ!」
地下牢へ着く前に、二つ目の水門が閉まり始めた。鉄板の向こうから囚人たちの叫びがする。
ミレはまた水へ入った。門の下へ潜り、詰め木を差し込む。隙間が人一人分まで開いた。
鈍い音がした。
水門の向こうから放たれた銛が、ミレの脇腹を貫いた。
「ミレ!」
ガランが水へ飛び込み、彼女を引き上げる。銛を撃った看守は、証拠を消せと命じられたとわめきながら逃げた。
ミレの血が舟底へ広がる。
「門を……止めな」
「もう止まってる。傷を押さえろ」
「詰め木が、もたない」
鉄板がきしむ。向こうの地下牢へ水が流れ込み始めた。
ミレは俺の灰灯をつかんだ。
「あの子と同じ顔をするんじゃないよ。自分だけで間に合うと思ってる顔だ」
「しゃべるな」
「カイ。怒るのは、帰ってからでもできる」
血の泡を吐き、それでも笑う。
「今度こそ、全員乗せな」
手が落ちた。
灰灯へ、青い願火が入る。ミレの最後の願いは、舟の底より深い場所を指していた。
水門の詰め木が折れた。
鉄板は完全に閉じる。下に、泳いで抜けられる細い排水穴が一つある。向こう側の開閉輪を回せば門は上がる。
「俺が行く」
「流れが速すぎる」
ガランが止める。
「ミレなら行ける」
言った瞬間、灯継ぎの代償が分かった。
姉ちゃんの声。
まだ残っている。カイ、と呼ぶ声。火へ息を吹く時の低い声。旅から帰り、背の伸びた俺を驚く声。笑い声の音色は失っても、言葉の調子は覚えている。
これを燃やせば、姉ちゃんは紙の中でしか話さなくなる。
怖い。
嫌だ。
なのに門の向こうでは、ティルの兄と、名前も知らない囚人たちが溺れかけている。迷っている間も水は増える。
俺は正しいから使うのではない。
選んだ責任を、後で誰かへ渡さないために使う。
「ミレ。泳ぎを借りる」
青い願火が胸へ入った。
姉ちゃんの声が、最後に俺の名を呼ぶ。
音が消えた。
俺は水へ飛び込んだ。
冷たさで肺が縮む。けれど体は流れへ逆らわない。底を蹴らず、肩を斜めにして水圧を逃がす。ミレの腕が進む道を知っている。
排水穴へ潜る。石へ胸をこすり、暗闇を抜けた。向こう側へ出ても息は続かない。開閉輪に両手をかける。錆びて動かない。
姉ちゃんの声を思い出そうとした。
何も聞こえない。
代わりに、ミレの願いが腕を押した。全員乗せな。
輪が回る。鉄板が少しずつ上がり、ガランの黒い手甲が下から入った。握力の弱い指を、右手で無理やり閉じて門を支える。
ノエとティルが隙間を抜けた。最後にガランが入り、俺を水から引き上げる。
咳と一緒に水を吐いた。肺が焼ける。立てと言われても、足へ力が入らない。
「俺は置いてけ。牢を開けろ」
また命令した。
ノエは従わなかった。俺の背を支え、息が整うまでそばにいる。ガランとティルが牢へ走った。
地下牢には二十三人いた。記憶担保の契約者、税を払えなくなった者、何を契約したか忘れた者。水は胸まで上がっている。
ティルが一番奥の格子へしがみつく。
「兄貴!」
痩せた青年が、水の中から顔を上げた。栗色の髪。ティルと同じ目。
「ユアン、俺だ! ティルだ!」
青年は格子越しにティルを見た。
「誰だ」
ティルの顔が崩れる。
「弟だよ。お前の弟! 母さんの瓶を割ったのは俺で、お前がかばって、それで――」
「俺に、弟はいない」
記憶を取られている。
ティルは泣きながら鍵へ針金を差した。手が震え、うまく回らない。ガランが黒い手甲を格子の間へ入れ、蝶番を壊した。
「話は外でしろ。今は生きろ」
一人ずつ葬舟へ移す。ミレの棺を水へ送る時間もない。彼女を船首へ寝かせ、その足元まで人を乗せた。
帰りの水路で排水が増し、舟は何度も壁へぶつかった。ガランが竿を握り、ノエが記憶の流れから浅瀬を見つけ、ティルは知らないと言う兄を離さなかった。
俺は何もできず、舟底で咳をした。
岸へ着いてから、全員へ頭を下げた。
「悪かった」
肺が痛み、言葉が切れる。
「俺は、ガランへ怒ってた。それを急ぐ理由にして、道も返事も待たずに行けって言った。ミレが死んだのは俺だけのせいじゃない。でも、俺の命令で危険を増やした」
ティルはユアンのそばで黙っている。ノエが俺を見る。
「私は、自分でついていきました」
「分かってる。でも、選べるように話さなかった」
ガランには、まだ謝れない。殴ったことより、姉ちゃんを連行したことへの怒りが消えない。
「あんたのやったことを許したわけじゃない」
「許されるつもりもない」
「それも今は腹が立つ」
ガランは頬の血を拭った。
「リナを連行した後、暁炉の過負荷命令を見た。炉心を守るため、安全弁を閉鎖し出力を上げろとあった。大葬卿オルセウスの印だった」
「それで灰雨が増えた?」
「俺はそう証言できる。だが原本は院が隠した。リナの責任がなくなるわけでもない」
姉ちゃんのしたことと、院の命令。二つが重なって四百十二人を殺した。
俺は宣言文を胸へ抱いた。
姉ちゃんの声で読もうとする。
聞こえない。
口の動きも、言葉も覚えている。なのに、どんな高さで俺を呼んだのか、何一つ音にならない。
「姉ちゃん」
息がうまく吸えない。水を吐いたせいだけではない。頭の中が静かすぎる。
「カイ」
声がした。
姉ちゃんではない。
ノエが俺の前へしゃがんでいる。
「私はここにいます」
失った声は戻らない。
それでも俺は、今聞こえる声をたどって水辺へ戻った。