灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
水へ落ちた服は、乾くと板になる。
翌朝、俺の外套は自力で立ちそうな硬さだった。ノエの服も泥と血で汚れ、白い布が茶色くなっている。
「似合ってるぞ」
ティルが言う。
「服に着られている人みたいです」
ノエが袖を曲げようとして失敗する。
「お前は時々、俺よりひどいことを真顔で言うな」
俺たちは救出した人々と一緒に、水都の南端にある施療院へ匿われていた。記憶庫の排水は市民にも知れ渡り、水門庁は「設備事故」と発表した。銛を撃った看守は捕まったが、排水命令を出した者はまだ中枢へこもっている。
ユアンは目を覚ましている。
けれどティルを知らない。
兄弟は同じ部屋にいて、知らない者同士みたいに向かい合っていた。ティルは昨夜から、自分が瓶を倒したこと、ユアンが身代わりになったことを三度話した。ユアンはそのたび初めて聞く顔をする。
「兄貴、俺が嫌いか」
「知らない相手を、いきなり嫌いにはなれない」
「じゃあ、好きでもない?」
「今は」
ティルの指が毛布を握る。
「記憶を戻せば、分かる」
戻せると信じている声だった。
第三の鐘は記憶庫の水門中枢にある。そこへ流出した記憶も集まっている。ティルにとっては、兄を取り戻す鐘だ。
俺にも取り戻したい記憶がある。
姉ちゃんの声。
笑い声。花冠の手触り。
あの貯水槽のどこかに混ざっているなら、手を伸ばしたくなる。灯継ぎで燃えた記憶は水都へ納めたものではない。戻る保証はないのに、そう考えるだけで胸が速くなる。
「中枢へ入る前に着替えな」
施療院の女主人が銅貨を数枚くれた。
「その格好じゃ、隠れる前に床を削るよ」
断ったが、ミレの葬舟を助けた礼だと押しつけられた。ミレ本人は水都の共同墓所へ安置した。送火は事件が終わってから、彼女の舟で行う。
俺とノエは、施療院の向かいにある古着屋へ入った。
青、灰、白。水都の服は水に濡れても重くならないよう、薄い布を重ねている。ノエは棚を一つずつ見た。
「どれでもいいぞ」
「その言い方は、選んでいないのと同じです」
「じゃあ、緑がいいと思う」
「なぜですか」
「お前が好きだから」
ノエは深い緑の上着を手に取る。袖に細い銀糸があり、若葉というより冬も残る針葉樹の色だ。
「これにします」
「俺の意見で決めた?」
「いいえ。私も、これがいいです」
少し安心した。
店の奥には、王家の古い肖像が飾られていた。青いドレスの少女が、白い髪を肩で切りそろえて笑っている。
『養王女ノエリア殿下、水都慰問記念』
ノエと同じ顔だった。
店主が俺たちの視線に気づく。
「かわいそうな姫様さ。大葬卿の娘で、王様に引き取られたのに、長夜病で十歳にもならず亡くなった。セイン殿下がずいぶん可愛がっていたそうだよ」
ノエは肖像へ近づいた。
「この人の記憶が、私の肉体にあります」
店主に聞こえない声で言う。
「庭の池。青い服を嫌がったこと。セイン殿下が木へ登って、二人で叱られたこと」
「お前の記憶なのか」
「分かりません」
肖像の少女は青を着ている。ノエは緑の上着を抱いた。
「でも、この服を選んだのは私です」
店主へ銅貨を払い、余りで細い緑の糸を一巻き買う。何に使うのか聞くと、まだ決めていないと答えた。
店を出たところで、ノエの指先に小さな火が浮かんだ。
緑色。灰灯にいる誰の火とも違う。ごく小さく、風に吹かれれば消えそうなのに、ノエの指を離れず燃えている。
「願火です」
ノエが驚いている。
「誰の」
「私の」
胸へ耳を当てる。千人の囁きの奥に、新しい声が一つあった。
『明日も、この色を着たい』
死者の最後の願いではない。生きているノエの、次の願いだ。
「燃やすなよ」
反射で言う。
「燃えています」
「そうじゃない。誰かに使わせるな」
「これは、使っても減らない気がします」
緑の火は上着へ染み込み、銀糸の一本になった。ノエが笑う。
俺の胸が強く鳴った。
姉ちゃんの声を失った夜、ノエの声をたどった。だから不安だった。空いた場所へ彼女を入れ、姉ちゃんの代わりにしているのではないか。
違う。
姉ちゃんは緑を嫌い、旅支度はいつも赤かった。服を選ぶ時に首を傾げたりもしない。ノエの言葉は姉ちゃんより静かで、質問は容赦がない。
似ていないから安心したのではない。
ノエがノエであることへ、俺は安心している。
「どうしましたか」
「その服、似合う」
「先ほども言いました」
「今度は服に着られてない」
「まだ着ていません」
しまった。俺は咳でごまかした。肺が本当に痛み、倍苦しくなった。
*
水門中枢へ向かうのは、俺とノエの二人になった。
ガランは救出者の証言を集め、水門庁の排水命令を追う。ティルはユアンのそばを離れない。中枢の古い弔い路は、鐘舌を持つ俺と願火の流れを聞けるノエでなければ通れない。
「二人で無理をするな」
ガランが言う。
「あんたに言われると腹が立つ」
「腹を立てたまま覚えておけ」
まだ許せない。それでも、言葉を聞けないほどではなくなった。
俺たちはミレの葬舟を借り、夜の水路へ出た。竿は俺が扱う。彼女の技能は灯継ぎの残りとして体にあるが、肺を痛めたせいで少し押すだけでも息が切れる。
ノエは新しい緑の上着を着て、船首へ座っている。白い髪はもう隠さなかった。水都中へノエの手配は回っているはずだが、暗い裏水路では誰も気づかない。
「怖いか」
「はい」
「何が」
「中枢の声です。返してほしいと、返さないでほしいが、同じくらい聞こえます」
記憶を奪われた人なら、全員返してほしいと思っていた。
「返さないでって、どういうことだ」
「忘れたから生きられた人もいます」
ユアンは弟を思い出したいはずだ。そう決めかけて、やめる。本人へ聞いていない。
中枢島の下へ着き、鐘舌で排水格子を開けた。細い階段を上がると、巨大な貯水槽へ出る。
水ではない。
無数の記憶片が液体のように溜まり、天井まで光っている。触れ合うたび、知らない人生が壁へ映った。
子を失った母。戦場から帰った兵。初めて店を持った職人。誰にも言えなかった恋。
中央の橋の先に、第三の鐘がある。
俺たちが一歩進むと、橋の向こうで人影が立ち上がった。水門庁長ラウダ。六十ほどの女で、胸に水都の鍵章をつけている。
「待っていました、第二の核」
その手には、記憶を流す主弁の取っ手があった。
「鐘を鳴らせば、この槽の封印が解けます。すべての記憶が持ち主へ一度に戻る」
「戻って何が悪い」
「十年分の記憶を抜かれた者へ、十年分の痛みを一息で返せば、心が裂ける。すでに別の記憶で穴を埋めた者は、二つの人生に引かれて壊れるでしょう」
ラウダが取っ手へ力をかける。貯水槽の光が大きく波打った。
「鐘から離れなさい。さもなければ、あなたたちの善意で水都市民を殺します」
第三の鐘は目の前にある。
その周りを、何万人分もの失った人生が囲んでいた。