灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない   作:灰を拾う旅人

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選ばない善意

「戻して壊れるなら、ゆっくり返せばいい」

 

 俺の言葉に、水門庁長ラウダは首を振った。

「簡単に言いますね。記憶は水ではない。十年前の喪失が、今の幸福と混ざる。忘れた罪が、償いを終えた人間へ戻る。誰が順番を決めるのです」

「本人だ」

「本人が、失ったものを知らないまま選べると?」

 

 それは正しい。

 

 ティルは、ユアンが弟の記憶を失ったと知っている。けれどユアン本人にとって、ティルは知らない少年だ。何を取り戻すか説明されても、それを欲しいと思う根っこがない。

 

「だからといって、あんたが決めていい理由にはならない」

「私は水門を二十八年守りました。記憶税がなければ白炉の流れが暴れ、三度この町は沈んでいた」

「それで、証拠ごと二十三人を流そうとしたのか」

 

 ラウダの指が主弁の取っ手で固まる。

「水門を守るためです」

「人が住む町を守るために、人を水へ捨てた。順番が逆だろ」

 

「あなたに何が分かる!」

 

 ラウダが初めて声を荒らげた。貯水槽の壁へ、幼い少女が溺れる記憶が映る。手を伸ばす母親。閉じない水門。押し寄せる黒い灰。

 

「私の娘は、長夜の洪水で死にました。旧い弔い路は、誰かが願うたび流れを変えた。母を助けたい、家を守りたい、恋人のいる島だけ門を閉じたい。皆が特別な一人を選び、町全体を沈めたのです」

 

 ラウダは主弁を握りしめる。

「だから、同じ一片を全員から集める仕組みにした。誰も特別扱いしない。公平に忘れ、公平に町を守る」

 

 オルセウスと同じだ。誰も特別にしなければ公平でいられる。

 

 でも、橋で俺の記憶は価値が高いと選ばれた。灰衣は免税され、銀貨を持つ者は記憶を払わない。最初から同じ一片ではない。

 

「あんたの娘の記憶は、ここにあるのか」

「ありません」

 

 答えが速い。

 

「最初に捨てました。管理者が一人を選ばない証明として」

 

 ラウダも、自分を一人へ数えない。

 

「それで公平になったか」

「なりました」

「なら、どうして泣いてる」

 

 ラウダの頬に涙があった。本人は気づいていない。

 

 ノエが貯水槽へ手を当てる。

「返してほしい人だけではありません。返さないでほしい人も、決められない人もいます」

「だから私が封じているのです」

「あなたが全員の代わりに、返さないと決めています」

 

 ノエの緑の上着に、小さな願火が灯る。

「選べない人は、今は選ばなくてもいいです」

 

 その考えはなかった。

 

 返すか、手放すか。二つに一つではない。今日決められないなら、記録して待てる。

 

「鐘を使えば、記憶の持ち主へ問いかけられるか」

 俺はノエに聞く。

「できます。でも、全員へ一度に聞けば、声が重なります」

「水都には橋が百本ある」

 

 記憶を集めた道があるなら、逆に問いを返せる。

 

「ラウダ。主弁を開けるんじゃない。橋の採取管だけを逆流させろ」

「市内へ記憶片が漏れます」

「名前と、どんな記憶かだけでいい。本人が受け取る、送る、保留するを選んだら、その答えを中枢へ戻す」

「選択が割れれば、水門炉の出力は落ちる」

「落ちる分は、生きてる奴の願いでつなぐ」

 

 第一と第二の鐘でできた。死者の願いだけでなく、これからも町に住みたい、橋を渡りたいという生者の願いも火になる。

 

「そんな不確かなものへ、水都を賭けられません」

「だから、あんた一人で賭けるな。市民へ話せ」

 

 ラウダは動かない。

 

 その時、貯水槽の底で爆発が起きた。

 

 記憶片が天井へ噴き上がる。排水で流れが乱れ、外水門の圧力が中枢へ戻ったらしい。壁の警告灯が赤くなる。

 

『東水門、閉鎖不能。中環島へ浸水開始』

 

 ラウダが主弁を引く。俺は橋を走り、その腕へ飛びついた。

「離しなさい! 槽を空にしなければ町が沈む!」

「空にしたら、全員へ戻るんだろ!」

「他に方法はない!」

 

 肺が痛み、力が入らない。ラウダの肘が胸へ当たり、息が止まる。主弁が半分開いた。

 

 貯水槽から光の波があふれた。

 

 ノエが俺とラウダの間へ両手を差し入れる。千人分の声が、その体を通って橋の採取管へ流れた。

「カイ。鐘を」

「お前が壊れる!」

「私だけでは決めません。つなぐだけです」

 

 また守るために止めかける。

 

 ノエは危険を知っている。その上で、自分の役割を選んだ。

 

「分かった。壊れる前に言え」

「はい」

 

 俺は第三の鐘へ走った。肺が焼け、一歩ごとに咳が出る。鐘舌を土台へ差し込む。

 

 まだ約束が足りない。

 

「聞こえるか、水都!」

 

 橋の料金箱を通し、俺の声が市内へ流れる。

「俺はカイ・リュゼ。今、あんたたちから取られた記憶が水門中枢にある。全部返せば心を壊すかもしれない。全部捨てれば、二度と戻らない」

 

 水の向こうから、町のざわめきが返る。

「俺がどっちか決めることはできない。返してほしいなら青い橋灯を、手放すなら白い橋灯をつけてくれ。決められないなら、消したままでいい。名前を残して保管する」

 

『そんな時間はない!』

 ラウダが叫ぶ。

 

 外の水位が上がる。橋の一つが水へ沈んだ。

 

 声管から、別の男の声が入った。

『時間は私が作る』

 

 セインだ。

 

『東水門を王都側へ開放した。近衛工兵が外環へ仮堤を築く。中枢は選別を続けろ』

「どうして水都にいる!」

『君が次の炉を壊す前に手紙を出すと言ったから、出さない前提で来た』

「信用がない!」

『正しい評価だ』

 

 ラウダが声管へ近づく。

「殿下、記憶税を止めれば暁炉への安定材が不足します!」

『承知している。これは王命ではない。私個人の緊急判断だ』

「ならば従えません」

『従わなくていい。水都市民に選ばせろ。責任は、私の署名で残す』

 

 王子が自分を一人へ数えた。

 

 最初の橋に、青い灯がつく。

 

 次に白。消えたままの橋。その向こうで、また青。

 

 百本の橋が、同じ色ではなく輝き始めた。

 

 貯水槽の記憶が分かれる。青い光は持ち主の橋へ戻り、薄い糸となって少しずつ体へ入る。白い光は名前を帯び、空へ昇る。選ばれなかった記憶は、中枢の棚へ一人ずつ分けて収まった。

 

 施療院の様子が水面へ映る。

 

 ユアンの前に、三つの記憶が浮いていた。

 

 母親の顔。運搬路の足順。幼いティルと過ごした日々。

 

 ティルが青い橋灯へ手を伸ばす。

「兄貴。これで俺を思い出せる」

 

 ユアンは弟の記憶を見た。小さなティルが熱を出し、夜通し手を握ったこと。母の葬式で泣けない弟の代わりに泣いたこと。瓶を倒した弟を逃がし、自分が罪をかぶったこと。

 

 愛情も、怒りも、後悔もある。

 

 ユアンは灯りへ触れなかった。

「戻さない」

 

 ティルが息を止める。

「どうして」

「今の俺へ一度に入れたら、またお前をかばう兄へ戻る。俺は、知らないままお前の話を聞きたい。何をしたか、これからどうするかを見て、それから兄弟になるか決める」

「俺は弟だ!」

「昔は。今の俺には、今日会ったティルだ」

 

 ティルが泣く。青い灯りをつけろと叫びそうな顔で、拳を握った。

 

 それでも最後には、橋灯から手を離した。

「……分かった。じゃあ明日も会いに来る」

「それは自分で決めろ」

「決めた。明後日も来る」

 

 記憶は保留の棚へ入る。消えたわけではない。けれど、戻ると決まったわけでもない。

 

 俺の前にも三つの火が浮かんだ。

 

 姉ちゃんの笑い声に似た火。声に似た火。花冠の春に似た火。

 

 手を伸ばす。

 

 灰灯が違うと告げた。これは俺の記憶ではない。似た誰かのものだ。

 

 受け取れば、穴は埋まるかもしれない。でも、姉ちゃんではない声を姉ちゃんだと思うようになる。

 

「白を」

 

 俺は橋灯を白くした。三つの火は、それぞれ本当の持ち主の名を帯びて空へ昇った。

 

 失ったものは戻らない。

 

 その痛みまで、自分のものとして残す。

 

「ノエ、今だ!」

 

 彼女が主弁から手を離す。俺は鐘舌を回した。

 

「返すことも、手放すことも、待つことも、本人から奪わない。鳴れ、選択の鐘!」

 

 第三の音が水都を渡った。

 

 貯水槽の壁が透明になり、一人ずつ分けられた記憶の名が刻まれる。水門炉には、生者の小さな願火が流れ込んだ。

 

『明日も橋を渡りたい』

 

『この町で店を開けたい』

 

『あの人へ、まだ謝っていない』

 

 死者から奪った一生より弱い。けれど何万もの次の願いが重なり、水門を押し返す。

 

 百本の橋が水面へ戻った。

 

 ノエの腕輪に三本目の青い線が灯る。

 

 ラウダは娘の記憶がない貯水槽を見て、膝をついた。

「私は、何を守っていたのでしょう」

「それを決めるのは裁判だ」

 俺は答えた。

「でも、娘を忘れたことまで罰に使うな。覚えている人へ話を聞け」

 

     *

 

 夜明け前、セインは近衛兵が来る前に中枢を離れた。大葬卿へは、水門事故の収拾に来ただけと報告するらしい。

 

「これが、私の協力できる範囲だ」

「十分だ」

「十分ではない。暁炉へ送る安定材は減り、猶予も減った」

「あと何日」

「王都へ着いてから三日。その前に六つの鐘をそろえろ」

 

 セインは記憶庫から復元した灰雨生存者名簿を渡した。

 

 四百十二人の死者とは別に、炉区で生き残った者が三十七人いる。証言欄の最上段に、同じ名が何度も出ていた。

 

 エーダ・クロウ。

 

 リナ・リュゼが安全弁を破壊し、人々を見捨てて逃げたと最初に告発した住民。

 

 現在地は、水都第七码頭。

 

 姉ちゃんを人殺しにした証言者が、同じ町にいた。

 

 

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