灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない   作:灰を拾う旅人

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四百十二人

 ミレの葬式には、舟が百三隻集まった。

 

 水都の大水路を、黒い葬舟が埋める。助けられた二十三人、昔彼女に水へ落とされた者、酒を奢られた者、酒を盗まれたと言い張る者。全員の話を合わせると、ミレは七十年で少なくとも三百回は喧嘩していた。

 

「いい人生だったんだな」

 俺が言うと、ガランは隣の舟から答えた。

「本人が聞けば、勝手にまとめるなと言う」

「言いそうだ」

 

 俺はミレの灰を水面へ送った。青い願火はもう灰灯に残っていない。最後の願いどおり、あの舟には全員が乗った。

 

 葬送の鐘が止んだ後、俺たちは第七码頭へ向かった。

 

 エーダ・クロウは、古い記憶映写屋の二階に住んでいる。六十を過ぎた小柄な女で、左半身に灰雨の焼け跡があった。戸を開けた彼女は俺の顔を見て、すぐ誰か分かったらしい。

 

「リナの弟だね」

「はい」

「帰りな。私は証言を変えないよ」

 

 戸が閉まりかける。俺は足を挟まなかった。

「変えろとは言いません。見たことを聞かせてください」

 

 エーダは長く俺を見た。

「姉を信じてるんだろ」

「信じたいです。でも、姉ちゃんが何をしたかも知りたい」

 

「両方は持てないよ」

「持ってきました。重いけど」

 

 宣言文を見せる。エーダは表紙へ触れず、俺たちを部屋へ入れた。

 

 壁一面に記憶晶が並んでいる。水都では、思い出を透明な結晶へ移して映像として残す店がある。自分の中から消すためではなく、時間で薄れる前に記録するためだという。

 

「灰雨の記憶は、頭へ戻さなかった」

 エーダは黒い結晶を一つ取り出した。

「夜ごと繰り返すのはもうたくさんだ。でも、忘れたくもない」

 

 第三の鐘で選んだのだ。返却ではなく、保留でも送火でもない。頭の外へ記録したまま残す。

 

 ノエが聞く。

「私たちが見てもいいのですか」

「見たくないと言って帰るなら、今だよ」

 

 見たいわけではない。

 

 それでも俺はうなずいた。

 

 エーダが記憶晶を水盤へ置く。黒い火が広がり、八年前の王都炉区が部屋へ映った。

 

     *

 

 朝焼け前。石造りの家々。通りを走る若いエーダの視界。

 

『炉区から出て! 東弁を開く!』

 

 姉ちゃんが通りの中央で叫んでいる。

 

 声は聞こえる。

 

 でも、俺の知っている声ではない。高さも癖も分からない。知らない女が姉ちゃんの顔で話しているように見えた。

 

『灰雨が降る! 川沿いではなく北門へ!』

 

 姉ちゃんは家の戸を叩き、寝ている人を起こして回った。避難を知らせている。誰も見捨てていない。

 

 そう思った次の瞬間、東の塔から警報が鳴った。

 

『反乱者が白炉を破壊している! 市民は屋内で待機せよ!』

 

 葬務院の放送だ。

 

 人々の足が止まる。姉ちゃんは北へ行けと言い、院は家にいろと言う。家族同士で意見が割れ、通りは動けなくなった。

 

 幼い子を抱いたエーダが、姉ちゃんの腕をつかむ。

『どっちが本当なの!』

『北門へ走って。東弁の圧を逃がすから、川沿いは危ない』

『あなたが何かするの?』

『炉を止める』

『止めたら結界は!』

『長くて二日。虚獣避けの灰塩を配ってる。お願い、今は走って!』

 

 姉ちゃんは正直に答えた。

 

 白炉を止めると聞き、人々が騒ぎ始める。炉がなければ虚獣に食われる。王都全体を殺す気か。誰かが石を投げ、姉ちゃんの額から血が流れた。

 

 それでも姉ちゃんは東塔へ入った。

 

 巨大な安全弁へ鎖をかけ、滑車を回す。灰衣の警備兵が止める。姉ちゃんは灰灯の火で床へ眠りの印を描き、兵を倒した。

 

 弁が開く。

 

 最初は風だった。

 

 次に、白い願火が空へ噴き上がった。名を失った何万もの声。炉区の窓が一斉に割れる。

 

 川の水位が上がり、避難橋を飲み込んだ。北門へ集まっていた人々が将棋倒しになる。虚獣が願火を追って現れ、列の外側へ襲いかかった。

 

 姉ちゃんは塔から出てきた。

 

『西弁も開けないと、東へ全部流れる!』

 

 走り出す。

 

 エーダの娘が、人波の中で手を離した。

 

『ネラ!』

 

 小さな背中が倒れる。白い灰。黒い足。エーダは娘へ手を伸ばしながら、遠ざかる姉ちゃんを見た。

 

『逃げるな! あんたがやったんだろ!』

 

 姉ちゃんは振り返った。

 

 一歩、戻ろうとした。

 

 けれど西塔から炉の亀裂音が響き、歯を食いしばって走り続けた。

 

 そこで視界が白く消えた。

 

     *

 

 映像が終わる。

 

 俺は息の仕方を忘れていた。肺の傷が痛み、椅子へ手をつく。

 

「娘さんは」

 聞かなくても分かることを聞いた。

「死んだよ。九歳だった」

 

 エーダは感情のない声で言う。感情がないのではなく、もう何度も話した声だ。

 

「リナが逃げたという証言は正しくなかった。後で、西弁へ向かっていたと知った。そこは訂正した」

「でも、告発は取り消さなかった」

「あの子が東弁を開けなければ、あの朝ネラは死ななかった」

 

 もし開けなければ、後で一万二千人が死んだかもしれない。

 

 それを言うのは簡単だ。死んだ九歳の名を、数字で押し返すだけだから。

 

「ネラさんは、何が好きでしたか」

 

 エーダが初めて俺をまっすぐ見た。

「青い魚。靴をすぐ水へ落とす。葬舟を見ると、死んだ人に手を振ってた」

 

 九歳の女の子が、一人になる。

 

「姉ちゃんを許してほしいとは言えません」

「言われても許さない」

「はい」

 

 胸が苦しい。姉ちゃんを殴りたい。抱きしめたい。なぜ一人で決めたのか聞きたい。危険を知らせて走ったことへ、よくやったとも言いたい。

 

 全部、本当だ。

 

「俺も姉ちゃんへ怒っていいですか」

 

 エーダが目を細めた。

「私に許可を取ることじゃない」

 

 その通りだった。

 

 姉ちゃんを愛しているから怒れないと思っていた。怒れば、姉ちゃんを人殺しと呼んだ者たちと同じになる気がした。

 

 違う。愛したまま、したことへ怒っていい。助けた後で、本人に責任を問えばいい。

 

「映像を借りられますか」

「何に使う」

「姉ちゃんに見せる。それから王都の記録と照らす」

「無実にする証拠にはならないよ」

「無実だけを探すのはやめます」

 

 エーダは黒い記憶晶を箱へ入れ、俺へ渡した。

「返しに来な。リナ本人に」

 

 いつかではなく、本人に。

 

「必ず」

 

 部屋を出てから、ガランが口を開いた。

「映像の最後、白く消える直前に炉の音が変わった」

「過負荷か」

「そうだ。東弁から自然に抜ける量を超えている。だが命令者の証拠にはならない」

 

「あんたの証言だけ?」

「今は」

 

 オルセウスの過負荷命令原本が必要だ。姉ちゃんの責任を消すためではない。四百十二人へ、何が重なって死に至ったのかを返すために。

 

 ティルとユアンは施療院の外で待っていた。

 

 ユアンは俺たちと一緒に旅をしない。失った記憶を保留し、水都で働きながら今の自分を作るという。ティルも残ると思っていた。

 

「俺は行く」

 ティルが言った。

「兄貴はいいのか」

「明日も会うって言った。でも毎日そばに張りついて、昔どおりの兄貴へ戻れって顔をするのは違うだろ。手紙を書く」

 

 ユアンが肩をすくめる。

「字を間違えないようにな」

「俺の字、知らねえだろ」

「昨日見た。汚かった」

 

 ティルは傷ついた顔をして、それから笑った。

 

 その時、街の軍用声管から赤い火が噴いた。水門庁の伝令が緊急記録晶を抱えて走ってくる。

 

「北東国境、ハルヴァ砦より救援要請! 虚獣群が防壁へ接近、守備兵が戦闘不能!」

 

 水盤へ砦の映像が映る。

 

 雪混じりの荒野。黒い獣の群れ。城壁の上で、兵士たちが武器を落としている。

 

 砦の外に、一人の女が立っていた。

 

 灰をまとい、赤い外套を着た女。

 

 顔は、姉ちゃんだった。

 

『灰の女が戻った』

 

 砦からの声が震える。

 

『兵が、恐怖で戦えない。誰か、あれを弔ってくれ』

 

 俺は記憶晶の箱を握った。

 

 姉ちゃんへ怒ると決めた直後、姉ちゃんの顔をした化け物が帰ってきた。

 

 

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