灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
ミレの葬式には、舟が百三隻集まった。
水都の大水路を、黒い葬舟が埋める。助けられた二十三人、昔彼女に水へ落とされた者、酒を奢られた者、酒を盗まれたと言い張る者。全員の話を合わせると、ミレは七十年で少なくとも三百回は喧嘩していた。
「いい人生だったんだな」
俺が言うと、ガランは隣の舟から答えた。
「本人が聞けば、勝手にまとめるなと言う」
「言いそうだ」
俺はミレの灰を水面へ送った。青い願火はもう灰灯に残っていない。最後の願いどおり、あの舟には全員が乗った。
葬送の鐘が止んだ後、俺たちは第七码頭へ向かった。
エーダ・クロウは、古い記憶映写屋の二階に住んでいる。六十を過ぎた小柄な女で、左半身に灰雨の焼け跡があった。戸を開けた彼女は俺の顔を見て、すぐ誰か分かったらしい。
「リナの弟だね」
「はい」
「帰りな。私は証言を変えないよ」
戸が閉まりかける。俺は足を挟まなかった。
「変えろとは言いません。見たことを聞かせてください」
エーダは長く俺を見た。
「姉を信じてるんだろ」
「信じたいです。でも、姉ちゃんが何をしたかも知りたい」
「両方は持てないよ」
「持ってきました。重いけど」
宣言文を見せる。エーダは表紙へ触れず、俺たちを部屋へ入れた。
壁一面に記憶晶が並んでいる。水都では、思い出を透明な結晶へ移して映像として残す店がある。自分の中から消すためではなく、時間で薄れる前に記録するためだという。
「灰雨の記憶は、頭へ戻さなかった」
エーダは黒い結晶を一つ取り出した。
「夜ごと繰り返すのはもうたくさんだ。でも、忘れたくもない」
第三の鐘で選んだのだ。返却ではなく、保留でも送火でもない。頭の外へ記録したまま残す。
ノエが聞く。
「私たちが見てもいいのですか」
「見たくないと言って帰るなら、今だよ」
見たいわけではない。
それでも俺はうなずいた。
エーダが記憶晶を水盤へ置く。黒い火が広がり、八年前の王都炉区が部屋へ映った。
*
朝焼け前。石造りの家々。通りを走る若いエーダの視界。
『炉区から出て! 東弁を開く!』
姉ちゃんが通りの中央で叫んでいる。
声は聞こえる。
でも、俺の知っている声ではない。高さも癖も分からない。知らない女が姉ちゃんの顔で話しているように見えた。
『灰雨が降る! 川沿いではなく北門へ!』
姉ちゃんは家の戸を叩き、寝ている人を起こして回った。避難を知らせている。誰も見捨てていない。
そう思った次の瞬間、東の塔から警報が鳴った。
『反乱者が白炉を破壊している! 市民は屋内で待機せよ!』
葬務院の放送だ。
人々の足が止まる。姉ちゃんは北へ行けと言い、院は家にいろと言う。家族同士で意見が割れ、通りは動けなくなった。
幼い子を抱いたエーダが、姉ちゃんの腕をつかむ。
『どっちが本当なの!』
『北門へ走って。東弁の圧を逃がすから、川沿いは危ない』
『あなたが何かするの?』
『炉を止める』
『止めたら結界は!』
『長くて二日。虚獣避けの灰塩を配ってる。お願い、今は走って!』
姉ちゃんは正直に答えた。
白炉を止めると聞き、人々が騒ぎ始める。炉がなければ虚獣に食われる。王都全体を殺す気か。誰かが石を投げ、姉ちゃんの額から血が流れた。
それでも姉ちゃんは東塔へ入った。
巨大な安全弁へ鎖をかけ、滑車を回す。灰衣の警備兵が止める。姉ちゃんは灰灯の火で床へ眠りの印を描き、兵を倒した。
弁が開く。
最初は風だった。
次に、白い願火が空へ噴き上がった。名を失った何万もの声。炉区の窓が一斉に割れる。
川の水位が上がり、避難橋を飲み込んだ。北門へ集まっていた人々が将棋倒しになる。虚獣が願火を追って現れ、列の外側へ襲いかかった。
姉ちゃんは塔から出てきた。
『西弁も開けないと、東へ全部流れる!』
走り出す。
エーダの娘が、人波の中で手を離した。
『ネラ!』
小さな背中が倒れる。白い灰。黒い足。エーダは娘へ手を伸ばしながら、遠ざかる姉ちゃんを見た。
『逃げるな! あんたがやったんだろ!』
姉ちゃんは振り返った。
一歩、戻ろうとした。
けれど西塔から炉の亀裂音が響き、歯を食いしばって走り続けた。
そこで視界が白く消えた。
*
映像が終わる。
俺は息の仕方を忘れていた。肺の傷が痛み、椅子へ手をつく。
「娘さんは」
聞かなくても分かることを聞いた。
「死んだよ。九歳だった」
エーダは感情のない声で言う。感情がないのではなく、もう何度も話した声だ。
「リナが逃げたという証言は正しくなかった。後で、西弁へ向かっていたと知った。そこは訂正した」
「でも、告発は取り消さなかった」
「あの子が東弁を開けなければ、あの朝ネラは死ななかった」
もし開けなければ、後で一万二千人が死んだかもしれない。
それを言うのは簡単だ。死んだ九歳の名を、数字で押し返すだけだから。
「ネラさんは、何が好きでしたか」
エーダが初めて俺をまっすぐ見た。
「青い魚。靴をすぐ水へ落とす。葬舟を見ると、死んだ人に手を振ってた」
九歳の女の子が、一人になる。
「姉ちゃんを許してほしいとは言えません」
「言われても許さない」
「はい」
胸が苦しい。姉ちゃんを殴りたい。抱きしめたい。なぜ一人で決めたのか聞きたい。危険を知らせて走ったことへ、よくやったとも言いたい。
全部、本当だ。
「俺も姉ちゃんへ怒っていいですか」
エーダが目を細めた。
「私に許可を取ることじゃない」
その通りだった。
姉ちゃんを愛しているから怒れないと思っていた。怒れば、姉ちゃんを人殺しと呼んだ者たちと同じになる気がした。
違う。愛したまま、したことへ怒っていい。助けた後で、本人に責任を問えばいい。
「映像を借りられますか」
「何に使う」
「姉ちゃんに見せる。それから王都の記録と照らす」
「無実にする証拠にはならないよ」
「無実だけを探すのはやめます」
エーダは黒い記憶晶を箱へ入れ、俺へ渡した。
「返しに来な。リナ本人に」
いつかではなく、本人に。
「必ず」
部屋を出てから、ガランが口を開いた。
「映像の最後、白く消える直前に炉の音が変わった」
「過負荷か」
「そうだ。東弁から自然に抜ける量を超えている。だが命令者の証拠にはならない」
「あんたの証言だけ?」
「今は」
オルセウスの過負荷命令原本が必要だ。姉ちゃんの責任を消すためではない。四百十二人へ、何が重なって死に至ったのかを返すために。
ティルとユアンは施療院の外で待っていた。
ユアンは俺たちと一緒に旅をしない。失った記憶を保留し、水都で働きながら今の自分を作るという。ティルも残ると思っていた。
「俺は行く」
ティルが言った。
「兄貴はいいのか」
「明日も会うって言った。でも毎日そばに張りついて、昔どおりの兄貴へ戻れって顔をするのは違うだろ。手紙を書く」
ユアンが肩をすくめる。
「字を間違えないようにな」
「俺の字、知らねえだろ」
「昨日見た。汚かった」
ティルは傷ついた顔をして、それから笑った。
その時、街の軍用声管から赤い火が噴いた。水門庁の伝令が緊急記録晶を抱えて走ってくる。
「北東国境、ハルヴァ砦より救援要請! 虚獣群が防壁へ接近、守備兵が戦闘不能!」
水盤へ砦の映像が映る。
雪混じりの荒野。黒い獣の群れ。城壁の上で、兵士たちが武器を落としている。
砦の外に、一人の女が立っていた。
灰をまとい、赤い外套を着た女。
顔は、姉ちゃんだった。
『灰の女が戻った』
砦からの声が震える。
『兵が、恐怖で戦えない。誰か、あれを弔ってくれ』
俺は記憶晶の箱を握った。
姉ちゃんへ怒ると決めた直後、姉ちゃんの顔をした化け物が帰ってきた。