灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない   作:灰を拾う旅人

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姉の顔をした獣

 ハルヴァ砦へ着いた時、城壁は半分食われていた。

 

 石を食べる獣ではない。兵士の恐怖を食べ、恐れた形へ育つ虚獣だ。黒い群れが壁へ爪をかけるたび、守備兵の一人が武器を落とし、群れのどこかに新しい顔が浮かんだ。

 

 竜。飢えた狼。死んだ戦友。

 

 そして、赤い外套の女。

 

 姉ちゃんの顔をした最大の虚獣が、城門の前に立っている。

 

「止まるな!」

 ガランが叫ぶ。

 

 六日間の行軍で肺は少しましになったが、坂を走ると息が切れる。俺は灰灯を抱え、砦へ続く石橋を進んだ。ノエが隣、ティルは後ろで荷馬の手綱を引く。

 

「門を開けろ! 水都からの弔い師だ!」

 

 返事の代わりに矢が飛んできた。俺の足元へ刺さる。

「歓迎されてねえぞ!」

 ティルが馬の陰へ隠れた。

「手配書が回ってる!」

「救援を出したのは向こうだろ!」

 

 城壁から兵が怒鳴る。

「灰の女を連れてきた! 近づけるな!」

 

 ノエの白い髪を見て、姉ちゃんの仲間だと思ったらしい。別の兵が弓を下げさせるが、虚獣の群れは待ってくれない。

 

 黒い狼が石橋へ飛び乗った。

 

 ガランの剣が一体目の顎を割る。俺は灰灯を開き、狼の中にいる願火を聞いた。

 

『夜が怖い』

 

『逃げたい』

 

『足が震えたと知られたくない』

 

「兵士の声だ!」

「生きてるのか」

 ティルが聞く。

「生きてる。恐怖だけ抜かれてる!」

 

 名を呼ぼうにも誰の声か分からない。全部「恐怖」という同じ匂いへ削られている。

 

 ノエが緑の願火を手へ集めた。

「右から来ます」

 

 狼の爪を避ける。右肩の傷跡が引きつり、動きが遅れる。ガランが黒い手甲で爪を受け、俺は灰灯の底を狼の額へ叩き込んだ。

「怖いなら、誰が怖がったか言え!」

 

 狼の顔が崩れ、若い兵の輪郭になる。城壁の上で同じ顔の男が叫んだ。

「俺だ! 夜襲が怖い!」

 

 名は分からなくても、本人が声を引き受けると黒い体が薄くなった。ガランが剣の腹で払い、願火を兵へ返す。

 

 男は膝をついた。震え始める。恐怖が戻ったのだ。

「怖がらせたら戦えないじゃないか!」

 別の兵が叫ぶ。

「抜いた恐怖が敵になってるんだぞ!」

「恐怖がなければ壁に立てる!」

 

 だから砦の白炉は恐怖を抜いている。兵を勇敢にするために。

 

 嫌な仕組みは、ここでも一部分だけ役に立つ。怖くなくなった兵は夜の壁に立てる。抜いたものが名を失い、翌朝敵として戻るまでは。

 

 城門の前で、姉ちゃんの形をした獣が動いた。

 

 顔も、髪も、赤い外套も、俺の記憶どおりだ。

 

 笑っていない。

 

 姉ちゃんの笑い声は思い出せない。声もない。それでも顔だけは、八年前の朝から変わらず頭にいる。

 

『カイ』

 

 獣の口が動く。

 

 音は聞こえないのに、姉ちゃんの呼び方だと思った。

 

「違います」

 ノエが言う。

「分かってる」

「分かっていません」

 

 姉ちゃんの獣が手を伸ばす。指先の黒い灰が、俺の頬へ触れようとした。

 

 攻撃しなければならない。灰灯を振り上げ、願火を引きはがす。

 

 腕が動かない。

 

 暁炉にいる姉ちゃんとつながっているかもしれない。兵士たちの恐怖が作っただけだとしても、その中に本物の欠片が混ざっていたら。

 

「姉ちゃん?」

 

 獣が笑った。

 

 音のない笑い。

 

 次の瞬間、胸から黒い杭が伸びた。

 

「カイ!」

 

 ノエに突き飛ばされる。杭はガランの脇腹へ当たり、手甲ごと石橋の欄干へ叩きつけた。

 

 骨の折れる音がした。

 

「ガラン!」

 

 姉ちゃんの獣はさらに杭を伸ばす。今度はノエへ向かう。

 

「やめろ!」

 

 俺はようやく灰灯を振った。姉ちゃんの頬を殴る直前で、また手が止まる。黒い指がノエの首へ巻きついた。

 

「カイ、見てください!」

 

 ノエは苦しみながら、獣の胸を指す。

 

 そこに姉ちゃんの願火はない。

 

 兵士たちの恐怖が渦を巻いている。赤い外套の女が炉を壊し、灰雨を降らせ、国を滅ぼす。砦へ配られた宣伝画の恐怖だ。

 

「それは、あなたが見たいリナさんです!」

 

 怒鳴られた。

 

 ノエが俺へ初めて怒鳴った。

 

「私へは王女と同じ顔でも違うと言いました。なぜ、その獣は顔が同じだけで姉なのですか!」

 

 胸を殴られる。

 

 俺はノエを王女ノエリアではないと認めた。肉体の記憶があっても、千人の声があっても、自分で緑を選んだ彼女はノエだ。

 

 なのに姉ちゃんの顔だけは、本物だと決めた。

 

 声を失い、手触りを失い、残った顔まで偽物だと認めたくなかった。見たいものを姉ちゃんにして、姉ちゃんが何を選ぶかは見ていない。

 

「悪い」

 

 灰灯を両手で握る。

 

「お前は、姉ちゃんじゃない!」

 

 獣の顔へ叩きつけた。

 

 姉ちゃんの輪郭が割れる。中から何百もの兵の顔が現れた。

 

『灰の女が怖い』

 

『また炉が壊れる』

 

『逃げたら臆病者だ』

 

 声が城壁へ届く。兵士たちは自分の恐怖へ口を閉ざしたまま、こちらを見下ろしている。

 

 獣は弱らない。

 

 俺一人が偽物と呼んでも、育てた恐怖の持ち主が名前をつけなければ崩れない。

 

「門を開けろ!」

 俺は城壁へ叫ぶ。

「こいつを倒したいなら、白炉を止めて自分の恐怖を引き取れ!」

 

「止めれば、北の虚獣群がなだれ込む!」

「もう目の前にいるだろ!」

 

 姉ちゃんの顔が再び形を作る。割れた頬が笑った。

 

 ガランが立ち上がろうとして、片膝をつく。脇腹を押さえ、息が浅い。

「肋骨が折れてる」

「一本か二本だ」

「少なく言うな!」

 

 ティルが馬車から縄を投げた。ノエが首の黒い指を振りほどき、俺と一緒にガランを荷台へ引き上げる。

 

「退くぞ!」

 

 悔しいが、城門の前では倒せない。石橋を戻る。虚獣の群れが追ってくる。

 

 城壁から角笛が鳴り、ようやく門が少し開いた。

「入れ! 早く!」

 

 罠を疑う暇はない。荷馬を走らせ、狭い隙間へ滑り込む。黒い狼が門へ頭を差し込み、兵士たちが槍で押し返した。

 

 内側から鉄棒が下りる。

 

 俺たちは砦へ入った。ただし、救援に成功した顔ではない。ガランは折れた肋骨を布で固定され、ノエの首には黒い指の跡が残った。

 

「怒鳴って、すみません」

 治療室の外でノエが言う。

「謝るな。正しかった」

「正しくても、傷つける言い方はあります」

「あの時は傷つけてでも止めてくれなきゃ、俺はお前を絞め殺されるまで見てた」

 

 言葉にすると吐き気がした。

 

「姉ちゃんの顔を忘れたくなかった」

「はい」

「だから、あれが姉ちゃんであってほしかった。偽物でも、俺を呼んでほしかった」

 

「私は、あなたの声を失っても、あなたを見分けられると思います」

「顔も変わったら?」

「焦げたパンを焼く人は少ないです」

「見分け方がひどい」

 

 少し笑う。胸ではなく肺が痛んだ。

 

 砦の地下へ案内されると、小白炉の周囲に数百本の灰色の瓶があった。札には名前ではなく、臆病、逃避、震え、故郷への執着とだけ書かれている。

 

「毎晩、兵の恐怖を抜くのか」

「志願制だ」

 砦長が答えた。

「壁へ立てない者が望んで差し出す。恐怖がなければ戦える」

 

「戻す時は?」

「戦死すれば必要ない。生きて任期を終えた者へは、薄めて返す」

「名を剥いだ後で、誰のものか分かるのか」

 

 砦長は答えなかった。

 

 小白炉の土台に、四つ目の鐘の輪郭がある。恐怖を燃やす刃の下だ。

 

 瓶へ近づくと、灰雨の記憶が流れ込んだ。砦の守備兵には、八年前の生存者もいる。

 

「その灯りを下ろしな」

 

 背後から女の声がした。

 

 三十代半ばの兵士。右目に眼帯があり、外套の留め具へ四人分の灰札をつけている。

「あんた、さっき姉の獣を姉ちゃんと呼んだね」

 

 俺の胸の宣言文へ目を落とす。

「名前は」

「カイ・リュゼ」

 

 リュゼと聞いた瞬間、女の顔が変わった。

 

「私はサラ・ハイル。灰雨で夫と、父と、妹と、腹の子を失った」

 

 腰の剣を抜き、切っ先を俺の喉へ向ける。

「灰の女の弟が、何を弔いに来た」

 

 

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