灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
「腹が減ったのは、何人分だ」
「現在は千二十六名分です」
「その中に、お前はいるのか」
「分かりません」
納骨堂の床で、ノエは黒麦パンを見つめていた。追手が村へ入ってから一時間。俺たちは死人の骨壺に囲まれ、朝食でも夜食でもない食事をしている。
食べにくい場所だと思うだろう。墓守は慣れる。死者はパンを欲しがらないし、生者の皿へ口も出さない。千人を胸へ入れた人間は初めてなので、そこだけ計算外だった。
「一口ずつ試せ。誰かが嫌がったら止めろ」
「全員の意見が一致するまで待ちますか」
「それをやると春になる」
ノエは真面目にうなずき、パンの端をちぎった。昨日焼いた分で、片側が黒く焦げている。俺なら真ん中を選ぶ。彼女は迷わず焦げた端を口へ入れた。
目が少し丸くなる。
「どうだ」
「苦いです」
「嫌いか?」
まぶたが下がる。内側の声を数えているらしい。
「九百八十一名は嫌いです。二十四名は好き。二十一名は味が分かりません」
「お前は?」
また長い沈黙が来た。俺は急かさず、灰灯の留め金を磨く。感情を持てと言うのは簡単だ。千人の中から自分を探せと言われる側は、墓地で針を拾うより面倒だろう。
ノエはもう一口、焦げたところを食べた。
「もう一度、食べたいです」
「じゃあ好きでいい」
「二十四名の意見かもしれません」
「二十五人目になれ」
唇の端が動いた。笑ったのか、パンが固かったのかは分からない。勝手に前者へ決めるのはやめた。
納骨堂の外から、石を三回こする音がした。マウラ婆の合図だ。扉を細く開けると、婆さんが濡れた外套を投げ込む。
「着せな。白一色じゃ目立ちすぎる」
「追手は?」
「灰衣が六人。家を一軒ずつ回ってる。隊長はまだ来てないそうだ」
「器の特徴は」
「白い髪、白い服、金色の目。村に同じ娘が三十人いれば楽だったね」
エンデ村に若い娘は二十人もいない。白銀の髪は一人もいない。マウラ婆が持ってきた泥色の頭巾をかぶせても、目を見られれば終わる。
「山へ逃がす」
「門は閉まってる」
「墓地の北崖からなら――」
「今夜はダナ婆さんの葬列だよ」
言われて、時間が止まった。
昨日、旅人を見つける前に亡くなった村人だ。七十九歳。冬を三度越せないと言われて、四度越した。葬列は日付を変えない。死者を待たせると願火が濁る。
「延期は」
「あの人が許すと思うかい」
「死んでまで文句を言うなよ」
「聞こえるんだろ?」
「聞こえるから困るんだ」
ダナ婆さんの最期の願いは、孫の作った靴下を履いて春祭りへ行くことだった。間に合わなかった。孫は泣きながら、棺へ派手な黄色の靴下を入れた。あれを白炉へ渡せば、名も靴下も関係なく、村の結界を半日延ばす熱になる。
必要だ。冬の虚獣は増える。分かっている。
それでも、ダナ婆さんを半日にするのは嫌だった。
「俺が送る。葬列の間、ノエはここに」
「私も行きます」
「目立つと言っただろ」
「葬列なら、顔を隠す人が多いと千二十六名が指摘しています」
多勢に無勢だ。しかも理屈が通っている。
「危なくなったら戻れ」
「どこへ?」
ノエの問いに、口が止まる。彼女には戻る家がない。暁炉へ返すと言えば器にされ、ここにいれば追われる。納骨堂は隠れ場所で、帰る場所ではない。
「俺のそばへ。見失ったら、灰灯の火を探せ」
「了解しました」
その言い方は道具みたいで嫌だったが、直させる言葉が見つからなかった。
夜明け前、ダナ婆さんの葬列が村を進んだ。白い喪布を頭からかぶった人々の間へ、ノエを入れる。灰衣の追手は家々の戸口に立ち、棺まで調べようとはしなかった。死者への礼儀が残っているのか、単に遺体が怖いのか。どちらでも助かる。
共同火葬場へ着くと、孫のミラが棺の蓋へ黄色い靴下を置いた。
「カイ兄、ばあちゃん、寒くないかな」
「火はあったかい。向こうへ行くまでには春になる」
「向こうってどこ?」
「俺も死んだことがないから、知らない」
正直に答えると、ミラは鼻をすすった。大人は死後の国を詳しく話したがる。墓守は知らないことを知っている。分かるのは、名を呼ばれた願火が静かになることだけだ。
火を入れる。薪が鳴り、棺の隙間から青い火が上がった。
「ダナ・フィル」
名を呼ぶと、願火が黄色い靴下へまとわりつく。小さな足が春の土を踏む像が見えた。若返った姿ではない。腰を曲げ、杖をつき、それでも孫の手を引いて歩いている。
ミラも名を呼んだ。両親、隣人、喧嘩相手まで続く。
青い火は一度だけ明るくなり、空へほどけた。
「今のが、送火ですか」
隣の喪布からノエがささやく。
「そうだ」
「白炉へ送らないのですか」
「村の決まりでは半分送る。でも今日は全部、本人へ返した」
「結界が短くなります」
「知ってる」
「正しくありません」
胸に針が刺さった。怒るのは簡単だ。ノエは白炉の中で、その計算だけを教えられたのだろう。
「正しいかは分からない。でも、ダナ婆さんは半日より長い。そう扱いたかった」
ノエが火を見た。腕輪の空所が、ごく淡く青くなる。
「私の中にいる人は、全員、半日以下ですか」
「違う」
「名前を知りません」
「これから探す」
言い切った直後、村の小白炉が悲鳴を上げた。
金属がねじれるような高音。地面が揺れ、煙突から白い火が噴き出す。葬列の全員が振り返った。
森の縁で、何かが立ち上がる。
四本足。鹿ほどの高さ。けれど頭のある場所に、女の上半身がぶら下がっていた。顔は灰で埋まり、輪郭だけが見覚えのある形を取る。
「姉ちゃん……?」
声が出た。
違う。顔が見えないのに姉ちゃんだと決めた。俺が一番見たいものへ、空白が勝手に形を合わせただけだ。
「虚獣です」
ノエの声が硬い。
「白炉から漏れた、名のない願いを食べています」
虚獣は火葬場を見向きもせず、村の中央へ走り出した。追手の灰衣たちが剣を抜く。獣は一人を跳ね飛ばし、もう一人の顔へ口のない頭を押しつけた。
男が、自分の名前を忘れたと叫ぶ。
「村人を家へ!」
俺は灰灯を掲げた。中のエイルの火が白く燃え、虚獣ではなく小白炉の方向へ引かれている。
「あいつの狙いは人じゃない」
「では、何を?」
「炉だ。あそこには、名前を削られた願火が何年分もある」
虚獣が小白炉の扉へ爪を立てた。白い光が亀裂から漏れる。
割れれば、千人どころでは済まない。