灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
修道士は、第五の鐘を俺へ渡した。
これまでの鐘と違い、両手で抱えられる大きさだった。砂院は炉を持たず、記録の前で人と人が向き合うためだけに鐘を置いたらしい。
「条件がそろわなければ、ただの重い銅です」
「十分知ってます」
俺とガランは鐘を砂走りの橇へ積んだ。帆で砂漠を渡る修道院の荷車だ。炉脈列車へ追いつける速さではないが、次の給水駅まで線路は大きく迂回する。砂丘を直進すれば、発車前に届く可能性がある。
可能性だけだ。
脇腹は縫い直した。肺は走るたび痛む。ガランの肋骨も折れたまま。まともな追跡者は一人もいない。
「ティルを捜さなくていいのですか」
修道士が聞いた。
「本人に消えろと言いました」
「それを後悔していますか」
「今は、ノエを助けたいです」
答えをずらした。
帆が砂風を受ける。俺たちは夜明け前の砂漠へ出た。
線路沿いには、緑の糸が残っている。列車の振動で少しずつほどけ、枕木や石へ絡んでいた。ノエは王都へ連れていかれながら、帰り道を作っている。
「待ってろ」
糸を拾うたび結び、灰灯の持ち手へ巻いた。
砂走りは速い。速いが、列車の白い煙は見えない。砂丘を一つ越えるごとに、間に合わない未来ばかり浮かぶ。
ノエが暁炉へ接続される。姉ちゃんは処分される。俺は第二の核として捕まり、全員が燃料になる。
考える暇があるなら帆を引け、と自分を怒鳴る。
「カイ」
ガランが後ろを見た。
砂の上を、小さな影が走ってくる。
ティルだ。
片腕を包帯で吊り、砂院の小馬へしがみついている。
「待て!」
「帆を緩めるな」
俺は前を向く。
「追いつかせる」
ガランは速度を落とさなかった。ティルの馬が限界まで近づき、本人が橇へ飛び移る。着地に失敗して砂へ転がりかけ、ガランが外套をつかんだ。
「放せ!」
俺が怒鳴る。
「放せば死ぬ」
「それがどうした!」
ガランは放さず、ティルを荷台へ投げた。
ティルは砂まみれで起き上がる。
「許してくれとは言わない」
「なら帰れ」
「帰る場所は俺が売った!」
拳を振り上げる。傷が引きつり、途中で止まった。
「何しに来た」
「責任を取りに」
「便利な言葉だな。ノエを助ければ、裏切りが消えるのか」
「消えない。兄貴にしたことも、ノエを売ったことも消えない」
ティルは白灰班から盗んだという鉄の鍵束を出した。襲撃の直前、連絡相手と会い、砂院の裏口を教えた。その時に列車の拘束車両の鍵を抜いたらしい。
「最初から裏切る気だったのか」
「違う。兄貴を戻してくれるって、最後まで信じたかった。あいつらが俺も殺そうとして、初めて間違ったって決めた」
「遅い」
「分かってる」
「ノエがかばわなければ死んでた」
「分かってる」
「分かってるって言えば済むと思うな!」
「済まないから来た!」
ティルも怒鳴る。
「俺が行っても嫌われたままだ。助けても許されない。兄貴の記憶も戻らない。それでも、俺が開けた道から連れていかれたんだから、閉めに行く!」
第五の鐘が小さく震えた。
まだ鳴らない。
「俺は許さない」
「うん」
「前みたいに仲間だとも思えない」
「うん」
「でも、鍵は使う。ノエを助けるために、お前にも来てもらう」
それが俺の選択だ。許すか許さないかを今決めず、したことを消さず、これから何をするかを見る。
鐘はもう一度震えた。
「あとは、ノエが決める」
*
昼前、砂走りは給水駅へ着いた。
炉脈列車はまだいる。白い車体から願火の蒸気を上げ、巨大な水塔の下で止まっていた。
間に合った。
喜ぶ前に、白灰班の見張りがこちらへ気づく。矢が帆を貫き、橇が横転した。
砂へ投げ出される。脇腹へ熱が走る。起き上がると、血が足まで伝っていた。
「カイ、無理をするな」
「無理しないで追いつけるか!」
ガランが剣で矢を払う。ティルは駅舎の下へ潜り、連結器へ向かった。
白灰班が五人。俺たちと列車の間にいる。
その一人が、背中から刺された。
若い女の灰衣が膝をつく。刺した隊長が剣を抜いた。
「器の拘束を緩めたな、エダ」
「あれは、器じゃない」
エダと呼ばれた女は、ホームの端から落ちた。俺は砂へ滑り込み、体を受け止める。
血が止まらない。
「なぜ助けた」
「列車で、名前を聞かれた」
エダの声は細い。
「灰衣になってから、誰にも聞かれなかった。あの人は、自分が苦しいのに、私の名前を聞いた」
ノエだ。
エダは列車を指す。
「三両目。発車まで、五分。走って」
願火が体から上がる。
『あの人を、一人で行かせないで』
灰灯が熱くなる。
使えば追いつける。
代償も分かる。
姉ちゃんの顔。
これまで守ってきた、最後の姿。八年前の朝。赤い外套。笑うと片目が細くなる顔。
失えば、王都へ着いて姉ちゃんに会っても分からない。
「別の方法を探す」
エダの火から手を離す。ガランが二人を相手にし、肩を斬られた。ティルは連結器の鍵へ届かない。列車の汽笛が鳴る。
時間がない。
また同じだ。
時間がないと言って、姉ちゃんは一人で弁を開けた。俺は同じ言葉で、記憶を燃やす。
違いは何だ。
俺には、頼める相手がいる。
「ガラン! 三十数える間、道を開けてくれ!」
「分かった」
「ティル! 三両目を切り離せ!」
「やる!」
俺はノエを救う。代償を払う選択は俺のものだ。けれど全部を一人ではやらない。
「エダ。走りを借りる」
願火が脚へ入った。
姉ちゃんの顔が浮かぶ。
忘れたくない。
目の形を数える。頬の傷。鼻。笑う時に細くなる片目。
数えた端から輪郭が消える。
記憶の中に姉ちゃんは立っている。姉だと分かる。赤い外套も、言った言葉も覚えている。
顔だけが白い。
「姉ちゃん」
呼んでも戻らない。
列車が動き出す。
エダの足が砂を蹴った。傷も肺も置き去りにして、体が風になる。ガランの剣が一人目を倒し、黒い手甲が二人目の足を止める。開いた道を走る。
最後尾へ飛びつく。左手で手すりをつかんだ瞬間、指の感覚が消えた。灯継ぎを重ねすぎた。握っているか分からず、右手で腕ごと抱える。
ティルが車体の下から鍵を回す。最後尾と三両目の連結器が外れた。
俺は屋根を走り、三両目の窓を蹴破った。
ノエがいる。
白い拘束椅子。千の願火を分ける針。肩の傷。緑の服。
「迎えに来た!」
鍵を開ける。ティルが床下から入り、細い鎖を外す。ノエの金色の目へ光が戻った。
「カイ」
「帰るぞ」
抱き起こそうとすると、ノエが動かない。
「帰れません」
「鎖は外れた」
「暁炉が崩れ始めています」
彼女の中の声が、王都の方角へ引かれている。
「四つの地方炉が止まり、過負荷命令原本が外へ出たため、オルセウスは暁炉の出力を上げました。リナさんだけでは、もう支えられません」
「だから、お前が行くのか」
「今、私が離れれば、王都へ着く前に炉が壊れます」
「十二年燃やされるんだぞ!」
「十二年は選びません」
ノエは自分で立つ。
「王都まで接続を受け入れ、時間を作ります。その間に、あなたたちが六つ目の鐘を鳴らしてください」
「失敗したら」
「燃えます」
「駄目だ!」
怒鳴った。
ノエはひるまない。
「私の選択です」
「死ぬ選択を認められるか!」
「死にたいのではありません。生きるために、王都へ行きます」
緑の願火が胸で燃える。
「私は明日も緑を着たい。焦げたパンを食べたい。カイに、花冠の触れ方を教えたい。だから一人で燃えません」
俺の右手を取る。
「迎えに来てください」
守って、ではない。
助けて、と頼んでいる。
自分で王都へ行き、俺にも来いと選ばせている。
「俺が代わりに核になる」
「それは嫌です」
「俺は第二の核だ。姉ちゃんとお前を外して――」
「嫌です!」
今度はノエが怒鳴った。
「あなたは、自分を燃やせば全員を取り戻せると思っています。それは、私たちがあなたを助けたい選択を奪います」
言葉が止まる。
「一人で全部払わないでください。私を迎えに来る人でいてください」
ノエはティルを見る。
ティルが床へ額をつけた。
「俺は、あんたを売った。兄貴を戻すためなら十二年奪っていいと思った。助けたから許せとは言わない。王都までの道を開ける。その後も、したことを話す」
「私は、まだ許しません」
ノエが言う。
ティルの肩が震える。
「はい」
「でも、あなたが次に何をするか見ます。王都へ来てください」
第五の鐘が鳴った。
切り離したはずの車両へ、砂院から青い音が追いつく。第五の線がノエの腕輪と灰灯へ刻まれた。
線路の下で、古い弔い路が光る。
五つの鐘がつながり、王都までの隠された保守線を開いた。俺たちが乗る三両目は本線から外れ、青い線路へ入る。先頭車両だけがノエを連れて王都へ向かう。
分岐まで、あと数秒。
ノエが俺の手を離した。
「顔から、何か消えています」
「姉ちゃんの顔を忘れた」
ノエは泣きそうな顔をした。
「私の顔は分かりますか」
「分かる。緑を選んだ奴だ」
「では、次に会った時も聞いてください。私が何を選んだか」
俺とティルは分岐する車両へ飛び移る。ノエは先頭側に残った。
線路が離れる。
「ノエ!」
白い髪が窓からなびく。
「必ず行く!」
ノエは緑の糸を自分の手首へ結び、俺へ見せた。
「迎えに来て」
声は列車の音へ消えた。
でも、今度は聞き間違えなかった。
俺は姉ちゃんの顔を思い出せないまま、王都へ続く青い線路を見た。