灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
三時間で国を変える方法は、やっぱりなかった。
だから俺たちは、国中へ頼むことにした。
セインは暁炉に残り、オルセウスの出力操作を監視する。近衛兵の半分は王都の避難。残りが葬送塔への道を開く。
ガラン、ティル、俺は塔へ行く。
「怪我人三人で奪還か」
ティルが自分の吊った腕を見た。
「元気な奴は町を守ってる」
「無理だと判断したら戻れ」
ガランが言う。
「あんたもだぞ」
「俺は含めていない」
「一番重傷だろ!」
ノエが暁炉の中から、かすかな声で言った。
『全員、戻ってください』
それだけで、戻る理由が一つ増える。
「待ってろ。今度こそ一緒に帰る」
白い炉の奥で、緑の火が返事をした。
*
地上へ出ると、王都は夜になっていた。
まだ昼過ぎのはずだ。名を切られた願火が空を覆い、太陽を隠している。黒い灰の雲から、顔のない虚獣が次々と落ちてきた。
共同火葬場の小さな火を中心に、市民が円陣を作っている。
「名前を呼べ!」
ザックの老婆が杖を振り回す。
「顔がなくても、願いを聞いた奴はいるだろ!」
黒い鳥の胸から、男の願火が見えた。
『娘の靴を』
「ソマ!」
記録院で読んだ名を叫ぶ。
「娘へ冬の靴を残したかった、ソマ!」
虚獣の顔が一瞬、人へ戻る。遺族らしい女が人垣から出てきた。
「父さん!」
青い糸が二人を結ぶ。鳥は白い火となって降り、女の灰札へ収まった。
名を呼べば戻る。
でも、雲には何百万もの願火がある。王都で知っている名だけでは足りない。
葬送塔は中央広場の向こうだ。リナの銅像は黒い獣に覆われ、赤い外套だけが見える。
「西路は塞がってる!」
近衛兵が叫ぶ。
「東の灰税倉庫から回れ!」
走ろうとして、肺がついてこない。脇腹の傷が裂け、左手は槍を握れない。
ティルが俺の左へ入り、腰へ縄を回した。
「引くぞ」
「荷物扱いするな」
「走れないなら運ばれるか、置いてかれるか選べ」
「引け」
選ぶ。格好はどうでもいい。
ガランが前で虚獣を払う。黒い手甲はほとんど閉じず、剣を革紐で固定している。一人で戦えば、最初の角で倒れる。
「右!」
俺が願火の声を聞き、ティルが縄を引く。ガランの剣が黒い爪をそらし、近衛兵が名札を探す。
三人で一人分にもならない。
三人だから進める。
灰税倉庫には、徴収された願火瓶が積まれていた。名を戻され、家へ帰ろうと棚を揺らしている。
倉庫番が扉を押さえる。
「開ければ、暁炉の備蓄がなくなる!」
「もう炉からあふれてる!」
「この火は王国の財産だ!」
「ロアン・ミテは、妻と娘の家族だ!」
ティルが鍵へ針を入れる。片腕では回せない。俺の感覚が薄い左手を重ね、二人で針を支えた。
「三つ右、少し戻せ」
「感じない」
「俺が言う。押せ」
鍵が開く。
瓶を勝手に壊さず、扉だけを開けた。願火は青い糸を選び、それぞれの家へ飛ぶ。帰る場所が分からない火は、倉庫の名簿と一緒に市民が預かった。
空になった倉庫を抜け、中央広場へ出る。
葬送塔の前には、白灰班が並んでいた。
灰面を外している者もいる。第六鐘で名前と命令が記録された。もう、名のない兵ではいられない。
隊長のドロスが火の剣を構える。
「塔は封鎖する。全国へ名を戻せば、暁炉は崩壊する」
「もう大葬卿も出力を下げる側だ」
「嘘だ!」
「通信塔で本人へ聞け」
ドロスは聞かない。
信じれば、自分が記録を燃やし、人を捕らえた理由がなくなる。命令が正しいままでいてほしいのだ。
「命令だったから戦うのか」
ガランが前へ出る。
「反逆者が、灰衣を語るな!」
「俺は命令に従い、四百十二人を死なせる側に立った。八年黙った。命令は、俺のしたことを消さない」
「国を守るには誰かが汚れなければならない!」
「汚れたなら、名前を隠さず自分で持て」
ガランは剣を石畳へ置いた。
「俺はガラン・ヴォルク。元灰衣審問官。これから法廷で証言する。お前は何をする、ドロス」
武器を捨てるのは危険だ。ドロスの火の剣が上がる。
白灰班の後列で、一人が剣を下ろした。
「俺は、記録院を燃やしていない」
「でも止めなかった」と別の女が言う。
一人ずつ灰面を外す。
全員ではない。ドロスと十数人が斬りかかってくる。
サラの矢が、火の剣を弾いた。
「怪我人だけで始めるな!」
中央通りから、ハルヴァ砦の兵が走ってくる。第四鐘の青い道を使い、王都へ来たのだ。サラは外套に四人分の灰札をつけ、弓へ次の矢をつがえた。
「砦は」
「怖がってる奴らへ任せた!」
その後ろには樹都の願火商人、水都の船頭、エンデ村の住民までいる。六鐘の道をたどり、各地から来た。
俺を助けるためだけではない。自分たちの死者の名を全国へ届けるためだ。
白灰班との戦いは長くなかった。
灰面を外した兵が内側から門を開け、砦兵が武器を封じる。ティルは塔の錠を一つずつ外した。俺とガランは、倒れた敵にも味方にも名を聞いて灰札を書く。
ドロスは最後まで剣を離さなかった。サラの矢で手を射抜かれ、近衛兵に拘束された。
「俺は国を守った!」
「それも記録する」
俺は答えた。
「記録を燃やしたことも、ノエを捕らえたことも一緒に」
塔の階段を上る。
一階は死者の名。二階は遺族の記憶。三階は恐れ。四階は罪の記録。七つの鐘で分かれていたものが、ここへ集まる作りだ。
最上階に巨大な葬送鐘があった。
鐘舌がない。
「またかよ!」
ティルが叫ぶ。
「ある」
首元から銀の鐘舌を外す。
姉ちゃんが残し、ティルが盗み、七つの鐘を開いてきた鍵。最後の場所へはめる。
銀がぴたりと収まった。
葬送塔の窓から王国が見える。実際に土地が見えるわけではない。六つの鐘の火が、遠い町や村を水面のように映している。
エンデ村。
樹都ヴェルデ。
水都ラト。
ハルヴァ砦。
セルカ砂院。
王都。
そして、まだ鐘のない何千もの土地。
俺は鐘を鳴らそうとした。
動かない。
第七鐘は暁炉の中にある。塔は声を届けるだけだ。
「何を言えばいい」
ティルが聞く。
明日の鐘。
死者の最後の願いを集めるだけでは、また過去を燃やす。必要なのは、生きている人が自分で選ぶ次の願いだ。
立派な未来でなくていい。ノエの焦げたパン。霜。緑の服。
俺は塔の声管へ口を近づけた。
「聞こえますか。俺はカイ・リュゼ。エンデ村の墓守です」
全国へ声が伸びる。
「暁炉は、死者から名前を奪い、最後の願いを燃やして国を守ってきました。今、炉が壊れ、名のない願いが虚獣になっています」
王都の黒い雲が塔へ爪を伸ばす。兵士と市民が窓を守る。
「死んだ人の名前を、一人だけ呼んでください。たくさん知っていても、まず一人。どんな人だったか、何を覚えているかを一つ話してください」
声が返らない。
突然、全国へ話しかけた反逆者を信じる理由はない。
オルセウスの言うとおり、名を呼ぶ者のいない死者もいる。家族の願火を炉へ渡したい人もいる。
「呼びたくない人は、呼ばなくていい。暁炉を続けたい地域には三日分の火を残します。俺の答えを選ばせるために話しているんじゃない」
息を吸う。肺が痛む。
「でも、選ぶために知ってください。今まで誰が燃えていたか。王家も葬務院も名を隠した。俺の姉リナ・リュゼも安全弁を開け、灰雨の原因を作った。大葬卿オルセウスは過負荷を命じ、被害を増やした。灰衣ガランは命令に従い、止めなかった。俺たちは全部を記録します」
ガランが隣でうなずく。
「死者の名を呼んだら、次に自分が明日したいことを一つ言ってください。国を救う願いじゃなくていい。パンを食べたい。屋根を直したい。誰かへ謝りたい。明日まで生きて、自分で続けたいこと」
最初の声は、エンデ村から来た。
『マウラ・エンデ。墓を掘る時、いつも深すぎるって怒った人』
村長の声だ。
『明日は、焼けた墓守小屋の屋根を直す』
第一の鐘が鳴る。
樹都から、願火瓶市場の女。
『ミナ・レク。息子たちを腹いっぱいにしたかった母親。明日は、名札を戻した瓶の代金を計算し直す』
第二の鐘。
水都の橋に、ユアンが立っている。
『ミナ・レク。俺の母だったらしい。今の俺には、教えてもらった話しかない』
ティルが息を止める。
『明日は、ティルから来た手紙を読む。返事を書くかは、読んでから決める』
第三の鐘が鳴る。
ティルが泣きながら笑った。
「返事、まだくれないのかよ」
「読んでもらえる」
「うん」
ハルヴァ砦の兵士。
『ハド・メイル。怖いと三つ言って、それでも俺をかばった。明日は、母親へ遺体と槍を届ける』
第四の鐘。
砂院の修道士。
『エダ。命令を破って捕虜の拘束を緩め、殺された灰衣。明日は、彼女が最後に聞かせた名前を記録する』
第五の鐘。
王都記録院から、何千もの声。
『エナ・フォル。夫へ先に逝くことを謝った』
『バルド・キース。弟子の剣を見たがった』
『ネラ・クロウ。青い魚が好きで、葬舟へ手を振った』
第六の鐘が、すべての名を記録する。
まだ足りない土地へも、声が届き始めた。
北の漁村。
『名前は分からない。海から流れ着いた男。左手に星の入れ墨があった。明日は網を繕う』
名が分からないことも、そのまま記録される。
西の鉱山。
『炉へ送った父の名は呼ばない。俺は今も憎んでいる。明日は坑道を一本閉じて、事故の理由を調べる』
呼ばない選択も、明日の願いになる。
白炉継続を選ぶ町。
『今夜は切り替えない。子供を危険へ置けない。三日で共同炉を調べ、それから決める』
セインが答える。
『備蓄を送る。判断と経過を記録する』
同じ答えでなくても、青い道から外れない。
声が何万、何十万と重なる。
黒い雲へ、生者の願火が上がっていく。
死者の最後を燃やす火より小さい。朝食、仕事、手紙、喧嘩の続き。どれも一日分しかない。
一日分だから、毎日選び直せる。
「俺は、リナ・リュゼの弟です」
自分の番だ。
「姉ちゃんの顔も声も思い出せない。手の温度も、笑い声も。でも、最初に弔った鶏の墓を一緒に掘った。灰札を煙へ傾ける持ち方を教わった。危険を一人で選び、四百十二人を死なせる一因を作った。俺を一度、生き返らせた」
善人にも悪女にもまとめない。
「明日は、ノエに焦げたパンを焼く。今度は火から下ろすのを五つ早くする」
塔の鐘舌が動いた。
音は出ない。
暁炉の奥で、七つ目の鐘が答える。
低く、長い音。
王国中の名前と明日の願いが、一つの命令ではなく網になる。黒い雲へ無数の青い糸が伸び、名のない願火を一人ずつ受け止めた。
虚獣の牙がほどける。
王都の街灯が消えた。
代わりに、窓と炉と人の胸へ小さな火が灯る。
第七鐘が鳴った。
*
俺は七本の青い道を走った。
肺も脇腹も、もう痛みの場所が分からない。左手は動かず、ティルに灰灯を首へ結び直してもらった。
「一人で行くのか」
「最後は姉ちゃんへ聞く」
「戻ってこいよ」
「ノエに言われた」
ガランが過負荷原本と自分の証言書を俺へ渡す。
「リナへ、俺が法廷に立つと伝えてくれ」
「自分で言え」
「炉が閉じた後でも、聞く機会があれば」
その言い方ならいい。
暁炉へ入る。
七つの鐘の音で、白い太陽は何百万の小さな火へ分かれていた。ノエの鎖は緩み、緑の願火が体へ戻っている。
「迎えに来た」
ノエが目を開く。
「遅いです」
「姉ちゃんにも言われた」
「似ていません」
「知ってる」
鎖を外す。左手では握れず、ノエが一緒に留め具を回した。
最後の一本が落ちる。
ノエは自分の足で立った。
姉ちゃんは、炉の中心にいる。
顔の分からない女。リナ・リュゼ。
「答えを持ってきた」
「聞かせて」
「俺は、姉ちゃんを送りたくない」
姉ちゃんは黙って聞く。
「村へ連れて帰りたい。サラへ会わせたい。俺の墓の掘り方へ文句を言ってほしい。八年分、何を考えてたか聞きたい」
「うん」
「でも、炉として残りたくないって選択も聞いた。俺が助けたい形だけを押しつけない」
涙で、分からない顔がにじむ。
「姉ちゃんを送る。終わりを一緒に選ぶ」
「ありがとう」
今度は受け取った。
姉ちゃんの鎖を一つずつ外す。八年分の願火が名前を取り戻し、それぞれの青い糸へ移る。
最後に、俺の胸へつながる赤い糸が残った。
「これを切ったら、俺は死ぬ?」
「死なない。最初の火は、もうカイ自身の命になった。私がしたことは残るけど、私へつながり続けなくていい」
「じゃあ、切る」
「待って」
姉ちゃんが、俺の右手へ触れた。
温度は分からない。
それでも触れた事実は分かる。
「ガランは法廷で証言するって」
「そう」
「サラは許さないって。逃げずに戻れとも言った」
「戻れなくて、ごめんとは伝えないで」
「どうして」
「謝れば、またサラに受け取らせる。私がしたことと、最後に何を選んだかをそのまま伝えて。許すかは、彼女のものだから」
俺より先に同じ場所へ来ている。
「分かった」
灰灯を開く。
弔いの言葉を言わなければならない。
「リナ・リュゼ。エンデ村生まれ。旅の弔い師。大白炉の名剥ぎを止めるため東安全弁を開け、灰雨の原因を作った。オルセウスの過負荷と葬務院の避難妨害で被害が増え、ガランに逮捕され、八年間暁炉の核にされた」
姉ちゃんは一人になる。
「弟を一人、特別扱いして生き返らせた。鶏の墓を一緒に掘った。灰札の持ち方を教えた。一人で決める癖があって、最後は自分の終わりを弟へ頼んだ」
声が震えて続かない。
「最後の願いを、聞かせて」
姉ちゃんは笑った。
どんな音か分からない。顔も分からない。
でも、笑ったと記録する。
「忘れないで、とは言わない」
赤い願火が、姉ちゃんの胸に灯る。
「カイ。明日を選んで」
俺は赤い糸を切った。
姉ちゃんの体が、火へほどける。
「姉ちゃん!」
呼んだ。
もう一度。
顔も声もなくても、名前はある。
「リナ・リュゼ!」
赤い火が灰灯へ入り、すぐ蓋の向こうへ抜けた。閉じ込めない。王都の空へ、七つの鐘の音と一緒に送る。
泣いて、息ができなくなる。ノエが背を支えた。
「行ってしまいました」
「うん」
「悲しいです」
「うん」
次の言葉を言う。
姉ちゃんが選んだ明日へ進むために。
「帰ろう、ノエ」
「はい」
二人で暁炉を出る。
補助輪の前では、オルセウスが両手を焼きながら主鍵を支えていた。ノエを見る。
「ノエリア」
「私はノエです」
ノエは足を止める。
「あなたの娘の記憶があります。池と、青い服と、木へ登ったセイン殿下。でも、私が緑を選んだ記憶もあります」
オルセウスの手から主鍵が外れる。セインと近衛兵が代わって補助輪を固定した。
「新しい炉は、いつまで持つ」
オルセウスが俺へ聞く。
「分からない」
「不完全な仕組みで、国民へ危険を負わせた」
「あんたの白炉も不完全だった。名を隠して、失敗を一人へ押しつけただけだ」
「共同弔いが割れれば」
「記録して、話して、直す。毎日選び直す」
「人は忘れる」
「忘れる。だから俺たちだけへ任せない」
オルセウスは反論しなかった。納得したわけではない。両手を近衛兵へ差し出す。
セインが拘束具をつける。
「大葬卿オルセウス・ヴァン。過負荷運転、違法拘束、記録改竄、願火不正利用の容疑で拘束します。あなたには治療と、公開裁判で反論する権利がある」
「炉を支えた分で、罪は軽くなるか」
「事実として記録する。免罪とは別だ」
第五の鐘の答えだった。
王都の空に朝の光が戻る。
一日分の願いで灯る結界は、暁炉ほど白くも強くもない。ところどころ薄く、明日にはまた火を足さなければ消える。
ノエの腕輪に七本目の青い線が灯った。
拘束具だった輪が開き、彼女の手首から落ちる。
ノエは緑の糸だけを結び直した。
「明日のパンは、焦がさないでください」
「姉ちゃんの願いを初日から難しくするな」
「五つ早く下ろすと言いました」
「聞いてたのか」
「全国が聞いています」
今さら恥ずかしくなる。
泣きながら笑った。
姉ちゃんの最後の願いは、覚え続けろではなかった。
だから俺は、次の日の火を選んだ。