灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
虚獣を斧で殴ると、斧のほうが泣いた。
刃が灰色の脚へ食い込み、甲高い音を立てて欠ける。マウラ婆が悪態をつき、柄だけになった武器を放した。
「薪より硬いじゃないか!」
「比べる相手が悪い!」
「じゃあ、あんたが柔らかくしな!」
無茶を言う。俺は墓守で、料理人でも鍛冶師でもない。柔らかくできるのは土と、焼いた後の骨くらいだ。
虚獣が前脚を振る。マウラ婆を突き飛ばし、代わりに肩で受けた。爪が外套を裂き、右肩へ熱い線が走る。
痛い。
その一語で頭が埋まりかける。虚獣はもう次の脚を上げている。痛がるのは後だ。二歩下がる。炉の扉を背にする。村人は避難中。ノエは火葬場の壁際。追手は四人が動ける。
今ある手を数えろ。
「灰衣! 炉を開けるな!」
「黙れ、墓守! 器を渡せば処理する!」
「この状況でまだそれを言うのか!」
白い外套の男がノエへ走る。虚獣が首を向けた。顔のない女の輪郭が崩れ、今度は男と同じ髭面を作る。
男の足が止まった。
「父さん?」
「見るな!」
遅い。虚獣の頭が伸び、男の額へ触れる。灰衣は剣を落とし、自分の名を何度も言った。三度目で姓が消え、五度目で名も出なくなる。
あれは肉を食わない。記憶を食う。
灰灯の中でエイルの願火が暴れた。技師の火は炉を指し続けている。火を出せば何かできるのか。できなければ、ただ一つの手掛かりを失う。
迷っている間に、扉の亀裂が広がった。
「エイル」
灰灯へ呼びかける。
「お前は何を残した」
白い火が返事の代わりに左手へ飛びついた。灰紋が焼け、視界が知らない記憶へ変わる。
王都地下の炉脈。石管を走る白い火。弁の番号。圧力。止めようとした手へ、同僚の刃が入る。エイルは逃げた。村へ着く前に死ぬと知り、せめて器の行き先を変えた。
技能ではない。数字と恐怖と、間に合わなかった悔しさ。
『灯継ぎは、受け取ると決めろ』
マウラ婆の声が遠くから聞こえた。
「どうやって!」
『死者が怖がったことまで引き受けるんだよ! 役に立つところだけ盗むな!』
怖い。当たり前だ。エイルは追われ、仲間に刺され、名前を奪われる前に銅札を靴底へ隠した。俺は肩が痛くて、姉ちゃんの顔をした化け物を見たくなくて、逃げたい。
どちらも、なかったことにはしない。
「借りるぞ、エイル」
白い火が腕の中へ沈んだ。
小白炉が、急に別の形で見える。扉ではなく弁。煙突ではなく排圧管。虚獣が爪を立てた場所は願火の入口で、壊れかけているのは反対側だ。
「炉を止めるんじゃない。圧を逃がす!」
左の石壁へ走る。灰の下に三本の鉄管が埋まっていた。中央の留め具を蹴る。びくともしない。
「ノエ、白い火へ触れられるか!」
「接続すれば、連れ戻されます」
「触れたいか、触れたくないかを聞いてる!」
ノエが目を見開いた。千人へ確認する時間はない。俺も答えを決めてやれない。
「私は――触れたくありません」
「分かった。じゃあ触るな!」
別の手を探す。鉄管の上、狩人オドの矢が刺さっていた。葬列へ来る途中で虚獣に殺され、まだ願火が体から離れていない。俺が知るオドは酒癖が悪く、獲物を外すと弓のせいにする。けれど村の子供へ弓を教える時だけは、怒鳴らなかった。
開いた願いが見えた。
最後まで、家へ向けて弓を引こうとしている。
「オド。家族を守りたいなら、腕を貸せ」
緑の願火が矢から立ち、白い火と一緒に俺へ入った。今度は弓を引く指の硬さ、風を読む頬、狙う前に息を吐く癖が分かる。
死者が二人。感情が二つ。頭の中が狭い。
ノエが落ちた弓を拾って投げた。受け取る。矢は一本。狙うのは虚獣ではない。
鉄管の留め具。
息を吐く。肩の痛みが照準を揺らす。オドは家へ帰りたい。エイルは炉を止めたい。俺は全員を助けたい。欲張りすぎて、矢先が三つに分かれる。
違う。
今は留め具だけだ。
放つ。
矢が錆びた楔を抜いた。鉄管から白い蒸気が噴き、虚獣の腹を貫く。獣が音のない口を開け、まとっていた顔を次々変えた。灰衣の父。村人の夫。子供。姉ちゃん。
全部、誰かが失いたくなかった形だ。
「名前を呼べ!」
俺は村人へ怒鳴った。
「見えてる顔の名前を! そいつに食われる前に、自分で呼べ!」
最初は誰も動かなかった。ミラが「ダナばあちゃん」と叫ぶ。青い糸が虚獣から剥がれ、空へ消えた。
次にパン屋が妻の名を呼んだ。鍛冶屋が息子を呼ぶ。灰衣の男が、忘れる寸前の自分の名を仲間に呼ばれた。
虚獣が縮む。
俺の前には姉ちゃんの輪郭が残った。顔は見えない。声もない。八年前、背を向けた俺へ手を伸ばしている。
「リナ・リュゼ」
名を呼ぶ。
輪郭は青い火になり、俺の指の間を抜けた。虚獣が崩れ、ただの冷たい灰が地面へ積もる。
助かった。
膝をついた。肩から血が落ち、灰へ赤い点を作る。オドの技能が抜け、エイルの記憶も薄くなる。灰灯には白い火が戻らず、代わりに炉脈の地図だけがガラスへ焼きついていた。
「カイ」
ノエがそばへしゃがむ。手を伸ばし、触れる前に止めた。
「どこが痛いですか」
「肩。頭。あと、たぶん心」
「心臓に外傷がありますか」
「そうじゃない」
笑おうとした。失敗した。頭の中で姉ちゃんの笑い声を探したからだ。
どんな声だった?
片目を細めて笑う顔は覚えている。大きく口を開ける。俺の頭を叩く。事実は並ぶのに、音だけがない。
「姉ちゃんの笑い声が、思い出せない」
言葉にした途端、喉が詰まった。涙を止める作業は諦める。今は止めても役に立たない。
ノエの指が、俺の無事なほうの肩へ触れた。
「代償です」
「知ってたのか」
「白炉は、願いから名を取ります。あなたの灯継ぎは、願いと近い記憶を取る。仕組みが似ています」
「最悪だな」
「はい」
否定してほしかった気もする。嘘で慰められるより、隣で最悪だと言われるほうが呼吸はしやすかった。
灰衣の一人が、倒れたまま俺を見ていた。顔から血の気が消えている。
「灰紋で、二つの願火を継いだ……」
「それが何だ」
男は俺ではなく、ノエの腕輪を見た。
「第二の核が、ここにいた」