灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
半年後、俺のパンはまだ焦げていた。
「五つ早く下ろしたぞ」
「以前より薄い黒です」
ノエが端を割る。
「進歩を色で測るな」
「味も以前より薄い苦さです」
「褒めてるのか」
「記録しています」
隣でティルが笑った。
「国を救っても、パンは救えなかったな」
「お前の朝飯はなし」
「もう一枚食った」
「いつ!」
「焼き上がる前」
「それは生地だろ!」
旅に必要なのは、金と食料と、同行者を谷へ突き落とさない我慢らしい。
半年経っても、最後の一つは毎朝使い切りかける。
俺たちは、北西の山村へ向かう途中だった。
春の雪解けで道は泥だらけ。ノエは深緑の上着を着ている。王都で裂けた肩を銀糸で繕い、袖は少し短くなった。背が伸びたわけではなく、自分で縫って縮めたらしい。
なぜ直さなかったのか聞くと、「初めて自分で選んだ服に、旅の記録を残したいから」と答えた。
手首に七空所の腕輪はない。
代わりに緑の糸がある。何度も切れ、結び直され、最初より太くなった。灰灯の持ち手にも同じ糸を編んでいる。
俺の左手の感覚は、半分しか戻らなかった。熱い鍋へ触れても気づくのが遅いので、パンを焼く時はノエが火から下ろせと教える。
それでも焦げる。
たぶん手のせいではない。
「カイ。村が見えます」
谷の向こうに、石屋根の家が二十ほど集まっている。中央には小さな灰鐘。白炉はない。
共同弔い網へ移った村だ。
朝と夕方、住民が一人ずつ明日の願いを鐘へ入れる。畑を耕す。屋根を直す。隣村へ手紙を運ぶ。小さな願火を束ね、谷へ虚獣除けの結界を張る。
今日は火が弱い。
村の外まで青い線が届かず、畑の端で消えている。
「昨日、願いを入れた人が少なかったのか」
ティルが鐘を見る。
「入れなかった理由を先に聞く」
少ないから出せと命じれば、灰税と同じになる。
村へ入ると、家々の戸が閉まっていた。共同墓地にだけ人が集まっている。
八十三歳の老人が、夜明けに死んだ。
トマ・ベル。大工。妻と二人の娘、息子、孫が六人。村の家をほとんど建て、酒を飲むと他人の塀まで直した。
死者が出た日は、遺族へ明日の願いを出せと頼まない。村人も弔いへ集まり、日々の鐘が後回しになったらしい。
「それで結界が弱いのか」
長女のミナが顔を曇らせる。
「父さんのせいみたいだ」
「違います」
ノエが答えた。
「一人が休むと消える仕組みなら、仕組みのほうを直します」
この半年で、ノエは「分かりません」と言う回数が減った。
知らないことが減ったのではない。自分の意見へ、千人のうち誰かではなく「私」とつけるようになった。
今も胸の中には九百を超える声がいる。名前を取り戻して家族へ帰った者、自分で送火を選んだ者が減り、ノエと一緒に旅をすると選んだ者が残った。
静かな日も、うるさくて眠れない日もある。
どちらもノエだ。
「今日は隣村から予備火を借りる」
俺は灰鐘の記録を確認した。
「借りた分は、明日以降に返す。弔いを急いで結界の燃料へしなくていい」
「国の決まりかい」
トマの妻が聞く。
「王都の仮規則にはあります。でも、借りるかは村で決めてください。虚獣の目撃があるなら、今夜だけ避難する方法もある」
住民が話し合う。
新しい制度は、前より面倒だ。
白炉なら、死者の願火を納めれば終わった。誰かが決め、誰かが燃え、結界だけがついた。
今は、毎日のように話し合う。火を入れない人がいると怠け者だと責める者も出る。名の記録を間違え、別人の家族が揉める。共同炉へ参加せず、白炉を残した町との間で、火の貸し借りをめぐる争いもある。
前日に出した願いを、朝になって取り消す人もいる。結界が弱くなると責められ、取り消せない町も出た。俺たちは、明日の願いが新しい税になっていないかを確かめ、拒んだ人の名まで記録する。
虚獣の被害が増えた地域もあった。
もちろん、完璧ではない。
だから旅をしている。
王都で決めた者だけが正しさを配るのではなく、困った場所へ行き、何が起きたかを聞いて記録する。
村は隣村から予備火を借り、今夜の結界を補うと決めた。返し方は三日後、畑仕事が落ち着いてから話す。
「では、トマさんの弔いを始めます」
俺は家族を墓地へ集めた。
棺にはトマが最後まで使った鉋、木槌、借りたままの梯子の札が入っている。
「梯子はどうする」
俺が聞くと、長男が頭を抱えた。
「向かいのダンさんへ返す。父さん、二十年前に借りたって」
「二十年は借りたって言わないだろ」
ティルが言う。
「お前が言うと説得力があるな」
「俺は半年以上借りた物は返してる」
「半年までは借りる気か」
遺族が笑った。
葬式で笑うことを、今の俺は止めない。笑った後に泣いても、泣きながら笑ってもいい。どちらか一つへそろえなくていい。
灰灯をトマの胸へ置く。
前と形が少し違う。持ち手から緑の糸が四方向へ伸び、手を添える小さな輪がある。
灯継ぎを俺一人で使わないため、王都の炉技師と半年かけて作った。
死者の技能を借りたい人が、自分の名と期間と目的を言い、複数人で支える。代償も一人の記憶ではなく、使った人全員が翌日もう一度、死者の名と結果を記録する手間として分ける。
強い力は出ない。
大工の一生を一晩で受け継ぐこともできない。
それでいい。
「おじいちゃんの鉋を使いたい」
十二歳の孫が手を挙げた。
「家を継ぐのか」
「まだ分からない。でも、棺の蓋を自分で削りたい」
「期間は」
「今日だけ」
「使った後は」
「明日、どう削ったか家族へ話す」
本人と、母親と、村の大工が緑の輪へ手を入れる。俺も左手ではなく、右手だけを添えた。
「トマ・ベル。孫が、今日だけあなたの鉋の持ち方を借りたい。渡しますか」
灰灯の中で、老人が笑う。
『刃を寝かせすぎるな、と伝えろ』
薄い橙色の火が三人へ分かれた。
孫は鉋を握る。最初の一削りで木へ深く食い込み、蓋に傷をつけた。
「寝かせすぎです」
ノエが言う。
「今のは立てすぎだ!」
村の大工が慌てる。
「ノエ、鉋は分からないだろ」
「千人の中に家具職人が四人います」
「便利だな」
「全員、言うことが違います」
「不便だな」
孫は泣きそうな顔で、もう一度刃を当てた。
今度は薄い木屑が、途切れずに伸びる。
トマの技だけではない。孫が自分で力を入れ、大工が横から角度を教え、家族が棺を押さえている。
一人分の完成した技能より、遅くて不格好だ。
その傷も含め、家族が作った蓋になった。
送火の時、俺は全員へ尋ねた。
「トマさんの願火を、どうしますか」
長女は大工技能を村の共同灯へ残したいと言う。長男は、父が死後まで働くのを嫌がるはずだと反対する。妻は、本人へ聞けばいいと二人を叱った。
灰灯の声は弱い。
『一晩なら、梯子を返すまで』
トマは最後まで梯子を気にしていた。
家族は、今夜の結界へ願火を入れないと決めた。明日の朝、梯子を返し、孫が鉋を使った話をした後で送る。
「そんな小さなことで決めていいのかい」
妻が聞く。
「最後の願いに、大きさの決まりはありません」
国を救う願いも、梯子を返す願いも、その人のものだ。
俺たちは棺を墓へ下ろした。
土をかける。俺が最初の三匙、家族が続く。左手は匙の柄を感じにくいので、右手でゆっくり入れた。
墓穴の深さは、マウラなら文句を言うかもしれない。
姉ちゃんも、隣から直し方を言うかもしれない。
二人の声は聞こえない。
それでも俺は、雨が溜まらない深さを選べる。
夕方、隣村から予備火が届いた。青い結界が谷を包む。
借りた火には、一人ずつ名前がついている。誰がどの願いを三日間貸したか、ティルが帳面へ記録した。
「字、きれいになったな」
「兄貴に汚いって言われたから練習した」
「返事は来たか」
「三通に一通」
ティルは笑う。
「この前、『母さんの好きだった食べ物を教えてくれ』って」
ユアンは記憶を戻していない。
弟の話を読み、今の自分が知りたいことだけを少しずつ聞いている。ティルも、昔の兄へ戻すためではなく、今のユアンへ手紙を書く。
ティルがノエを売った記録は消していない。旅先の役所へ着くたび、自分の名と、したことを申告する。王都の裁判では、白灰班の捜査へ協力したことと別に審理され、未成年であること、水都の契約被害、救出への協力を含めて、三年間の弔い労役になった。
つまり今の旅は、半分が罰だ。
「俺たちと一緒なのは、嫌じゃないか」
前に一度だけ聞いた。
「嫌な日もある。でも、それも自分で選んでる」
そう答えた。
俺がティルを許したかは、まだ分からない。
旅の金を任せる時も、ノエと二人きりで先へ行かせる時も、一瞬考える。ティルはそれを見て傷つく。それでも、信用しろと要求せず、帰ってきて帳面を見せる。
関係は、鐘を一度鳴らせば直るものではない。
明日も選び直す。
*
弔いが終わった夜、村の宿で王都からの記録便を受け取った。
セインからだ。
『共同弔い参加地域、六割七分。白炉継続地域、二割一分。保留、一割二分。今月の虚獣被害は前月より増加。名の回復率と避難率も上昇。数字だけで成功と判断しないこと』
「最後の一行、自分へ書いてないか」
俺は紙をノエへ見せる。
「あなたへもです」
セインは王位継承者のまま、暁炉移行の公的責任者になった。王家が名剥ぎを監督した記録も公開し、辞任を求める声と、続けて直せという声の両方を受けている。
オルセウスの裁判はまだ続いている。
彼は過負荷命令と違法拘束を認めたが、白炉運用自体は必要だったと主張している。拘束下で旧炉の停止作業へ技術を提供し、その貢献も罪とは別に記録された。
ガランは毎週、法廷で証言する。
自分がリナを押さえた手の位置、命令を見た時刻、八年黙った理由。同じ質問へ何度でも答え、記録の違いを訂正する。判決が出るまでは王都を離れられない。
手紙の最後に、ガランから一行だけあった。
『黒い手甲を外した。冬は楽だ』
それだけだ。
「返事を書くか」
ノエが聞く。
「何て」
「あなたが決めます」
許したとは書けない。
でも、旅の途中で左手が動かない時、あいつの黒い手甲を思い出す。握れなくても、俺を止めた手だ。
『春は砂が入る。外して正解だ』
それだけ書いた。
サラには、リナの最後を記録した写しを送った。安全弁を開けたこと、炉として八年生きたこと、許しを要求せず自分で終わりを選んだこと。
返事は短かった。
『読んだ。許さない。記録は砦へ残す』
それでいい。
エーダには灰雨の記憶晶を返した。リナの証言を別の晶へ記録し、並べるかは本人へ選んでもらった。彼女は二つを同じ棚へ置いたとだけ知らせてきた。
エンデ村の墓守小屋は建て直された。
マウラの灰は、まだ俺の灰灯についている。村へ帰したほうがいいか何度も迷ったが、最後の願いは「帰る場所を増やせ」だった。
だから旅へ連れている。
新しい墓地へ着くたび、灰袋の緑糸を一度結び直す。いつか糸が長くなりすぎたら、村へ半分置くかもしれない。その時決める。
「カイ」
ノエが宿の窓辺で、細い花を編んでいた。
春の白い花。
花冠だ。
「作り方、合っていますか」
俺は隣へ座る。
姉ちゃんと作った時の手触りは戻らない。茎がどれくらい硬かったか、髪へ乗せた時の重さも思い出せない。
目の前の茎へ、感覚の残る右手で触れる。
少し湿り、曲げると指へ抵抗する。
「そこは、次の茎を下から通す」
「記憶にありますか」
「形は残ってる。触った感じは、今覚える」
ノエが一本を俺へ渡す。二人で輪を編んだ。
最初の記憶を取り戻す作業ではない。
新しい花冠を作る。
出来上がりは少しゆがんだ。ノエが自分の頭へ乗せ、窓ガラスへ映す。
「似合う」
「以前、リナさんへ言いましたか」
「覚えてない」
ノエは鏡越しに俺を見る。
「悲しいですか」
「悲しい」
今も、急に穴へ落ちることがある。
笑う人の声を聞き、姉ちゃんもこんな声だったかと考える。人混みで赤い外套を見れば追いかける。銅像や肖像を見ても、似ているか分からない。
失った記憶は戻っていない。
戻らなくてよかったとは思わない。
「でも、今の花冠は覚えたい」
「私も覚えます」
ノエの胸に、緑の願火が灯る。
明日もこの花冠を持っていきたい。
ただし、潰れなければ。
「先に条件をつけるようになったな」
「現実的な願いです」
「俺も一つ言っていいか」
「明日の願いですか」
「明日から先の話」
喉が乾く。
王都の塔で全国へ話した時より緊張する。死者の名は聞けるのに、生きている相手へ自分の願いを言うのは難しい。
「俺は、お前が好きだ」
言った。
ノエは驚かなかった。俺の顔を見て、少し首を傾ける。
「いつからですか」
「分からない。樹都で笑った時か、水都で緑を選んだ時か、迎えに来てって言われた時か」
「リナさんの代わりではありませんか」
痛いところを、真っすぐ聞く。
「違う。姉ちゃんは姉ちゃんだ。お前は、焦げたパンをわざわざ選んで、俺へ正しくて嫌な質問をして、自分で緑を選ぶノエだ」
「正しくて嫌ですか」
「そこだけ拾うな」
ノエが笑う。
「今好きだから、ずっとそばにいてくれって決めたいわけじゃない。明日も一緒に旅をしたい。その次の日も、たぶん聞く。いつか嫌になったら、嫌だって選んでいい」
「毎日、聞くのですか」
「うっとうしい?」
「はい」
「もう嫌になった?」
「いいえ」
ノエは花冠を外し、俺の頭へ乗せた。
「今日の答えは、一緒にいたいです。明日の答えは、明日言います」
「分かった」
嬉しくて泣いた。
ノエが指で涙を拭う。俺の左手を取って、自分の頬へ当てた。
「分かりますか」
「少しだけ」
温度は薄い。
だから右手も添えた。
今ここにいる人の顔と声と温度を、なくさない保証はない。記憶は薄れ、記録は燃え、関係は変わる。
それでも、名前を聞き、何を選んだか尋ね、明日また話すことはできる。
*
翌朝、トマの家族と向かいのダンが、二十年借りた梯子を運んできた。
「今さら返されても置く場所がない」
ダンは怒った。
「父の最後の願いなんです」
「あいつは昔から勝手だ!」
弔いは、きれいに終わらない。
梯子を返せば許されるわけでもない。二十年間使えなかった事実は残る。家族は修理代を払い、置き場所が決まるまで共同倉庫へ預けることにした。
トマの願火は、家族の灰灯で静かに燃えていた。
俺は灰札を持つ。
「トマ・ベル」
名前を呼ぶ。
妻が続く。娘、息子、孫、梯子を取られたダンも、最後には小さく呼んだ。
橙色の火が朝空へ上がる。
村の灰鐘では、今日の願いが集まっている。
畑へ種をまく。
隣村へ予備火を返す相談をする。
棺の傷を、あえて残す。
花冠を潰さず次の村へ運ぶ。
焦げないパンを焼く。
一日分の結界が、谷へ広がった。
完璧ではない。明日になれば、また火を選ばなければならない。
姉ちゃんの顔も声も、俺の中へ戻らない。
それでも、リナ・リュゼが生き、間違え、俺を選び、最後に明日を選べと言ったことは話せる。
名前は、死者を過去へ閉じ込める札ではない。
生きている俺たちが、誰から何を受け取り、次に何を選ぶか確かめるための火だ。
だから俺は、今日も名前を呼ぶ。