灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
「村を守れ、なんて言わないよ」
マウラ婆の声は、燃える小白炉より小さかった。
「あんたは、帰る場所を増やしな」
「勝手に遺言を作るな」
「本人が言ってるんだ。ずいぶん正しい遺言だろ」
「正しいかどうかの話じゃない!」
血が止まらない。矢尻は腹の奥へ入り、抜けない。ガランが布を押し当てても、赤は指の間から増えていく。
分かっている。
分かりたくない。
婆さんの呼吸が一度途切れた。俺は名前を呼ぶ。マウラ。マウラ・ハネス。何度も呼べば、死ぬ道から戻せる気がした。
「うるさいねえ」
目が薄く開く。
「呼ぶのは、死んでから一度でいいよ」
「じゃあ死ぬな」
「それができたら、墓守は商売上がったりだ」
冗談のあと、婆さんの口が動かなくなった。
泣く暇も、名を送る暇もなかった。小白炉の扉が二度目の衝撃で裂け、白い火が細く噴く。地面の結晶は家々の土台へ届き、壁の隙間から名のない声が漏れていた。
ノエが膝をつき、両耳を押さえる。
「多すぎます。全員が、出口を求めています」
「炉を開ければ虚獣になる」
ガランが立ち上がった。左の手甲が火を浴び、黒い表面に赤い筋が浮く。
「王都側の弁が閉じるまで持たせる」
「何日だ」
「早くて三日」
「炉は三分も持たない!」
三日を三分へ縮める道具はない。鐘しか残っていない。けれど約束が分からない。
マウラ婆の体から、願火が立った。
橙色。炉辺の火だ。冬の朝、凍った靴を温める時の色。俺の灰灯へ来ず、共同墓地の方向へ細く伸びる。
「帰る場所を増やせ」
ノエが婆さんの言葉を繰り返した。
「約束です」
「何と何の」
「マウラさんは、あなたへ村を守れと言いませんでした。村を捨てろとも言っていません。戻る場所を一つに決めるな、と」
故郷は土地だと思っていた。墓石、火葬場、姉ちゃんのいた小屋。失えば帰れない。
違うのかもしれない。
ダナ婆さんを呼んだミラの声。パン屋が妻を呼ぶ声。名前を呼んだ人間の中へ、死者は少しずつ残った。場所が一つ焼けても、全員が同じものを失うわけではない。
「鐘を鳴らす」
マウラ婆を地面へ横たえる。手を離すのに、指を一本ずつ剥がす必要があった。
「村人を墓地へ集める。自分の家が燃えても、取りに戻らせるな」
ガランが俺を見る。
「炉を誰が支える」
「あんた」
「俺を信用するのか」
「してない。けど、今できる奴があんただ」
信用と役割を同じにしない。それくらいなら、怒っている頭でも選べる。
ガランは一度うなずき、灰衣へ指示を飛ばした。兵たちが村人を誘導する。昨日まで追手だった人間に従えと言われ、怒鳴る者もいた。俺は一軒ずつ戸を叩いた。
「墓地へ! 持つのは灰札だけでいい!」
「家畜は?」
「放せ!」
「金は!」
「燃えても死なない!」
言ってから、自分の小屋を見た。姉ちゃんの服、マウラ婆の鍋、八年分の灰札控え。燃えたら戻らない。
足が止まる。
ノエが俺の隣へ来た。泥色の頭巾はもう落ち、白い髪が火の光を拾っている。
「取りに戻りますか」
「戻りたい」
「戻ってはいけないと、千二十六名が言っています」
「お前は?」
ノエは燃え始めた屋根を見た。
「私は、あなたに戻ってほしくありません」
千人と別の答えではない。けれど、彼女自身が選んだ言葉だった。
「分かった」
小屋へ背を向ける。姉ちゃんの服を置いていく。顔も声もまだ記憶にあると思っていた昨日なら、できなかったかもしれない。声を一つ失った今、物だけ守っても足りないと知っている。
共同墓地へ百二十三人が集まった。村の全員ではない。寝たきりの者は灰衣が運び、白炉の役人は逃げ、白灰班の男は納屋から消えていた。
地下室の鐘を地上へ出す時間はない。墓石の前へ鐘舌を置き、マウラ婆の願火を近づける。
橙の火は土へ沈んだ。
地面の下で、鐘が一度だけ鳴る。
音は小さい。村人がざわめく。小白炉の亀裂は止まらない。
「足りない」
ノエの腕輪は光らなかった。
「何がだ」
「約束を結び直す相手です。マウラさんと、あなただけでは」
村を一人で持ち運ぶつもりだった。俺が全部覚えればいいと。そうすれば、婆さんの願いも姉ちゃんの痕跡も失わない。
また一人で払おうとしている。
「みんな、聞いてくれ!」
声が裏返った。百人以上の顔が向く。村で育った十九年、祭りの挨拶すら逃げてきた。死者相手なら名前を呼べる。生者へ頼むほうがずっと怖い。
「炉には、村の外から願火が流されてる。割れれば、昨日の虚獣が何百と出る。止めるには、この村を帰る場所にした死者の名を、俺だけじゃなく、みんなで持ってほしい」
「何をすればいい」
鍛冶屋が聞く。
「名前を呼ぶ。覚えてることを一つ言う。良いことじゃなくていい。腹が立ったことでも、借りた金でもいい。死者を立派な話へ焼き直さないでくれ」
沈黙。
遠くで小屋の屋根が落ちた。
ミラが最初に手を挙げる。
「ダナ・フィル。私の靴下を、派手すぎるって笑った。でも履いてくれた」
土の下で鐘が鳴る。
パン屋が妻の名を呼んだ。喧嘩のたび塩を入れすぎたと話す。隣人が、オドは酒代を返さなかったと怒鳴る。オドの妻が、それでも冬の薪は黙って割ったと言う。
名が増える。良い死者ばかりではない。嫌われ、借金を残し、約束を破った者もいる。それでも名前は熱量の単位ではなかった。
俺は最後に、マウラ婆の名を呼ぶ。
「マウラ・ハネス。口が悪い。斧を持って走る。俺が泣くたび煙のせいにしてくれた」
喉が閉じる。涙で土がぼやける。ここで終われば、感情を見せただけだ。婆さんから受け取ったものを、次へ渡さなければならない。
「俺は村を出る。姉ちゃんを探す。ノエの中にいる人の名前も探す。でも、戻ってくる。ここだけじゃない帰る場所を作って、それでもここへ帰る」
ノエが隣で言う。
「ノエ。私は、焦げたパンをもう一度食べたいです」
生者の願いだ。
鐘が鳴った。
今度は地面ではなく、空全体が震えた。橙色の火が墓石の名をなぞり、村人の胸へ一筋ずつ入る。遠くの小白炉から白い光が抜け、名のある色へ分かれて空へ上った。
青、緑、橙、土色。
何千もの願火が、虚獣にならずほどけていく。
ノエの腕輪、その最初の空所へ青い線が灯った。俺の灰灯にも同じ線が走る。
小白炉が崩れた。
爆発ではない。長く息を吐いて、石と鉄の山になる。村の白い結界は消えたが、森の縁にいた虚獣の影も薄れた。
ガランが煤だらけで戻ってくる。黒い手甲は赤熱し、左腕を動かせない。
「炉脈は切れた。上流への逆流もない」
「村の結界は」
「消えた。だが名のない残滓も消えた。今夜は持つ」
「明日は?」
「別の結界が要る」
マウラ婆なら、明日の心配は明日の薪を割ってからしろと言うだろう。声は思い出せる。今はまだ。
夜が明ける。俺の小屋は半分焼け、火葬場の屋根も落ちた。村人は無事だった。家を失った者は俺を含めて十一人。
守った、とは言い切れない。
失っただけでもない。
マウラ婆の灰を、小さな革袋へ入れる。願火はもうない。灰は灰だ。それでも置いていく気になれなかった。
「王都へ行く」
ガランへ言う。
「姉ちゃんに会う。七つの鐘を鳴らす。ノエを炉へ戻さない」
「最後の一つは、院への反逆だ」
「最初の二つは反逆じゃないのか」
「全部だ」
「なら数えやすい」
ガランはため息をついた。
「俺も行く。お前たちを監視する」
「信用しないぞ」
「好きにしろ」
ノエが緑の糸で、マウラ婆の灰袋を灰灯へ結んだ。誰に教わった結び方か聞くと、「私です」と答えた。少し曲がっている。だから彼女の結び方だ。
村の門を出る。振り返ると、墓地の丘でミラが手を振っていた。焼けた小屋から細い煙が上がる。
帰れなくなったわけじゃない。
帰る場所が、一つでは足りなくなった。