灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない   作:灰を拾う旅人

8 / 30
瓶詰めの幸福

 盗人を見失ったのは、樹都の門をくぐって三十歩目だった。

 

「右です」

 ノエが言う。

「根の下だ」

 ガランが言う。

「どっちだよ!」

 

 二人とも正しかった。栗色の頭が右へ曲がった直後、盛り上がった大樹の根を滑り降り、人ひとりがやっと通れる隙間へ消えたのだ。

 

 鐘舌は姉ちゃんが残した七つの鐘を鳴らす鍵だ。金貨に替えられる石ころじゃない。あれをなくしたら、村を出た意味まで半分なくなる。

 

 俺は市場の露店をよけて走った。肩が引きつる。追いかけてきたノエの頭巾がずれ、茶色い染め粉の下から白い髪がのぞいたので、乱暴にかぶせ直す。

「顔を隠せ。金貨二百枚」

「あなたも五十枚です」

「その差を何度も確認するな!」

 

 前を行く少年は速い。狭い場所を選び、客と荷車の隙間へ潜る。俺が瓶屋の幌へ頭をぶつけている間に、もう次の通りへ飛び込んでいた。

 

 青、黄、桃色。頭上から吊られた願火瓶が、昼間なのに星みたいに光っている。

 

『うちの幸福瓶は一晩銀貨三枚! 初恋の胸騒ぎ、赤子を抱いた安らぎ、凱旋の歓声!』

『職人の勘ならこちら! 鍛冶、織物、時計修理! 正式な遺族証文つきだよ!』

 

 売り声が胸へ刺さる。瓶の中身は物じゃない。あの桃色の火にも、最初に呼ばれた名前があったはずだ。

 

 だからといって、露店をひっくり返せば正義になるわけでもない。店先には痩せた女が二人、買い取り金を数えている。死者を売った金で、今夜の食事を買うのだろう。

 

 嫌だと思う。けれど、腹を減らした家族へ死者の誇りを食えとは言えない。

 

「止まってください」

 ノエに外套を引かれた。

 

 鼻の奥へ、甘い煙が入ってくる。通りの中央に天幕があり、寝台に横たわった客たちが笑っていた。香炉では薄桃色の願火が燃えている。

「夢見香です」

 ノエが小さく言った。

「幸福な最期の記憶を、眠る人へ見せています」

 

 俺にも見えた。夏の川。水をかけて笑う子供。麦の匂い。大きな手に抱き上げられる高さ。

 

 知らない誰かの幸福なのに、懐かしくて涙が出そうになる。煙を吸った客が「父さん」と寝言をこぼし、係の男は砂時計を返した。

「延長なら銀貨二枚ですよ」

 

 幸福が切り売りされている。

 

 腹が立つ。香を買う客にも、売る店にも、煙へ足を止めた俺自身にも。

「カイ」

「分かってる。今は鐘舌だ」

 

 少年の栗色の髪が、天幕の向こうで揺れた。

 

 俺は甘い煙を振り切った。少年は振り返り、舌打ちする。根の階段を駆け上がり、富裕区へ入った。

 

 そこだけ空気が違った。泥がなく、根へ白い石板が敷かれている。願火瓶も露店の裸売りではない。一つずつ銀の籠へ収められ、持ち主の名札がついていた。

 

 ちょうど葬列が通る。白い花、楽師、金糸の棺。弔い師が死者の名と家系を読み上げ、最後の願火を透明な瓶へ移す。参列者は一人ずつ瓶へ触れ、泣いていた。

 

 個別に名を呼ばれ、遺族のそばへ残る願火。

 

 下の市場では、名札をはがされ、幸福や技能という中身だけで売られる願火。

 

 金を持つ死者だけが、死んだ後まで一人でいられる。

 

「くそ」

 

 誰へ言ったのか分からない。足を止めたせいで、少年は葬列の荷車へ潜り込んだ。

 

 ガランが俺の横を抜ける。荷車が角を曲がる直前、車輪の前へ銀貨を一枚落とした。御者が声を上げて馬を止める。俺は荷台へ飛び乗り、花の下から少年の襟首をつかんだ。

「捕まえた!」

「離せ、この墓荒らし!」

「盗んだ奴が言う言葉じゃない!」

 

 少年は肘で俺の傷を狙った。痛みで力が抜ける。逃げかけた足をノエが外套ごと抱き止めた。

「金貨五十枚を傷つけないでください」

「そっちを心配するのか!」

「売る気かよ!」

「売りません」

「真顔で言うな、怖えよ!」

 

 盗人まで俺の値段へ反応した。ガランが追いつき、目立つから場所を移すぞと低く言った。

 

 連れ込んだのは、根の裏にある閉店中の炭屋だった。少年の両手を縄で縛り、鐘舌を返せと手を出す。

「売った」

「三分で?」

「早売りが得意なんだ」

 

 嘘だ。こいつは右の靴をかばっている。俺が足首を指すと、少年は後ずさった。

「返せ」

「嫌だ」

「それは姉ちゃんの形見だ」

「俺には兄貴の命がかかってる!」

 

 怒鳴り返され、握った拳が止まった。

 

 少年はティルと名乗った。十五歳。兄のユアンと二人で、願火瓶を運ぶ仕事をしていたという。半年前、倉庫で瓶が割れた。弁償できる額ではなく、商会は兄の記憶を担保に取った。

「記憶を、担保?」

「働けば少しずつ返すって契約だ。逃げたら白炉へ売る。兄貴はもう、母さんの顔を思い出せない」

 

 ティルは靴底から鐘舌を取り出した。土に汚れている。取り返した安心より、こいつがそれへ向ける目の必死さが嫌だった。

「その銀なら、高く売れる。兄貴の契約を買い戻せるかもしれねえ」

「かもしれないで、人の形見を盗むのか」

「形見が腹を満たすかよ。兄貴の記憶を返すかよ」

 

 胸の中で火がはぜた。鐘舌を奪い返し、こいつを衛兵へ渡したい。姉ちゃんのものを金にしようとした。それだけで十分だ。

 

 なのに、兄のためだと聞いた途端、拳を振れなくなった自分にも腹が立つ。

 

「事情があれば、何をしてもいいのか」

「よくない」

 

 ティルは即答した。

「でも、よくないことをしなきゃ助けられないなら、俺はする」

 

 その顔が、村を出る前の俺へ重なる。姉ちゃんを助けるためなら、ノエを傷つけるかもしれない。それでも王都へ行くと決めた俺だ。

 

 似ているから許せる、とはならない。むしろ殴りたくなった。自分の嫌なところを他人の顔で見せられると、だいたい腹が立つ。

 

「契約書はあるのか」

「商会の地下だ」

「兄貴は?」

「二日前に消えた。商会は移送したって言うだけで、行き先を教えねえ」

 

 ガランが壁にもたれたまま口を開く。

「商会名は」

「緑冠商会」

「王都葬務院の認可業者だ。根炉の管理も請け負っている」

 

 第二の鐘がある場所だ。

 

 できすぎている。ティルが俺たちを知って盗んだ可能性を疑う。だが、こいつは手配書の似顔絵と俺の顔を見比べ、今さら目を丸くした。

「お前、金貨五十枚?」

「気づくのが遅い」

「じゃあ白髪の姉ちゃんが二百――痛っ!」

 俺は頭をはたいた。

 

 ノエはティルの前へしゃがむ。

「ユアンさんを助ければ、あなたは盗みをやめますか」

「分かんねえ」

「正直です」

「嘘ついても、そこの墓守が顔を見る」

 

 人の嘘を全部見抜けるわけじゃない。見抜きたい相手の傷ばかり見て、都合よく信じることもある。

 

「契約を見せろ。その後で、助けるか決める」

「鐘舌は?」

「返せ」

「先に約束しろ」

「しない。兄貴の事情と、お前が盗んだことは別だ」

 

 ティルは唇を噛んだ。それから、しぶしぶ鐘舌を俺の手へ置いた。

 

 姉ちゃんの銀は冷たいはずだった。

 

 ところが、指へ触れた途端、鐘舌が青く光った。炭屋の床下で、重いものが動く音がする。

 

 土埃が落ち、根で隠れていた石扉に一本の線が走った。扉のくぼみは、俺の手の鐘舌と同じ形をしている。

 

 ティルが乾いた笑いを漏らす。

「契約書、あの下だ」

 

 ガランは黒い手甲へ手をかけた。ノエの腕輪では、二つ目の空所が淡く明滅している。

 

 市場の地下から、数えきれないほどの囁きが上がってきた。

 

『返して』

 

『名前を、返して』

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。