灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
盗人を見失ったのは、樹都の門をくぐって三十歩目だった。
「右です」
ノエが言う。
「根の下だ」
ガランが言う。
「どっちだよ!」
二人とも正しかった。栗色の頭が右へ曲がった直後、盛り上がった大樹の根を滑り降り、人ひとりがやっと通れる隙間へ消えたのだ。
鐘舌は姉ちゃんが残した七つの鐘を鳴らす鍵だ。金貨に替えられる石ころじゃない。あれをなくしたら、村を出た意味まで半分なくなる。
俺は市場の露店をよけて走った。肩が引きつる。追いかけてきたノエの頭巾がずれ、茶色い染め粉の下から白い髪がのぞいたので、乱暴にかぶせ直す。
「顔を隠せ。金貨二百枚」
「あなたも五十枚です」
「その差を何度も確認するな!」
前を行く少年は速い。狭い場所を選び、客と荷車の隙間へ潜る。俺が瓶屋の幌へ頭をぶつけている間に、もう次の通りへ飛び込んでいた。
青、黄、桃色。頭上から吊られた願火瓶が、昼間なのに星みたいに光っている。
『うちの幸福瓶は一晩銀貨三枚! 初恋の胸騒ぎ、赤子を抱いた安らぎ、凱旋の歓声!』
『職人の勘ならこちら! 鍛冶、織物、時計修理! 正式な遺族証文つきだよ!』
売り声が胸へ刺さる。瓶の中身は物じゃない。あの桃色の火にも、最初に呼ばれた名前があったはずだ。
だからといって、露店をひっくり返せば正義になるわけでもない。店先には痩せた女が二人、買い取り金を数えている。死者を売った金で、今夜の食事を買うのだろう。
嫌だと思う。けれど、腹を減らした家族へ死者の誇りを食えとは言えない。
「止まってください」
ノエに外套を引かれた。
鼻の奥へ、甘い煙が入ってくる。通りの中央に天幕があり、寝台に横たわった客たちが笑っていた。香炉では薄桃色の願火が燃えている。
「夢見香です」
ノエが小さく言った。
「幸福な最期の記憶を、眠る人へ見せています」
俺にも見えた。夏の川。水をかけて笑う子供。麦の匂い。大きな手に抱き上げられる高さ。
知らない誰かの幸福なのに、懐かしくて涙が出そうになる。煙を吸った客が「父さん」と寝言をこぼし、係の男は砂時計を返した。
「延長なら銀貨二枚ですよ」
幸福が切り売りされている。
腹が立つ。香を買う客にも、売る店にも、煙へ足を止めた俺自身にも。
「カイ」
「分かってる。今は鐘舌だ」
少年の栗色の髪が、天幕の向こうで揺れた。
俺は甘い煙を振り切った。少年は振り返り、舌打ちする。根の階段を駆け上がり、富裕区へ入った。
そこだけ空気が違った。泥がなく、根へ白い石板が敷かれている。願火瓶も露店の裸売りではない。一つずつ銀の籠へ収められ、持ち主の名札がついていた。
ちょうど葬列が通る。白い花、楽師、金糸の棺。弔い師が死者の名と家系を読み上げ、最後の願火を透明な瓶へ移す。参列者は一人ずつ瓶へ触れ、泣いていた。
個別に名を呼ばれ、遺族のそばへ残る願火。
下の市場では、名札をはがされ、幸福や技能という中身だけで売られる願火。
金を持つ死者だけが、死んだ後まで一人でいられる。
「くそ」
誰へ言ったのか分からない。足を止めたせいで、少年は葬列の荷車へ潜り込んだ。
ガランが俺の横を抜ける。荷車が角を曲がる直前、車輪の前へ銀貨を一枚落とした。御者が声を上げて馬を止める。俺は荷台へ飛び乗り、花の下から少年の襟首をつかんだ。
「捕まえた!」
「離せ、この墓荒らし!」
「盗んだ奴が言う言葉じゃない!」
少年は肘で俺の傷を狙った。痛みで力が抜ける。逃げかけた足をノエが外套ごと抱き止めた。
「金貨五十枚を傷つけないでください」
「そっちを心配するのか!」
「売る気かよ!」
「売りません」
「真顔で言うな、怖えよ!」
盗人まで俺の値段へ反応した。ガランが追いつき、目立つから場所を移すぞと低く言った。
連れ込んだのは、根の裏にある閉店中の炭屋だった。少年の両手を縄で縛り、鐘舌を返せと手を出す。
「売った」
「三分で?」
「早売りが得意なんだ」
嘘だ。こいつは右の靴をかばっている。俺が足首を指すと、少年は後ずさった。
「返せ」
「嫌だ」
「それは姉ちゃんの形見だ」
「俺には兄貴の命がかかってる!」
怒鳴り返され、握った拳が止まった。
少年はティルと名乗った。十五歳。兄のユアンと二人で、願火瓶を運ぶ仕事をしていたという。半年前、倉庫で瓶が割れた。弁償できる額ではなく、商会は兄の記憶を担保に取った。
「記憶を、担保?」
「働けば少しずつ返すって契約だ。逃げたら白炉へ売る。兄貴はもう、母さんの顔を思い出せない」
ティルは靴底から鐘舌を取り出した。土に汚れている。取り返した安心より、こいつがそれへ向ける目の必死さが嫌だった。
「その銀なら、高く売れる。兄貴の契約を買い戻せるかもしれねえ」
「かもしれないで、人の形見を盗むのか」
「形見が腹を満たすかよ。兄貴の記憶を返すかよ」
胸の中で火がはぜた。鐘舌を奪い返し、こいつを衛兵へ渡したい。姉ちゃんのものを金にしようとした。それだけで十分だ。
なのに、兄のためだと聞いた途端、拳を振れなくなった自分にも腹が立つ。
「事情があれば、何をしてもいいのか」
「よくない」
ティルは即答した。
「でも、よくないことをしなきゃ助けられないなら、俺はする」
その顔が、村を出る前の俺へ重なる。姉ちゃんを助けるためなら、ノエを傷つけるかもしれない。それでも王都へ行くと決めた俺だ。
似ているから許せる、とはならない。むしろ殴りたくなった。自分の嫌なところを他人の顔で見せられると、だいたい腹が立つ。
「契約書はあるのか」
「商会の地下だ」
「兄貴は?」
「二日前に消えた。商会は移送したって言うだけで、行き先を教えねえ」
ガランが壁にもたれたまま口を開く。
「商会名は」
「緑冠商会」
「王都葬務院の認可業者だ。根炉の管理も請け負っている」
第二の鐘がある場所だ。
できすぎている。ティルが俺たちを知って盗んだ可能性を疑う。だが、こいつは手配書の似顔絵と俺の顔を見比べ、今さら目を丸くした。
「お前、金貨五十枚?」
「気づくのが遅い」
「じゃあ白髪の姉ちゃんが二百――痛っ!」
俺は頭をはたいた。
ノエはティルの前へしゃがむ。
「ユアンさんを助ければ、あなたは盗みをやめますか」
「分かんねえ」
「正直です」
「嘘ついても、そこの墓守が顔を見る」
人の嘘を全部見抜けるわけじゃない。見抜きたい相手の傷ばかり見て、都合よく信じることもある。
「契約を見せろ。その後で、助けるか決める」
「鐘舌は?」
「返せ」
「先に約束しろ」
「しない。兄貴の事情と、お前が盗んだことは別だ」
ティルは唇を噛んだ。それから、しぶしぶ鐘舌を俺の手へ置いた。
姉ちゃんの銀は冷たいはずだった。
ところが、指へ触れた途端、鐘舌が青く光った。炭屋の床下で、重いものが動く音がする。
土埃が落ち、根で隠れていた石扉に一本の線が走った。扉のくぼみは、俺の手の鐘舌と同じ形をしている。
ティルが乾いた笑いを漏らす。
「契約書、あの下だ」
ガランは黒い手甲へ手をかけた。ノエの腕輪では、二つ目の空所が淡く明滅している。
市場の地下から、数えきれないほどの囁きが上がってきた。
『返して』
『名前を、返して』