灰灯の墓守は死者の願いを燃やせない 作:灰を拾う旅人
石扉の向こうは、土と消毒薬の匂いがした。
願火を扱う場所で、花や香ではなく薬を使うのは珍しい。死者を送る場所なら匂いも弔いのうちだ。ここは最初から、死者を死者として扱う気がない。
「入ったら扉が閉まる」
ティルが言った。
「先に言え」
「まだ入ってない」
「珍しく間に合ったな」
俺は鐘舌を石扉のくぼみへ差し込んだ。青い線が広がり、根と石がこすれる。扉の先には螺旋階段が続いていた。
ガランが先頭、俺とノエ、縄をほどいたティルが最後だ。盗人の手を自由にするのは気が進まないが、地下の道を知る奴へ案内させるなら仕方ない。鐘舌は首へ結び直し、服の中へ入れた。
「二度目はないぞ」
「一度目に捕まった相手から、また盗むほど馬鹿じゃねえ」
「別の相手なら盗む言い方だな」
階段を下りるほど、市場の賑わいが遠ざかる。代わりに、しゃり、しゃりと何かを削る音が大きくなった。
地下工房は、大樹の根をくりぬいて造られていた。壁を走る細い管。その中を色とりどりの願火が流れ、奥の機械へ吸い込まれている。
入口の台には灰札が積まれていた。
エナ・フォル。夫へ、先に逝くことを許してほしい。
バルド・キース。弟子の打った最後の剣を見たい。
ソマ。娘に、冬の靴を。
一枚ごとに名と願いがある。機械の左から灰札を入れると、右から白い紙片が吐き出された。
幸福。鍛冶技能。家族への執着。
名前が消えて、売り物の札になる。
「あれが名剥ぎか」
喉が狭くなった。
「名があると、願火は持ち主の記憶へ引かれます」
ノエが機械を見つめる。
「保存にも燃焼にも邪魔です。だから白炉は、名と関係を削ります」
「邪魔って言うな」
強く返すと、ノエが目を伏せた。彼女の意見ではない。中にいる誰かの知識を言っただけだ。
「悪い」
「いいえ。私も、今の言葉は嫌いです」
嫌いだと選んだ。その小さな言葉に安心する一方で、千人の声がどうやって一人分の好き嫌いになるのか、俺にはまだ分からない。
工房に人影はない。休憩の鐘が鳴っているらしい、とティルは言った。地上の市場が最も混む昼に、地下の作業員は食事を取る。願火の声を一日聞くと、交代で地上の生きた声を浴びなければ眠れなくなるそうだ。
「ずいぶん詳しいな」
「兄貴に聞いた」
ティルは俺を見ない。
嘘だ。追及しようとした時、ガランが片手を上げた。
通路の先を、青白い線が上下している。願火を薄く引き延ばした警戒柵だ。触れれば鐘が鳴る。間隔は不規則で、床から胸までを網のように横切っていた。
「別の道は」
「ない」
「止め方は」
「工房長の印章」
「役に立たない案内だな」
「だから契約書を盗めなかったんだよ」
ガランが黒い手甲を柵へ近づける。青白い線が火花を散らした。
「切れば警報が出る。俺一人なら抜けられるが、先の錠は鐘舌が必要だ」
俺は線の動きを見る。下、中央、上。二本が重なり、少し遅れて空く。体が柔らかければ通れるかもしれない。少なくとも、墓穴ばかり掘ってきた俺の身軽さでは、最初の三歩で焼ける。
灰灯が熱を持った。
壁際の運搬箱から、細い声がする。
『まだ、走れる』
箱を開けると、割れた願火瓶が一本入っていた。灰札にはナシュ・テオ。二十七歳。根道の運搬人。工房閉鎖事故で死亡。
死んでからまで、運ばされるのか。
願火へ指を近づける。足の裏に、見知らぬ道が広がった。根の傾き、板のたわみ、荷を抱えたまま角を抜ける足順。ナシュは速い。速さを自慢し、最後まで誰かへ届けようとしている。
「灯継ぎを使う気か」
ガランが聞く。
「他に通る方法があるか」
「俺が作業員を捕らえ、印章を奪う」
「その間に休憩が終わる。騒ぎになれば、この工房ごと願火を燃やされる」
正しいかどうかではない。急いだほうが助かる気がして、俺はもう理由を並べている。
灯継ぎは、死者の願いを俺の中で燃やす。その代わり、姉ちゃんの記憶が一つ消える。
笑い声を失ったばかりだ。
怖い。姉ちゃんを助けるために旅をして、姉ちゃんを一つずつ支払っている。王都へ着いた時、名前しか残っていなかったら、俺は誰を助けに来たことになる。
「カイ、手が震えています」
「寒いだけだ」
「地下は暖かいです」
「便利だな、千人分の正論」
ノエは怒らなかった。俺の手を取ろうとして、途中で止める。
「使わない選択も、あなたのものです」
決めてくれない。やめろとも、行けとも言わない。
それで少し、息ができた。
「ナシュ。あんたの足を借りる」
灰灯の蓋を開く。割れた瓶から願火が飛び込み、足の骨まで熱くなった。
同時に、姉ちゃんとの記憶が一つ浮かぶ。
春の墓地。白い小花。姉ちゃんが茎を折らずに輪へ編み、俺の指へやり方を教えた。冷たい茎の湿り気。花冠を押しつけられた髪のくすぐったさ。
やめろ。
そう思った時には、手触りだけが灰になった。
景色は覚えている。姉ちゃんの顔も、白い花も見える。でも茎をどう曲げたか、頭に花が触れた時どんな感じだったか、指が知らない。
「……行く」
止まれば代償だけが残る。
ナシュの足が床を蹴った。一本目をまたぎ、二本目へ肩を沈める。三本目が上がる前に手をつき、体を横へ流す。俺の体なのに、床の傾きが次の足場を教えてくる。
最後の線を背中すれすれで抜けた。着地で左足首をひねったが、振り返る余裕もない。壁の制御盤へ鐘舌を差し込む。警戒柵が消えた。
左足へ体重をかけられず、膝が落ちる。ノエが駆け寄り、今度は迷わず肩を支えた。
「何を失いましたか」
「花冠の、感触」
「花冠は何ですか」
「姉ちゃんが作ってくれた。作り方は覚えてる。たぶん」
指を動かしてみる。形は頭にあるのに、茎の硬さを想像できない。涙が落ちそうになり、奥歯を噛んだ。
「泣かないのですか」
「泣いたら戻るか」
「戻りません」
「じゃあ、後だ」
言ってから、自分が怖くなる。後に回した涙は、どこへ行くのだろう。慣れたくない。忘れることへ慣れたら、次の代償を安く数えてしまう。
ノエが俺の指を握った。
「次に花を見つけたら、作り方を教えてください。触れた感じは、私が覚えます」
戻るとは言わない。代わりになるとも言わない。ただ、これから増やす話をする。
「頼む」
俺は立った。ナシュの願火は細くなったが、まだ灰灯で道を示している。
通路の奥には、番号のついた棚が並んでいた。願火瓶は千本どころではない。灰札を剥がされた火が、色ごとに分けられている。
幸福は上段。技能は中央。悔恨や執着は地下の炉へ流す。人の一生が、倉庫の都合で棚分けされていた。
ティルが三十二番の箱へ走る。鍵をこじ開け、束ねられた契約書をめくった。
「ユアン、ユアン・レク……ない」
代わりに、一枚の灰札が落ちた。
ミナ・レク。息子たちが、腹いっぱい食べられますように。
ティルの母親だ。
「瓶が割れたのは事故じゃないな」
ティルの肩が固まった。
「母さんの願火が、幸福瓶にされるって知った。金持ちが一晩笑うために燃やすって。だから、取り返そうとした」
「それで棚を倒した」
「兄貴がやったって言った。俺を逃がして、自分で契約した」
兄を救う弟ではなかった。弟の罪を背負った兄を、追いかけている。
「どうして黙ってた」
「言ったら助けないだろ!」
「今なら助けると思うのか!」
「思わねえよ! でも兄貴は、俺が悪いって思い出まで取られた。あいつが俺を忘れる前に、返したいんだ!」
怒りは消えない。事情が深くなっても、倒した瓶の中身は戻らない。巻き込まれた死者も、担保にされた兄もいる。
それでも、ティルは母親の灰札を胸へ押し当てて泣いていた。
「契約書を探せ。泣くのは手を動かしながらでもできる」
「……助けるのか」
「まだ決めてない。けど、ここにある名前を残して逃げる気もない」
ティルが鼻をすすり、棚へ戻った。
ノエは部屋の中央で動かなかった。
「どうした」
「静かにしてください」
願火瓶の光が、一斉に強くなる。
最初は管の振動だと思った。違う。声だ。千本の瓶が、それぞれ違う声で同じ音を形作っている。
『ノエ』
ノエが頭を抱えた。
『ノエ』
棚の火が脈打つたび、彼女の腕輪へ白い線が走る。
『ここにいる』
『わたしを返して』
『ノエ、おまえはわたしたちだ』
ノエの口から、千人分の息が漏れた。
「これは、私の名前ではありません」
金色の目から涙が落ちる。
「私たちの、檻の名前です」