楔は、398回嗤う。 作:九咲
「――ねえ。君のそれ、たったの『九人』しか詰まってないんだ?」
夕闇が泥のように溶け出す路地裏。脳無の襲撃によって喧騒に包まれる街の死角でその少女はぽつりと呟いた。
銀髪をツインテールに雑に結び血と煤で汚れたゴスロリ服を着た少女。ヒーロー公安委員会のデータベースに『遠野操(とおの みさお)』と登録されているどこにでもいるはずの十七歳。
だが彼女を前にして対峙する緑谷出久は、全身の毛羽立つような戦慄に囚われていた。
「君は……ヴィラン……!?」
「違う違う、あんな小汚い壊し屋たちと一緒にしないでよ。私はただの観客。あるいはこの退屈な世界に差し込まれた『偽物(Fake)』のノイズさ」
ケラケラと少女――遠野操は笑う。その瞳の焦点は出久を見ていない。もっと遠くここではないどこかあるいは彼女の脳内にだけ存在する『何か』を見つめている。
出久の右腕で、『ワン・フォー・オール(OFA)』の火力が自然と跳ね上がる。歴代の力が彼の皮膚の裏でかつてないほど激しく脈打っていた。
いや、違う。これは脈動ではない。
彼の内側にいる『面影』たちが激しく警鐘を鳴らし怯えているのだ。
(緑谷くんダメだ! 引け! それに触れるな!!)
脳内に直接響く初代・与一の悲鳴のような声。
(あれは個性の持ち主じゃない! 人間ですらない! アレは……『概念の疫病』だ! 触れれば僕たちのバトンまで汚染されるぞ!!)
「あはは! 聴こえる、聴こえるよデクくん! 君のなかで幽霊たちが大騒ぎしてる!」
操は歓に身を震わせ自分の顔を掻きむしった。爪が皮膚を裂き鮮血が流れる。しかし彼女は痛がる素振りすら見せずただただ恍惚とした表情で出久を見た。
「羨ましいなあ、君のバトンはそんなに綺麗で。私のなかにあるバトンはね、もっともっと泥泥で、サイテーで最高なんだよ。……知ってる? 私ね、三百九十八人目なの」
「……三百、九十八……?」
出久の言葉に操は楽しげに指を折る。
「そう! 遠野操ちゃんっていうこの身体はね三百九十八番目の『受信機』。最初の私はね魔術師だったんだって。でもこの世界に落っこちて肉体が死んじゃって……。そしたら、私の『頭のなかの構造(システム)』だけが、世界の集合無意識に電波みたいに残り続けちゃったの」
彼女の個性の真実。それは『集合無意識の受像』。
世界のどこかにいる「波長の合う人間」の脳を初代フランチェスカという怪物の精神構造で完全に上書きし、塗り潰す呪い。
「初代が死んで二人目が狂って百人目が壊れて三百人目が絶望して……そうやって死屍累々の死体を繋いで今、操ちゃんの脳みそが私の形に焼き切られた。ねえ私の後ろにいる三百九十七人の幽霊たちの泣き声聴いてみたい?」
操がそっと手をかざす。
その瞬間、出久の視界がぐにゃりと歪んだ。
(――個性の発動じゃない。これはただの『幻覚』だ。彼女の脳内にある記憶のゴミ袋を、僕の脳に強制同期させているだけ――!)
出久は頭を割られるような激痛に膝をついた。
視界に映るのはこの超常社会ではない。見たこともない、偽りの聖杯を巡る凄惨な殺し合い。偽りの英霊たち…王、人形、堕ちた英雄、狂信者そして女神までそれらすべての破滅を「最高のおもちゃ」として眺めながら全く同じ顔で笑う『フランチェスカ』という怪物の記憶。
そして、この世界でその最悪最低の「フランチェスカ」を受信してしまったこの世界の人間の末路と怨嗟。最悪の継承。
その膨大な被害者の多さを想起させるスパンの短さ。
そのおぞましさ。
「が、あ……っ!」
「あはは! いい顔! やっぱり人間が限界を迎える時の顔って、どんな魔術の結晶よりも美しいや!」
操はステップを踏むように出久に近づきその懐からナイフを取り出した。だが彼女はその刃を出久ではなく自分の首筋に宛がった。
「な……にを……」
「警察もヒーローも、みーんな気づいちゃったんだ。この『遠野操』を殺しちゃダメだって。だってこの身体が死んだら私のシステムは自動的に次の『三百九十九人目』を探しに飛んでいっちゃうから」
操は満面の笑みで刃を皮膚に食い込ませる。一筋の血が流れる。
「次の入れ物は誰かなあ? 君のクラスの可愛い無重力の女の子? それともあのプライドの塊みたいな爆破の少年? もしかしたらオールマイトの残りカスだったりして! あはは、人質は世界中の人間全員だよ! だから君たちは私を殺せないし救えもしない!」
「君は……遠野操さんは、どうなるんだよ!!」
出久は痛みに耐えながら血を吐くように叫んだ。
「操さんは操さんの人生はどこにいったんだ! 君に塗り潰されて、ただ死ぬのを待つだけなんてそんなのヴィランとかそういうのじゃなくて……ただの地獄じゃないか!!」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
遠野操の動きが止まった。
彼女の濁った瞳からボトボトと大粒の涙が零れ落ちる。自律神経の拒絶反応かあるいは脳の底の底に沈められた「本物の遠野操」の魂が一瞬だけデクの言葉に震えたのか。
だが、少女の口から漏れたのは操の悲鳴ではなかった。
「……あはは。ほんと地獄だよねえ! 最高に悪趣味で、サイテーの地獄だ!」
涙を流しながら彼女は破顔した。完全に壊れていた。
「だからこそ引っかき回し甲斐があるんじゃない! ヒーローもヴィランもみんなまとめて私の退屈しのぎの道具になってよ!」
遠野操(398人目)は狂おしく笑いながら幻影の霧の中に消えていく。出久が手を伸ばした時にはそこには夜霧の冷たさしか残っていなかった。
OFAの面影たちが出久の精神世界で静かに通夜のように黙り込む。
正義の意志を未来へ紡ぐ「九人」の光の裏で世界は今無限に増殖し絶対に打倒できない「三百九十八人」の悪夢を抱え込んでしまった。
遠野操の肉体が滅びるその日まで。
あるいは世界が彼女の退屈によって完全にめちゃくちゃにされるその日まで。
不和をもたらす偽物の魔術師はこの世界の特等席でケラケラと嗤い続ける。