貞操逆転世界で男が野球をやるのはおかしいですか? ~前世の記憶を持つ俺は、女子だらけの野球界でエースを目指す~ 作:ルナ3だー
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翌日。
塁は自身が通う『
(なるほど……基本的なルールは前世と変わらねえ。スリーストライクでバッターアウト、スリーアウトでチェンジ。塁間もマウンドの距離も同じだ。だが……)
塁の視線がプロ野球の選手名鑑やスポーツ科学の専門書の上を滑る。この世界の野球が前世とどれほど違うのか。それを知ることが第一歩だった。
調べれば調べるほど102年の歳月と女性中心の社会構造がもたらした「進化」の凄まじさが浮き彫りになる。プロ選手の平均身長は180センチを超え、球速160キロを投げる投手などザラにいる。前世の男子プロ野球と遜色ない、いや、それ以上のバケモノ揃いの世界だった。
「塁君、頼まれていた資料持ってきたよー」
「……スポーツ医学と小学生リーグの規定書だ。これで全部のはず」
ドサッ、と重そうな分厚い本の束が机に置かれる。顔を上げると指定護衛である護と刃が立っていた。彼女たちは塁を守るためこの男子校内でも特別に付き添いを許可されている。
「おお、サンキュー! 探すの手間取らせて悪かったな。二人とも本当に助かるよ」
塁はパッと顔を輝かせると二人の労をねぎらうように屈託のない極上の笑顔を向けた。
「っ……!」
「……いや、これくらいどうということはない」
護は頬をカッと熱くして口元を両手で覆い、刃はスッと視線を逸らして耳まで真っ赤に染め上げた。昨日からこの調子だ。塁から向けられる真っ直ぐな感謝の言葉や無防備な笑顔に当てられるたび二人の心臓は早鐘のように打ち鳴らされてしまう。
(塁君……本当にどうしちゃったんだろう)
(あんなに怯えていた塁がまるで別人のようだ……)
机に向かい再び真剣な横顔で資料を読み漁る塁を見つめながら護と刃は内心で首を傾げていた。昨日、硬球が頭に直撃したショックで性格が変わってしまったのだろうか。あるいは恐怖のあまり脳が防衛本能で別の自己を作り出してしまったのか。だとしてもよりによって『野球』に興味を持つなどこの世界ではあり得ないことだった。
硬いボールを使い、時には激しいクロスプレーも辞さない危険なコンタクトスポーツ。かすり傷一つ許されない「か弱い男の子」が自ら進んで足を踏み入れていい領域ではない。テレビの向こう側で屈強な女性たちがやるものだ。
「……ねぇ、塁君。本当に野球のルールなんて調べてどうするの? すごく危ないスポーツなんだよ?」
護が心配そうに、しかしどこか熱っぽい視線で塁の横顔を見つめながら尋ねる。
「護の言う通りだ、男がやるものじゃない。……もし興味があるなら私たちがプレーするのを見ているだけで十分だろう」
刃も同意するように頷き塁をたしなめるように言った。
しかし、塁は資料から目を離さないまま口元にニヤリと笑みを浮かべた。
「確かに見るのも面白いよ。プロの試合なんてすげえ迫力だしな」
塁はパタンと手元の資料を閉じると真っ直ぐに二人を見つめ返した。
「でもな、外から見てるのと実際にグラウンドに立ってプレーするのとじゃ天と地ほどの大違いなんだよ」
その声にはこれまでの塁からは想像もつかないほどの静かで熱い芯が通っていた。
「マウンドに立った時のあのヒリヒリするような緊張感。指先からボールが離れる瞬間の感覚。キャッチャーミットにボールが完璧に収まった時の『ズバーン!』って最高に気持ちいい音。それにバットの芯でボールを捉えた時の手に残るあの痺れるような感触……」
塁はまるで今まさにそのグラウンドの真ん中に立っているかのように宙を見つめながら語り続けた。
「相手との駆け引き、一球で状況がひっくり返るプレッシャー、泥まみれになって白球を追いかける泥臭さ。その全部がたまらなく面白いんだ。ただ何となく興味があるとかそういうレベルの話じゃない。俺は……俺の人生には絶対に野球が必要なんだよ」
熱を帯びた言葉が図書室の静寂に溶けていく。それは10歳の少年が口にするにはあまりにも実感を伴った重く、そして純粋すぎる情熱だった。
護と刃はただボーッと言葉を失って塁に見惚れていた。無理もない。この世界において男が『夢』や『情熱』を語ることなどあり得ないのだから。
この狂った世界で生きる男たちには未来を選ぶ権利がない。怪我をしないように鳥籠の中で育てられ、成人すれば国が決めた相手と強制的に結婚させられただ血を残すための道具として一生を終える。それが彼らに課せられた絶対の運命だ。
だから男たちは夢を持たない。希望を抱かない。どうせ叶わないと分かっているからこそ最初から何も望まずただ与えられた安全な環境で静かに息を潜めて生きるのが『普通』なのだ。
それなのに目の前にいるこの少年はどうだ。
『俺の人生には絶対に野球が必要なんだ』
そう言い切った塁の瞳は図書室の窓から差し込む光を反射して宝石のようにキラキラと輝いていた。自分のやりたいこと、成し遂げたいことを見据え内側から燃え上がるような生命力に満ち溢れている。その姿は鳥籠の中で飼い慣らされた弱々しい男の子のそれではなく、自分の足で大地を踏みしめ空へ羽ばたこうとする『一人の人間』、いや──『一人の雄』の姿だった。
(ああ……なんて眩しいんだろう)
護は胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
(これが塁……? 私がずっと守ってきたあの塁なのか……?)
刃もまた無意識のうちに自分の胸元を強く握りしめていた。
鼓動がうるさい。顔が熱い。今まで男というのは「か弱くて守ってあげなければすぐに壊れてしまう哀れな存在」だとしか思っていなかった。だからこそ自分が守らなければという義務感とペットを愛でるような庇護欲しか抱いてこなかったはずなのに。
夢を語る塁の横顔はあまりにも眩しすぎて直視できないほどだった。そして二人は人生で初めて心の底からこう思ったのだ。
──男の人ってこんなにも『カッコいい』生き物だったのか、と。
キーンコーンカーンコーン──。
ほどなくして、昼休みの終わりを知らせる無機質なチャイムが図書室に鳴り響いた。その音にハッと我に返った三人は急いで机の上に広げていた資料や分厚い本を片付け始めた。
「やべっ、もうこんな時間か。二人とも手伝ってくれてサンキューな!」
「う、うん! 気にしないで塁君!」
「あ、ああ……急ごう、塁」
まだ胸の奥に熱い余韻を残したまま護と刃は慌ただしく塁と共に図書室を後にし、それぞれの教室へと小走りで向かった。
* * *
そして放課後。
その日の授業がすべて終わり、塁が鞄を持って教室の扉を開けると廊下にはすでにいつものように二人の姿があった。
「お疲れ様塁君! 鞄、私が持つよ」
「いや、私に貸せ。塁の負担を少しでも減らすのが護衛の役目だ」
二人は当然のように塁の荷物を奪い取ろうと手を伸ばしてくる。この世界ではか弱い男の子に重い物を持たせるなど言語道断なのだ。しかし塁はその手をヒョイと躱し自分の鞄をしっかりと握り直した。
「いや自分の荷物くらい自分で持つって。それより今日は真っ直ぐ帰らないぞ、グラウンドに向かう」
「え……?」
「グラウンドだと?」
二人は目を丸くして何故そんな危険な場所へという表情を浮かべた。塁はニカッと白い歯を見せて笑う。
「決まってんだろ。野球をするためだよ」
そうして三人が辿り着いたのは学校の敷地内に併設された広大なグラウンドだった。
「すげえ……」
塁は思わず感嘆の声を漏らした。
男である塁は体育の授業すら安全な屋内施設で軽い体操をする程度に制限されているため、この屋外グラウンドに足を踏み入れるのはこれが初めてだった。見渡す限りの広大な土のグラウンド。完璧に整備されたマウンド、青々とした人工芝、そしてナイター設備まで完備されている。プロの球場と見紛うほどの素晴らしい環境だ。
塁は目を輝かせながら視線をあちこちへと巡らせ、やがてグラウンドの一角で一際活気に満ちた集団を見つけた。お揃いの真新しいユニフォームに身を包み統率の取れた動きでノックを受けている女子たちの集団。
(あれが……『
覚醒前の塁の記憶の片隅にもその名前は残っていた。この学校が誇る地区最強と名高いエリート野球チームだ。遠目から見ても小学生とは思えない体格とスイングの鋭さが伝わってくる。
「よし、とりあえず見学からだな」
塁は一つ頷くと両脇を固める二人に振り返った。
「二人とも今日は先に帰ってていいよ。ここからは俺がどうにかするからさ」
これから自分がやろうとしていることはこの世界の常識から外れた危険な行為だ。彼女たちを巻き込むわけにはいかない。
しかし、二人は即座に首を横に振った。
「ダメだよ塁君! 私たちは塁君の護衛なんだから守る義務があるの!」
「そうだ。塁を一人でこんな危険な場所に残して帰るなど絶対にできない」
塁は「はぁ」と、今世の面倒くさい法律と常識を疎ましく思いながら深いため息をついた。
「あのな、俺の趣味に無理してついてこなくていいから。野球は危ないしお前らまで怒られちまうかもしれないだろ?」
塁としては純粋な気遣いからの言葉だった。しかしその言葉を聞いた護は一歩前に出て塁の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「無理して守ってるんじゃないよ」
護のタレ目がかつてないほどの真剣な光を帯びる。
「私は塁君が大切なの。塁君が私の世界の全てだから……塁君のいない場所に帰るくらいならここで一緒に怒られる方がずっといい」
それに続くように刃も静かに、しかし力強い声で告げた。
「塁は私の生きる道だ。塁が行く道はすべて己の道であると定めている。……だから、塁を一人にはしない」
そして二人は顔を見合わせ、まるで示し合わせたかのように同時に口を開いた。
「もし塁君が野球をするっていうなら私も野球をする!」
「塁がグラウンドに立つなら私も共に立つ!」
それはこの世界においてあまりにも重く、そして罪深い発言だった。国家の保護対象である男が危険なスポーツに身を投じるのを止めるどころか自ら進んでその共犯者になるというのだ。もし国に知れれば護衛としての適性を問われるだけでなく、最悪の場合は死刑になってもおかしくない。
だが、二人の瞳に迷いはなかった。塁が決めた道であるのならそれがどんな茨の道であろうと地獄の底までついて行く。それが二人が下した絶対の覚悟だった。
そんな命すら懸けた重すぎる愛と覚悟の言葉を受けて塁は目を丸くして二人を交互に見つめ──やがて、パァッと顔を輝かせた。
「お前ら……そんなに野球がしたかったんだな!!」
「「……え?」」
「いやー悪い悪い! 俺ばっかり夢中になってて気づかなかったぜ! そうかそうか、お前らもグラウンドを見て血が騒いじゃったか! よーし、なら三人で一緒に野球やろうぜ!」
塁は嬉しそうに二人の背中をバンバンと叩き一人で勝手に納得して大喜びしている。命懸けの告白を見事なまでの『野球バカのフィルター』で変換してしまったのだ。
護と刃はポカンと口を開けたまま完全にズレてしまった塁の解釈にツッコミを入れることもできず、ただグラウンドへ向かって意気揚々と歩き出す少年の背中を呆然と見送るしかなかった。
グラウンドのフェンスに近づくにつれ塁は肌を打つような熱気をより一層強く感じる。
「すげえ……」
塁の口から感嘆の吐息が漏れる。ノックを受ける女子たちの動きは現代の基準で言えば小学生のそれとは到底思えないほど洗練されていた。打球への反応速度、無駄のないグラブ捌き、そしてファーストへ突き刺さるような矢のような送球。どれをとっても前世の強豪リトルリーグすら凌駕するレベルの高さだ。
塁はフェンス越しにその練習風景を見つめながら胸の奥から湧き上がるワクワクとした高揚感を隠しきれずにいた。しかしそんな塁の純粋な視線とは裏腹にグラウンド内の空気は徐々に異様なものへと変わり始めていた。
「……えっ? 男、の子……?」
「嘘、なんでこんな所に……っ」
ノックの順番を待っていた選手の一人が塁の存在に気づき、声を漏らしたのを皮切りにその動揺は瞬く間にチーム全体へと伝播していった。国家の最重要保護対象であり滅多にお目にかかれない「男の子」があろうことか危険な硬式野球のグラウンドのすぐそばで自分たちを見つめているのだ。
選手たちの集中力は完全に途切れ手が止まり、あり得ないようなエラーが頻発し始めた。
「こらぁっ! お前らどこ見て野球やってんだ! 足が止まってるぞ!!」
ノックバットを握る監督らしき長身の女性がグラウンドに響き渡る大声で注意を飛ばす。しかしそれでも選手たちの動きは一向に良くならない。それどころか全員がチラチラと同じ方向へ視線を向けては顔を赤くしたり青くしたりと落ち着かない様子だ。
「なんだってんだ一体……」
監督が苛立たしげに舌打ちをし選手たちの視線の先へと顔を向けた。そしてフェンスの向こうに立つ塁の姿を視界に捉えた瞬間、監督の表情が驚愕に大きく見開かれた。
「お前ら、練習を止めろ!!」
監督の鋭い号令でグラウンドの動きが完全に停止する。彼女はノックバットを放り投げると驚きと怒りが半々に混ざったような険しい表情で大股でこちらへと向かってきた。
「塁君下がって!」
「チッ……!」
ただならぬ気配を察知した護と刃が咄嗟に塁の前に立ち塞がり両手を広げて彼を守る体勢をとる。しかしフェンス越しに目の前までやってきた監督はそんな二人の威嚇など意に介する様子もなく雷を落とすように怒鳴りつけた。
「男がこんな場所に来るんじゃない! 硬球が飛んできたらどうするつもりだ、危ないだろうが!!」
その声には指導者としての厳しさとこの世界の大人としての真っ当な危機感が込められていた。監督はそのまま鋭い視線を護と刃へと移す。
「お前ら、そいつの指定護衛だろ! だったらこんな危険な場所に突っ立ってないでさっさと連れて帰れ!」
元プロ選手であろう監督の放つ圧倒的な威圧感に護と刃は一瞬ビクッと肩を震わせ慄いた。しかし二人は一歩も引かなかった。塁を連れて帰ろうとする素振りすら見せずただじっと監督を睨み返している。
「……何なんだお前らは」
監督が苛立ちを募らせ眉間を深く寄せたその時だった。
「あのさ」
護と刃の間からひょっこりと顔を出した塁が屈託のない声で言った。
「俺も仲間に入れてほしいんだ」
その一言が放たれた瞬間、監督だけでなく遠巻きに様子を窺っていた選手たちも含めグラウンドにいた全員が石像のように固まった。風の音だけが不自然な静寂の中を通り抜けていく。
「……き、聞き間違いか?」
数秒の空白の後、監督が信じられないものを見るような目で塁を見下ろした。
「もう一回言ってくれ」
「だから、俺もこのチームの仲間に入れてほしいって言ったんだよ」
塁は真っ直ぐに監督の目を見つめ返しはっきりともう一度同じ言葉を繰り返した。
監督はしばらくの間無言になった。その言葉の裏に何か深い意味や意図が隠されているのではないかと必死に思考を巡らせているようだった。しかし塁の言葉に裏などない。ただ純粋に野球がやりたいという言葉通りの意味でしかないのだ。
「……何のつもりだ?」
やがて監督の目に鋭い警戒の色が宿った。
「冷やかしなら帰れ。ここは遊び場じゃない」
「冷やかしなんかじゃない」
塁はフェンスを両手で掴み身を乗り出すようにして答えた。
「俺は本気で野球がやりたいんだ。マウンドに立ってお前らみたいなすげえ奴らと真剣勝負がしたい。泥まみれになってボールを追いかけたいんだよ!」
図書室で護たちに語ったのと同じ、いや、グラウンドを目の前にしてさらに熱を帯びた野球への思い。それを聞いた後ろの選手たちは、「男の子が野球を……?」「そんなことあり得るの……?」と、ざわざわとどよめき始めた。
監督は塁の瞳をじっと見つめ返した。
「……その目とその熱意。どういうわけか分からないが嘘ではないな」
長年野球に携わってきた勝負師としての勘が目の前の少年の言葉が本物であることを告げていた。
だが、監督はゆっくりと首を横に振った。
「だとしてもダメだ。男を入団させるなど言語道断だ」
監督の声は冷徹だった。
「もしお前にボールが当たって怪我でもしてみろ。私……いや、そこにいる選手たち全員が接触禁止法違反で死刑宣告を受けることになるんだぞ」
さらに監督は塁の華奢な体を上から下まで値踏みするように見て残酷な現実を突きつけた。
「それに力もない男に何ができる? どんな気の迷いか知らないが男にコンタクトスポーツなど物理的に無理だ。……それにお前ら男にはいずれ国のために果たすべき『使命』があるだろう」
その使命とは間違いなく成人後の強制結婚や精子バンクへの提供義務のことだ。国の大事な資源である男の体を野球などで傷つけるわけにはいかない。それがこの世界の絶対的な常識だった。
「……っ!」
その発言を聞いた瞬間、護と刃の空気が一変した。
「今のは聞き捨てならないな」
刃が低い声で唸り、護のタレ目がドロリとした暗い光を帯びる。二人は監督に対し明確な殺意すら感じさせる鋭い視線をぶつけた。
「塁君を力がないと見下しあまつさえ国の道具扱いするなんて……今までの発言、塁君という一人の男に対する侮辱発言として受け取ります」
護衛としての権限を振りかざし法を盾にして凄む二人。しかし監督はそれに怯むどころかハッと鼻で笑い飛ばした。
「侮辱だと? 笑わせるな」
監督は腕を組み二人を冷ややかに見下ろした。
「危険なグラウンドに保護対象を連れてきてあまつさえ入団志願を止めようともしない。……お前らこそ護衛の任務を放棄しているのではないか?」
監督から放たれたその鋭い正論に護と刃はギリッと奥歯を噛み締め、ただ悔しげに睨み返すことしかできなかった。
確かに、男に対する侮辱発言はこの世界において決して許される行為ではない。しかしそれと同等かそれ以上に指定護衛がその任務を放棄し、保護対象を危険に晒すこともまた重罪として扱われるのだ。彼女たちは塁の意思を尊重し塁の望む道を共に歩むと決めた。だが客観的に見れば硬球が飛び交うグラウンドに男を連れてきて入団を直訴させるなど狂気の沙汰でしかない。法と常識を盾に取られれば二人に反論の余地はなかった。
フェンス越しにピリピリとした緊迫感が張り詰める。監督の冷徹な眼光と護と刃の殺気を帯びた視線が空中で激しくぶつかり合い今にも火花が散りそうだった。
「ストップ、ストップ! 喧嘩してどうすんの!?」
その一触即発の空気をぶち壊したのは当の本人である塁の間の抜けた声だった。塁は慌てて護と刃の前に両手を広げて立ち塞がりフェンスの向こうの監督に向かって苦笑いを浮かべる。
「野球をやりに来たのにグラウンドの外で乱闘騒ぎ起こしてたら世話ないだろ。落ち着けって」
「お前のせいだろうが!!」
監督が思わずといった様子で声を荒げてツッコミを入れた。原因を作った張本人がまるで他人事のように仲裁に入ってきたのだから無理もない。監督の額には青筋が浮かび深い疲労の色が滲んでいた。
(……まあ、ある程度は覚悟してたけどさ)
塁は内心で小さく息を吐き目の前の高い壁を見上げた。
前世の記憶を取り戻したとはいえここは102年の時を経て常識が完全に逆転した世界だ。男がスポーツをするなど現代日本で言えば小学生が「明日から戦場に行ってくる」と言うようなものなのだろう。頭では理解していたつもりだったが、いざこうして真っ向から拒絶されるとその壁の分厚さと冷たさが身に染みて理解できた。
監督は「はぁ」と今日一番の深いため息をついた。そして先ほどまでの怒りをスッと引かせ氷のように冷たい大人としての絶対的な声で言い放った。
「お前らが何と言おうと入団は拒否する。これは決定事項だ」
「監督、そこをなんとか──」
「無理なものは無理だ。いくらお前という『男』本人が発言しようとこの国においては『国の意見』の方がまだ強いからな。私にはこのチームの選手たちを守る責任がある。お前一人のワガママで彼女たちの人生を終わらせるわけにはいかないんだ」
それは指導者として、そして大人としてあまりにも真っ当で残酷な宣告だった。塁はなおもフェンス越しに身を乗り出し言葉を尽くして説得しようと口を開く。
「俺は自分の身は自分で守る! 誰にも迷惑はかけない! だから一度でいいから俺の球を──」
しかし、監督はもう塁の言葉に耳を貸すことはなかった。
「帰れ。これ以上邪魔をするなら学校側に通報するぞ」
冷たく背を向けると、監督は足早にグラウンドの中央へと戻っていった。
「あ、おい! 監督!」
塁が声を張り上げてもその背中は二度と振り返らなかった。監督はマウンド付近まで戻るとフェンスの向こうにまだ塁たちが留まっているのをチラリと視界の端で確認した。そしてパンッと大きく手を叩きグラウンドに散らばる選手たちに指示を飛ばす。
「練習再開だ! ただしメニューを変更する! 外野へのフライノックは中止、全員内野に入ってゴロ捕球の基礎練習だ! 送球は絶対にフェンス側へ逸らすなよ!」
それは万が一にも塁たちのいる方向へ硬球が飛んでいかないようにするための監督なりの最大限の配慮だった。選手たちは「はいっ!」と大きな声で返事をしすぐさま内野へと集まっていく。再びグラウンドには活気が戻り、ボールがグラブに収まる小気味良い音が響き始めた。
塁はフェンスを掴んだままその光景をじっと見つめていた。自分という異物が排除され、再び完璧な秩序を取り戻したエリートたちの練習風景。そこには塁が入り込む隙など一ミリも存在しなかった。
「…………」
フェンスを掴んでいた手をゆっくりと離し、深く俯いた。目元を覆うほど長くはないが、少し乱れた前髪の隙間から覗くその表情は先ほどまでの希望に満ちたものから一転して深い悲しみと無力感に染まっていた。
前世であれほど愛し、血を吐くような努力を重ねてようやくプロというスタートラインにまで辿り着いた野球。それがただ『男だから』という理由だけでグラウンドに立つことすら許されない。バットを振ることも、ボールを投げることも、同じ土俵で競い合うことすらできない。
頭ではこの世界の常識を理解していたつもりだったがいざ現実という分厚い壁にぶつかるとその理不尽さが胸の奥を鋭く抉った。
俯いた塁の脳裏にふと、前世の記憶の断片が蘇ってきた。
それは前世でプロ入りを目指して猛練習していた頃、息抜きに見ていた動画サイトでの出来事だった。画面の中では女子プロ野球リーグでトップクラスの成績を誇る女性選手がインタビューのカメラに向かって熱く語っていた。
『いつか男子のプロ野球選手たちと同じグラウンドに立って一緒にプレーしたいんです。私の力がどこまで通用するのか試してみたい』
彼女の瞳は先ほど図書室で夢を語った塁と同じように純粋な情熱でキラキラと輝いていた。しかしその動画のコメント欄には彼女の熱意を冷ややかに切り捨てる言葉もちらほらと見られた。
『気持ちは分かるけど女と男じゃ骨格も筋肉量も違い過ぎて意味が無い』
『男の打球を受けたら大怪我するぞ。現実を見ろ』
『プロの世界は遊びじゃない。フィジカルの差はどうにもならない』
当時の塁はそのコメントを見て「まあ、現実的に考えたらそうだよな」と、どこか他人事のように納得してしまっていた。残酷だがそれがスポーツの世界における越えられない壁なのだと。
(まさか……その逆の現象をこの世界で俺自身が味わうことになるなんてな)
塁は自嘲気味に小さく唇を噛んだ。今ならあの動画の中で夢を語っていた女性選手の気持ちが痛いほどよく分かる。どれだけ野球を愛していても、どれだけ技術を磨こうとも、生まれ持った『性別』という絶対的なフィジカルの差を理由に挑戦する権利すら与えられない悔しさ。
危険だから、怪我をするから、意味がないから。
正論という名の刃で夢を切り裂かれる痛みを塁は今、身をもって味わっていた。
「塁君……」
「塁……」
両脇から心配そうなひどく心細げな声が聞こえた。顔を上げずとも護と刃がどんな表情をしているか塁には手に取るように分かった。いつもは自信に満ち溢れどんな時でも塁を守ると豪語する二人だが、今ばかりはどう声をかけていいか分からないのだろう。彼女たちがどれほど武術に優れていようとどれほど塁を愛していようと、この国が102年かけて築き上げた『法律』と『常識』という巨大な壁を力ずくで壊すことはできないのだから。
「……ごめんな」
塁は俯いたままぽつりと呟いた。
「変なワガママ言って困らせたよな」
その弱々しい声を聞いた瞬間、護と刃は弾かれたように塁のそばへと身を寄せた。護が塁の右腕をそっと両手で包み込み、刃が塁の左肩に自分の肩を密着させる。慰めの言葉は見つからない。気の利いた励ましも言えない。
だから二人はただ塁の冷えきりそうな心に少しでも熱を分け与えるようにその体をしっかりと支えてあげることしかできなかった。グラウンドからはエリート女子たちの活気に満ちた声とボールがミットに収まる小気味良い音がどこか遠い世界のことのように響き続けていた。
お読みいただきありがとうございました!
塁君入団ならず……次回以降どうやって野球をしていくのでしょうか…是非お楽しみに!