月が堕ちた夜
雲の隙間から覗く半月が、緑豊かな郊外を照らしていた。
多くの富裕層が住むその高級住宅街の一角に、高い塀によって囲われた1軒の豪邸がたたずんでいる。塀の内側には、本邸以外にもうひとつ、大きなコンクリートブロックそのもののような無愛想な建物がある。その四角い建物の屋内、中心部にある天井の高い大広間では、屈強な男たちが小さなガラスケース付きの台座を取り囲み周囲に目を向けていた。
「なあ、来ると思うか? 怪盗キッド」
背の高い男がつぶやく。
「来るわけねえよ、あいつが最後に姿を見せてから何年だ? どうせあの予告状も誰かのいたずらだよ」
「だよなあ。ここの主人も臆病なもんだぜ」
「おかげでオレ達に割のいい仕事が来たんだ、ありがてえ話だよ」
台座の上に置かれているのは金額を聞けば目玉が飛び出るほどの、そして美術的にも高く評価されている宝飾品だ。その警備を命じられた男たちは、みな緊張感に欠けた笑みを浮かべていた。ただ一人、白髪を丁寧に整えた年長の男だけが笑っていなかった。彼はこの建物の出入口や構造を何度も確認してこの場に戻ってきたところだ。
「だが本当に来たらどうする? ちゃんと備えてろ。そんなだらけた態度じゃあ、もし奴が来たら一瞬で出し抜かれちまうぞ」
「わかってますって」
「キッドってそんなにすごかったんですか?」
最も若く細身の青年が佐山に顔を向ける。佐山は今年入社したばかりのその新人に目線を向け、深く息をついた。
「すごいなんてもんじゃねえ、奴は魔法使いだったのさ……」
無線機からの通信。
『正門前、異常なし。佐山さん、またキッドの思い出話ですかい?』
『正面通路、異常なし。自慢したくもなるだろ、本物のキッドに会った人なんだから』
佐山が耳の無線機に触れる。
「何度だって言ってやるよ。月下の奇術師・怪盗キッドは世紀の大怪盗にして芸術家だってな」
『目の前でお宝を盗まれた警備責任者の台詞とは思えないですねえ。まるで憧れのスターだ』
横聞きしていた新人がため息をつく。
「いいなあ、オレだって一度本物のキッドに会ってみたいっすよ」
『会えるわけねーよ。とっくにどっかで野垂れ死んでるさ』と通信先。
「そーなんですかねえ……」
『まあ今度佐山さんと飲みにでも行って思い出話を聞かせてもらいな……ん? なんだこの煙?』
「煙?」
佐山が片眉を釣り上げる。
『ゴホッ! ゴホッ! な、なんだこれ! 異常あり……ぐはっ!!』
鈍い音が響き、通信が途絶える。目を見開く佐山。大広間の空気が張り詰める。
「正面通路、そっちはどうだ!?」
『正面通路、異常なし……ま、待て! なんだっ!? ……ぐああっ!!』
再び途絶える通信。佐山も、そして他の男達も一様に警棒に手をかけ周囲を見渡す。
次の瞬間、頭上でガラスが砕ける音とともに景色が暗転した。
暗闇。
「照明をやられたのか!?」
「来るぞっ!」
残った明かりはおぼろげな非常灯だけ。肩がこわばり、額から汗が垂れ落ちる。彼らはプロの警備員であっても、本当の修羅場を経験したことはない。ただ一人、最もキャリアの長い佐山を除いては。
シューッ。
足元、煙が吹き出すような音。
次の瞬間、目と喉に激痛が走り佐山の背が丸まった。
「あぐっ……こいつは……!」
即座にポケットのハンカチを取り出し口を押さえる佐山。それでも肺にまで痛みが届く。目を開けていることさえ苦痛。
(こいつは、キッドが使っていた無害な煙幕なんかじゃない……! 催涙ガスだ!!)
直後、鈍い打撃音とともにうめき声が響く。斜め後ろでどさりと人間が倒れる音。「ぐああっ」「ぎえっ」と、男たちの悲鳴が次々に繰り返される。
暗闇とガスに阻まれて視界はほとんど機能しないが、何が起こっているかは火を見るより明らかだ。恐ろしく迅速で暴力的な手口。
一瞬、キッドの象徴である白いマントが煙の隙間ではためき、素早く動いて再び煙の中に消えていく。その一瞬だけでも犯人の服装は忘れようのないものだった。白マントに白衣のスーツとシルクハット――
(違う……こんなものはキッドのやり口じゃねえ……! 偽者丸出しじゃねえか……!)
左手でハンカチを押さえながら右手で警棒を握りしめる佐山。物音だけを頼りに一歩一歩接近する。
「がはっ!!」
目の前で新人が倒れる。後頭部を大理石の床に打ちつける。佐山の血管が顔に浮き上がる。このクソ野郎を絶対に許さない。
キッドは芸術家だ。暴力ではなく観衆を愛し、血ではなくショーを愛する男。断じて"これ"ではない。
直後、煙の中から現れた白ずくめの男――だが、その顔はガスマスクに覆われている。
(キッドの名を騙るクズめ、そのツラ拝ませやがれっっ!!)
意を決して踏み込み、警棒を全力で振り下ろす。おそらくはガスマスクによって視界が限られていたのであろう"キッド"は、無防備にその警棒を喰らいのけぞり――
マスクが弾き飛ばされた。
現れた素顔。
佐山の目が見開かれる。まさか、そんなことが。
「キッド……!」
忘れもしない、かつてとある美術館で対峙し、翻弄された世紀の大怪盗――怪盗キッドが、佐山に目を合わせた。その顔かたちはかつてのキッドとなんら変わりなく――いや、瞳だけが違っていた。空虚で無機質な、機械のような目。
驚愕によって一瞬体が固まった佐山。直後、彼の顔面に衝撃が突き抜ける。体の力が奪われ、地面にゆっくりと倒れ伏す。痛みとともに大理石の冷たさが顔ににじむ。
(馬鹿な……)
薄れいく意識の中で佐山の目に最後に映ったのは、"キッド"が踵を返し暗闇の中に消えていく姿だった。
お久しぶりです。
本作は前作『10年越しの再始動〈リビギンズ〉』(https://syosetu.org/novel/243108/)の直接の続編です。先に前作を読んでいただくことを推奨しております。
ただ、下記の点を踏まえておけば本作からお読みいただいてもある程度理解できるかと思います。詳しい内容についてはぜひ前作をお読みください。
・組織崩壊から10年後、コナンは高校生となっていた
・コナンは一時期探偵を辞めていたが、ある事件をきっかけに探偵として復活した
・現在は灰原哀と交際し、少年探偵団に復帰している