乾いた静寂の中に、時おりキーボードのタッチ音だけが孤独に響く。
コナンと哀がトランプ暗号と対峙していたちょうどその頃、光彦は部室のPC画面を仏頂面でにらみつけていた。17インチの長方形が、図表やデータでびっしりと埋め尽くされている。
この仮説も外れだ、と心の声。犯行パターンから事件の背景や次の行動を予測するという、光彦の十八番とも言うべき戦略は袋小路に陥っていた。
(何を見落としている……?)
一度首を横に振った光彦は、ひとときの休息のために立ち上がった。部室の片隅に足を運び、ぴかぴかのコーヒーマシンに手を伸ばす。園子の依頼を解決した報酬で購入した戦利品だ。スタートボタンを押した、その直後。
「よお」
おもむろに扉が開き、探偵らしさ皆無のズカズカとした足音が部屋に響く。それが誰かを知るのに振り返る必要はない。
「今日は休日ですよ」
「お互いさまだろ」
元太は団長席にどかりと座り、背もたれに体重を預けて椅子ごと後ろに傾く。
「"ご心配なく、順調ですよ"って言いたそうなツラだな」
「あはは、そうですね」
苦笑を浮かべてコーヒーに口をつける光彦。元太は腕を組んで天井を見つめている。
「で、実際のとこどうなんだ? ぶっちゃけマジでキッドが操られてると思うか?」
「……」
ことり、コーヒーカップが置かれる。
「わかりませんよ、そんなことは。わからないことをわかってるふりはできません。わからないことを計算に入れることもできません」
「う~ん」
ぽりぽりと頭をかく元太。
「キッドが狙ったお宝のパターンを分析するって言ってたやつは?」
「……そこが一番の頭痛の種なんですよ。一見パターンがあるようで、しかしまるでそこに当てはまらないケースもある……。どんな仮説もすべてをうまく説明できないんです」
「そんなもんかあ~……」
「特に僕達が対峙したあの一件……村雲小夜子さんの所蔵品を狙ったあの件は除外して考えるべきなのかもしれません」
「ジョガイ?」
「何かが腑に落ちないんです……。それがなんなのかがまるでわからないのが何より気持ち悪い」
「う~ん……」
元太は繰り返し首をひねる。
「……オレはよ、団員が言ってることはとりあえず信じることにしてんだ。
一瞬の、奇妙な沈黙。
「……彼が本当に
「……は? いやいや、なに言ってんだおめーは。コナンが嘘つきって本気で思ってんのか?」
「あ、そういうわけではないんです。ただ……少ししっくりこないことがあるだけです」
「ったく、おめーらはなんだってそんないがみ合ってんだっつーの……」
大きく息をつく元太。一方の光彦からは少しばかり笑みがこぼれる。
「……いえ、いいんです、あくまでこちらの問題ですから。……でもそうですね、いったんそちらの仮説を真剣に考えてみてもいいかもしれません」
「でもよお、あのキッドだぜ? どうやってあんなのを捕まえたんだろーなそいつは」
顔を歪めて肩を回す元太。どうやらキッドにやられた痛みがまだ残っているらしい。
「さあ、そこまでは……。むしろ重要なのは、キッドを操って何がしたいのかの方じゃないですかね」
「んー、単に宝石を盗むためにわざわざキッドを捕まえて操るってめんどくさすぎるよな」
「まさにそこなんですよ」
「んー、でももしオレがなんか不思議パワーでキッドを操れたとして、何がしてーだろうな……。まあでもとりあえずは試してーかな」
「……試す?」
ぴくりと光彦の眉が動く。
「だってそうだろ、あのキッドだぜ? ほんとにちゃんと言うこと聞くのかとか、一応確かめときたくねーか?」
「……!」
目を見開く光彦、その脳裏を電流が走る。
「……団長、感謝します」
「はぁ?」
「誰がなんと言おうとも、僕らの団長は君ですよ、元太くん!」
腕まくりし、PCに向き直る光彦。彼の目にはギラギラとした光が宿っていた。
「第一の鍵はこれが街の景色の絵柄ってことだ」
駅までの道すがら、信号待ちの途中にコナンは右手に持った例のトランプを眺めながらつぶやいた。裏面は美しい街並みのデザイン。
「どういうこと?」
コナンは隣の哀に視線を移すことなく勝ち誇った笑みを浮かべている。どうやら絶好調ということらしい。
「こんな絵柄のトランプはどこにでも売ってるってわけじゃあねーだろう。わざわざこの暗号のためにこういうのを探し出したんだ」
信号が青に変わり、カードから一切視線を動かさずに歩き出すコナン。やっぱりこの人放っておいたら危ないわねと哀は心の中でつぶやいた。
「つまり?」
「ここはストレートに考えた方がいい。要するにこの文字列は町の名前を示してるのさ」
絵柄の上から書かれた「S5 SA H6 H7 S5 S3 H2 S4 SA」という手書き文字。
「これだけだとわけわかんねーけど、表は表で『DK D10 - DQ D10』……。表も裏もすべてが2文字一組、つまりは2文字でひとつの意味を表してるってことさ。しかもその2文字のうち、1文字目のパターンが妙に少ない……。S、H、Dの3種だけ」
哀に向けて3本指を立てるコナン。
「Spade、Heart、Diamond。 ...Come on、これってトランプだぜ! これ以上あからさまな暗号があるか?」
満面の笑み。哀は目玉が縦に一回転しそうな気分になった。なんでこの人そこだけ発音が無駄にネイティブっぽいの?
「そして2文字目……。一見不規則に見えるけど、こっちも発想は同じさ。要するに2文字目は1から10とJ、Q、Kの13種ってわけだ。もちろん1はAと置き換えて」
「……それじゃあ、この文字列は要するにトランプの並びってこと? でも、それがどうして町の名前になるの?」
哀の相槌と質問、そのタイミングはいちいち完璧だ。意図的に合わせているのか自然と波長が一致しているのか。もはや哀本人にさえその区別はつけられない。
「アルファベットは26文字。……おっと、この多様性時代にこの言い方は世界の人々に失礼だな……。ともかく、
哀は改めて手書き文字を見る。街の絵柄の上に書かれているのは「S5 SA H6 H7 S5 S3 H2 S4 SA」、1文字目にはSとHしか使われていない。
「一般に、スート(※)の強さは決まっている。スペード(♠)>ハート(♥)>ダイヤ(♦)>クラブ(♣)だ。スートを並べるなら普通はこの順番だ。つまり最初はS、次がH。この2文字と13の数字でアルファベット26文字を表しているなら、普通に考えてその表は……」(※トランプの4種のマークのこと)
スマホにやたらと速く文字を打ちまくるコナン。この人はいつこんなに早いスマホ入力を身につけたのだろうか、まさか夜な夜な女の子にメッセでも送ってるんじゃなかろうかと哀は訝しんだ。
「これだ!」
コナンが自信たっぷりにスマホを突きつける。細かすぎる文字に眉をひそめる哀だが、ともかくその表情のまま顔を近づける。
A 2 3 4 5 6 7 8 9 10 J Q K
♠ A B C D E F G H I J K L M
♥ N O P Q R S T U V W X Y Z
「な、簡単だろ?」
瞳をきらきらと輝かせるコナン。褒めて褒めてと尻尾を振る子犬をイメージした哀は思わず吹き出しそうになる。やっぱりこの人に浮気はできそうにない——より正確に言えば、浮気した途端にわかりやすく態度ににじみ出てしまうだろう。そう結論づけて、哀はすっかり満足してしまった。
一瞬のうちにそんなことを考えていたとはおくびにも出さず、哀は薄目で首をかしげる。
「ええっと、つまり答えは……?」
「EAST ECODA……つまりは東江古田町ってことさ!!」
「……なるほど」
ここで初めて哀は深くうなずいた。ふたりは駅前の小さな広場に到着しており、コナンがドヤ顔を浮かべたのは平和祈念像の前でのことだった。すぐそばでは子どもがボール遊びに興じている。
「……で、裏の数字の意味は?」
「そいつはまだこれからだ」
「そ、そう……」
「バーロ、冗談だよ! こっちが町名ってことは、そっちは番地に決まってるだろ?」
「それはそうね」
「ここまでわかりゃあ後は簡単さ。とにかく先に東江古田町に行こうぜ!」
走り出したコナンの表情は、まるで小さな探偵坊やだったあの頃のままだ。そして自分はあの頃からずっと、この先もずっと、こうして彼のそばにいる。これ以上の特権が世界のどこにあるだろうか?
「ええ……行きましょう」
あいにく、先走る探偵小僧は彼女の幸せに満ちた表情を見逃してしまったようだ。
午後。簡素な扉が4つ並ぶアパートの共用部。その一番奥にあるドアの前で、快斗はインターホンを押してからしばらくうつむいたまま立っていた。
「……今はいねえか……」
中森警部から得た住所に部屋番号は含まれていなかったが、その程度のことは郵便受けを調べれば簡単にわかる。そのためには少しばかり泥棒じみた小技を使う必要があったが、(この程度の悪事なら神様も見逃してくれるよな)と快斗は心の中で両手を合わせていた。
「……ま、夕方までには戻ってくるよな」
今日は朝早くから別の用事を済ませてきただけに、移動距離はそれなりのものだ。昨日の金はトランプの購入費用と交通費だけでほぼ消えた。今日の街頭マジックで、短時間で1000円以上稼げたのは相当な幸運だった。それがなければまた空腹で死にそうになっていただろう。ともあれ今日はこれ以上カロリーを消費するわけにはいかなかった。水だけはトイレの蛇口から補給できるし、それを恥と思う感情はとっくに消え去っている。
快斗はアパートの目の前にある公園のベンチに腰を下ろし、己の脚の間の地面を見つめ続けた。
「で、残りの暗号の答えって?」
電車の隅で、角の壁にもたれかかりながら哀が尋ねる。あいにく日中でも車内はそこそこ混んでいて座席は空いていなかったが、プライベートな話をするにはこの位置の方がいいのは当然だ。他の乗客(というか男)から哀を隠すように立つコナンは、角度によってはキスしているようにも見える距離で彼女の目を見つめて声を潜めた。
「DK D10 - DQ D10。わざわざハイフンまでついてるんだから番地に決まってるが、数字をそのまま並べたら1310-1210。こんな長い番地は東江古田にはねえ。普通はどっちも2桁だ」
「でしょうね」
「これもシンプルに考えたほうがいい。Dの意味は確かにダイヤだが、ここでは別の意味で読み替える……。たとえばDouble、あるいはAddition。ちょっと強引だけど、あくまでトランプの暗号としての範囲に収めるなら許容範囲だろう。要するに2つの数字を足せってことさ。そうすれば答えは23-22。な、番地っぽいだろ?」
コナンは朗々と語りつつ、哀とは逆方向に一瞬チラリと視線を送って戻す。哀は彼のその仕草には気づかず疑問を挟む。
「丁目は?」
コナンはドヤ顔でポケットからカードを取り出すと、半歩動いて右側から哀を覆い隠すかのような位置取りになった。哀の視線は「なにやってるの?」と言いたげだったが、この行動は先ほどから彼女をチラチラと覗き見ているちょっと顔のいい男から恋人を隠すためのものである。そんな内心はまったく口に出さず同じペースで推理を続けるコナン。
「このトランプはクラブの2……。これ自体が暗号の一種さ。他の暗号と同じ書き方で表せば、ClubだからC2ってことになる。で、CはChoumeと読み替える。……答えは2丁目23-22。どうだ?」
「……ま、試してみる価値はありそうね」
楽しげな、でも少しからかうような笑みを浮かべる哀に、コナンは勝ち誇ったように口端を釣り上げる。
「まあ見てなって」
『次は~東江古田~東江古田~』
どれほどの時間、ベンチでうつむいていただろうか。いつしかウトウトと眠りに落ちていた快斗は、足元に転がってきたピンク色のボールに気づいて目を覚ました。
「ボールとってくださ~い」
舌っ足らずの可愛らしい声が聞こえた。思わず笑みをこぼした快斗は、両手でボールを掴んで立ち上がる。
「はい、どうぞ」
駆け寄ってきた幼い女の子にボールを手渡す。
「おにいちゃん、ありがとう」
にこにこと笑う、ツーサイドアップの女の子。すぐに後ろを向いて去っていく。少しウェーブがかった無造作な髪が、歩くたびぴょこぴょこと跳ねている――
「――ッ!!」
一瞬、心臓が止まるのではないかと思った。
あの笑い方、あの髪質――
快斗は膝を曲げたその姿勢から、顔を上げることさえできなかった。呆然と口を開き、下を向いたままただ止まっていた。手先が震える。まさか。まさか。
「結月、ちゃんとお礼言った?」
前方から声が聞こえる。あの声が。この世で一番聞きたかった、あの声が。
鼓膜ではなく心が震える。胸の奥から熱がこみ上げる。
「言ったよ~」
「じゃあそろそろおうち帰ろっか」
「え~、まだやだ」
「もうすぐ暗くなっちゃうでしょ」
つばを飲み込む。もう一度飲み込む。膝が震える。手に汗がにじむ。お前は何しにここまで来た? 何を恐れている?
歯を食いしばる。拳を握りしめる。
そして、立ち上がった。
思いきり、声を張り上げた。
「青子!!!」
ロングスカートの女性が、こちらを見た。
目と目が合う。大きな瞳が、もっと大きく見開かれる。
その瞬間、ふたりの時間が止まった。