「結月、しばらくあのブランコで遊んでて? ママはあのお兄さんとお話があるから」
「は~い」
娘が元気よく走ってブランコにたどり着いたのを見届け、青子は振り返った。震えるナイフのような視線とともに。
「……なにしに来たの?」
見知らぬ他人を追い返すときの方がはるかに温情があるだろうと思えるほどに冷たい口調。しかし快斗の視線はまだ、ブランコを漕ぐ結月の小さな背中に囚われている。
「あの子はもしかして……」
その先を口ごもる快斗に対し、青子が語気を爆発させる。
「そうだよ!!」
快斗を睨むその瞳にはかすかな水気がにじんでいた。青子は顔を逸らし、遠くの結月を見つめる。小さな肩もまた、かすかに震えているように見えた。
「ずっと、あたしひとりであの子を育ててきたの。快斗が突然いなくなったあの日から、ずっと」
「……そうか……」
「……快斗には、関係ない話だけどね」
「……」
気の利いた言葉などなにもない。
情けないという気持ち、申し訳ないという気持ち。だけど、それらに混じって確かな喜びが存在することを快斗は自覚していた。あの記憶が、遠くもやがかかっているように不確かだったあの記憶が、本物の事実だった。初めて神に捧げた祈り、それが叶った。この喜びに嘘はつけない。
――だからもう、絶対に手放すわけにはいかない。絶対に。
「……今さらどうして戻ってきたの」快斗に向き直る青子。「お金だけでも置きに来た?」
「……青子、聞いてくれ。オレに言い訳できることなんて何もねえ。青子をどれだけ苦しめてきたのかもわかってる。だけど……」
「だけど? だけどなに?」
震える視線が胸を締めつける。逃げ出したい気持ちが湧いてくる。だけど、彼はもう決めていた。
オレは今この場で、オレの本当の気持ちを伝えなきゃいけないんだと。
「あの子は……結月はオレがこの世に存在したことの、たったひとつの証なんだ」
青子が息を呑む。そしてすぐにまくしたてる。
「でもあの子は快斗の顔さえ知らないんだよ!?」
「だから、それを変えるために来たんだよ!」
「……!」
棘のような沈黙。
首を横に振り、ベンチに座り込む青子。下を向いたその瞳は力なく震えている。
「……今さら……遅いよ……」
「ああ、わかってる」
ひとつ、大きく息を吸う。
「あとひとつだけ、言わせてほしいんだ。今はすぐまた出発しなきゃならねえから……。オレにはどうしても片付けなきゃならないことがある。こんなことになっちまった原因を突き止めて、すべてを終わらさなきゃいけないんだ。だから……」
「だから?」
顔を上げ、快斗の目を見つめる青子。その目をまっすぐ見つめ返す。ただただまっすぐに。
「オレは必ず戻って来る。そのときは結月と3人で、家族一緒に暮らそう」
「……あたしがどうして、そんな言葉を信じられると思うの?」
射抜くような瞳。必要なのは説得ではないと、快斗にはもうわかっていた。必要なのは、ただ伝えることだと。
己の胸に手を当て、心の底から声を振り絞る。
「オレは今でも、今までもずっとお前を、中森青子を愛している。これからもずっと、ずっと」
そして胸の上で拳を握る。
「オレは確かにクソみてえな人間だけど……今回は嘘じゃないんだ。だから……最後にもう一度だけ、オレを信じてほしい」
「……そんな約束できない」
「……そうか……」
拳を降ろし、うつむく。一瞬の沈黙。そして。
「でも……」
「え?」
「1週間。最後のチャンスとして、1週間だけ待ってあげる」
「……ああ……!」
「もちろん、戻ってきたからってなにも約束はできないわ。それが嫌なら、永遠に来ないで」
「……わかった」
青子が立ち上がる。最後にほんの一瞬、快斗に瞳を向ける。どんなイリュージョンよりも儚い笑みとともに。
「じゃあね」
結月を迎えに行く青子。娘の手を取り、ふたり並んで歩いてゆく。スキップを踏む結月。微笑み、温かな目で我が子を見つめる青子。彼女が快斗を振り返ることはなかった。快斗はふたりの背中を、それが見えなくなるまでずっと、そして見えなくなってもなおその残照を見つめ続けた。
快斗がようやくベンチに戻り腰を下ろした時、西の空は少しずつ朱に染まろうとしていた。
(……まずは探さねえといけねえ。"奴"を……)
昨日路地裏で吐瀉物を撒き散らした時に比べれば、記憶はずいぶん戻りつつあった。昨夜路上で眠るころには、自分が自分ではなく何者かの操り人形となっていたことも思い出せていた。そしてあの美術館で、
だが、致命的に情報が足りない。いったい誰が自分を操っていたのか、どういうきっかけで何が起きてそんなことになったのか、決定的なことは何ひとつわからないままだ。
記憶に残る唯一の手がかりは、"奴"のコードネーム……"コレクター"。
コレクター。その名が脳裏に浮かんだ瞬間、言いしれぬ怒りと後悔がふつふつと燃えたぎる。
そいつが何者なのか、どこで何をしているのかまったくわからない。雲を掴むような話だ。だが必ず突き止め、報いを受けさせてみせる。たとえ何を犠牲にしようとも――
「ったく、いつまでぼけ~っとしてんだよオメーは」
「!!!」
心臓が飛び出さんばかりに驚き、後ろを向く快斗。公園の隅に2本の木。その片方の背後から誰かが姿を現す。両手をポケットに突っ込んだ、クソ生意気な立ち姿。度の入っていないインチキ眼鏡……。
「いつ声を掛けたらいいのかまじで迷ったぜ」
「探偵……!」
コナンが快斗を見据える。彼の後ろからもう一人、ひょっこりと顔を出す赤みがかった茶髪の女性。
「あら、いつでもよかったんじゃない? 彼のために待っててあげたんでしょ?」
からかう笑みをコナンに向ける哀。「うっせーよ」と言い返すコナンだが、彼女に対してはあまり強気に出れないらしい。
「おめー、ひとりでどうにかする当てなんざあるのか?」
「……お前には関係ねえよ」
腕を組んで木に背中を預けるコナン。背丈は変わらないくせに快斗を見下すような視線で。
「だったらなんであんな暗号を残した? ぴーぴー泣いて助けを求めてんじゃね―のか?」
「……! 来たのがお前でがっかりしたっつってんだよ……! オレはお前が嫌いだからな」
「奇遇だな、オレもお前が嫌いだよ。……けどな、人を洗脳していいように利用するような外道はもっと許せねえ」
「……」
「お前が本気でオレはいらねえってなら、オレは降りる。せいぜい一人で野垂れ死んでまたあの子を悲しませときゃいいさ」
快斗の肩が震える。目を逸らし、うつむく。
「……違う」
「違う?」
拳が震える。瞳が震える。自分が言うべきことはわかっている。ただちっぽけな安いプライドだけがそれを邪魔しているということも。
「……こんな減らず口が叩きたかったわけじゃねえ……オレは……」
「……キッド」
「……オレひとりじゃあどうにもできそうにねえ……。オレにはお前の……お前の力が必要なんだ……!」
涙をこらえる。そして顔を上げる。クソ生意気な探偵を、まっすぐに見据える。
「だから……お前の手を貸してくれ……!」
「……へっ、素直じゃねえヤローだぜ」
口端を釣り上げるコナン。
「ほんと、誰かさんにそっくり」と、彼の隣であきれ顔を浮かべる哀に「オイ」とツッコミ返すコナン。それから改めて快斗に向き合う。
「同盟成立ってことでいいか?」
探偵が笑う。
「ああ」
怪盗がうなずく。
反撃のときが来た。
第2章【漂流編】はここまでです。同時に、本作の折り返し地点でもあります。
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