雨上がりのアスファルトからは、夜の湿った匂いが立ち上っていた。近くを流れる川は多少増水しているようで、水の流れる音が耳に届く。とはいえ予報によればもう雨の心配はないらしい。
闇夜の中で双眼鏡に映るは、高い塀に囲われた和風家屋。人によってはそこを豪邸と呼ぶし、人によってはお屋敷と呼ぶ。そして人によっては"金の亡者の悪趣味小屋"と呼ぶ。要するにそういう建物だ。閉ざされた正門の前にはスーツ姿の大男。
路肩に停車した車の後部座席、開いた窓の内側で双眼鏡を外したコナンは、あきれたような顔で眉をひそめた。
「こんな夜中にゴツい門番? おまけに金ピカの錠がかかった正門? 善良な一般市民の振りぐらいしろよな」
「金さえあれば世間の目なんざ気にならねえってことだろ」
すると冷たい夜風が吹き込み、コナンは身を震わせる。
「……にしても冷えるなあ今日は。あーあ、
村雲邸で彼らを歓待してくれた、美人メイドの絶品紅茶を思い出して締まりのない笑みを浮かべるコナン。すると哀がジト目で彼氏を睨みつける。
「はい!?」
「いや、その、やっぱりオメーが淹れてくれた紅茶が一番だな! アハハ……」
「アホくさ……」
犬も食わない痴話喧嘩に、目玉を上に転がした快斗に対し、哀が気を取り直して顔を向けた。
「……で、どう思う? ここの家主の天沼って人が"コレクター"だと思う?」
ぼんやりと灯りに照らされている遠くの正門をまっすぐにらむ快斗。
「可能性は大いにあるだろ。大金持ちのクソ野郎かつ美術品マニア……財力と動機は確かにある。ま、会ってみりゃわかるさ」
コナンと快斗。ふたりは視線を交え、同じように口端を釣り上げて不敵に微笑み、同時にうなずいた。
正門前にどっしりと立つ大男。スーツ越しにも胸や肩の盛り上がりがありありとわかる。剃り上げた坊主頭、襟元からわずかに覗くタトゥー。およそ街を歩いているだけで周囲の人々が避けて通るタイプの男だ。
男はふとした瞬間、首にちくりとした感覚を感じた。季節外れの蚊だろうか? 不思議に思った男がその箇所に手を伸ばしたころには、視界がぐにゃりと歪み平衡感覚は消え去っていた。
その場にまっすぐ崩れ落ちた頭がアスファルトに衝突する直前、彼の襟を快斗が掴む。
「……その武器、普通にあぶねーよな」
冷や汗を垂らしてジト目で探偵の手首をにらむ快斗。ちょうどコナンはそのご自慢の腕時計に次の麻酔針を装填しているところだった。
「ああ。言っとくが灰原に変なことしやがったらこんな優しいやり方は選ばねーからな?」
「何もしねーっつーの……」
快斗の返事を無視して正門の金ピカ錠を覗き込むコナン。単に派手というだけでなく、そこらの鍵よりも数段堅牢な特注品であることがひと目でわかる。並の空き巣ではこの錠をピッキングするのは困難だろう。
「これ、開けられそうか?」快斗を見やるコナン。
「誰に向かって聞いてんだよ?」
にんまりと口を釣り上げ、両手を胸の前に掲げる。握られた両拳、その指の隙間から覗く、何本ものなんだかよくわからない金属ツール。それらのツールに負けないほどに、彼の歯も白く輝いていた。
天沼権一郎は、広々とした和室で大きないびきを立てていた。20畳を優に越える大部屋の中央にたった一組の布団、壁に掛けられた年代物の掛け軸と
老いた顔に立派なあごひげを蓄えた天沼の安らかな寝顔はしかし、首筋に走る金属的な冷たい感触によって突然に破られた。
「!!!」
天沼が目を覚ましたとき、目の前には顔を覆面で覆ったふたりの男。目玉と口元以外はすべて隠れている。ひとりは左手で天沼の口を塞ぎ、右手で首筋に冷たいものを当てている。
「頸動脈が惜しいなら騒ぐなよ?」
低くささやく覆面男。天沼は目を見開いて冷や汗を垂れ落としながら必死にうなずく。
「お前は"コレクター"か?」
震えているのか自分の意思かわからないぐらいに細かく首を横に振る天沼。怯えきった目、蒼白の顔色。枯れ枝のような指先もまた震えている。あるいは小便ぐらいは漏らしているかもしれない。
「……どう見てもこいつは違うだろ?」
一歩離れた位置にいるもうひとりの覆面男がつぶやく。天沼を脅している方の男は「ちっ」と舌打ちして肩を落とした。
「質問を変えるぜ。お前はコレクターについて何を知っている? 6年前、怪盗キッドがここに来た時に何があった? 全部話せ」
またしても首を横に振る天沼。だが覆面男の眼球は血眼となって間近に迫る。
「何も知らねえはずがねえ。いいから全部話すんだよ」
口を抑える手に力がこもる。首筋に押し当てられた金属感がさらに押し込まれ、皮膚を鋭く圧迫する。ガタガタと激しく震えだす天沼。
「おい、やりすぎだ」
「……」
後ろからコナンに肩を掴まれ、右手に握るピッキングツール――もちろん刃物ではない――を手放した快斗。すると今度は両手で寝間着の襟首を掴み持ち上げる。痩せぎすの老人が軽々と宙に浮き、苦しげに脚をばたつかせた。快斗の前腕には血管が浮かび上がっている。
「最後のチャンスだ、コレクターについて知っていることを話せっっ!」
「おいっ」
快斗はコナンを一瞥さえしない。覆面越しにもその目が血走っていることがありありとわかる。
「……し、知らん、ワシは何も知らんっ! ワシは奴の顔さえ見てないんだっ」
直後、快斗は手を離して老人を畳に落とした。
尻の痛みに顔を歪めた天沼だが、そんなことよりも自分を見下ろす覆面男の殺気の方が何倍も重大だ。
「
観念したとばかりにうなだれる天沼。
「……若いの、悪いことは言わん。命が惜しいなら奴に手を出そうと思うな。奴は裏社会の
「お前とはどういう関係なんだ?」
「別に関係などない。いつぞや、キッドの予告状が来たときに闇ルートを伝って手助けを求めただけだ。もちろん法外な報酬と引き替えにな……」
「……なるほどな」
大きく息を吐く快斗。その直後、足元のピッキングツールを掴み天沼の目玉に突きつける。
「じゃあコレクターにたどり着く方法を言えっ」
「だからそういう聞き方はやめろって!」
「どう聞かれてもこれ以上話してたまるかっ! 奴の情報を漏らして死にたくなどないわっ」
「……っ」
歯ぎしりする快斗。このままではらちが明かない。次の行動を取れないまま固まっていた快斗を脇に押しのけたのはコナンだった。
「……じいさん、あんたろくな生き方してこなかったんだろ? 誰も信用せず誰からも信用されず、こんな立派なお屋敷に独り暮らし。資産がいくら増えても心は満たされなかったはずだ」
「……フン、若造が知ったふうな口を」
顔を背ける天沼。コナンは構わず言葉を続ける。
「これはあんたが善行を積むチャンスなんだ。単に知ってることを少し話すだけで、理不尽に引き裂かれちまった家族を救える。もちろんオレ達は情報源をバラしたりはしねえ。少なくとも、警備を4人も無力化してこの部屋まで簡単にたどり着けたオレ達の手腕は信用してもらっていい」
無言でコナンの横顔を見下ろす快斗。天沼もまた同様に押し黙っている。
「なあに、ちょっと独り言をつぶやいてもらうだけでいいんだ。そしたらオレ達はすぐに出ていくからさ」
「……フンッ、それが説得のつもりか? ……まあいいわ。お前らが奴に手を出して殺されるぶんにはワシは困らん」
「恩に着るぜ」
「一度しか言わんぞ。奴は……」
ズシュッ。
鈍さと鋭さが同居した不可解な音。
一瞬、脳が理解を拒む。天沼は一度だけ大きくビクリと震え、後方にゆっくりと倒れ伏す。寝間着の下、痩せぎすの胸に小さな穴ひとつ。そこから一筋の出血。
「……!!!」
全身が総毛立つ。即座に後ろを向くコナン。
障子、穴。
「キッド、伏せろっ!!!」
叫ぶと同時に胸を地に這わし、快斗の腰を蹴り押す。
直後、先ほどと同じ音。天沼の体がもう一度だけビクリと跳ね――永遠に動かなくなった。
「まさか……!」
快斗の目が驚愕に見開かれる。覆面を脱ぎ捨てたコナンが叫ぶ。
「次はオレ達だぞっ!!!」