月下の帰還者〈リターナー〉   作:ヘイドラ

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14 月下の傀儡

 天沼邸。

 孤独で悪辣な金持ちにふさわしく、その屋敷の警備は大いに厳重だった――が、天下の怪盗キッドにとってはちょっと広いだけのそこらの住宅と何ら変わることはない。つまるところ、キッドは目当てのバロックパールのある部屋まで難なく辿り着くことができた。

 それは彼が心に決めた"最後の仕事"としてはあまりに普通の、あっけないほど単純な作業だった。手持ちのバッグに真珠を入れ、音もなく外に出る。そして庭先でおなじみの(グライダー)を広げる。

 ふと、持ち手をそっと撫でる。

 

(長いこと世話になったな、相棒)

 

 ただの道具といえばそうかもしれないが、このグライダーはキッドにとって数え切れないほどの修羅場をともにくぐり抜けた相棒そのものだ。彼とも、別れのときが近づいている。

 

(いよいよ、これで終わりだ)

 

 一瞬だけ目をつむり、そして開く。

 足元が土から離れ、体が浮かび上がる。

 夜空に輝く月に向けて、月下の奇術師が飛び立ったその直後――

 

 ブシュッ

 

 鈍い、空気の音――サイレンサー。

 鋭く強烈な痛みが肩をかすめ、弾丸がグライダーを貫く。制御を失い、川の土手にへと落ちていくキッド。

 静かな夜に突然響く、ひときわ大きな水音。川面(かわも)が激しくしぶきを上げ、水沫が一面に散り落ちる。

 キッドは顔の左側面が水に浸かったまま、全身を襲う激しい痛みに悶え苦しんだ。

 

(なにが起こった……!?)

 

 グライダーを外して両腕の支えでかろうじて身を起こし、何度もえずいて水を吐き出すキッド。朦朧とする意識の中で、何者かが背後から近づいてくる足音。闇夜の中で、その姿はぼやけている。

 やがて徐々に浮かび上がるシルエット。細身の体、その全身を覆う黒く機能的な衣服。右手には鈍く光る細長い物体――銃。顔のほとんどは黒いマスクに覆われ、その隙間から冷たい眼光がキッドを見下ろしている。

 近づいてくるのはそいつだけではなかった。そいつの後ろを歩く人間がもう一人。

 そのもう一人は、ずいぶん場違いに見えた。歩行によってたなびくゆるやかな衣服は明らかに女性ものだ。闇夜の中でなお、その人相がうっすらとうかがえた。白髪交じりの長髪と、細面に刻まれた深いしわは間違いなく年齢の証。

 年老いた、女。

 年齢を感じさせないその堂々とした立ち姿には奇妙な威厳がある。

 

「やっと会えて嬉しいわ、怪盗キッド。どんな名画にも勝る、もっとも美しき才能」

 

 手前にいる狙撃手ではなく、後ろの老婦人が口を開いた。静かな、しかし歓喜に満ちた声色で。

 

「私は"コレクター"。あなたのような至高の才能をコレクションに加える日をどれほど待ちわびたことか」

「ふざけろ……!」

 

 力の入らぬ脚で立ち上がろうとするキッド。だが老婦人はいささかも動じることなく、手に持っていた何かをキッドの前に掲げた。

 タブレット。

 画面に光がつく。

 瞬間、心臓が凍った。

 

「青子……!」

 

 動画。動いている。まさか。

 

「わかるでしょう? ライブ映像よ」

 

 老婦人が薄く笑う。

 画面の中の青子はひとりで夜道を歩いている。場所はすぐにわかった。彼女の自宅のすぐ近所だ。今夜彼女は友人たちと食事に行くと言っていた。少し帰りが遅くなったが、無事帰路についている――そういうことだろう。

 だが、何も知らずただ歩道を歩いている青子の額には、赤い点が光っていた。無慈悲で、残酷な光点。その意味するところはたったひとつしかない。

 照準器(レーザーサイト)

 一度は立ち上がったキッドは膝から崩れ落ち、川面に小さなしぶきを上げた。

 

「やめろ……! やめてくれ……!」

 

 その声はどうしようもないほどに震えている。

 老婦人が薄く微笑んだ。狙撃手はただ沈黙を守っている。

 静かな夜に、再び静寂が戻った。

 

 


 

 

 最後の角を曲がると自宅の明かりが見え、青子は表情をほころばせた。大人になってもやはり夜道で独り歩きは少しだけ不安がある。早く快斗と一緒に暮らしたい。

 そんな思いをますます強くした青子の手元で、携帯電話がバイブを鳴らす。相手の名前が表示され、ひとりでに笑顔が咲く。歩道の隅に立ち止まって大喜びで着信ボタンを押す青子。

 

「快斗? あたしはもうすぐ家だよ。今なにしてるの?」

『……青子』

「?」

 

 妙に重く、暗い声。青子が軽く眉間にしわを寄せると、快斗は言葉を続けた。

 

『……オレ達は、今日でお別れだ』

「……? もう、なに言ってるのよ快斗。そんな冗談笑えないよ」

『冗談なんかじゃねえ。オレはもう嫌になったのさ。お前の脳天気なバカさ加減も、キンキンとうるせえ声も全部……』

「ちょっと快斗!? なんの罰ゲーム!? 全然面白くないんだけど!!」

 

 その直後、電話口の声が刃と化した。

 

『だから言ってるだろ!! オレ達はもう終わりなんだよ!!』

「かい……と……?」

 

 わからない。彼がなにを言っているのか、まるでわからない。

 

『全部言ってやろうか? オレはガキなんか欲しくねえんだ! 自由が好きなんだよ、オレは! 何からも縛られたくねえのさ!』

「なん……なの……? どうしたの……わからない……わからないよ、快斗……」

 

 青子の目からは涙がこぼれ落ちていた。手が震え、声が震え、足先までもが震えている。

 

『……だからもう、お前は勝手に生きろ。オレには、もう関係ねえ話だ』

 

 青子はもう、何も言葉を返せなかった。ただ涙だけが。

 

『……今まで、楽しかったぜ。……じゃあな』

 

 プツリ。

 夜に、静けさが戻った。

 

 


 

 

 キッドはただ、河原にひざまずきうなだれていた。両腕は背中の後ろで狙撃手によって拘束され、首元には背後から刃物をあてがわれている。

 彼の口元に電話を掲げていた老婦人は、満足そうに静かな笑みを浮かべた。

 

「素晴らしい名演ね」

「……殺せ」

 

 顔を上げることなく、力なく吐き捨てるキッド。わずかな時間の間にその顔はやつれ果て、目は淀み、死人のように生気がない。

 しかし老婦人は上質な喜劇でも観ているかのように口元を手の甲で抑え、育ちのよい笑いをこぼした。

 

「ふふふっ! あなた、私の話を聞いていなかったのかしら? 私は、あなたの才能を所有したいのよ? 殺して何が楽しいの?」

「……誰が、お前なんかに……!」

「ええ、時間はかかるでしょうね。私の手にした"技術"は、未完成の段階で世に出たもの。一夜ですぐさま人間を書き換えるというわけにはいかない。……でも」

 

 老婦人がキッドの顔を撫で、まるでお気に入りのペットを慈しむように柔らかな笑みを浮かべる。あごに手を当て、わずかに持ち上げる。

 

「いつかあなたは心から私に忠誠を誓うようになる。そのときこそ、人生の本当の意味を知ることになるでしょう」

「……ざけんな……!」

「さあ、虚飾に満ちた人生の最後の月夜を目に焼き付けなさい。今夜を境に、あなたはもはやかつての不完全なあなたではない。私のもとで、あなたは完成形となる……」

 

 軽やかに振り向き、恋い焦がれる乙女のように月に手を伸ばし、恍惚と目を細める老婦人。

 

「我が愛しのコレクション。"作品番号1412、月下の傀儡(くぐつ)"」

 

 そして、キッドを見下ろす。

 

「それがあなたの、新しい名」

 

 慈愛に満ちた、同時に凍てつくように冷たい目で。

 

「さあ帰りましょう、あなたの新しい家に」

 

 薄く、笑う。

 

「……我が、村雲邸に」

 

 

 



 

 

 

 いまだ残る雨の匂い。

 天沼邸の塀に囲われた和風庭園、その岩陰でコナンは身を潜めていた。月明かりによってうっすらと照らされた庭園に、黒いマスクの狙撃手――あるいは暗殺者――が静かに足を踏み入れるさまをじっと観察する。うなる心臓を必死に落ち着かせ、汗のにじむ手のひらで口を抑えて息を潜める。あの強敵を前に物音ひとつでも迂闊に立てれば命が危うい。それは名探偵でなくともわかることだ。

 だが、コナンはただ隠れ続けるつもりはなかった。彼の足元には天沼邸より拝借した木彫りの像。丸い形状、大きさは握りこぶし2つぶん。この手の木材はかなり頑丈にできている。

 

(あと少し……もう少し近づけ……!)

 

 なにかが引っ掛かっていた。あの暗殺者のマスクからわずかに覗くふたつの目。あの鋭い瞳にどこか既視感(デジャブ)がある気がしてならなかった。

 自分はあの目を知っている。かつて戦った組織のような遠い過去ではなく、もっと最近のどこかで。

 いや、今はそんなことを考えている場合ではない――首を振るコナン。

 

 あと一歩。もう一歩。

 8メートル。

 ――射程。

 頭脳の指示よりも先に体が動き、岩陰の外に一歩踏み出して大きく脚を振りかぶる。木彫り像が唸りを上げ、狙撃手の頬に――直撃した!

 

(やったか!?)

 

 鈍く乾いた打撃音。

 半回転して地面に倒れ伏せる暗殺者。

 だが、彼は首を少しだけ振ってゆるやかに立ち上がる。大したダメージがあるようには伺えない。おそらくは、とっさの反応で顔を逸らして衝撃を受け流したのだ。

 

「……!!」

 

 明らかにまずい状況。まともに戦って勝てる相手ではない。すぐさま再び逃走しなければならない――

 それがわかっていてもなお、コナンはそこから動けなかった。信じられない光景がそこにあった。彼の体は硬直し、目が見開かれ呼吸が震え始めた。

 

(そんな……バカな……!)

 

 顔が見える。

 衝撃によってマスクが飛ばされ、素顔があらわになっていた。長髪が垂れ落ち、月光に照らされて光沢を帯びる。ゆっくりと立ち上がり、冷たい刃物のような目でコナンを見据える黒づくめの暗殺者。――知っている顔。

 切れ長の瞳、卵型の流麗な輪郭、陶磁の肌にすらりとした長身。あの美しいメイドと、なにもかもが瓜二つ――

 

桔梗(ききょう)さん……!?」

 

 バカな。ありえない。脳裏に溢れ出す否定の言葉。だがその現実がどれほど受け入れがたいとしても、真実は人の感情など気に留めない。

 桔梗は悠然と立ち、コナンを見下ろす。その手には直刃の短刀。その冷徹な瞳には一欠片ほどの感情もにじまない。生気なき美貌が月明かりに照らされ、刃のごとき瞳だけがじわりと光沢を帯びる。

 まるで、暗殺をプログラムされた機械。

 まるで、あの美術館を襲撃した"人形のキッド"、そのものだ。

 

「どうやら素顔を見せてくれたみてえだな。"コレクター"の人形さんよ」

「!!」

 

 唐突な声。屋敷の中から現れた快斗。右手になにか長い得物を握っている。桔梗を見据えるその表情には動揺も驚きもない。

 桔梗は横目で快斗の姿を捉え、しかしこちらもなんら動じていない。口を真一文字に結んだまま、直立不動で快斗をまなざす。ふたりの視線が交錯する。

 

「おかげで何もかもを思い出したぜ……。あんた、()()()()オレを撃ったヤツなんだろ?」

 

 沈黙。氷の眼光。

 快斗は言葉を続ける。

 

「6年前……この場所でオレの人生を奪った"コレクター"の正体は……」

 

 コナンの心臓が、狂ったように高鳴る。全身から汗がしたたり落ちる。

 

「……村雲小夜子」

 

 低く抑えられた快斗の声が、夜の静寂を切り裂く。

 

「それがあんたの御主人様の名だ……。そうだろ?」

 

 短刀がわずかに角度を変える。

 雲が月を隠し、闇が一段濃さを増した。

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