月夜の下、一軒の住宅。
ここはかつて、彼の家だった。
彼はここで育ち、ここで父の死の真相を知り、そして怪盗キッドとなった。
年月を経てこの家はいま赤の他人の手に渡っている。快斗がここに戻ってくる理由はなにもないはずだ。
だけど彼は帰ってきた。その胸に確かな決意を秘めて。
――ただし、真夜中に玄関のドアをノックしたのではなく、もう少し
(……戻ってきたんだな、オレ)
かつて快斗の自室だった部屋は物置になっていた。段ボール箱や季節外れの衣服が所狭しと並べられている。大きな窓――彼の侵入経路――から差し込む月明かりだけが唯一の光源。
その部屋に、なんの変哲もない一枚の白い壁がある。すべてが、始まった壁。
快斗はしばらくその壁をじっと見つめ、それから手を頭上に掲げ、壁のある一箇所を特定の強さと角度でそっと押し込んだ。この世でただひとり、彼だけが知る押し方で。
錆びついた感触。懐かしい感触。もう一度、強く押し込んだ。
ギイイ……
壁の一部が奥にへこみ、回転する。隠し扉。心臓が否応なしに高まる。ごくりとつばを飲み込んだ。
その先に待つのは完全なる暗闇。躊躇なく足を踏み出し、闇に溶け、手探りで壁のスイッチを押す。
白い光が灯り、隠し部屋が照らされた。一瞬くらんだ目を少しずつ開けていく――そこは、彼の知る景色のままだった。
窓もない狭苦しい空間に押し込められた、ガジェット、ガジェット、大道具、変装道具、本棚、そして壊れたテープレコーダー。壁に貼り付けられた、自分で書いたたくさんのメモ。
――この場所だけは、時が止まっていた。
ホコリまみれのガラクタのようなガジェットも、汚い手書き文字も何もかもすべて、怪盗キッドがこの世に存在したという確かな証。
木と機械油が混じったような匂い。この粗野な匂いまでもが懐かしい。
呼吸がひくつく。涙がこみ上げる。しばらくの間、快斗はただただその場に立ち尽くしていた。
そして一歩一歩、何かを確かめるようにゆっくりと足を進める。
部屋の奥。台の上に無造作に置かれた白いシルクハット、白いマントとスーツ。その後ろの壁にかけられた、父・黒羽盗一の肖像写真。
ハットを手に取る。その滑らかな感触には、いまだ父のぬくもりが残っている気さえした。
(帰ってきたぜ、父さん)
クールに笑い、シルクハットを深くかぶる。とことんキザに、とことんオレらしく。
ああそうだ。怪盗キッドに涙は似合わない。華麗な舞台で泣いていいのは感動した観客だけだ。「いつだってポーカーフェイスを忘れるな」それが父の教え。最初の教え。
肖像の父と目を合わせ、心の中でひときわ大きく声を張り上げた。
(怪盗キッド、最後の大仕事……見守っていてくれよ!)
そのとき、ふとキッドは気付いた。肖像の入った額縁の端から、別の白い紙がわずかにはみ出していることを。額縁を手に取り、横に向ける。奇妙な光景。額縁に薄い切れ込みが入っており、その切れ込みの中から紙が覗いている。
(昔からここにこの紙が隠されていた……ってことか?)
紙端をつまみ、引き抜く。硬い紙。裏返せば、それもまた写真だった。
思わず口元が緩む。快斗は目を細め、満足げにその写真を内ポケットに忍ばせた。
月夜の下、池のほとりの公園のベンチにて。
コナンは哀と並んで座り、彼女と肩が触れ合う距離でぼんやりと池を見つめていた。この静寂の中でかすかに聞こえるのは風に吹かれる葉音ぐらいだ。
ふと隣を見ると、哀の横顔は物憂げに沈んだままだった。
「さっきから元気なさそうだな、おめー」
「……ええ」
哀はうつむいたまま消え入りそうな声でつぶやく。
「あの怪盗キッドが……愛する人を守るために敵に降伏し、人生を奪われた。……幸せって、なんて儚いんでしょうね」
「……まるで
「……ええ、そうね。他人ごととは思えなくなってしまったわ」
静寂。
コナンの脳裏に、ほんの数ヶ月前の大事件のことが蘇る。
あのとき哀は、コナンや他の大切な人々を守るために自らを犠牲に捧げようとした。それを思えば、彼女がキッドの行動と自分のそれとを重ね合わせるのは当然なのかもしれない。言うなれば、キッドが歩まされた失意と絶望の人生こそが、あのとき彼女が選ぼうとした道の先にあったものなのだから。
「もしも私たちにまた、あんなことが起こったら……」
コナンは哀の肩を抱きしめ、頭を寄せる。
「たとえ何があっても」その声は静かで、なのにこのうえなく低く、重い。「オレは絶対におめーを置き去りにはしねえ」
哀が目線だけを彼に向ける。
「でも私はあなたを置き去ろうとした」
「過去形だろ」
「今でも時々怖くなるのよ。いつかはこの幸せが壊れてしまうときが来るんじゃないかって」
「その時は一緒さ。前にも言ったろ? 捕まるときも一緒だって」
「死ぬ時も?」
「死ぬ時も一緒さ」
恋人の髪をかきわけ、瞳を見つめ、そっと胸に抱き寄せる。「ありがとう」とかすかな声が聞こえた。
それからふたりは抱きしめ合い、そっと口付けた。互いの顔を撫で、髪を撫で、何度も何度も口付けた。恋人たちを月明かりが静かに照らしている。
幾度となく互いの名を呼び、声と手触りで存在を確かめ合う。想いを、誓いを、不変の真実と感じられるように。
背後から突然、「おーい、もういいか」と声が飛ぶまでそれは続いた。
とっさに振り返った先には、白いマントをたなびかせるシルクハットの男。月に照らされ、キザな立ち姿で風に吹かれる覗き見野郎――月下の奇術師。
「待たせたな。っつーかもしかして早すぎたか?」
余裕たっぷりのクソ生意気な笑みでコナンを見下ろす大怪盗。"ヤツ"が戻ってきた――コナンがそう確信するには充分すぎる尊大さ。
哀はほのかに顔を赤らめ目を逸らしている。
肩越しにキッドをにらむ名探偵が口の端を吊り上げる。
「6年も待たせといてよく言うぜ」
キッドが笑みを返す。キザったらしくハットのつばをつまみながら。
「時間は待ってはくれねえのさ、探偵。オレの失われた6年間だって、決してなかったことはできねえ。だが……今から人生を取り戻すことはできる」
つばを握る指先に力がこもる。表情は隠され、うかがい知ることはできない。
コナンは静かに、しかし有無を言わさぬ重さで口を開いた。
「ひとつだけ約束しろ、キッド。
銃口のごとき瞳が、わずかな揺らぎさえなくまっすぐにキッドを見据える。
「……下手なごまかしは逆効果だろうな」肩をすくめるキッド。
「ああ」
しばしの静寂。風にそよぐ葉の音だけが闇夜に響く。
「だったらお前も約束しろ。もしもオレが自分を制御できなくなったら……手段は問わねえ、オレを止めろ。この条件が飲めるってんなら連れていってやるさ」
親指で悠々と自分を指差すキッド。
"頼みごと"の切実さと、その尊大な言い草とのあまりのギャップに、コナンは思わず苦笑してしまう。
「あいっかわらずクソ生意気なヤローだぜ……」
「ほんと、誰かさんにそっくり」
池の方を向いたままの哀が頬杖をついて口を挟む。
「オイ」
ジト目で恋人をにらむコナンだが、楽しそうに微笑む哀はどこ吹く風だ。
コナンはやれやれとばかりに立ち上がってキッドと目を合わせる。
瓜二つのふたつの顔が、同時にうなずいた。
「始めるぜ」
「ああ」
風がひときわ強く吹き、そしてぴたりと止まった。