17 深淵を覗き込む
深夜の山中に佇む村雲邸、その正門から少し離れた道路脇で3人の若者が息を潜めている。時刻は朝に近づき始めていたが、夜長の初冬だけあって周囲はほぼ漆黒の闇。その中で正門まわりだけが橙色の明かりで浮かび上がっている。
「見張りはいねーみてーだな」
乗ってきた車は彼らの数十メートル後方に置いてある。コナン、哀、そしてキッドは、車を降りて徒歩で正門に近づき息を潜めていた。運転と仮眠をローテーションで回し、最短時間でこの地にたどり着いた彼らの表情にはいくぶん疲労の色が浮かんでいる。
彼らに行動を急がせた理由は桔梗の存在だった。全速走行中の車から麻酔銃を撃たれ落下。常人であればご先祖様と対面できそうな状況だったが、コナンの見方は違った。「ほぼ間違いなくあの人は生きている。でもさすがにしばらくは眠ったままのはずだ」そう言って腕時計を撫でるコナン。「今ならコレクターの守りは薄いし、もしかしたら
本音では探偵団を集めてベストチームを組みたいところだが、それをやるならここに来れるのは昼過ぎになってしまう。時間の価値には変えられないと一同は一致した。こうしてコナンは光彦に『捜査が進展してる、あとで詳しく話す』とだけメールを送り、ただちに行動を開始することにしたのだ。
「……だけど、ずっと引っかかってることがあるんだけど」
コナンの背後で哀がささやく。
「小夜子さんが"コレクター"なら、つまりあの人がキッドを操っていたなら、どうしてキッドからの警備なんておかしな依頼を私たちに?」
「そいつが一番の疑問なんだ。仮説ぐらいならなくもねーが……」とコナン。
「クソ野郎の頭の中なんざ気にしたって仕方ねーよ。本人に吐かせりゃ済む話だ」
哀をにらむキッドをコナンがにらむ。
「だ、か、ら、大切なのは復讐じゃなくて真相究明と証拠の確保だっつってんだよ」
「ちっ。わーってるっつーの」
コナンとは目を合わせず舌打ちするキッド。その視線が正門の周囲を見渡す。
「時代がかったお屋敷にしちゃあずいぶんとハイテクな警備だな」
「やっぱそうか……」
先日コナンがここを訪れた時も、当然カメラやセンサーの充実ぶりには気づいていた。当時は金持ちゆえの苦労のひとつという程度の感想しか持たなかったが。
「どうやって中に入る?」とコナン。
キッドは鼻で笑って顎で門を指す。その重厚ながら古びた鉄柵門の高さは3メートルに満たない。
「入ること自体は猿でもできる。要は見つからなきゃいいんだろ?」
音もなく動き出したキッドは門の縁に足をかけ、するすると登っていく。そして門の上にあるカメラに一瞬触れて何か簡単な作業をしたと思ったら、次の瞬間には門の向こうに降りていた。
そして鉄枠越しにコナンに目を向けて親指を立て、「さっさと来い」というジャスチャー。
「センサーは?」と小声を張り上げるコナンだが、キッドは「もう解除した」の一言のみ。退屈ささえうかがえる表情だ。
「まじかよ……」
「怪盗キッドが味方にいるとどこにでも忍び込めちゃうのね」
隣でつぶやいた哀に対し、コナンは横目を向けた。
「それはいいけどよ、灰原。おめーには車で待機しといてほしいんだけど……」
「イ・ヤ・よ。さっきのお屋敷よりももっと危険な場所なんでしょ? あなたひとりで行かせるなんてまっぴらごめんよ」
「……無茶はすんなよ」
「それはお互い様」
まずはコナンが哀の体を支えて先に登らせ、次は哀が上から手を伸ばして彼を引き上げる。キッドほど華麗ではないにしろ、ふたりは息の合った連携で無事に門を越えた。しかし彼らが揃って敷地内に足を踏み入れる頃には、キッドは既に先に進んでほとんど姿を消しかけていた。
「おいキッド、先走るなよ!」
急いで追いかけるコナンだが、キッドの早足は止まらない。
「オレは急いでんだよ! オレが本気で反逆してるとバレたら青子の身が危ねーんだ、グズグズできるわけがねえだろ」
「だからってひとりで行動するのは違うだろ」
「おめーらは証拠を探すんだろ? オレは黒幕を締め上げる。分担すりゃあいい話じゃねえか」
「そういう作戦じゃねえだろって……あっ、おい!」
白いマントが闇に溶けゆくかのように、キッドの気配が消えた。木々が生い茂るこの広大な敷地で、一度見失った怪盗に追いつける可能性はゼロだ。
「あんにゃろ~……」
「どうしようもないわ。今は私達にできることをしましょう」
「ああ……。しくじるなよ、バカ野郎……」
コナンと哀は携帯ライトを片手に、息を潜めて庭園を忍び歩いていた。
キッドの記憶によれば、彼はずっと窓もない牢獄に捕らえられ、時おり洗脳処置を受けるためだけに別の部屋に移動させられていたという。しかし当時のキッドの記憶は洗脳処置の影響でぐちゃぐちゃになっており、情報はあまりにも欠落していた。
だけどひとつ、決して聴き逃がせない言葉があった。
『おめーらとぶつかったあのギャラリー……あそこに
『あの別邸に捕まってたってことか!?』
『そこまではっきりしたことは言えねえよ。もしかしたら……ぐらいだ』
その会話を思い出し、あごに指を置くコナン。彼の視線の先には無骨なコンクリート造の別邸がたたずむ。数日前、探偵団がキッドと激突し敗れた場所。そしてコナンの最後っ屁のような一撃がキッドの洗脳を揺さぶった場所。
言うまでもなく、小夜子が探偵団に対し、キッドから所蔵品を守ってほしいと依頼したそのギャラリーでもある。
この場所にキッドを閉じ込めていた牢獄があるとしたら、まさに最悪の冗談だ。
「あの建物にそんなスペースがあるようには見えないけど」と哀。
「ああ……オレ達は内部をくまなく歩いたから確実に言える。あの別邸に御大層な隠し部屋なんかを仕込む隙間はねえ。……地上には、な」
「となると考えられるのは……」
「ああ」
コナンはうなずき、正面の入口にへと接近する。
入口は当然ガラスウォールによって閉ざされており――いや、違う。
「これって、元太とキッドに感謝しとかなきゃってことになるのか?」
「そうみたいね」
あの夜、この入口の前で元太が門番として仁王立ち、そこに現れたキッドが空から体当たりをぶちかました。その結果がこの砕けたガラスゲートだ。床に散った破片までもがそのときのまま。
「うな重おごるぜ、団長……」
コナンは口端を釣り上げ、周囲に警戒しながら慎重に建物内部にへと足を進めていった。
玄関ロビーを探索したコナンだが、隠し扉の類はない。見切りをつけて奥の廊下にへと進む。
小さな携帯ライトだけで照らされた深夜の通路。脇におどろおどろしい彫刻が飾ってあるのがこのうえなく不気味に映る。
慎重な足取り。
トッ、トッという足音が狭小な通路に反響する。この音だけでもホラー映画をもり立てられるだけの風格がある。
――その道中、突然コナンの足が止まった。
「どうしたの?」
「……今のは……なんだ?」
「今のって?」
コナンがきびすを返す。足元に目を向け、一歩一歩確かめるように――わざと足音を立てるように――強く踏み込む。
ある場所で、音がほんのわずかに低く長くなった。それは常人であれば決して気づかないような、あまりにもかすかな音程の変化。絶対音感を持つコナンだからこそ気づけた違和。
「ここだ……!」
その場に膝をつく。手探りで床を探る。見た目では決して気づかないであろう巧妙な継ぎ目。その中央を強く押し込むと、内側に指が滑り込む。「持ち手」だ。
ギイイ……
踏ん張って思いきり力を込めると、かなり重量のある床板がゆっくりと持ち上がる。足元に広がる、暗闇よりも一層深い闇。冷たく湿った不気味な空気。
「ビンゴだな」
「ええ」
深淵を覗き込み、同時にうなずくふたり。冷静な表情とは裏腹に、コナンはごくりとつばを飲んだ。
地下牢。
階段の下に待ち受けていたものは、他に形容しようもない陰鬱な空間だった。無機質なコンクリートが剥き出しの天井、鼻につく匂い。真っ暗闇の中でライトを前方に照らす。隘路の両脇にずらりと並ぶ、錆びついた鉄格子つきの独房。
ひとつひとつ確認しても、どの独房にも住人はいなかった。あるのはただ空のベッドと古びた便器だけ。なにもかもが古く、陰気で、ひとかけらの生気もない。念のため確かめると、当然のように携帯電話の電波はまったく入っていなかった。
「独裁政権の収容所かよ」
コナンが顔を歪める。哀はよりいっそう悲痛な表情を浮かべていた。
「こんな場所に6年間も……」
通路の奥、行き止まりに鉄の扉がたたずむ。ドアノブを回す。鍵はかかっていない。錆びついた、重い扉。
鬼が出るか、蛇が出るか。否応なしにコナンの手に汗がにじむ。
「ここは……?」
拍子抜けするほど静かな、もぬけの殻。
その部屋には薄暗い明かりが灯っていた。古臭い蛍光灯の電球色。奥の壁一面に無数の引き出しが備え付けられ、それぞれに小さな文字や記号が記されている。
部屋の中央には一見歯医者にでもあるような可動式のチェア。ただしずっと物々しい。アームレストには拘束のための厳重な手枷。その椅子の周囲にはいくつものモニターと電子機器。テーブルには頭部に被せるためであろうヘルメットのような器具もあり、そこからケーブルが電子機器に繋がっている。
「ここが
腐ったネズミを口の中に突っ込まれたような表情で声を絞り出すコナン。
この地獄のような地下で、6年もキッドは。
「……いくらなんでも、あんまりだわ……」
手で口を押さえ、悲痛に首を振る哀。
コナンはうつむき、大きく息を吸って顔を上げた。
「……警察が動くきっかけには充分だろうよ。捜査が始まればもっとやべえ証拠が山ほど出てくる。それで終わりだ」
「……そうね」
「まずは写真だな」
スマホを取り出そうとポケットに手を入れたコナン。
ふと横の壁際に目をやると、そこで何かが白い布に覆われているのが目に留まる。布の膨らみからしていくつかの物が並べて置かれており、それらをまとめて覆っているようだ。
部屋の古めかしさと比べると、その布は妙に真新しい。おそらくはつい最近持ち込まれたもの。
(あの布の下に何が……? 待てよ、小夜子さんがキッドを操っていたということは、キッドが盗んだものの行き先って……!)
コナンが息を呑んだ次の瞬間、背後にかすかな物音。背筋に寒気が走り、即座に振り返る。
入口の扉、ギシリ。重く開く。
「……!!!」
気づいたときには、もう手遅れだった。招かれざるもうひとりの来客がこの部屋に足を踏み入れた。
またしても、知っている顔。
「桔梗さん……!」「まさか……!」
相も変わらぬ無表情と氷の美貌。ただしここでの彼女は暗殺者としての黒衣ではなく、清廉な白黒のメイド服に身を包んでいる。初めて出会ったときと同じ、
あの時との唯一の違いは、左の頬に残ったすり傷の跡のみ。
桔梗はごく普通のメイドのように腰の前で両手を重ね、貞淑に頭を下げた。
「江戸川コナン様。灰原哀様。あなた方がここにいらっしゃるのを、お待ち申しておりました」
村雲邸、その本館。豪華な洋館を絵に描いたような美しい内装。壁には絵画、天井には多種多様なシャンデリア。
廊下に敷かれたカーペットの上を、キッドは足音を消そうともせずまっすぐに歩いていた。廊下の先、扉から明かりが漏れている。ノックも警戒もせず、キッドはそのドアを無造作に開けた。
ダイニング。
色とりどりの調度品、壁に吊るされた調理器具、高級レストランを思わせるワインクーラー。窓に見える景色はまだ黒一色だが、広々としたその室内は明るく照らされていた。
10人は掛けられるだろうダイニングテーブルには、ワイングラスと大ぶりの白い皿がふたり分。
そのテーブルの対岸で、上等なナイトドレスに身を包んだ一人の老婦人が、穏やかな笑みをたずさえグラスに赤ワインを注いでいる。
「
ぴくり、キッドの指が動く。
目の前の支配者によって、あのとき付けられた忌み名。己が本当の名前を塗りつぶした地獄の刻印。その忌々しさに、重い汗が垂れ落ちる。
老婦人は――小夜子は、キッドに向けてワイングラスを差し出した。ゆったりと、余裕の笑みで。
「あなたもどう? 極上のヴィンテージよ」
「……敵の出す酒を飲むと思うか?」
「あら、もったいない」
小夜子はグラスを引っ込めると自分の顔前で傾け、ゆるりと回してその香りを味わう。優雅に上品に、そして満足げに目を細めた。
「このボトルは最高の当たり年なの。芳醇で繊細で香り高くて。だけど、ものの値打ちがわからない人間にとってはどんな素晴らしいワインも安物と変わらない。至高のワインはそれにふさわしい飲み手のもとにあってこそ輝くもの」
そして一口。舌の上で転がし、喉にすっと落とし、穏やかに微笑む。
「人間も同じよ。どんな素晴らしい才能も、その価値を分からない人間に囲まれては腐らせてしまう。まるで納屋に打ち捨てられたワインのように」
「……言いたいことはそれだけか?」
刃物のように鋭利な声。しかし小夜子はなんら動じない。マニキュアの塗られた人差し指を立て、チャーミングに前に振る。
「いいえ、たくさんあるわ。あなたも知りたいことがいくらでもあるでしょう? 一緒にモーニング・グラスを楽しむのはどうかしら」
グラス片手に木造りの椅子を引き、席につく小夜子。少女のように頬杖をついて微笑む。その瞳はキッドをしかと捉えている。
「やりたいことはそれからでも遅くないわ」
「……オレが来るとわかっていたうえで、正門のセキュリティを切ったのか?」
その言葉のとおり、キッドは正門のセキュリティを解除などしなかった。それは
その無防備さを侮辱と受け取ったキッドは、一切の躊躇なくまっすぐこの部屋へと突き進んだ。
「ええ、あなたの
穏やかな笑み。家主として客人を歓待する態度以外のなにものでもない。
「……」
キッドは拳を握りしめ、改めて冷静を肝に銘じ周囲を観察した。
一対一。この屋敷に見張りの気配はまるでない。
この世で最も憎い敵の言葉に従うのか? いや違う。この場の主導権はオレにある。ただ情報を引き出すために茶番に付き合ってやるだけのことだ。
――他に従う理由など、あるはずもない。
「あんたの命はオレが握っている」
「あら、怖いわね」
キッドは自ら椅子を引き、小夜子の正面に腰を下ろした。仇敵の目を見据える。身を乗り出し、重い声でささやく。
「すべて話せ。くだらねえ嘘をついていると判断すれば、すぐに終わらせる」
小夜子は首を動かさず、ただうっすらと微笑んだ。