控えめなお辞儀から頭を上げた桔梗は、淡々とコナンに目を向けている。淀みのない動作、すっと伸びた姿勢。本当に単なる腕利きのメイドとしか思えないような洗練されたたたずまい。
しかしコナンの背筋にはいくつもの冷や汗が流れている。
「麻酔は……!?」
「あれだけの痛みを受けて、すやすやと眠れるはずもありません」
淡々とした答え。言っていること自体は正論だ。麻酔を打たれ、疾走中の車から落下して地面に落ち、痛みで目が覚めた。代償として横顔には多少の怪我を負った。筋は通っている――理屈上は。
だからといって、あれからほんの数時間後にまた目の前に現れるとは。
一度は脳裏に浮かび、ありえないと切って捨てた最悪のケースが、今まさに現実のものとなっていた。
「……オレたちを、殺すつもりですか」
「いいえ」
即答。桔梗がふたたび頭を下げる。
「天沼邸での無礼をお詫びいたします。
「試験……?」
「元よりすべては試験だったのです。あなた方探偵団にキッドからの警備を依頼したのも、あなた方の力と才能を計るため」
「!!!」
コナンと哀、ふたりの目が見開かれる。
「小夜子様の答えをそのままお伝えします――"合格"だと。特に江戸川コナン様。小夜子様はあなた様の天賦の才に大変興味をお持ちです」
「……っくっ……!」
拳を震わせるコナン。しかし彼はぐっと息を吸い、大きく首を横に振って改めて目の前のメイドに向き直る。
「桔梗さん、あなたは知っているはずだ。キッドがいかに小夜子さんに洗脳され、支配されたのか……」
声を張り上げるコナン。
「あなたも同じなんじゃないか!? キッドと同じように、あなたもあの人によって自由を奪われ支配されてるんじゃないのか!?」
桔梗はぴくりとも動かない。まばたきさえ返さない。
「桔梗さん、あなたは話してくれましたよね。両親を事故で失い、身寄りを失ったあなたを小夜子さんが受け入れてくれたと。だけどその事故はもしかしたら……」
「……関係ありません。私にとって、小夜子様の存在は絶対というだけのことです」
桔梗の声色に迷いはない。強がってもいない。淡々と、ただ淡々と。まるで数式を読み上げるがごとく。
「ぐ……」
歯ぎしりをしながらも、コナンの頭脳は高速で回転していた。出口は桔梗の背後にひとつだけ。だが少なくともここには明かりがある。暗闇で戦うよりはいくらかましだ。勝てずとも脱出するだけなら――
だが、その思考はただちに遮られることになる。開いたままの扉から、新たに何者かが入ってきたのだ――それも複数。
「……!」
彼らは天沼邸での桔梗と同様、漆黒の戦闘服を身にまとい顔の大半をマスクで覆っていた。それが3人。桔梗と合わせ、実に4人が唯一の出口の前に立ち塞がる。
脱出の可能性? バカバカしい。
「小夜子様のご命令に従い、あなた方を拘束いたします」
コナンは迷わず左腕を横に伸ばし、桔梗を見据えたまま哀をかばう。
「……嫌だと言ったら?」
桔梗の背後、黒衣の男のひとりが無言で拳銃を構える。銃口の上で
「……!!」
哀の息が止まる。コナンの心臓が止まる。
そして桔梗が淡々と告げる。
「大切な人とのお別れはつらいでしょう」
哀は目をしかと開いたまま顔を逸らすことなく、口は固く真一文字に結ばれている。恐怖や動揺を決して漏らさないように。彼の判断を歪めないように。
だけど彼女が何を望もうとも、この状況でコナンが抵抗を選べるはずもなかった。6年前にキッドが降伏したのと違わない、この状況で。
探偵が力なくうなだれ、声を振り絞る。
「……わかった」
そして精一杯の元気を繕い、愛する人に笑みを向ける。その手を彼女の手に重ね、しかと握りしめる。オレはここにいると、彼の目が告げていた。
「約束したろ? いつも一緒だって」
「……バカ」
気休めのような笑みとともに、哀はうなずいた。
グラスを飲み干した小夜子は、そのグラスを静かにテーブルに置くと指先で縁をさすって薄く微笑んだ。
「昔むかし、闇社会でのさばったとある大きな組織が、いろいろと怪しい研究をしていたそうよ。噂だけは私の耳にも届いていたわ。ほら、美術商なんてやってるとちょっと品のない稼ぎ方をした人たちともお知り合いになるから」
キッドは背もたれに体重を預けながら、微動だにせずじっと小夜子を見据えている。
「10年ぐらい前にその組織が滅びて、数々の危険な成果が闇社会に漏れ出した。その中で一番ステキなものを私が買い取ったの。……それが始まりよ」
優雅な、しかし同時に凍てつくような微笑がキッドを覗き込む。
キッドは数秒ほど黙り込み、それからおもむろに口を開いた。
「人のアタマを支配する技術……」
「人聞きの悪い言い方だけど、そうね。趣旨は間違ってないわ」
「なんであんたがそんなものを欲しがる?」
「言ったでしょう?
「……あんたがやってることと何が違う?」
小夜子は手の甲で口を抑えて笑った。
「大違いよ。私は名作を家に飾って独り占めしようなんて思わないもの。むしろ私の元でこそ彼らの才能は輝く。自由の名のもとに腐らせるよりも、ね」
「チンケな強盗でオレの才能が輝いたのか?」
キッドの言うとおり、物言わぬ人形と化した彼がやらされていたことといえば、金目の美術品や宝石類の強奪ばかりだ。
「あれは
楽しそうに声を弾ませる。
「あなたがどれぐらい力を発揮できるかを確かめていたの。わざわざ昔のあなたのように予告状を出したのも、より強力な警備を相手にするため」
ごく自然な、だからこそ空恐ろしい笑み。
「もちろん結果は素晴らしいものだったわ」人差し指を立て踊らせる。「だからテストのあとにはちゃんと本番の仕事もしてもらったの。そちらももちろん大成功」
「本番……?」
「村雲家には、かつて没落しかけた時代に散逸してしまった貴重な所蔵品がいくつかあるのよ。あるべき物を、あるべき持ち主の元へ。実に
揚々とした、どこかチャーミングな語り口。その中身がいかにおぞましいものであろうとも。
「"作品番号1412――月下の傀儡"。あなたこそ、私のコレクションの中でも至高の逸品よ。あなたと桔梗の2人がいれば、コレクションは限りなく完璧に近づく。残るは”最後の1人”だけ……」
「……もういい」
ガタリと大音を立て、キッドが立ち上がる。顔はうつむき、テーブルに突かれた両手がかすかに震えている。
「オレの人生を……家族を奪いやがって」
「無意味な郷愁ね。あなたの天賦が凡人から顧みられることはない。それは愛する人にさえ正体を明かしていなかったあなた自身が一番よくわかっていることでしょう?」
「……青子は関係ねえ……!」
うつむいたまま、喉の奥から声を振り絞る。血が滲みそうなほどに両の拳をわななせ、一歩一歩足を進める。
目の前に、宿命の敵。半秒で手の届く距離。
それでもなお、小夜子は恐れも身構えもせず、椅子に座ったまま悠然とキッドを見上げていた。
「関係ないからこそ問題なのよ。だから決して彼女を”怪盗キッド”に関わらせようとしなかったのでしょう?」
「黙れっ!!!」
叫びと同時に、右拳がうなった。すべての力、すべての怒りを込めた一撃。その拳が――
止まった。
彼女の顔面の寸前で、見えない壁に阻まれたかのようにぴたりと静止した。
「……!」
額から冷たい汗が垂れ落ちる。それ以上前に進めない拳が、まるで何かを恐れているかのように震えている。なんの力もないはずの、ただの老婦人の眼前で。
「……くそっ!」
真後ろに飛び退く。ホルスターに手をかける。
カード銃。怪盗キッドのトレードマークとも言える武器。かつての自宅から回収したそれを、憎き敵の顔に向け構える。非殺傷とはいえ、この距離で顔に当たれば重症は免れない――
引けない。
引き金を引けない。
脳からどれだけ命令を下しても、まるで己の体ではないかのように指が震え、動かない。
どうして。
どうして。
小夜子は無力な
「自由になれたと思っていたかしら?」
己の胸に手を当て、芝居がかった仕草で目を閉じる小夜子。
「『私を決して攻撃しない』、それこそがあなたの精神の最も奥深くに植え付けられた、原点にしてもっとも強固な誓約」
呼吸が震え、手先が震える。いくつもの汗が流れ落ちる。体が動かない。目さえ逸らせない。反撃も逃走もできない。
何も、できない。
「あなたはひときわ強情だったから、実戦に出せるレベルになるまで予想外の手間が掛かったわ。まさか6年も費やすことになるとは思わなかった……。でも、その甲斐はあったみたいね」
老婦人の細指がそっと前方に伸びる。
「あなたは"作品番号1412――月下の傀儡"。わが愛しのコレクション。それが嘘偽りなき本当のあなた」
複雑な虹彩に彩られた老婦人の瞳がキッドを捕える。
精神の支配、それはこの世で最も強固な鎖。その事実を体で思い知る。
小夜子が立ち上がる。キッドを見据え、一歩一歩近づく。そして無防備に手を伸ばし、震える頬にそっと手のひらを置いた。
「
小夜子が人差し指を立て、キッドの眼前に近寄せる。紅いマニキュアが光沢を放つ、細くしわがれた指。なんの脅威もないはずの、ただの老婦人の指。
その指を見つめるだけで、キッドの震えは止まった。安らかに、穏やかに。
安寧と引き換えに、その瞳から光は失われた。
小夜子は目を細め、「いい子ね」とささやいて踵を返し部屋の外に向かって歩き出す。
「付いてきなさい」
キッドは無言で彼女のあとに続いた。この世で最も憎むべき敵の後ろを、ただ従順に付き従った。
陰鬱な灯り、淀んだ空気。コナンは薄暗い地下牢の独房で、その冷たい床に直接座っていた。通路を挟んだ向かい側の独房には哀がいる。
ふたりは少しでも距離が近くなるようなるべく鉄格子の近くに座り、横目でちらちらと互いの顔に視線を送っていた。
「なによ」
哀がそっけなく口先を尖らせる。コナンは精一杯に気さくな笑みを浮かべた。
「いつ見てもおめーは美人だなあって」
「バカ」
目を逸らして言い捨てながらも、頬はほんのわずかに赤らんでいる。コナンは鉄格子に腕を絡ませながら、ほんの数メートル先にいるのに触れ合えない恋人を慈しんだ。
「オレってある意味ツイてるなって思ってんだ。こんな地獄の底でもおめーと一緒にいられるだなんて、さ」
「……そうね。私だって、あなたのそばで朽ち果てるのが末路なら最悪ってほどじゃないわ」
三角座りの膝に顔を埋め、ほのかに口元を緩める哀。これまでの人生で、もっとずっと悪い結末に至る可能性はいくらでもあった。彼女にとってこれはずいぶんましなシナリオのひとつだ。
コナンはうつむき、力なくとも健気に微笑んだ。
「……ああ、そうだな」
哀が顔を上げる。
「……怪盗さんは、助けに来てくれると思う?」
「さあな。希望があるとしたらそれだけだろうが……」
当然、外部への唯一の連絡手段である携帯電話は奪われてしまっている。もっともどうせこの地下では不通だったのだが、要するに今こちらから取れるアクションは皆無ということだ。
「なにせ敵があそこまで準備万端だったんだ、あまり期待しすぎねえ方が……」
その時だった。
カツンカツンと、いくつもの足音が響いたのは。階段を下ってきた集団の、その先頭には桔梗、彼女の後ろには小夜子。さらには――
「キッド!?」
歩いていた。仇敵である
コナンは立ち上がって鉄格子を掴み、長年の好敵手に口角泡を飛ばした。
「おいキッド! 何やってんだ、そいつはお前の仇だぞ! なんでお前がそんな奴の
目の前をキッドが通り過ぎる。コナンを一瞥さえしようとせず。光の消えた瞳が、ただぼんやりと前に向けられている。
「青子さんのところに戻るんじゃねえのかよ! あれは口だけか!? 目を覚ませよ情けねえコソ泥野郎が!!!」
次の瞬間、コナンの息が止まった。鉄格子越しにキッドの腕が喉を掴んでいたのだ。
「がっ……!」
「江戸川くん!」
哀が叫ぶ。キッドはなんら反応しない。空虚な目で、ただじっとコナンをまなざしその指先に冷徹な力を込めている。コナンの顔が苦痛に歪む。
ほんの一瞬、彼の瞳にためらいのような影がよぎった――気がした。
「そのあたりにしてあげなさい。彼は私の新しい手駒になる。つまりはあなたの仲間になるのよ」
「……はい」
従順な首肯とともに手が離れ、コナンは喉を押さえてゲホゲホと咳き込む。
小夜子はコナンに向けて薄い笑みを浮かべた。
「あなたのおかげで勉強になったわ、名探偵さん。一見支配が完璧になったあとでも、長期的な
あの夜、コナンの一撃によってキッドの支配はいったん崩れた。小夜子が指しているのはそのことだろう。
コナンは首を横に振り、精一杯の余裕じみた笑みとともに小夜子をにらんだ。
「教訓を間違えているんじゃないですか? そもそも、機械なんかで人間を完璧に洗脳するなんてできやしない……。あなたが見誤っているのはそこですよ」
「あの装置が未完成だったのは事実よ。だけど、地道な改良が不足を埋めた。あの装置さえあれば、私は
不気味な笑み。「すべて」という言葉に対する奇妙な強調。
コナンは直感した。
小夜子は単にコレクションを増やすために洗脳装置を使っているのではない。
「寂しがることはないわ。あなたもいずれすぐに彼の仲間になれるもの。……ただごめんなさい。今日はこのあと大切な予定があるから、あなたの相手はしばらくできないわ」
「大切な予定……?」
「ええ。せっかく今日という日に"月下の傀儡"が間に合ってくれたという、この幸運を無駄にするわけにはいかないもの。それじゃあ、また後でね」
桔梗が地下の行き止まりの部屋の扉を開け、キッドと小夜子もそのあとに続いた。最後に小夜子はわざとらしく微笑み、そのドアを開け放しにして部屋にへと入っていった。
鉄格子から顔を出せば、部屋の中までもがはっきりと見通せる。真ん中に置かれている可動椅子。その周囲の無機質な機械群……。
キッドは無言で椅子に座り、手渡されたヘルメット型の装置を自ら被った。従順に、ただ従順に。
コナンはその光景を目の当たりにし、鉄格子を掴む手を震わせた。
目を逸らす。力なくうつむき、まぶたを閉じる。
機械のスイッチが入る音。
哀れな
数分後、地下には再び静寂が戻った。
その静寂を破る、爽やかな喜びの声。
「おかえりなさい、わが愛しの"月下の傀儡"よ。あなたの帰還が間に合ってくれたことを心から嬉しく思うわ」
そして優雅に言葉を続けた。
「さあ、皆で
こうして小夜子がキッドと桔梗を引き連れ外に出ていくさまを、コナンと哀はただ無言で見送ることしかできなかった。
しばらくの間、彼らはそれぞれ鉄格子に背中を預けて無言で座り込んでいた。
先に重い口を開いたのは哀の方だ。
「……これでもう、かすかな希望もなくなったわね、私たち」
自嘲の笑み。
だがその直後、コナンは目を見開き息を呑む。
「……いや! 逆だ……!」
突如飛び出した、突拍子もない否定の言葉。哀は眉間にしわを寄せた。
「逆?」
コナンは弾けるように立ち上がった。固く握られた拳、決意がにじむ表情。だがこの状況がどう好転したというのか、哀にはさっぱりわからない。
コナンはズボンのポケットに手を突っ込んだ。ジャラリという金属音。引き抜いたその手に握られていたのは、鈍く光る小さな金属――鍵。
「!!!」
哀が息を呑む。コナンは鍵を眼前に掲げ、ぎゅっと握りしめた。
「あのとき……あいつがオレの首を締めたとき……。あいつはこれをこのポケットに入れてたんだ。オレも含めて、誰もが注意を逸らされていた。手品の模範さ」
「キッドは操られてたんじゃなかったの!?」
「操られていたさ、
「!!!」
コナンは奥の部屋の洗脳装置に視線を向ける。
「あいつはわかってたんだ。もう一度あの装置でアタマを洗われたら、その最後の自由も失われちまうってことを。だからそうなる前に……最後の最後に、オレにこの鍵を託した。最後の希望として……」
キッドの言葉が脳裏に蘇る。
――もしもオレが自分を制御できなくなったら……手段は問わねえ、オレを止めろ
今がその時だ。
鉄格子の裏側に手を伸ばし、手探りで鍵穴を捉える。鍵を回し、重い扉がゆっくりと開く。
コナンはすぐに哀の部屋の錠も開き、彼女を強く抱き寄せた。
哀はゆるく微笑み目を閉じる。
「あなたと一緒に死ぬのも悪くないけど、どうやら今日じゃないみたいね」
「ああ。それに明日でもねえよ」
ふたりは笑った。
「だけど彼らは今どこに? 素敵なパーティーに行きましょう……って」
「……ひとつ、心当たりがある」