最初のうちは、多くの人がそれをパーティーの演出と思ったかもしれない。
だが、辺り一面の足元から立ち込もり始めた白い煙が顔の高さにまで上ってきたとき、人々は自分の意識が薄れていくことに気づいた。
催眠ガス。
視界が傾き、膝が地面にキスをする。
どさり、どさり。人間が倒れる音が、方々からこだまする。
音以上のことはわからない。ガスの白色が会場を染め上げてしまったから。
華やかなパーティーは、一瞬にして地獄絵図に激変した。
「ごほっ、ごほっ……なんなのよ、これ!?」
周囲の異変に気づいた園子が、かろうじて手で口を塞ぎながら声を張り上げる。
その彼女の目の前で、白煙の中から手が突き出された。その手に握られているのは、何やら機械的な部品と一体になった黒い布。
「園子姉ちゃん、このマスクを着けて!!」
「コナンくん!?」
煙を割いて現れたコナン、その顔全体を厳重なマスクが覆っている。見るからにガス攻撃から身を守るためのものだ。
「早く!」
園子は息を止めながらなんとかガスマスクを装着し、途端に呼吸が楽になる。
「なんであんたがこんなものを?」
「ガス攻撃は"洗脳キッド"の得意技だからね」
「……!! じゃあキッド様が本当に襲撃してきたってこと……!? って、ちょっと待って、洗脳キッドってナニ?」
「それよりまずはこの場を離れよう! ハイヒールは脱いで! 灰原! そっちはどうだ!?」
右に振り向いて声を張り上げるコナン。先ほどまで哀と小夜子がいた方向だ。
白煙によって視界の届かない距離から、哀の大声が届く。
「ごめんなさい、逃げられたわ! この視界じゃもう見つけるのは無理よ!」
煙の中から現れた哀の手首を、コナンが固く掴む。
「気にすんな、安全確保が先だ! ……クソッ……いくらなんでもやり口が強引すぎるだろ……!」
「逃げられたって、誰に!?」
慌ててヒール靴を脱いだ園子が当然の疑問をぶつける。コナンは答えるより先に、今度は園子の手首を強く握った。要は両手でそれぞれ女性を掴んだというわけだ。
両手に花などと冗談を言える状況ではもちろんなく、コナンはすかさず2人を引っ張って走り出した。
「ちょ、ちょっとコナンくん!?」
「いいから走って! 園子姉ちゃん、この会場には排煙設備とか警報装置はあるんだよね!?」
「当たり前でしょ! 鈴木財閥の防災システムは完璧で……」
「でも、何も作動してないよね?」
「……!!!」
煙の中を疾走するコナン、哀、園子。周囲には昏睡した人々が転がっている。
「待って、みんなは!? 美玲ちゃんだっているのに、このまま置いていくわけには――」
「催眠ガスよ。毒じゃないわ」
哀が短く告げる。
「でも……!」
「今は
全速力で扉を叩き開け、多目的ホールを脱出した一行。通路の先には、一階ロビーへと繋がるエスカレーターがある――はずだった。
代わりに立ち塞がる、冷たい鉄の壁。
「防火シャッター……! なんで……?」
園子が声を震わせる。
コナンが拳を震わせる。
「排煙設備も、警報装置も作動しない……なのに防火シャッターは降りている……。まるで、逃げ道を塞ぐことだけが目的かのように……」
「……それだけじゃないわ……! 電波も通じてない……!」
スマホを手に取っていた哀の言葉に、コナンと園子が同時に振り向く。慌てて自分のスマホを取り出し、操作する園子。その顔が即座に歪む。
「どうなってんのよ、これ……!」
「……電波妨害だよ。たぶん、このビル全体で電波がジャミングされている。外部に通報させないつもりさ」
「……そんなことを、一体誰が……?」
会場の扉は閉まっている。この通路にまでガスは届いていない。
それを確認し、答えより先にガスマスクを外すコナン。探偵の目が、園子を刺す。重い口が開かれた。
「すべての黒幕は村雲小夜子さんで……怪盗キッドが、その尖兵だ」
「……!!!」
「そして、たぶん……というか間違いなく、このビルの制御機構そのものが乗っ取られている。この状況がその何よりの証拠さ」
「制御機構って、要するにコントロールルームが乗っ取られたってこと!? そんなの不可能よ! あそこのセキュリティは厳重を超えた厳重で、誰にも気づかれずに乗っ取ることなんて……!」
「奴になら、できる」
「!!!」
園子の目が見開かれる。呼吸さえ、止まってしまったかのように思えた。
「怪盗キッドなら、どんな厳重なセキュリティであろうとも内部者のふりをして侵入できる。奴に入れない場所なんてこの世のどこにもない……。だから小夜子さんはこの計画にキッドを必要としていたんだ」
「……そんな……!」
「想像以上にとんでもない人を敵に回しちゃったみたいね、私たち」
マスクを外した哀が自嘲気味に笑う。コナンもまた、あきれたように肩をすくめた。
「……ま、とんでもない敵にもいい加減慣れっこだけどよ」
「確かにね」
「……なんか妙に余裕ね、あんた達……」
園子がジト目で目の前の若いカップルを睨みつける。
「余裕ってわけでもねーんだけどさ。だけど、今のオレには
「チーム?」
「だろ?」
後ろに振り返るコナン。そこにいたのは、ガスマスクを手に持った3人の男女。3つのドヤ顔。
中央の巨漢が胸を張る。
「オオウナギに乗ったつもりで任せとけ!」
「それを言うなら大船ですよ、元太くん」
光彦がツッコミを入れる。
園子は思いっきり不安に思った――大丈夫か、こいつらで、と。
次の瞬間。
視界が漆黒に変わる。
「「!!!」」
完全な闇。隣の人間の顔もわからない。
「照明を落としやがった……!」
「そ、それってつまり……?」
園子の声が震える。冷静な声で哀が応える。
「……狩りの開始、ってことでしょうね」
「狩りって……!」
拳を握りしめるコナン。
「園子姉ちゃん! コントロールルームは何階!? 階段で行ける!?」
「ええっと、18階よ! あっちに非常階段があるわ! でもあの部屋に入るには認証が……」
そこまで言って、園子の声色が変わる。
「あ」
「……園子姉ちゃんなら、入れる?」
「ええ。生体認証で」
ようやく闇に目が慣れてきた。園子が真顔でうなずいたことがわかる。その目に、覚悟が宿っていることも。
「……案内してくれる?」
「……わかったわ」うなずき、大きく息をついて口端を釣り上げる園子。「私には、主催者の責任もあるものね」
「ありがとう、園子姉ちゃん」
光彦が割って入る。
「ルームにさえ入れれば、システムを奪還するのは僕に任せてください」
「護衛ならあたしに任せて!」胸を叩く歩美。
「……なんか、まじで頼もしいわねあんた達……」
「だってあたし達、少年探偵団なんだもん!」
迷いのかけらさえない歩美の笑顔に、園子は思わず苦笑してしまう――ただし、少しだけ嬉しそうに。
「子どもが育つのはあっという間ね」
「えへへ」
そのとき。
「――来る」
元太の目が見開かれる。後ろを振り向き、廊下の真ん中に立ち両腕を広げた。脚を広げ、腰を落とす。臨戦態勢。
「おめーら、先に行けっっっ!!!」
探偵団の4人は、同時にうなずいた以外は返事さえ返さなかった。歩美が園子の手を握り、走り出す。
背後で強烈な衝突音。靴底が床を擦る音。「ぐふっ」といううめき声が漏れる。
「元太くんっ! イケメンは死なないよねっ!?」
振り返らずに叫ぶ。
闇夜の中で、元太の口だけが白く笑みの形に浮かんでいた。
18階。一心不乱に非常階段を登ってきた一行は、踊り場の扉を開ける前に息を切らせてわずかな休息を取っていた。
特に園子の疲労はあからさまだ。パーティードレスに素足で18階まで駆け上がってきたのだから当然だが。
「ぜえ……ぜえ……あ、あんたら全員、意外に体力あるわね」
膝に手をつき、青息吐息で大きく肩を上下させる園子。もちろん哀や光彦にも疲れは見えるが、園子ほどではない。
「特に歩美ちゃん、へっちゃらすぎない? どーいう体力してんの……?」
歩美は先陣を切って登ってきたにもかかわらず、ほとんど息ひとつ乱れていない。群を抜いた平然ぶりだ。
歩美は「えへへ~」と照れ笑いを浮かべた。
扉のノブを握るコナンが園子に振り返る。
「ここを開けたら、たぶん敵が待ってる。先頭は歩美ちゃんで、次にオレが行くから下がってて」
「あ、歩美ちゃんが先頭……?」
思わず顔をしかめる園子。(あんたら女の子になにやらせるつもりなわけ!?)という心の叫びが聞こえてくるかのようだが、探偵団は誰も意に介さない。
「心配しないで。あたしなりに
歩美は前足重心で腰を落とす。さながら短距離走のスタート待機のように。
レディー。
セット。
(ゴー!!)
コナンが勢いよくドアを引くやいなや、隙間から歩美が飛び込む。
弾丸のごとき疾さ。猫の狩猟のごとき静音。
先に広がるは、コントロールルーム擁する管理区画のロビー空間。そこもまた暗闇。ほんの数メートル先さえまともに見えない。
そして、見える必要もなかった。
歩美は瞬時に、前方に2人の見張りがいることを
闇の静寂を壊さぬ極小の足音と、縮地の飛び込み。歩美は1人の首に飛びつき、勢いのまま回転し、投げつける。床、轟音。追撃の踏み蹴り。
「何者ッ!?」
もう1人が銃口を歩美に向ける。闇の中でも、精確な方向に。
(この人は見えている)
歩美は瞬時に理解した。目元が不自然に光を帯びている。おそらくは暗視スコープ。
しかしスコープには弱点がある。視界が狭い――特に上下には。
次の瞬間、歩美はスコープの視界から消えていた。
「!?」
足元。
強烈な足払いで体がバランスを失う。反射的に手を床につき、転倒を防ぐ。だがそのとき、彼の頭は無防備にさらけ出されていた。
蹴り下ろし。
上から後頭部を撃ち抜かれた見張りは顔面から床にぶつかり、意識を失った。
「……っふう~……」
2人の見張りが動かなくなったことを確認し、大きく息をつく歩美。額からは冷たい汗が流れ落ちる。静寂に心音が響く。
一見どれほど楽勝に見えても、彼女の戦い方は先手を取れなければ、被弾すれば、即座に危機に陥ることと隣り合わせだ。
言い換えれば、彼女にとって秒殺は余裕の現れではなく、不可欠な手段にほかならない。
「歩美ちゃん、怪我はない?」
駆けつけたコナンに気丈な笑顔を向ける歩美。
「うん、ぜんぜん大丈夫!」
コナンの腕時計に仕込まれたライトが、倒れた見張りを照らす。園子はただただ目を丸くするばかり。
「どーいう強さよ、これ……。歩美ちゃん、いつの間に蘭みたいになったわけ……?」
「えへへ~、だって憧れの人だもん!」
「そんなことより園子姉ちゃん、認証ロックってあれのこと?」
歩美の後方、固く閉ざされた大きな扉にライトを向けるコナン。扉の横の壁にはそれらしき装置が備え付けられている。
「ええ、ここを開ければコントロールルームはすぐそこよ」
園子は手を伸ばして認証装置に手のひらを当てた。センサーが赤く光って静脈を読み取る。
ランプの点灯、解除音。自動扉が開いていく。
しかし一行がその先に進もうとした瞬間、大声が闇を切り裂いた。
「危ないっっっ!!!」
園子の背後、後頭部に限りなく近い位置、耳をつんざく衝突音。
思わず耳をふさいだ園子が振り返って見たものは、黒衣の襲撃者と歩美の交錯。歩美が奇襲を蹴りで弾いたさまだった。
「……!」
着地した歩美の視線は、闇に溶け込む襲撃者にまっすぐ向けられている。背筋に冷や汗が垂れ落ちる。歩美は瞬時に腹を決めた。
「みんな、先に進んですぐに扉を閉めて!!」
「で、でも歩美ちゃん!」園子が叫ぶ。
「いいから早く!!」
背後で扉が閉まっていく間、歩美の眼は正面の襲撃者だけを突き刺すように見据えていた。
ごくり。つばが喉を落ちる。
(……この人、恐ろしく強い)
先ほどの奇襲、その速度と重み、気配断ちの精度。それらすべてがこの敵の尋常ならざる実力を物語っていた。さっき倒した見張りとはまるで格が違う。闇に包まれたこの場所で、夜目の利く自分以外はまるで戦力にならない。ただ犠牲が増えるだけ。
――だから、今ここであたしが止める。
歩美は背筋を伸ばし、半歩踏み出した。わずかに距離が詰まり、襲撃者の冷たい眼光が歩美のそれと交わる。
見知った顔。
息を呑む。
疑念が、確信に変わった。
(この人、やっぱり……)
目線を外さず、わずかに首を横に振る。
「……桔梗さん。できれば、あなたとは戦いたくありません」
襲撃者は――桔梗は、何も答えない。眉ひとつ動かさない。右手の刃物に鈍い光沢が浮かぶ。音もなく、半歩踏み出す。
そして、瞬時に距離が消えた。
桔梗の突進。凶刃が歩美に迫る。闇の中の交錯。
ガリッ。きしんだ音が響く。
「……?」
奇妙な手応えに桔梗の眉が動く。すれ違いざま、歩美の横蹴りが桔梗の体勢を崩す。脇腹を狙った一撃だが、即座に反応されてガードの上。
両者、互いから視線を外すことなく着地する。床を靴が滑る音。
「……」
桔梗の視線が、歩美の左腕に向けられる。衣服が斬られ、その下にあるものが現れていた。皮膚ではない。前腕を包む漆黒のカーボンプレート――要は手甲だ。
「光彦くんに頼んで作ってもらったの。刃物の達人と戦うのは、これが初めてじゃないから……」
前腕と胴部、最小限の重要箇所で服の下に仕込んだ防具。特殊強化されたカーボン繊維は、並の刃物ごときで斬れる代物ではない。そのうえ金属よりはるかに軽い。身軽さと疾さを信条とする歩美が理想とした装備。
「今ここで、あなたを止めます!」