「はあ、はあ……」
暗闇のロビーの片隅で、歩美は片膝をつき必死で体の回復に努めていた。
気休めレベルの止血として、左肩の傷口に手のひらを押し当てている。浅い切り傷は他にも数カ所。いずれも致命傷ではないが、彼女の劣勢をまざまざと示す。
(やっぱり、強い……!)
防具が仕込まれた前腕と胴部、そして最大の急所であるゆえに最も警戒の強い首筋。桔梗はこれらの箇所への攻撃を捨て、守りの薄い四肢の先端や肩といった部分を削る戦いを繰り広げていた。
徐々に弱らせ、仕留める。プロの戦術。
一方で、歩美の攻撃も何発かは手応えがあった。いずれも浅い。ただ少なくとも桔梗を攻撃一辺倒にさせず、押し留める程度の効果は見せている。
だが。
(このままだと負ける……! 単に暗いからだけじゃない。気配のなさ、無駄も遊びもない冷徹な動き……)
刃を持ってなお、桔梗からは"殺意"さえ感じ取れない。怒りも憎悪も悪意もない。まるで淡々とプログラムを実行する機械だ。およそ駆け引きや心理戦が通用する相手ではない。
そのうえ、個々の傷は浅くとも出血が徐々に体力を奪っていく。
(これ以上時間はかけられない……なんとか打開しないと……でもどうやって……)
その時だった。
左手の方向、コントロールルームに繋がる認証ドアが唐突に開いたのは。
通路のかすかな非常灯が、そこに立つ人物を背中から照らした。
「歩美! 大丈夫!?」
「哀ちゃん!?」
2人の視線が重なる。哀が安堵の表情を浮かべると同時に歩美が叫んだ。
「無茶だよ! 殺されに来たようなもので……!」
「……いいえ」
哀の目が、闇に溶ける桔梗に向けられる。目に映るのはおぼろげな輪郭のみだが、そこにいるということだけはわかる。
「私は、真実を伝えに来たの」
次の瞬間、輪郭が哀に急接近する。凶刃が光り、眼前に迫る。
打撃音。
歩美の横蹴りが桔梗を弾き飛ばしていた。しかしこれもガードの上。ダメージはうかがえない。即座に後方にステップする桔梗。
桔梗から哀を隠すように立ち塞がった歩美が、自分の血がついた右手を横に広げる。
「哀ちゃんのことは、私が守る。……だけど、長くは持たないよ?」
「ええ、ありがとう……。じゅうぶんよ」
哀の視線が、再び桔梗の輪郭を捉える。
そして、声を張り上げた。
「桔梗さん! あなたの両親は小夜子さんに命を奪われ、あなた自身もまた洗脳装置の実験台となった……。あのとき地下で彼が言ったとおり、それが真実よ!」
「……言ったはずです。そんな作り話は私には関係ありませんと」
だが次の言葉は、桔梗の指先をぴくりと揺らした。
「……あなたの父親の名は彦一。母親の名は菊。
「!!」
初めて、桔梗が息を呑む音が聞こえた。
「なぜそれを」
パンツのポケットに手を入れる哀。
「あなたが生まれ育った、村雲邸の離れ。使用人の家。地下牢から脱出した後、すぐにでも敷地から離れたい私に彼はこう言った。あそこに桔梗さんの真実があるはずだ、って」
「……!」
「笑っちゃうでしょう? キッドや小夜子さんを追いかけるより先に、あなたを救う方法を探そうとしたの。そういう人よ、彼は」
ポケットから、小さな、古びた何かを取り出し掲げる。
「……そして、これを見つけた」
メモ帳サイズの小さなノート。
「長年放置されていたらしき小さな個室。少女が好むような可愛らしい雑貨やインテリアがそのまま埃をかぶっていた。そのクローゼットの奥に、このメモがあった」
表紙に書かれた手書き文字。ただ一言、「桔梗へ」と。
「……あなたの両親は、このメモをあなたにそっと託していたのよ。自分たちに何かあったときには、あなたがこれを見つけてくれるようにと願って」
「……!!」
桔梗は立ち止まったままだった。それはずいぶん奇妙なことだった。彼女が哀の話を聞かなければならない理由などどこにもない。なぜさっさと攻撃しようとしないのか。
哀にはわかっていた。
桔梗は、真実を知りたがっていると。
「彼らは小夜子さんの様子が急におかしくなったことに気づいていた。どこからか奇妙な機械を買ってきて、それを古い地下シェルターに運び込んで何やら怪しいことに没頭している。何かに取り憑かれたかのような異様な姿だ。小夜子様は人が変わってしまったようだ……と」
メモ帳の最後のページを開く。
「私たちは小夜子様に事情を問いただす。万が一私たちに何かあったときは、このノートを持って逃げ出し、警察を頼りなさい。……桔梗へ、愛をこめて。これが最後の言葉よ」
「……デタラメを……言うな……!」
声が震えている。肺をひねり上げて、無理やり口から吐き出したかのような悲痛な声。
初めて、彼女の声に
「日付は7年前の11月30日……。あなたの両親が"事故死"した、その前日のことよ」
ぱたり。メモ帳を閉じる。
そして、不規則に呼吸の乱れた桔梗を強く見据えた。
「……これ以上の証拠が必要かしら?」
「――黙れえっっっ!!!」
悲痛な叫び。
桔梗が踏み込む。刃が迫る。
だがその刃は届かない。一手早く歩美のカウンターパンチが顔面を撃ち抜く。崩れる体勢、そこに追撃の回し蹴り。ガードして横に跳ぶ桔梗。
「ちいっ……!」
桔梗の口から血が垂れ落ちる。これほど深いクリーンヒットはここまで一度もなかった。
桔梗はひるまない。
すぐさま後ろに跳び、再び闇に溶ける。もはや彼女の姿は目に映らない――
しかし、歩美には
(わかる……! さっきまでの桔梗さんじゃない!)
足音がわずかに大きく響く。精密な動きにかすかな乱れ。荒い吐息。すべてが現実のシグナルとしてにじみ出る。
歩美が踏み出す。一歩前へ、そして斜め前に急ターンし前蹴り。
刺さる。みぞおちの感触、確かな手応え。うめきが聞こえる。
「ぐうっ!」
再び場を離脱する桔梗。
その動線から哀を守る位置に動く歩美。腰を落とし、構える。
「桔梗さん……私たちが戦う意味は、もうありません」
「黙れえ!!!」
突進。あからさまな気配。がら空きの顔面。
歩美は宙を舞い、そして蹴り込んだ。完璧なカウンターが突き刺さる。顔面が弾け、手から短刀がこぼれ落ちる。
それでも桔梗は倒れない。片脚で踏みとどまり、腰から隠しナイフを抜く。奥の手の一振り。
――しかし、歩美は既にそこにはいなかった。
上。
頭上から、二段目の空中蹴り。
ゴンッ……
とうとう、桔梗の動きが止まった。
ゆっくりと、ゆっくりと。前のめりに倒れ込む。
どさり。
もう、動かない。
歩美は左肩の傷口を押さえながら、悲しみの混じった目でしばしじっと桔梗を見つめた。
「……歩美、あなたの怪我は大丈夫?」
「うん。哀ちゃんのおかげだよ」
哀に微笑み、倒れた桔梗に近づいて膝をつき、その頬を撫でる。
「桔梗さん。また会えたら、そのときは……」
気のせいだろうか。気絶した彼女の顔が、少しだけ穏やかになったように見えるのは。まるで、自分より年下にでもなってしまったかのような。
歩美は口元を緩め、そっとつぶやいた。
「……美味しい紅茶の淹れ方、教えてくださいね」
鈴木エンタープライズタワー18階、管理区画フロア。
建物の制御システム中枢を司るコントロールルームに繋がる通路の両脇には、ビジネス機能の中核というべきサーバールームがある。
その片方、第1サーバールームには稼働中のサーバーラックがぎっしりと敷き詰められているが、第2サーバールームは将来の拡張に備えた予備の空間だ。
つまり、現時点ではそこにサーバーラックはまだ一本もない。今はただ無機質で広いだけの大部屋。白い床、白い壁、天井を走る配線レール。
コントロールルームの2階の高さでガラスを突き破ったキッドが突入したのは、そんな空っぽの大部屋だった。
その高度のままコナンを放り投げ、自分は穏便に着地。
コナンは背中から落下し、衝突音が空間に響き渡った。
「ぐっ……!」
背中の痛みをこらえ、膝を押してなんとか立ち上がるコナン。
「おめー、まだあの欲深い婆さんの言いなりかよ……! 天下の大怪盗サマが無様にもほどがあるんじゃねーのか……?」
キッドは何も応えない。眉ひとつ動かさない。口は真一文字。ただゴム弾銃をゆっくりと構えるだけ。
「ちいっ……!」
すかさず横に跳ぶ。見て避けるのは無理だ。撃たれる前に動き続けるしかない。サッカーで鍛えた身のこなし。走っている間はそうそう攻撃を食らうことはない――だが、いつまでそれを続けられる? それが問題だ。
だから叫ぶ。
「おめーの居場所はここじゃねえぞキッド! 青子さんや結月ちゃんを悲しませるんじゃねーよ!!」
無反応。
ただ自動制御のカメラのようにコナンを目で追っている。銃口の正確な追尾。
方向転換のために一瞬減速した瞬間、引き金が引かれる。
バン!
すんでのところでゴム弾はコナンの衣服をかすめ、後方の壁に命中――壁にヒビが走る。
背筋に寒気。見た目はただのゴム弾だが、その威力は尋常ではない。正面からあれを食らって軽症で済んだ元太がどうかしているだけだ。
(永遠に避け続けるのは無理だ……。反撃しねえと……!)
再び距離を取る。
(それにしたって、青子さんの名前を出してもまるで反応なしか……。桔梗さんとは洗脳の
桔梗は小夜子の忠臣にして右腕、そして対外的には普通のメイドだ。来客対応だって彼女の仕事の一部。そうである以上、広く人の言葉を理解し、人として応じる能力は当然に残されている。
キッドは違う。コレクターが彼に課した"機能"はもっと単純で、極限まで道具的だ。およそこれまで、洗脳キッドがまともに言葉を話すのを聞いた者さえいない。おそらくはそのような人間的な要素は徹底的に封印されている――その徹底さ故に、彼への処置には6年もの歳月を要した――この推理は、おそらく妥当だろう。
つまり、いくらコナンが青子や結月の名前を出そうとも、今のキッドはそれで感情を揺さぶられるどころか、意味のある単語とさえ認識できないということだ。
ならばどうする?
今できることは、おそらくひとつ。
(まずは、人の話が聞けるぐらいに意識を揺らすしかねえ……!)
彫刻を頭にぶち当てて正気に戻した、あのギャラリーの夜と同じ方法。このうえなく乱暴にして、最も論理的な解決策。
堕ちた怪盗の生気なき目をにらみ、視線を外さず腰を落とす。左手を腰のベルトに添えて。
「やさしい手段は取れねえぞ、キッド!!」