翌朝、コナンは
何年も前からコナンは工藤邸に住んでいる。江戸川コナンとして、工藤夫妻の"養子"となった彼にとってこの家は再び自宅になったのだ。
そして今、彼の頭の中を占めているのはもちろん"奴"のことだ。はたして「堕ちたキッド」は本物なのか? だとしたら奴に何があったのか? どうすれば真相にたどり着けるのか? ――やはり、自分で捕まえるしかないのか?
(どうも、モチベが高いのはオレと元太ぐらいっぽいんだよなあ……)
昨夜、探偵団は互いの報告のためにリモート会議を行ったが、話題はすぐにキッドの件に移った。
元太は案の定「キッドを捕まえたら探偵団の大手柄だぜ!」と意気揚々だったが、光彦は「なんだか厄介そうですねえ……」と眉をひそめていた。歩美は少しノリが違って、「怪盗キッドかあ~。昔はかっこよかったなあ~」とノスタルジーに浸っているようだった。
最終的には「各自なにかわかれば共有する」という大雑把すぎる方針だけが決まって会議はお開きになったわけだが、この結果はコナンにとってはいくぶん肩透かしなものだった。もちろん彼は他メンバーの意欲がどうであれ、自分だけでもキッドを追う腹づもりだ。仮にもかつては「キッドキラー」と謳われた
それに、実のところこの6年間、キッドの不在はずっとコナンの頭の片隅に引っかかっていたことでもあった。これまで奴は何をやっていたのか? どうして今さら帰ってきた? 積もりに積もった疑問を解消するには、やはり本人に対面するしかないのだろう――
思索を巡らせていたコナンの耳に突然飛び込む、「ん……」というかすかな声。途端に彼の健気な心臓が飛び跳ねる。
理性とは無関係に顔が右を向く。
中途半端にはだけた布団。タンクトップ一枚だけに頼りなく覆われた、陶器のように白い肌。少し乱れた、赤みがかった茶髪。安らかな寝顔。
――綺麗だ。
……それにやたら色っぽい。
(――って、集中できるわけねーだろこんなもん!!!)
実のところ、昨夜からずっとコナンの思考は彼女に邪魔されっぱなしだった。別に哀が何をしたというわけでもないが、そうは言っても同じベッドにこんなにも魅力的な恋人がいる状況で、探偵としての機能だけに頭を使えるものなのか? 健全男子たるコナンにそれは不可能だった。
コナンはしばし無言のままじっと哀の寝顔を見つめ、繊細な髪の毛をそっと指先ですくい取る。さらり、滑り落ちる。この世に案ずることなど何ひとつないとばかりの無垢な寝顔。こんなにも平和で幸せな朝があるなんて、ほんの数ヶ月前のコナンには想像もできなかった。
今ここに彼女がいることこそが、彼が命を懸けて彼女を守りきった証。ようやく手に入れた幸福のかたちそのものだ。この幸せに比べれば、多少集中が乱れることなど代償とさえ呼べない。
(ま、しゃあねえか……)
観念したように笑みをこぼし、彼女を起こさぬよう、そろりそろりと抜け出そうとするコナン。片足が地面に触れる。
しかしその手首を、眠っているはずの哀のか細い腕がそっと掴んだ。
「……まだだめ」
ほとんど閉じられたままの目を恋人に向ける哀。子猫のような撫で声。心臓が否応なしに高鳴るが、必死で表情を保とうとするコナン。
「あのな〜、オレはキッドの件を調べねーと……」
からかうような、そして全てを見透かしたような瞳が彼を貫く。
「あたしより、キッドの方が大事なの?」
「う……ぐ……!」
「別に後回しでもいいじゃない、あんな気まぐれな泥棒さんなんて」
ゆるやかに口角を吊り上げる哀。どことなく紅潮した頬も、むき出しの鎖骨も、ちょっとどころではなく色っぽくて。
ふわりと、彼女の指先が彼のこめかみの火傷痕を撫でる。「これは私のもの」ゆるく細まった彼女の瞳がそんなふうに言っているかのようだ。
腕力では負けるはずのないコナンがいとも簡単に引っ張られ、甘い香りのする胸元に引き寄せられていく。
ぎしりとベッドが沈む音。薄っぺらな布地一枚だけに覆われた、柔らかでみずみずしい肌。
(……! ダメだ、思考しろ、オレの脳細胞……! キッドの目的は……! 足取りを掴む手がかりは……!)
「ねえ」小さなささやき。
「?」
「どっちにしろキッドを追うんでしょ? 知ってるんだから」
「あ、ああ……」
「……ちょっとシャクだけど」
「……?」
「とにかく、それなら充電は満タンにしておかないとね、ふふっ」
後頭部がぎゅっと抱きしめられる。すべすべの肌。柔らかい。甘い香り。呼吸による胸の上下動までもが頬に伝わる――
「~~~~~っっっ」
かくして無駄な抵抗は完全に霧散した。名探偵に確かな証拠を突きつけられた犯人のごとき降参っぷりと言っても、過言ではないかもしれない。
カーテンがまたそよぎ、風の音とともに一筋の明るい光が寝室に差す。やがて窓が閉められ、部屋はまた暗く静かになった。
結局、コナンがようやく寝室から出られたのは昼前のことだった。
ガラス張りのエレベーターが、ほとんど音を立てることなくスムーズに昇っていく。外に目を向ければ、青々とした海がきらきらと光沢を放っている。青い空、白い雲。穏やかな静寂。
(こんな景色のいい職場があんのかよ……)
しばらくあきれた顔で外を見つめていたコナンの横で、ボブヘアの女性が自慢げに笑みをこぼした。
「どう? うちの最新オフィスは。かっこいいっしょ?」
エレベーターの壁に背を預けているその女性は、いかにも上質そうなツイード生地のスカートスーツに身を包み、胸元には真珠のネックレスが控えめに添えられている。細部まで行き届いた化粧映えも見事なもので、ちらりと覗くピアスもきっとブランド物だろう。しかしおそらくは相当に高価なコーディネートでありながら、成金じみた派手さはまるで感じられない。見栄ではなく身だしなみとして、この上質な装いが当たり前の習慣になっているということなのだろう。
そんな上流階級感とは裏腹に、コナンに対する彼女の態度はなんとも気さくなものだった。
「我が社の新たなランドマーク、鈴木エンタープライズタワー! デザインも中身も最新鋭、中央制御の完璧に統制されたセキュリティシステム! そのうえもうすぐ開業の美術館フロアでは、鈴木家秘蔵のお宝・
「あはは、確かにそうだね」
「……っていうか、あんたもしかして結構背伸びた?」
「まあ、しばらく会ってなかったから」
「まあねえ」
「園子姉ちゃんも、しばらく見ないうちにキャリアウーマンが板についてきたって感じ」
「でしょでしょ?」
にんまりと白い歯を見せる陽気な笑みはあの頃となんら変わりなく、胸の奥に懐かしい気持ちが蘇ってくる。ある意味では蘭以上に遠慮のいらない気楽な友人として、彼女の存在がいかに大きかったのかを今さら自覚してコナンは不思議な感慨を覚えた。
「でも助かったわ。あんたが探偵を再開したって聞いたからダメ元で頼んでみたけど、まさかこんなに早く解決してくれるなんてね」
「僕も驚いたよ、普通なら警察を呼んでると思うけど」
「ま、大人には大人の事情ってやつが色々あんのよ。うちの部署から試作品が流出したなんて社内にバレたら、まあちょっとね」
チーンという普遍的な音とともにエレベーターが静止し、ふたりは通路の奥の落ち着いた個室にへと足を運んだ。この若さで高層階の個室オフィス! さすがは社長令嬢ということだろう。壁際には大型モニター、デスク横には観葉植物、そしてなにより窓の彼方は陽光にきらめく水平線。職場環境としてこれ以上のものはそうそうあるまい。
「こんな待遇だからさ、あたしのことをコネ娘だなんだって陰口叩く人はいっぱいいるわけよ」
機能的なオフィスチェアにどかっと座り、背もたれに体重を預け脚を組み伸ばしながら園子は他人事のようにつぶやいた。
「ま、そんなの単なる事実だからいちいち気にしたりしないわ。だけどいつかは自分の実力をみんなに認めさせてやりたいって思ってる。あんたがその助けになってくれたら嬉しいわね」
小さくうなずくコナン。
「うん、園子姉ちゃんとは今後とも建設的な互恵関係を築いていきたいって、団長も言ってたしね」
「あのうな重があ~? そんなこと絶対言わないっしょ!」
「うん、今オレがでっち上げた」
「あはは! あんたらしいわ」
コナンは上着ポケットから透明袋に入った部品を取り出し、園子に手渡す。
「はい、これが回収した現物」
「うん、間違いないわ。ありがと。……で、実際あんたと哀ちゃん以外の3人はどんな感じなの? あたしの記憶じゃ探偵団っつっても実質あんたら2人のチームだったけど」
「めちゃくちゃ助けられてるよ。っていうか今回僕は他の用事があったから現場にいなかったし」
回収品を撫でる手を止め、ぱちくりとまばたきする園子。
「……あっそう」
「意外だったでしょ?」
コナンの誇らしげな笑みに、園子は肩をすくめて「子どもが子どもじゃなくなるのはあっという間ってことね」とこぼした。
「……さて、ほんとはもっと仕事の自慢でも聞かせてやりたいとこだけど、もうすぐリモート会議があるからそろそろ切り上げないとね」
「やっぱり毎日忙しいんだね」
「そりゃあね。特に今は美術館フロアの開業パーティーのホストも任されてるし、やることが多いったらありゃしないわ」
「すごいや、まさに鈴木財閥の未来の担い手って感じだ」
「ガキがナマ言ってんじゃないっつーの」
互いに笑いを飛ばす2人。コナンは席を立ち、しかし背もたれに手を置いたまま改めて園子に向き合った。
「……最後に、もうひとつだけいい?」
「ん?」
それが今日もっとも聞きたかったことだ。コナンは園子の目をまっすぐ見つめ、真顔で口を真一文字に結んだ。園子もまた、さっきまでの楽しげな表情が嘘のように真剣な顔になっていた。
「キッドのことなんだけど」
「やめて」
間髪入れない返答。園子は視線を一切逸らすことなくコナンを見据えている。
「……園子姉ちゃんなら、なにか知ってるかもと思って」
キッドの長年の大ファンであり、政財界との交流も豊富な財閥令嬢。表に出ていないなんらかの情報を彼女が耳にしていてもおかしくないと考えるのは自然なことだ。
だが、目を伏せた園子の表情はほの暗いものだった。
「なにも知らないわ……。あたしは、あれが本物のキッド様だとは信じたくない。でもそれが単なる願望だってこともわかってる。だから、その話はしたくない」
「……わかった」
「次郎吉おじ様がご健康だったら、きっと血相変えて追ってたんでしょうけどね」
さしもの鈴木次郎吉も今や82歳。彼が病床に伏せていることはコナンの耳にも届いていた。
「ごめんね、急に嫌なこと聞いて」
「ガキが大人に気を使わなくていいのよ」
園子が笑う。
「……ひとつ、お願いしてもいい? キッド絡みで何かあったらすぐに教えてほしいんだ。オレはどうしても真相を知りたい」
「あたしだって同じ気持ちよ。なんならあんたら探偵団への"依頼"ってことにしとこうかしら? キッド様についての調査をさ」
「それがいい、助かるよ」
「だいいち、あんたのいるところに事件あり、だしね。こうやって依頼しといたら向こうから来てくれるかもしんないじゃん?」
「あはは、褒め言葉と受け取っとくよ」
苦笑するコナンに対し、園子はいたずらっぽく目を細める。
「それにしてもあんた、ずいぶん顔つきが変わったわね。ちったあ男らしくなったんじゃない? それってやっぱり
からかうような口調。コナンと哀の新しい関係は、当然園子の耳にも届いているはずだ。恋バナ好きな性格はどうやら変わってないらしい。
コナンはニヤニヤと楽しそうな園子に視線を返し、いささかもためらうことなく答えた。
「うん、そうだと思う」
穏やかで、揺るぎない口調。さしもの園子もそれ以上からかいの言葉は継げず、「あっそ……」と苦笑いするばかりだった。