夜の別邸、正面玄関、その中央。
一人の大男――小嶋元太――の仁王立ち。その眼光と強者のオーラはヒグマのそれだ。肩幅よりもやや広く足を広げたパワースタンス。不動不屈。
キッドはきっと正面から来ると元太は強硬に主張した。根拠は勘だ。元太の勘はよく当たるというのは探偵団の共通認識だった。
元太より後方、玄関ロビーの奥にある通路では歩美が第二の戦力として待機している。ただし元太と違って彼女の姿は大きな彫刻の背後。気配を断って敵の隙を突くための、いわば隠密警備。加えて、この通路はあえて照明を落とし真っ暗闇となっていた。夜目の効く歩美にとって、最も有利な待ち伏せ場所というわけだ。
別邸の周辺および内部には、光彦が設置したセンサーとトラップが張り巡らされている。村雲邸の敷地周縁を守る警備システムはもともと立派なものだが、こと別邸単体については守りは手薄。相手がキッドともなれば、それだけではやはり心もとない。当の光彦は狭小な控室で愛用PCに向き合って最終点検を行っている最中だ。
コナンと哀はメイン展示室の警備を共同で担っている。展示室から通路に出れば、目の前にハメ殺し窓。ここからの襲撃にも警戒する必要がある。
予告によれば、キッドの狙いは展示室の壁際、ガラス壁の向こうに鎮座するモダンアートの金属彫刻だ。中世騎士の兜を思わせる曲線的な形状で、手にちょうど掴み取れるほどの大きさ。
かつての宝石狙いのキッドなら見向きもしなかっただろう獲物だが、今のキッドについてはそうとも言い切れない。少なくとも、裏市場なら相当な高値がつく逸品ということは確かだろう。
「それはいいとして……桔梗さんがなぜここに?」
コナンはターゲットの彫刻を眺めつつ、隣に立つメイド美女に目線を送る。
「客人にすべてをお任せするわけにはいきませんから」桔梗は彫刻に視線を固定したまま、コナンをちらりとも目にせず答えた。「ただ、私を戦力としては期待しないでください」
背筋は直線、体は微動だにしない。どっちが彫刻かわからないぐらいだなという失礼な感想が探偵の頭脳に浮かんだ。
「それはいいんですけど、危険かもしれないですよ。今のキッドは……」
「心得ております」
「は、はあ……。あの、失礼ですけど桔梗さんはどうしてメイドになったんですか? こう言っちゃなんですが、もっと稼げる仕事はいくらでもありそうな……」
「私にとって、小夜子様の存在は絶対ですから」
相変わらずコナンを一瞥もせず淡々と答えを返す桔梗。それにしてもずいぶん極端な言葉選びだ。
「……普通の雇い主と使用人ではないんですか?」
わずかな沈黙。逡巡しているのかどうなのか、桔梗は何度かのまばたきのあと、目線を動かすことなく言葉を紡いだ。
「……もともと、私の両親が小夜子様の使用人だったのです。いわば職場結婚の結果として生まれたのが私。屋敷の離れで育った私にとって、ここは私の家そのものでした。しかし……」
「……?」
「自動車事故が、両親の命を奪いました。7年前のことです」
「!」
コナンの息が詰まる。桔梗の声色は冷静なままだったが、それでもその淡々とした口調の中に彼女の体温がにじみ出ているような気がした。
「家族を失い天涯孤独となった私を、小夜子様は温かく迎え入れてくださいました。これは一生をかけて返すべき恩なのです」
「そう……だったんですね」
それ以上に言葉が継げず目線を逸らすコナン。すると誰かに背後から後頭部をコツンと叩かれた。誰かというか、もちろん振り返らずとも犯人はわかっていたが。
「お仕事中にナンパだなんて、ずいぶん余裕なのね、探偵さん」
「だからそういうのじゃねーっつーの。ったく……」
「はいはい」
「……こないだから思ってたんだけどよ。なんかオメー、オレがキッドに入れ込むのをよく思ってねーんじゃねーか?」
「……別にたいしたことじゃないわ。単なる逆恨みよ」
目を逸らす哀に対し、コナンは片眉を釣り上げる。
「逆恨み? オメーがキッドを?」
「だからあなたは気にしなくていいのよ」
「いや、めちゃくちゃ気になるんだが……」
哀の頬がほんのりと赤らむ。目線は泳いだままだ。
「だから、その……。もしキッドがずっと活動し続けてくれてたら、あなたが一度探偵を辞めることもなかったんじゃないかって……。その、なんで今さら戻ってきたのよ、みたいな……」
最後の方の語尾はほとんど消え入る寸前だった。
「灰原、オメー……」とコナンが顔を近づける。ほとんどキスしそうな距離。
「な、なによ」
「めちゃくちゃ可愛いな、オイ」
耳元でささやかれ、めちゃくちゃ赤面するクールな彼女。
「……だから言いたくなかったのよ……」
「バーロ、オレはオメーがそれだけオレのことを思ってくれてるってのは超嬉しいぜ? ありがとよ、マジで」
「……そ、そんなことはもういいからちゃんと準備しなさい」
腕時計を掲げる哀。スイッチが切り替わったかのように突然研ぎ澄まされた視線がコナンのそれと交わる。ただし、頬の赤みはほんのり残ったままだったが。
「時間よ」
ふたりが同時にうなずき、ギャラリーの壁時計がカチリと音を立てた。
「しっかしすげーお屋敷だったよな~。もっといろいろ見せてくれたらいいのによ」
入口のガラスゲートの前に立つ元太が、ボクサーのようにステップを踏みながら無駄に大きな声で耳のインカムに向けて話す。
『なにしに来たんですか元太くん。豪邸の探検ツアーではないですよ』
「メシだってあれじゃ足りねーんだよなあ」
『元太くんってば、3人分は食べてたのに!』
「オレは5人分は必要だっての! それにメニューがヘルシーすぎるっつーか……」
冷たい夜風に当てられ、軽口を叩きながらも元太の手のひらはじわりと汗ばんでいた。はたして本当にキッドは来るのか? 暴力犯と化した今のキッドは、実のところどれほど強いのか? もしも堕ちたキッドが正面突破を選んでくるなら、それを止められるのはやはり自分だけだ。オレがやるしかない。元太はそう確信していた。
先ほどから彼が饒舌なのは、あるいは緊張と昂りを緩めるための本能的な自衛行動なのかもしれない。
(来るなら来いよ、いつでも……!)
元太の視界は暗い。彼が立つ玄関前だけはスポットライトに照らされているが、そこ以外は本邸がいくぶん光を漏らしているほかは本当に真っ暗だ。仮にキッドが敷地周縁の警備システムをくぐり抜けて侵入できたなら――実のところ、キッドにそれは朝飯前だと誰一人疑っていない――この暗闇の中を進むことは実に容易いだろう。
だがその場合は光彦のセンサー警報がインカムに流れるはずだ。どんなルートから来てもあの密度のセンサーは避けきれない。
はずだ。
(……?)
なにかが来る、ような気がした。本能のそのまた奥がなにかを感じ取った。だが、見えない。庭園の芝生からは足音ひとつ聞こえない。影も見えない。なにもない。
なにもないのに、なにかが来る。
全身が総毛立つ。拳を握る。アドレナリンと血流が加速する。
(来い、来い……!)
元太は前方の
だから彼の反応は遅れた。
「!!!」
気づいたのは遅すぎた。音もなく暗闇の中から突如現れた白い何かは、空を滑るように――文字どおり滑空して――降下し、そのまま衝突した!
「がはっ……!」
もんどりうって侵入者とともに後方に転がる元太。入口のガラスが砕け、粉々の破片が飛び散る。耳をつんざくガラス音。破片がシャワーのように降り注ぐ。
常人ならば昏倒必至の衝撃を受けた元太だが、しかし彼の肉体強度は常人のそれではない。
首をブルブル振るだけでガラス破片を振り払い、すかさず立ち上がる。獣の眼光が侵入者の姿を捉える。白い衣服、白いマント、ハンググライダー……キッド。ただしその顔はマスクで覆われている。小さな何かを握る右手。
(催涙ガス……!)
手はず通り、元太は腰のベルトに吊るしてあったガスマスクを即座に手に取り装着した、その直後。
バン!!!
彼の視界を塗りつぶしたのは、ガスの白ではなく
「が……! は……!」
元太は反射的に背を丸めて体を硬直させた。それでも膝はつかない。全力で踏ん張る。
倒れることなど許さない。誰が許さない?
鼓膜に残るけたたましい砂利鳴り。おぼつかない足取り。
視覚も聴覚も三半規管さえもが役に立たないなか、彼は驚異的にもキッドがさっきいた場所に足を進めようとしていた。
だが次の瞬間、みぞおちに破格の衝撃。背中が"く"の字に曲がる。
「……!」
完全なる不意打ち。肺の空気が根こそぎ吐き出される。巨体がゆっくりと、前のめりに崩れ落ちる。
うつ伏せに倒れた元太を、ゴム弾銃を手に持った仮面のキッドが見下ろしていた。