カツンカツンと、靴音が狭小な通路に鳴り響く。窓もなく、照明も落とされたその廊下は完全な暗闇だったが、キッドの足取りには警戒心の欠片さえない。マスクを外した素顔にも感情の色はない。
彼が通路脇の彫像を通り過ぎた直後、背後に風が走った。
「!」
電光石火の早業。彫像の背後に身を潜めていた歩美が、縮地の踏み込みとともに背後から絞め技を繰り出したのだ。
首を腕で、胴体を脚で絡め取って後方に体重をかけ、背中から地面に落ちる。最強の絞め技・チョークスリーパーの完成だ。
(勝った……!)
頸動脈を確かに捕らえていることを確信し、歩美の口元が緩む。完全に決まったチョークからは絶対に逃げられない――
歩美は最初から焦っていた。予想外の方法で元太が倒された時点で、彼女からいつもの聡明さは失われ、基本的な想定が抜け落ちた。
絶対に逃れられないチョークからも、
歩美はそのミスの重さを、自らの身体を走る痛烈な電撃によって思い知ることになった。
「……!!!」
視界に火花が散る。全身が震え、腕の力が失われチョークが解ける。意識は失われていないが、体はまったく動かない。スタンガンを手にゆっくりと立ち上がるキッドを、ただ見上げることしかできない。
(バカだ、あたし……。みんなごめん……)
泣きたい気持ちだというのに、痺れた体からは涙さえ出てこない。
キッドはまるで何事もなかったかのように、歩美を一瞥することさえなく去っていった。
『コナン君! キッドがもう部屋の前まで来てます!!』
無線から届く焦りの声に、思わずコナンは口角泡を飛ばす。
「もう来てますって、おめーのトラップはどうなったんだよ!?」
『全て突破されました……。まるで何がどこにあるのか全部お見通しかのように……!』
「な……!」
『とんでもない怪物に手を出してしまったのかもしれませんよ、僕たちは……』
息を呑むコナン。すかさず後ろを向いて大声を張り上げる。
「灰原、おめーは桔梗さんと一緒にあの台座の下に隠れるんだ! あとはオレがなんとかする!」
「本気で言ってるの……!? あの子達が手も足も出なかったのに……!」
「へへっ。なあに、天下のキッドキラー様に任せなって」
場にそぐわない満面の笑み。鼻の下をこすって白い歯を輝かせるコナンに対し、哀はひとつの頷きだけを返す。彼女が桔梗とともに台座の下に姿を隠したちょうどそのとき、コナンは入口の気配を察知し両拳を握りしめた。額からは冷たい汗が垂れ落ちる。
「来やがったな、強盗野郎め……!」
照明の消された廊下の暗闇から浮かび上がる、白いゆらめき。すぐにそれがはっきりとした形となる。
シルクハット、マント、スーツ、靴……すべてが、白。なにもかもがかつてと同じ。その顔立ちも、まったくブレのない達人的歩法も。
だが違う。目が違う。あいつはこんな機械のような目じゃなかった。あんな冷たい
あいつはいつも、いけ好かないキザ野郎でポエム好きで神出鬼没の――"人間"だった。
「今のおめーはただの人形じゃねーか……!」
キッドは応えない。代わりにゴム弾銃を構えた。目を見開いて咄嗟に床に伏せる。直後、背後でガラスが砕けるけたたましい音。
「ぐっ……!」
細かな破片が背中の上に飛び散る。キッドはロボットじみた迷いのなさで、ただまっすぐに突き進む。コナンをちらりとも見ようとはしない。彼の視線の先には、砕けたガラス壁に守られていた金属彫刻のみ。
(オレのことなんか相手にする気もねえってか……!)
床を這いながら上半身を起こす。左手を顔の前で構え、右手でスイッチに指をかける。腕時計型麻酔銃。このキッドが本物だろうが偽者だろうが、この一本の針には絶対に耐えられない。十字の照準が首筋と重なる。
(今だ!)
完璧なタイミングでの引き金、確信の一撃。
――コンマ数秒後、針は紛れもなく首筋に刺さっていた。
糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちるキッド。
勝った。間違いない――
サクッ……
「!?」
次の瞬間、キッドは
針の刺さったその場所が、針のように細く鋭い真紅に染まる。だが浅い、浅すぎる傷。
「くそっ……!」
起き上がって次の攻撃を仕掛けようとするコナン。その直後に腹を突き抜ける衝撃、ゴム弾銃。ヘビー級のボディブローのごとき一撃がたちまち全身の自由を奪う。
「がはっ……!!! ……!!」
無造作に金属彫刻を掴み取るキッド。それを持って、入ってきた通路とは別の通路に向かう。その方向に出口はない。だが
(あっちにはもうひとつの窓……! それを破って逃げるつもりかよ……!)
逃走とは犯行における最重要段階であるべきだ。なのにキッドはただ淡々と歩いているだけ。走る必要さえないというのか。侮辱に次ぐ侮辱、屈辱に次ぐ屈辱。
歯を食いしばるコナン。地面に手をつき、必死で立ち上がろうとする。膝が震え、体に力が入らない。そこに哀が駆けつける。
「江戸川くん! 無茶しないで!」
コナンに肩を貸して立ち上がる哀。哀に体重を預けたコナンはかろうじて深く息をつき、わずかに痛みを和らげる。
「ヤローを逃がせねえ……!」
「そんなこと言ったってどうする気よ!?」
「灰原、なんでもいい、思い切り蹴飛ばせるものを……!」
「……あなた、ここが美術館だってわかってる?」
あきれたように薄く苦笑いを浮かべる哀。だけどその表情は、ほんの少しだけ楽しそうでもあって。
「あとで土下座でもなんでもするさ……!」
「……あなたと一緒にいると、私まで馬鹿になっちゃいそうよ……!」
そうぼやく哀の声色は、率直に言って正しい推理にたどり着いたときのコナンに少し似ていた。
キッドは窓に向けてゴム弾銃を放った。全体が砕け散り、外の風が吹き抜ける。
銃をホルスターに戻し、窓枠に脚をかけようとしたまさにその瞬間――
衝撃が頭部を突き抜けた!!!
ボウリングの玉と玉がぶつかったかのような重く乾いた音。
キッドが盗んだものと似た大きさの、もうひとつの金属彫刻がくるくると回転しながら宙を舞う。
ゆっくりと、その場に崩れ落ちるキッド。
会心のキックを放ったコナンもまた、ゴム弾による腹筋の激痛でやむなく膝をついた。カランコロン、彫刻が転がる。
「はあっ! はあっ……」
勝った。今度こそ。
キッドは窓の下の壁にもたれかかり、ぐったりと俯いている。ぴくりと指が動いているのを見るに、"やりすぎて"しまったわけではないはずだ。
わけのわからないことばかりだったが、これでようやく一連の騒動に区切りがつく――
「うう……ここは……?」
「!!!」
しゃべった。奴が。
キッドは頭部を抑え、鮮血を流しながらまばたきふたつ。その目が上を向き、コナンを捉える。
「「!」」
キッドとコナン、両者の目が見開かれる。言葉より確かな情報の奔流。稲妻が走る。
「うぐ……! くそっ……だめだ……!」
頭を抱えて苦しむキッド。駆け寄ろうとするコナンだったが、脇腹の痛みがそれを許さない。
キッドは再びコナンを見た。今度は一段と目を見開き、このうえなく強いまなざしで。
そして、叫んだ。
「頼む、オレを探してくれ名探偵……!! "月が沈む舞台"で……!」
息を呑むコナン。
次の瞬間、キッドは窓の外に身を投げあっという間に姿を消した。ようやく立ち上がったコナンが窓にたどり着いたとき、闇夜の芝生には影ひとつ残されていなかった。気配も足音もなにもない。
ただ、弱々しい風の音だけ。
「……江戸川くん、今のは……」
隣に駆け寄った哀がつぶやく。彼女の後ろには、無言で窓の外を見つめる桔梗。
コナンは哀に視線を送り、小さくうなずいた。
「ああ……」
その顔は焦燥でも怒りでもない。呆然としつつも、しかし重要な手がかりをようやく掴んだ探偵の顔。静かなる決意の顔。
「あいつはキッドだ。正真正銘、本物の怪盗キッド……。あいつが、オレに……助けを求めていた」
ここまでが第一章【事件編】となります。
なお、本作は完結まで毎日更新予定です。
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