6 失われた時間
「探偵クラブ」部室。
キッドの件から一夜明け、探偵団一同が部室中央のテーブルを囲んでいた。学校は休日で、青空の下の校庭からは運動部の威勢よい発声が漏れ聞こえてくる。いかにも青春らしい外の様子とは裏腹に、部室の空気はどんよりと湿っていた。
「はあ~、まだちょっと痛て~ぜ」元太が肩を回しながら眉間にしわを寄せる。「こっぴどくやられちまった」
とはいえ、この程度のダメージで済んでいること自体が彼の桁外れの頑丈さの証でもある。同じゴム弾で撃たれたコナンの腹は赤黒く腫れているというのに、元太いわくあんなんで腫れるわけねーだろとのことらしい。
彼の隣に座る歩美には幸いかすり傷もなく、ただしメンタル的には彼女の方が損害が大きいかもしれない。この日何度目かわからない大きなため息。
「あ~あ、あたしがもっとしっかりしてたらなあ……。あんなの初歩的ミスだよ……」
コナンは2人を交互に見やり、「落ち込むこたねーよ、相手が悪すぎただけだ」と彼なりに精一杯なぐさめた。
「僕たち全員、キッドを舐めていたということでしょうね。正直あそこまでしてやられるとは」
「とにかく全員大した怪我じゃなくてよかったわ。それが何よりじゃない? それに結果的に
哀に微笑みかけられると、光彦の表情がパッと明るくなる。
「そのとおりです! 報酬もちゃんと受け取れましたしね。これはひとつの成功ですよ」
「あのばーちゃん、キッドのことでなんかわかったらすぐ教えてくれっつってたしな。なんだかんだでオレたち結構信頼されたんじゃね?」
「それもそっかあ」歩美がうなずく。
「なにより、キッドの手がかりは掴めた」
コナンが断じる。全員の視線が集まる。
「……キッドは何者かに洗脳されていた、と。どこまで信じていいのやら……」
「オレはこの目で見たんだ。あの瞬間、あいつは"あいつ"に戻っていた。そしてオレに助けを求めたんだ。あいつは……必死だった」
「その行動自体が時間稼ぎだったという可能性もありますよ? ダメージから回復するための」
冷徹な指摘に一瞬だけ言葉が詰まる。
コナンは、あの時のキッドの行動は断じて演技などではなかったと確信している。あの目は、あの必死の表情は、疑う余地なく本物の感情だった。
だがそれをこの場で証明できるか? できるわけがない。
「それは……! 確かに全否定はできねーけど……!」
「コナン君、きみがキッドに肩入れする気持ちはわかりますけど、僕たちは先入観なく事実だけを積み上げるべきですよ。正直言って、ことキッドに関してきみはちょっと思い入れが強すぎるように思えます」
「……否定はしねーよ。撤回もしねーがな」
身を乗り出す光彦。
「……僕はきみがその目で見たことを全否定するつもりはありません。しかしキッドが本当に操られているのかどうか、今確かめることは不可能です。だったらこれまでの犯行パターンを分析するなりして動機や次の行動を予測した方がいい」
論争を眺めていた元太が天井を見上げる。
「んー、どっちの言うこともわかるっつーか……」
歩美がうなずく。
「あたしはどっちかっていうと、キッドは本当はいい人って信じたい方なんだけど……。でも元太くんにやったことはちょっと許せないかな」
「お、おう……」
かすかに頬を赤らめる元太。気の利いた言葉を返せない彼の代わりに哀が微笑を向ける。
「あら、優しいのね歩美。私は江戸川くんのケガは自業自得だと思ってるけど」
「オイ」
隣の恋人にジト目を送るコナンと、すかさずジト目をお返しする哀。あいにく、このにらみ合いは哀に一日の長がある。
「あまり無茶するなって言ってるのよ」
「ハイ……」
「おめーら夫婦喧嘩は家でやってろ。な? で、光彦。分析とかなんとかいうやつは当てあんのか?」
「ええ、手がかりはいくつか。とにかく片っ端から当たってみるつもりです」
「ふーん、ならいいんじゃね。コナンとは別行動ってことで」
耳をほじりながら気軽に結論を投げる元太。腕を頭の後ろで組んで背もたれに体重を預ける。こんなことでいちいち揉めんなと言わんばかりだ。
「要するに最後に探偵団が手柄を上げりゃあいいわけだ」
「……確かにな」
「異論ありませんね」
コナンと光彦が同時にうなずく。なんだかんだで息合ってんじゃねーかと元太は小声でツッコんだ。
「オレはキッドの言ってた"月が沈む舞台"ってやつを探しに行く。オレの探偵としての勘じゃあ、真実はそっちにある」
「ではお互い、各々のベストを尽くすということで」
光彦がうなずき、元太は立ち上がって思いきり背を伸ばす。
「はあ~、会議終了ってことで、オレはメシでも食いに行くかあ……」
「さっき食べてたあれはなんなんですか」
ゴミ箱に入った弁当箱の残骸を指差す光彦。
「ケガしたら倍食って栄養摂らねーといけねーだろーが! おめーらももっと食えよ、デカくなれねーぞ」
「元太くんは昔みたいにおデブさんになったらダメだよ~」
「なっ、ならねーよ多分!」
部室が笑いに包まれ、空気が少し軽くなる。
どこまで意識しているかはともかく、団長という肩書は伊達じゃないなとコナンは少し納得し笑みがこぼれた。
解散後、部室を出たコナンと哀はふたり並んで廊下を歩いていた。
哀は隣のコナンに顔を向け、「あれでよかったの? なんだか探偵団がまた分裂しちゃうんじゃないかって」と小声でつぶやく。だがコナンの表情はいたって平然としたものだった。
「そんな心配はいらねーよ。Agree to disagree(※不合意であることに合意する)ってやつさ。それに光彦の言ってることは何も間違っちゃいねえ。確かに、どっちかっつーと感情的になってるのはオレの方だしな」
「あら、負けを認めたってこと?」とからかうような笑み。
「ちげーよ、オレにとって感情と探偵としての直感は一体不可分ってことさ。こっちの道の先に真実があるってことは疑っちゃいねーが、だからって他の道が行き止まりとは限らねえ」
コナンは口角を釣り上げ、誇らしささえ感じられる微笑を隣の恋人に向ける。
「もしかしたらオレ達どっちも正解かもしれねえだろ?」
「それも直感?」
「ああ」
「いつの間に円谷くんをそんなに信頼するようになったのかしら。なんだか妬けるわね」
「バァーーロ、おめーは特別中の特別だっつーの……」
両手をポケットに突っ込み、腰を曲げて下から哀を見上げるコナン。その頬はほんのりと赤らんでいる。
「ふふっ、そうであることを祈ってるわ」
「ったく……。とにかくだ。おめーっていう最高のパートナーがいりゃあ、解けねえ事件なんてあるわけねえ。だろ?」
「……ありがと」
ほんのり頬を赤らめる哀と、白い歯を見せて笑うコナン。
「……ま、そこまで頼ってくれるなら私も頑張るわ。だけど私にできるのはせいぜいパスを出すまで。シュートを決めるのはあなた」
「ああ任せときな。っつーかそのたとえ、こないだの比護さんのゴールに影響されただろ?」
キャリア晩年と囁かれていた比護が決めた劇的なボレーシュートは、テレビ観戦の哀を狂喜乱舞させた。その興奮ぶりはコナンも耳をふさいで苦笑したほどだ。
「べ、別にいいでしょ」
照れ混じりのジト目で恋人をにらむ哀。
「へへっ、可愛いヤツ」
外に出たコナンは、数えるほどしか雲のない真っ青な空を見上げる。つられて哀の顔も空に向く。
「……あいつも、この同じ空の下にいるんだよな」
「ずいぶん詩的ね。怪盗さんの影響かしら?」
「ああ、多分な。……やっぱり、真実にたどり着くためにはどうしてもあいつを見つけるしかねえ……。"月が沈む舞台"か……」
拳を固く握る。
「オレが見つけるまで、くたばんじゃねーぞコソ泥野郎……!」
パーカーのフードを深く被った男が、都会の喧騒をふらふらと歩いていた。両手をポケットに突っ込み、姿勢は丸まり、うつむいた顔の造形は周囲からは伺えない。わざわざ人の流れを横切るように歩いていたその男は、とうとう一人の通行人とぶつかりバランスを崩す。
「ちっ、前見ろよ!」
スーツ姿のサラリーマンの罵声を無視し、パーカーの男はなおもふらふらとさまようように人混みにへと消えていった。「朝から酔っ払いかよ」眉をひそめてその場を去っていくサラリーマン。鞄のサイドポケットから、買ったばかりのペットボトル水が消えていたことに気づいたのは数分後のことだ。
「うぷっ……おええ……」
フードの男はひと気のない路地裏で胃の中身を撒き散らした。出すものを出しきってから、ペットボトルの水をむさぼるように飲み干す。砂漠でようやく手にした一杯の水瓶のように。
ようやく少し楽になった男は、自分の吐瀉物から少し離れた先の路地で地面に腰を下ろし壁に背を預けた。
「はあ、はあっ……」
上を見上げる。雑居ビルの隙間からわずかに覗く青空。空はあんなに明るいのに、ここはこんなにも暗い。どういうわけか、そんな些細なことで涙がこぼれ落ちそうなおかしな感覚が込み上がる。
「オレは……オレはなぜここに……? 今までオレは何を……」
昨夜、何があった? オレはどこにいた? わからない。思い出せない。
まるで長い長い夢を見ていたかのように、あらゆる記憶がぐちゃぐちゃに混じっていて、確かなものはなにも掴めない。頭に浮かぶ不規則な画のどれが本当の記憶で、どれがただの夢の残照なのか、まるでわからない。
無限に続くかのような混沌の中から意識が戻ったときには既に、彼はサイズの合わない古着を羽織って街をさまよっていた。怪我をすることなくこの路地にまで辿り着けたこと自体が小さな奇跡だ。
夢を見ているときにいつ夢が始まったのかわからないように、彼はこの不可解な状況がいつどうやって始まったのか、自分がなぜここにいるのか、まるで見当もつかなかった。
両の手のひらを見つめる。薄汚れた手。かすかに震えている。自分自身の手でさえないような、ばかげた感覚。
――そのとき、彼の脳裏にひとつの顔が浮かんだ。
「……名探偵……?」
最後の記憶? 定かではない。正確に言えば、最後のような感触のある記憶。そこに映るあの顔を、知っているような気がした。かつて何度も対峙した、忘れることのできない顔。――だけど、年齢がずいぶん違う気がする。自分の知っている名探偵の顔は、もっとずっと子どもの顔だったはずだ。そしてなぜか、その顔とともに側頭部に殴られたあとのような痛みが走る。
これはなんだ。
これは……
いや。
――オレは誰だ?
「……オレは……オレの名は……」
人間にとってもっとも基本的な情報を、意識の一番深い底から掘り起こす。どうして今の今までわからなかった? どうしてそれがわからないことにさえ気づかなかった?
「オレは……黒羽快斗……。オレは……怪盗キッドだ……」
その名を――異なるふたつの名前を――口に出して、ようやく自分が自分に戻った気がした。世界が世界に戻った気がした。曖昧な夢の中ではなく、物理的な現実に己が存在しているという確かな手応えがこの手に、この身体に戻った。ようやく、ようやく。
そう、何が不確かであっても、オレがオレであることだけは揺るがない真実だ。だってそうだろう?
――だが、この強烈な違和感はなんなんだ?
快斗は壁に体重を任せながらかろうじて立ち上がり、すぐそばのゴミ置き場を漁った。何かとてつもなく重要な何かが、そこにある気がしてならなかった。
悪臭。
牛乳パック。
野菜の皮。
――新聞。
そのぐしゃぐしゃの紙くずを掴んだ瞬間、心臓が痛烈に締めつけられる。歯が音を鳴らす。息が止まる。
震える手で、その大きな灰色の紙を広げる。
そして、
世界が凍りついた。
「そんな……バカな……」
新聞の日付。
彼の記憶にある数字ではない。
自分が最後に思い出せる日付と、端に書かれた小さな数字とはあまりにも違う。あまりにも、あまりにも。
「6年……?」
新聞が指の間で音を立てる。
震える手にその無慈悲な事実を掴んだまま、快斗はその場に崩れ落ちた。