飯をかきこむ、とはこういう光景を言うのだろう。若い男がテーブルにかじりつくように一心不乱にキーマカレーをむさぼり食うさまを目の当たりにして、恰幅のいい髭面の店主が肩をすくめた。
「ヤー、こんな腹ペコのニホンジン、初めて見たネ」
快斗は応えない。ただただこのキーマカレーを食べることだけが今の彼の世界のすべて。舌に染みる。胃に染みる。血に染みる。食事にこれほどの喜びを感じたことなど、彼の人生で一度もない。
皿が空になり、最後の米粒ひと粒までもを食べ尽くして、快斗は震えながら頭を下げた。
「すまねえ……すまねえ……!」
店主が笑う。
「アハハ、店の裏でヒトに死なれたらショーバイにならないネ」
「……!」
目から涙が溢れ出した。黄色の残るカレー皿の上に、塩水がぽたぽたと落ちて黄色が滲む。
「こんな美味いもの……オレは……食ったことねえ……。だけど……」
頬が震える。この先の言葉を口にするのを、心底怖いと思う。恥だと思う。
「すまねえ……金は……」
「アハハ! お金ないの、見たらわかるネ! 困ったときはオカタイ様だネ」
「え……」
おそるおそる顔を上げる。店主は既にキッチンに戻り、仕込み作業に打ち込んでいた。開店前の忙しい時間だということにようやく気づく。
「ハイハイ、あなたお客サマじゃないんだから、お皿は自分で洗ってネ!」
「……!」
嗚咽。しばらくして、ようやく涙を抑え込み、もう一度頭を下げた。
カネがないとはどういうことか、快斗は骨身に染みて思い知った。同じ東京にある自分の家に戻ってくるだけでどれだけ歩き続けたか。
もちろん、怪盗キッドである彼が誰かから金を盗むのはあまりにも簡単だ。今この瞬間に通り過ぎた、スマホに夢中の女性のバッグから財布を拝借しても、彼女がそれに気づくのはずいぶん後のことだろう。
だけど、やりたくはなかった。
自分はもうドン底にいる。
これ以上堕ちたくはない。
「やっと……帰ってきた……」
懐かしさが胸にあふれる。生まれ育った我が家。記憶とは少し色味が違うような気がするが、姿形の一致と比べれば些細なことだ。色使いの覚え違いぐらいはあるだろう。
ふと困る。さすがに鍵は持っていない。どうやって入ろうか? 自分の家をピッキングするというのも不恰好だが、仕方がないか。
しばらく立ち止まっていたところで、不意に玄関が開いた。
「え?」
立ちすくむ快斗。
「え?」
中から出てきた、カーディガン姿の中年男性――知らない他人。
「うちに何か用かい?」
男が快斗に尋ねた。
何を言ってるんだこいつは。そう言いたい気持ちを必死に抑え、快斗は平静を装った。
「ここって黒羽さんの家ですよね?」
「クロバ?」
首を傾げる男。
「もしかして前の住人に用があるのかい?」
「え……」
「不動産屋は、長いこと空き家だって言ってたけど」
そのあと彼と何を話したのか、快斗は覚えていない。
気づいたときには、子どもの頃から数え切れないほど遊んだ公園のベンチで、快斗はぼんやりと土を眺めていた。
もう帰る家はない。家族もいない。身分証も、携帯番号も、自分がこの世に存在するという証は何ひとつない。
今のオレに何がある? いったい、何がオレに残っている?
わからない。何もわからない――。
そうして、どれぐらいの時間が流れただろうか。
(――快斗!)
目を閉じれば、浮かんでくるのは彼女のこと。いつだって彼女のことだ。
子どもの頃から、そして成長してからも、彼女はいつだってもっとも大切な人で。
青子。ずっと快斗の隣にいた。ずっと、ずっと。
(あいつに……青子に、会いたい。会わなきゃだめだ。会って確かめなきゃ……)
もやのかかった不確かな記憶の中で、おそらくはこんなふうに6年分の過去が消えるその直前に、青子から伝えられた言葉がある――そんな気がしてならなかった。
快斗は祈った。蜃気楼のように頼りない手触りでしか思い出せないその言葉が、哀れな脳が悲惨な主を慰めるために作り出した幻覚でないことを。真実の記憶であることを。
手を合わせ、目を閉じて、生まれて初めて心の底から神に祈った。
手の甲に赤い指の跡が残るまで、その祈りは続いた。
そして立ち上がった。
この日、快斗の目には初めて決意の色が宿っていた。
多くの人々が行き交う駅前のペデストリアンデッキ。その片隅に、片手を天に突き刺し揚々と声を上げる若者がいた。
「ぅレディィィス・エェェンド・ジェントルメェェェェン!! さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい! とっても楽しいマジックショーだよ! 瞬きしたら見逃しちゃう!」
誰も足を止めない。
視線さえよこさない。
怪盗キッドとして浴びてきた、数々のまぶしいスポットライトとのあまりの落差。だけど今はこの落差こそを楽しむときだ。腹ならもう括った。
「さっきのボールはどこに行ったと思う? じゃーん! なんと、このバケツの中なんです!」
道具はゴミ捨て場や公園の放置品からかき集めた。へこんだバケツ、欠けたコップ、汚れの落ちないゴムボール……。このガラクタこそが今の彼の全財産だ。そして、今この歩行者デッキこそが彼の劇場だ。
声を張り上げ、精一杯の元気を出して通行人の一人ひとりにアピールする。声が弾む。手先が踊る。バレエダンサーのように軽やかなステップを踏む。笑顔。笑顔こそが心臓だ。
「さあご覧ください! ボールが大きくなりました!」
パチ、パチ、パチ。初めて拍手が聞こえた。小さな拍手。小さな女の子。母親が頭を撫でている。
――初めての、お客様。
「お兄ちゃん、はいどうぞ」
女の子に促され、片膝をついて両手を差し出す快斗。チャリン。手元に2枚の100円玉。後方で母親が苦笑いを浮かべている。「それ今日のおやつ代だからね?」「うん」丸い横顔、小さなうなずき。母親に手を引かれ、最後に女の子がこちらを振り向く。「じゃあね、お兄ちゃん」
涙がこぼれそうになるのを無理やりこらえ、親子が見えなくなるまで手を振り続けた。
「次のマジックはこの一枚のカードを使います! 通行人の皆さま、お忙しい社会人の方も、仲良しカップルの方も、30秒だけあなたの時間を私にください! 今日の食卓の話題を彩る、とびっきりのミステリーがここにあります!」
オレは世界的マジシャン、黒羽盗一の息子。
オレはマジシャン、ひとりのマジシャン、黒羽快斗。
今ならわかる。ようやくわかった。
これがオレの生き方だと。
「ありがとうございます、ありがとうございます! 万雷の拍手をありがとうございます」
いつしか周囲に集まった、5人の観客からの「万雷の拍手」。深々と頭を下げ、何度も何度も礼を繰り返した。
西の空がオレンジ色から夜の色に変わり始めたころ、快斗は駅裏の段差に腰を下ろしてお金を3回数え直した。
1590円。――大金だ。
「……晩飯ぐらい、食ってもいいよな」
ぶるりと体が震え、吐息が白く染まる。とにかく温かいものが食べたい。お気に入りのラーメンチェーン店がこの先の角にあったはずだ。幸い、その店はまだそこにあった。鶏ガラと醤油のたまらない匂いが全身を包み込む。誘惑の糸に引っ張られるように手を伸ばし、昔懐かしい木造りの扉を開ける直前、ふと店先のメニュー看板が目に入る。
「……ん? チャーシュー麺1,600円……せんろっぴゃくえん!?!?」
6年という歳月の長さを、快斗は改めて思い知った。