警視庁捜査二課。詐欺、横領、贈収賄といった知能犯罪に特化した部署だ。
この捜査二課には"名物警部"がいる。最近はもっぱらデスク組を統括していた彼は、「怪盗キッドの復活」という大ニュースによって再び青空の下に引っ張り出されるようになっていた。
「ちくしょう、また偽の予告状だ!!」
夜遅く、足を踏み鳴らしながら部署に戻ってきたスーツ姿の警部――中森銀三――が、濡れたジャケットを乱暴にデスクに叩きつけた。背後の窓からは、雨ににじむ官庁街のビル明かりが見える。
「なんだってこんなクソみてえないたずらがこんなに多いんだよ!! これじゃ肝心のキッドがいつ現れるのかちっともわからねえ!!」
怒り心頭の中森に対し、デスクワーク組が気楽なコメントを口にする。
「最近はユーチューバーとかもキッドの話題ばかりですからねえ。愉快犯が出るのも仕方ないですよ」
「ちょうど今どきの若者が一番キッドの直撃世代なんじゃないですか? ある意味子ども時代のヒーローですからね、キッドって」
「ヒーローだァ~?」
サイバー詐欺担当の部下に顔から迫る中森。警官といっても現場とは無縁のデスクワーカーが、キャリア30年のベテラン刑事にこんな圧をかけられてはたまらない。
「ぼ、僕が言ってるわけじゃないですよ!」
「フン、オレ達の仕事はそのヒーローに手錠をプレゼントしてやることだよ」
仏頂面の中森がどかっと大音を立てて席につくと、その直後に捜査二課の電話が鳴った。
「中森警部! 娘さんからお電話です」
「……青子から……?」
内線を取った中森。受話器から聞こえてきたその声は確かに愛娘のものだった。
『ごめんねお父さん、仕事中に。携帯が壊れちゃって』
「いや、大丈夫。で、何の用だ?」
『……お父さん、最近のキッドの件、どう思う?』
心配そうな声色。もしかしたら自分が現場復帰したと気づかれたのかもしれない。デスク組に移ったと聞いたときに、これでお父さんが危ない目に会わずに済むと喜んでいた娘のホッとしたような笑顔を思い出し、中森の胸がちくりと痛む。
「……俺の立場じゃあ迂闊なことは言えねえよ。ひとつ確かなことは、誰かがヤツをとっ捕まえて真実を確かめなきゃいけねえってことさ」
『やっぱりそうだよね。でもあんまり無理しないで。"あの子"もお父さんに会いたくて寂しがってるよ』
唐突に出てきた、"あの子"という言葉。だが中森がその言葉を不自然に思うことはなかった。不自然どころか、その言葉を聞いただけで温かい気持ちが込み上げてきたぐらいだ。
「やっぱりそうだよなー! 俺だって早く結月に会いてえよ。でも今はちょっと忙しいんだ、少しだけ待っててくれよな」
『……ゆづ、き……』
突然、青子の言葉が詰まった。鼻水をすすったような音が聞こえる。
「ん?どうした青子?」
『う、ううん! なんでもない。実はね、その……、結月がすごく欲しがってるおもちゃがあって、お父さんからのサプライズプレゼントってことにしてくれたら嬉しいなって』
「おおー、いいなそれ!どんなおもちゃだ?」
説明を聞いた中森は手早くメモを取る。
『しばらく忙しいんだよね? じゃあできたらうちに送ってくれたら助かるな。……一応、念のため住所言っておこうか?』
「必要ねえよ。東江古田町 2-23-22だろ?」
一瞬の間。
『……うん、それ。ありがとうお父さん。お仕事頑張って……。でも、無理は、しないでね』
「……ああ、お前も無理するなよ」
『うん、……またね』
通話が終わった。
最後の方で、また鼻水をすする音が聞こえた気がした。いったいどうしたんだろうか。……花粉症か? いやいや、今は気にしている場合ではない。キッドの追跡と、プレゼントの購入。大切なミッションがふたつもできたのだ。
「待ってろよ結月~。おじいちゃんが最ッッ高のプレゼントを買ってあげるからな~♪」
さっきまでの不機嫌はどこへやら、中森は部下たちの視線も気にせず鼻歌交じりにスキップを踏むのだった。
ガチャリ。
公衆電話の受話器が置かれる。
受話器から離れたその手は、壊れそうなほど細かに震えていた。
「……ゆづき」
か細い声で、何度も何度もその名を口にする。手で口を抑え、それでも嗚咽があふれ出す。
夜の街角の公衆電話ボックス。雨が天井を叩いている。周囲からは酔った若者が騒ぐ声が聞こえる。
都会の喧騒の中で、快斗はたったひとり雨音に包まれ立ち尽くしていた。
夜遅く。
コナンはベッドに仰向けで倒れ伏し、「はあ~~~~っ」と特大のため息をついた。着の身着のままの大の字。そのだらしのない姿に哀があきれ顔で彼氏を見下ろす。
「無駄足だらけでなんの成果も得られませんでした、ってカオしてるわね」
「バーロ……うまくいかない候補を潰しただけだっつーの」
発明王エジソンの名言を引き合いに出して自分を擁護する名探偵。しかし哀は苦笑するばかり。
「そのわりには憂鬱そうじゃない」
「……いやまあ……そりゃそうだけどよ……」
コナンはガバッと起き上がってベッドの縁に腰掛ける。そのぴたり隣に哀も腰を下ろす。
「くっそ~、キッドの野郎と関係ありそうな場所を片っ端から回ったのに取っ掛かりさえ掴めねえ……。なんなんだよ、"月が沈む舞台"って……」
この日コナンは方方を駆け回った。特に目をつけたのは過去にキッドが出没した、その中でもコナンと激突した犯行現場だ。コナンがそれらの現場に足を運ぶ間、哀はこのライバル同士が関わり合った事件を徹底的に洗っていた。
「『あのときキッドは洗脳が解けたばかりで頭が混乱していた。だから複雑なメッセージなんて考えられたはずがない』……。私も確かにそうだと思うけど」
コナンの推理を反復する哀。
「ああ……あれは暗号なんかじゃない。あいつは単に、オレの顔を見たあの瞬間に頭に浮かんだことを口走っただけのはずなんだ」
それすなわち、この宿命のライバル対決に関連するなにかを連想したのではないか?というのがコナンの推理だった。だが今日1日を費やした結論としては、その方向はおそらく空振りだ。
「じゃあ何か単純なことを見落としてるってこと?」
「多分な……。ああくそ! こんなことなら昨日無理にでも追いかけとくんだったぜ」
「無茶はしないでって言ってるでしょ。重症じゃなかったのはラッキーだっただけなのよ」
哀のジト目が、物わかりの悪い彼氏を本気で睨む。その眼光にいささかの怒りが含まれている気がしてコナンは後ずさった。
「お、おう……」
「まったく」
一息ついた哀は、コナンではなくスマホに向き合って画面に指をすべらせる。おしゃれな風景や料理が次々現れては流れていく。
「……何調べてんだ?」
「なにって、インスタ映えするおしゃれなカフェとか流行りのメニューとか……。別にいいでしょ、このぐらい」
「いや別にだめってわけじゃ……。まあいいや、オレ先に風呂入ってていいか?」
「どうぞ」
部屋の扉が閉まると、哀はベッドにうつ伏せで寝転がった。脚をパタパタさせながら引き続きスマホでちょっとした旅行気分を味わう。
なにしろ最近全然まともなデートに行けていないのだ。行きたいお店のリストはますます長くなり、永遠に消化できる気がしない。
「ま、別にいいけどね……」
ふと指が止まった。
美しい夜景――夜の海、水平線、そこに重なる門のようなアーチと、遠く背後に沈む月。どこか不思議な感覚。単に美しいというだけでなく、既視感じみたなにか。
いや、既視感ではない。私はこの場所に行ったことなんてない。
その時、脳裏に電撃が走った。
ここは行ったことのある場所じゃない。
私が、いや私たちが、
三連休の最終日。午前中のうちにコナンと哀はさっそく昨日見つけた海辺のテラスカフェを訪れていた。
テラス席から見て海側、防波堤の内側には階段のようなコンクリートの段差があり、その中央には人が通れる門のようなアーチがある。いかにも写真映えするデートスポットという佇まいだ。
「舞台」に見えるかというと、まあ見えるとも言えるし、見えないとも言える。
ただ、あのアーチの下でプロポーズでもすればそれはさぞかしロマンチックだろう。数年前にネットで大バズリしていた写真では、ちょうどアーチの後ろに月が映る構図で、男性が女性を前にひざまずいて指輪のケースを広げていた。
「いやまあ……写真は綺麗だけどこれは演出がキザすぎだろ。つーか誰が撮ったんだよこの写真」
哀のスマホを手に取りながら苦笑いを浮かべるコナン。
「あなたがそれ言う?」
キザ野郎を絵に描いたようなホームズ気取りを前にあきれ顔の哀。
ふたりはおしゃれカフェの模範例とも言うべき一戸建て店舗のテラス席で白いテーブルを囲んでいた。寄せては返すさざ波の音が心地よいが、海風は正直寒い。人気スポットでありながらテラスに人がいないのは要するに季節外れということだろう。
「正直、他の写真を見ても確かにここが"
「ネットのコメントを見ても、『まるでこの舞台に月が沈んでいってるみたいだ』なんて書いてる人もいるものね」
「ああ……。これを見たら誰でも考えることなんだろうな」
腕を組んで首をひねるコナンと、コーヒーカップに角砂糖を落としてかき混ぜる哀。
「でもそうだとしたらどうしてここなんでしょうね。単なるデートスポットよ。ここにキッドの狙うお宝があるってわけじゃなし」
「ああ、ここに財宝の類があった試しはねえ。それは徹底的に調べた」
「……つまり、キッドが狙うような場所じゃない」
「でもそれじゃあどうしてあの瞬間に頭に浮かんだ場所がここだった……? ちくしょう、何を見落としてるんだろうな」
「焦っても仕方ないじゃない。私はたとえ無駄足でも、あなたとここに来れてよかったと思ってるわ。だってこんなに素敵なお店なんだもの」
コーヒーをひと口。そして目を細め、ゆるやかな表情で海に目をやる哀。海風に髪がそよぐ彼女の美しさに目を奪われ、頬が熱くなる。
なんてこった、なんでこんなに綺麗なんだ?
「あ……ああ……」
そんな間抜けな返事しか返せない。
「……それに、正直言って私はあなたにあまりこの事件に深入りしてほしくないと思ってるしね」
「え?」
哀は手元のコーヒーカップに視線を落とし、その縁を親指で撫でる。
「だって、あの怪盗キッドを捕らえて利用するような連中が相手なのよ? せっかく組織との戦いが終わって平和を手に入れたのに、もしかしたらまた……」
「……灰原……」
「笑わないでね。私は今でも心のどこかで、この幸せがいつか壊れてしまうんじゃないかって、そんなふうに思ってしまうことがあるの。だから……あなたにはあまり危険すぎる事件には関わってほしくない」
「……そう思ってくれるのは嬉しいけどよ。オレは探偵なんだ」
「ええ、そうね……」
哀の複雑な表情からは、彼の言葉に納得したのかどうかは読み取れない。
「……でも、もしかしたらキッドにも、そんな大切な人がいたのかもしれないわね。もしかしたらその人とこの場所で……そんなふうに考えたらロマンチックだと思わない?」
「……」
「……工藤くん?」
口を開けたまま固まってしまったコナンを怪訝に覗き込む哀。
直後、コナンの脳裏に電流。
身を乗り出し、哀の両肩をがしりと掴む。
「灰原、もしかしたらそれがビンゴかもしれねーぞ……!」
「え?」
ようやく気づいた。自分がなにを見落としていたのかを。
今まで自分は、あくまで「怪盗キッド」の行動原理から答えを探そうとしていた。過去の事件との関連性、月に関連する財宝の有無……。
だが違う。あのとき、咄嗟のことで混乱していたキッドは、おそらくキッドとしての己の存在よりも
「この場所がキッドと、その大切な相手との思い出の場所だったとしたら……! この場所にその相手への手がかりがある……? いや、もしかしたらあいつ自身がここに手がかりを残すつもりで……!」
勢いよく席を立ち、テラス周辺をしらみ潰しに探索するコナン。
目玉であるアーチのそば、コンクリート塀の足元で一枚のカードがピンで固定されていた。
手に取る。潮に晒されていない、やけに新しいトランプカード。おそらくは今朝か昨日に置かれたもの。
「これだ……!」
勝ち誇ったような笑みを浮かべるコナン。彼の手元を哀が覗き込む。
「これって、暗号……?」
表面には通常のクラブの2の図柄の片隅に、「DK D10 - DQ D10」と手書きで書き込まれている。
裏返すと、地中海かどこかの町並みが鮮やかな水彩で描かれた絵柄。そしてやはり手書きの「S5 SA H6 H7 S5 S3 H2 S4 SA」という記述。
「あんニャローめ……」
コナンの口端が釣り上がる。
探偵の顔、ね。瞳を燃やす彼の横顔を見つめながら、哀はどこか誇らしげな微笑みとともにそうつぶやいた。