冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

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第14話 必殺技は黙って盗め

 深夜の大型モールで、武装したゾンビ十一体に追い回されたという事実。

 

 それは翌朝の俺の肉体に、重い現実の痛みとしてしっかりと残されていた。

 

 モップの柄を横っ腹に受けた時の鈍痛。

 

 折れた物干し竿を振り回しすぎた右肩の違和感。

 

 カートを飛び越えて床を転がった時に打ち付けた背中の痛み。

 

 延長コードを巻きつけられた左足首の擦り傷。

 

 これらが、昨夜俺が百五十万円を稼ぎ出した激闘の代償だった。

 

 だが、当然ながら、昼間の会社の人間は誰も俺の夜の仕事を知らない。

 

 いつものように窮屈なスーツを着込んで出社した俺へ、課長が最初に声をかけてきた。

 

「おい佐伯、この会議資料のページ番号がズレてるから全部修正しといてくれ。あと、この表計算ファイルの体裁調整と、取引先へ送る案内文の最終確認も頼む。あ、ついでに複合機のコピー用紙が切れそうだから、補充しといてくれな」

 

 俺は「……分かりました」と苦笑しながら引き受けた。

 

 昨夜だけで、普通の会社員が数ヶ月働いてようやく得る額を稼ぎ出した男が、朝一番にやっている仕事が、複合機の前でしゃがみ込んでA4用紙の束を補充する作業だ。

 

 深夜にはゾンビ十一体。

 

 朝にはコピー機一台。

 

 数は圧倒的に少ないのに、どうしてコピー機を相手にしている方が、こんなにも理不尽で腹立たしく感じるのだろう。

 

 俺は《事務機器操作》と《表計算ソフト操作》のコピー技能を使い、割り振られた雑務をマシンのように処理していった。

 

 隣の席の同僚が、キーボードを叩く俺の画面を横目で見ながら感心したように言った。

 

「佐伯さん、ここ最近、ずいぶんと仕事の処理が速くなりましたよね」

 

「まあ、似たような作業が続いたんで。慣れですよ」

 

「でも、佐伯さんってもうこの会社結構長いですよね?」

 

「最近になって、ようやく本当の意味で仕事に『慣れた』んですよ」

 

 自分でもかなり苦しい返答だと思った。

 

 その時、キャビネットからファイルを取ろうと立ち上がった瞬間、ゾンビのモップ攻撃を受けた脇腹にピリッと鈍い痛みが走り、俺は思わず顔をしかめた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「あ、いや。昨日、週末の買い物中に、少しぶつけまして」

 

「買い物で、そんな顔をしかめるほどの怪我します?」

 

「ええ。買い物カートが、思ったより凄い勢いと数で突っ込んできましてね」

 

 嘘ではない。深夜のモールで起きた、紛れもない真実だ。

 

     ◆

 

 昼休み。

 

 スマートフォンの通知が鳴った。水瀬からのメッセージアプリだ。

 

『お疲れ様です、代表。御影選手との試合に関する報酬精算案を作成しました』

 

『あわせて、今後のチームの経費処理に関する暫定規則のドキュメントもまとめています』

 

『本日の仕事後、ネクサスの会議室で少しお時間いただけますか? 内容の確認と承認をお願いしたいです』

 

 添付ファイルには、『御影戦・報酬精算案』と『暫定経費規則』というPDFが二つ。

 

 俺は少し呆気に取られた。

 

 昨日の深夜……というか、今日の早朝に試合が終わったばかりだ。なのに、もう事務的な精算と規則の草案が完成している。

 

 異界探索の実地試験の時も記録の処理が異様に速かったが、ただ『事務仕事が得意な十八歳』という範囲を、少しばかり超えているような気もする。

 

 だが、今はその有能さに甘えることにした。

 

『仕事後なら大丈夫です。向かいます』

 

 送信して数秒後。

 

『ありがとうございます♡』

 

 続けて。

 

『霧島さんにも、八咫烏としての確認のために同席をお願いしています』

 

 手回しが早すぎる。俺が代表として指示を出す前に、彼女は自分から仕事を見つけ、必要な関係者まで招集しているのだ。

 

     ◆

 

 仕事後。

 

 俺は、ネクサス・マッチングが登録選手向けに貸し出している小会議室のドアを開けた。

 

 中には、すでに水瀬と霧島が向かい合って座っていた。水瀬の前にはノートパソコンが開かれ、霧島の前には八咫烏のいかつい業務用タブレットが置かれている。

 

「お疲れ様です。俺が最後ですか」

 

「集合時刻の三分前ですから、遅刻ではありませんよ」と水瀬が笑顔で迎える。「私が勝手に、二十分前に来て準備していただけです♡」

 

「それを基準にマウントを取られると、ちょっと困るんですけど」

 

 席につくと、水瀬が手元のパソコンを操作し、会議室のモニターに御影戦の精算案を映し出した。

 

 今回のファイトマネーは、基本報酬百二十万円に、勝利ボーナスの三十万円を加えた、合計百五十万円。

 

 俺たちのチームはまだ三人目のメンバーがおらず、暫定登録すら済んでいない。そのため、企業からの報酬は契約上、全額が『佐伯直人個人』の口座へと支払われる形になっている。

 

 水瀬への報酬は、チームとしての分配ではなく、俺が個人的に彼女へ『事前調査・分析業務を委託した』という形で処理される。

 

 モニターに表示された精算案の項目を見て、俺は目を丸くした。

 

『佐伯直人・基本出場報酬』

 

『勝利加算ボーナス』

 

『水瀬蓮花・事前調査業務委託費』

 

『水瀬蓮花・試合映像分析業務委託費』

 

『交通費および諸経費』

 

『訓練施設の利用料引き当て』

 

『破損した衣服・防具の修繕費引き当て』

 

『医療検査費(保険適用外分)』

 

『次期納税に備えたチーム内留保金』

 

「……分析費と調査費まで、細かく分けるんですか?」

 

「当然です」と水瀬がキッパリと言う。「事前の対戦相手の調査と、試合後の映像分析は、全く別の業務ですから」

 

「でも、同じ試合に関する仕事でしょう?」

 

「一緒にどんぶり勘定にしてしまうと、今後どちらか一方だけを私に依頼した時に、金額の根拠が曖昧になります。仕事の単価は、最初から細分化して明確にしておくべきです」

 

「まだ二人しかいない、チームとも呼べない状態なのに、ずいぶんと本格的ですね」

 

 水瀬は、少しだけ真面目な顔になって言った。

 

「二人の時にきっちり決められないルールは、人数が三人に増えたら、絶対にもっと決められなくなります」

 

 彼女の目は、年齢に似合わない冷徹な光を帯びていた。

 

「特に、お金の話は『仲良くなってから』決めようとする方が、ずっと危ないんですよ。代表。仲が良いから善意で無料で手伝ってもらえる、と片方だけが思っていたら、後で必ず人間関係が破綻してもめます」

 

 隣で聞いていた霧島も、無表情のまま頷いた。

 

「水瀬さんの提案に同意します。現時点では、チームとしてではなく、佐伯さん個人から水瀬さんへの『業務委託費』として明確に処理するのが、税務上もトラブル回避の観点からも妥当です。正式なチーム登録が完了した暁には、改めて内部の分配規則を定めてください」

 

 俺は、水瀬が算出した適正な報酬額を支払うことで合意した。

 

 水瀬も「仲間なんだから、今回は無料で構いませんよ」などという綺麗事は一切言わなかった。自分が実際にやった仕事に対しては、ドライに適正な対価を要求し、受け取る。

 

 俺は、彼女のそのプロフェッショナルな態度を、非常に好ましく感じていた。

 

     ◆

 

 精算の確認を終えた後、水瀬が次の資料のファイルを開いた。

 

 題名は『次回試合準備項目・暫定版』。

 

 そこに記載されているのは、次回の対戦相手の公開プロフィール、過去の試合映像のリンク、会場の構造図、使用可能な設備、持ち込み可能な装備の規定、禁止されている反則行為、緊急時の撤退経路、医療班の配置場所、そして試合前後のスケジュールといった、公開情報と事務的な確認事項だけだった。

 

 水瀬は、俺に「次はどの能力を、あと何回使えるんですか?」とは一切聞いてこなかった。

 

 彼女は、俺の《身体能力強化》に『使用回数』という制限があることを知らない。

 

 黒瀬戦の最後で使った《動体視の魔眼》のストックが、現在ゼロになっていて発動できないことも知らない。

 

 そして何より、俺が御影の《影墓地》のコピーに失敗し、新しい能力を手に入れられなかったことも知らないのだ。

 

 水瀬が俺について知っているのは、試合映像という客観的な事実から確認できた範囲だけだ。

 

 俺が複数の種類の格闘技術を使うこと。相手の能力を観察する癖があること。そして、戦いの中で適応していくこと。その程度。

 

 俺も、自分からは能力のシステムや回数制限の詳細を話そうとはしなかった。

 

 水瀬蓮花は、事務担当としてこの上なく有能で、信用できそうな人間だ。

 

 だが、まだ正式に仲間になってから数日しか経っていない。

 

「信用できそうだ」という評価と、俺の存在の根幹である《ライブラリ》の秘密をすべて彼女に預けることは、全く別の問題だ。

 

 俺は、彼女が能力の詳細について無遠慮に尋ねてこないことに対して、内心で安堵していた。

 

 だが、同時にふと思うのだ。

 

 彼女が聞いてこないのは、本当に俺のプライバシーへの『配慮』なのだろうか。

 

 それとも、わざわざ聞かなくても、彼女には『別の方法』で俺の能力の正体を調べる手段があるからなのだろうか。

 

 俺が訝しむような視線を向けても、水瀬はただ、何も知らない純真な少女のように、ニコニコと微笑んでいるだけだった。

 

     ◆

 

 精算と事務連絡が終わると、霧島が持参した八咫烏の端末を操作しながら、御影戦後の状況について説明を始めた。

 

「佐伯さんの昨夜の戦闘映像は、すでに能力者関係者や企業のスカウトの間で、かなりの注目を集めています」

 

「……深夜のモールで、ゾンビの群れに買い物カートで追い回されてる情けない映像がですか?」

 

「とっても見応えがありましたからねえ♡」と水瀬が茶化す。「特に、序盤で御影選手から目を離して、完全な準備時間を与えちゃったところが」

 

「そこはもう、嫌というほど反省しましたって」

 

 霧島が、話を本筋に戻す。

 

「佐伯さんの戦い方には、わずか数戦ですが、すでに一定の『特徴』があると分析されています」

 

「特徴?」

 

「はい。相手の能力をまず観察する。発動条件を推測する。制限や弱点を探る。地形を利用する。能力そのものではなく術者本人を狙う。長期戦の中で攻略法を組み立てる。……これらの傾向です」

 

 霧島の言葉に、俺は押し黙った。

 

 まさに、その通りだ。《ライブラリ》でコピーするための観察と、解析が間に合わなかった時の戦術が、そのまま俺のファイターとしての『癖』として外部に認識されている。

 

「今後の対戦相手は、佐伯さんのその『観察する癖』を理解した上で、対策を練って準備してきます」

 

「対策……」

 

「例えば、能力の発動の起点を意図的に隠す相手も出るでしょう。一部の機能だけを見せて、佐伯さんに誤った能力だと錯覚させる者もいます。制限があるふりをして、佐伯さんを罠に誘導する可能性もあります。あるいは、観察する時間など一切与えず、開始直後から出し惜しみなしの最大出力で一気に轢き殺しに来る者もいるでしょう」

 

 霧島が、冷徹な目で俺を見た。

 

「佐伯さんの『戦い方そのもの』を、対策されるということです」

 

「なるほど……」

 

 水瀬が、ペンを回しながら補足した。

 

「代表は、相手の情報を集めて分析してから、後半に強くなるスロースターターのタイプですからね。逆に言えば、『情報を一切与えてくれない相手』や『考える暇を与えない相手』とは、極端に相性が悪いということです」

 

 俺は、何も言い返せなかった。

 

 二人の分析は、完璧に的を射ていたからだ。

 

     ◆

 

 会議が終了した後。

 

 俺は「少しトイレへ」と言って会議室を出て、施設の個室トイレに駆け込み、鍵を閉めた。

 

 ここで初めて、俺は誰の目もない空間で《ライブラリ》の画面を呼び出した。

 

『【異能】』

 

『《身体能力強化》Tier4』

 

『残り使用可能回数:15回』

 

『《動体視の魔眼》Tier4』

 

『残り使用可能回数:0回』

 

『《影墓地》』

 

『解析率:61%(登録保留)』

 

 画面の文字を見て、俺は重い息を吐いた。

 

 御影冬馬には勝った。ファイトマネーも稼ぎ、金は増えた。

 

 だが、俺の『使える能力』の手札は、確実に減っている。

 

 黒瀬戦の切り札だった《動体視の魔眼》は、前回の戦闘で完全に使い切ってしまった。

 

 《身体能力強化》はまだ十五回残っているが、御影戦では一試合の中で二回もストックを消費してしまった。

 

 今後、さらに強力な相手と泥沼の長期戦になれば、一試合での消費量はさらに増える可能性がある。

 

 (……金銭の収支は黒字でも、能力の収支は完全に赤字だ)

 

 ただし、この切実な問題は水瀬には絶対に話せない。霧島にも、《ライブラリ》の正確な回数制限の仕様までは伝えていない。

 

 俺は、過去の経験を思い返した。

 

 測定施設で身体強化系の能力者を四人見学した時。そして、黒瀬や荒木が能力を発動させた時。

 

『同じ系統の能力を再び観測したことで、使用可能回数が補充された』という事実がある。

 

 ならば。

 

 黒瀬拓海の能力を改めて意図的に観測させてもらえれば、《身体能力強化》と《動体視の魔眼》の回数を、意図的に補充できる可能性があるのではないか?

 

 しかし、不確定要素は多い。

 

 一度の観測で、どれくらい回数が回復するのか。

 

 同じ人物から、短時間に何度でも補充できるのか。

 

 時間を空ければ、低下した補充効率は元へ戻るのか。

 

 それは、実際に試してみなければ分からない。

 

     ◆

 

 俺は会議室へ戻る前に、霧島を呼び出し、黒瀬拓海との技術訓練のセッティングを相談した。

 

「御影戦で、身体能力に頼るだけでは倒せない、相性の悪い相手がいることがよく分かりました」

 

「ええ。事実ですね」

 

「なので、能力に頼らず、純粋な格闘技の技術や立ち回りを鍛え直したいんです。黒瀬さんに、軽いスパーリングと技術指導をお願いできませんか?」

 

「黒瀬さんはネクサスの登録選手として、他選手との技術交流の依頼も受けています。日程と謝礼の条件を確認してみます」

 

 俺は嘘をついていない。本当に技術訓練もしたいのだ。

 

 ただし、『裏の最大の目的』は、黒瀬の異能を再観測し、ライブラリの回数補充が可能かどうかの検証を行うこと。

 

 この目的は、誰にも話さない。水瀬は会議室の中でパソコンを叩いており、俺が霧島に何を相談したかまでは聞いていないはずだ。

 

     ◆

 

 数日後。

 

 ネクサス系列の、地下にある登録者向けの訓練施設。

 

 リング、サンドバッグ、キックミット、最新の筋力トレーニング器具が立ち並ぶ空間に、四人の人間が集まっていた。

 

 俺。黒瀬拓海。そして、分析担当としての水瀬蓮花と、安全管理の霧島だ。

 

 水瀬は、俺の能力補充の裏目的については何も知らない。

 

 彼女の今日の役目は、スパーリングの映像撮影、俺の動作の確認、休憩時間のタイムキーパー、そして訓練後の反省点の整理だけだ。

 

 黒瀬は、リングサイドでバンテージを巻きながら、俺の顔を見るなりニヤリと笑った。

 

「よお、佐伯。深夜のモールで、ゾンビ十一体と仲良くショッピングしてきたらしいな」

 

「買い物を楽しんでたのは御影さんたちの方です。俺はカートに轢かれそうになった側ですよ」

 

「映像を見たが、相手にずいぶんと立派な準備時間と買い物の時間を与えてやってたな。優しすぎだろ」

 

 水瀬が、カメラの三脚をセットしながら横から口を挟む。

 

「代表のあの慈悲深い判断のおかげで、御影選手は非常に満足のいくお買い物ができたと思いますよ♡」

 

「……二人とも、その話をいつまで引っ張るつもりですか」

 

 俺は苦笑いしながら、グローブをはめた。

 

     ◆

 

 まずは、異能を使わず、純粋な技術だけで軽いスパーリングを行った。

 

 黒瀬の左ジャブが伸びる。

 

 俺は右手で外へ払い、懐へ踏み込んでボディへの右を返す。

 

 黒瀬は肘を締めて受け、すぐに左フックを顔面へ返してくる。

 

 俺は上体を反らしてかわし、そのまま足を刈るようにローキックを放った。

 

 黒瀬が脛で受ける。

 

 続けて前蹴り。

 

 俺は両腕を交差させて受け止め、一歩後退した。

 

「前より、だいぶ動けるようになったじゃねえか」

 

「色々な人の動きを見て、勉強していますから」

 

「見ただけでここまで動けるなら、世の中の格闘家は苦労しねえよ」

 

 黒瀬は軽口を叩きながらも、動きは鋭い。

 

 俺は、これまでコピーしてきたボクシング、キックボクシング、柔道、レスリング、空手の技術を、状況に応じて切り替えながら戦う。

 

 だが、黒瀬はその切り替えの瞬間を狙ってくる。

 

 ボクシングの距離から組み技へ移ろうと姿勢を下げた瞬間、膝蹴りのフェイント。

 

 俺が反射的に顔を守ると、今度は足払い。

 

 俺が体勢を崩したところへ、肩で押し込んでリングのロープ際へ追い詰める。

 

「技の数は増えたが、つなぎがまだ甘い」

 

「分かっています」

 

「分かってるなら、直せ」

 

 黒瀬の厳しい言葉に、俺は歯を食いしばった。

 

 《ライブラリ》は、それぞれの技術を完璧に再現してくれる。

 

 だが、ボクシングの動きから柔道の投げへ移る、その『間』まで自動で埋めてくれるわけではない。

 

 異なる競技の技術を一つの流れへと統合する作業は、俺自身が経験を積み、身体へ馴染ませなければならない。

 

     ◆

 

 三分間のラウンドが終わり、俺たちはリングのコーナーで息を整えた。

 

 水瀬が、撮影した映像を確認しながら淡々と指摘する。

 

「代表。右のパンチを打った後、左手のガードが下がっています。あと、組み技へ移る時に視線が相手の腰へ落ちすぎです。次の動作を考えているのが、目線でバレています」

 

「……細かいですね」

 

「そのために呼ばれましたから♡」

 

 黒瀬が、スポーツドリンクを飲みながら笑った。

 

「いい分析役を捕まえたじゃねえか」

 

「俺が捕まえたというか、向こうから勝手にチームへ入ってきたというか」

 

「代表が頼りないので、私が管理してあげないといけませんからねえ」

 

「そういうことを本人の前で堂々と言います?」

 

 水瀬は、にこやかに微笑むだけだった。

 

     ◆

 

 休憩後。

 

 俺は、今日の裏目的を実行するため、黒瀬に頼んだ。

 

「黒瀬さん。次は《身体能力強化》を使った状態で、さっきと同じ動きを見せてもらえませんか?」

 

「別に構わねえけど。お前も使うのか?」

 

「いえ。俺は使わずに、強化された動きへの対応を練習したいです」

 

「危ねえぞ」

 

「出力は抑えてください」

 

 霧島が、安全管理のために口を挟む。

 

「黒瀬さん。出力は通常の三割以下。顔面への直撃は禁止。佐伯さんが対応できないと判断した場合、即座に中止します」

 

「分かったよ」

 

 黒瀬が、短く息を吐いた。

 

 次の瞬間、彼の身体から発せられる圧力が明らかに変わった。

 

 筋肉が一回り大きく膨らんだわけではない。見た目はほとんど変わらない。

 

 だが、床を踏む足音が重くなり、呼吸が深くなり、全身の筋肉が内側から強く張り詰める。

 

 俺の視界に、《ライブラリ》の文字列が浮かび上がった。

 

『別術者による類似因果現象を確認しました』

 

『《身体能力強化》Tier4』

 

『既登録能力との個体差を比較します』

 

『新規個体差情報を登録しました』

 

『使用可能回数を補充します』

 

『使用可能回数:18回』

 

 (よし。三回分、回復した)

 

 俺は内心で喜びながらも、表情には出さない。

 

 十五回から十八回へ。

 

 一度の再観測で、三回分の使用回数が補充された。

 

 黒瀬が、強化された速度で一歩踏み込んだ。

 

 俺は、彼の左ジャブを寸前でかわす。

 

 だが、続く右ストレートは速すぎて完全には避けられず、肩口へ軽く触れられた。

 

 出力を抑えているとはいえ、衝撃で身体が半歩後ろへ流される。

 

「ほら、次行くぞ」

 

 黒瀬が続けてローキックを放つ。

 

 俺は脛で受けるが、足全体が痺れた。

 

 能力を使わない状態では、強化された黒瀬の速度と威力に、技術だけで完全に対応するのは難しい。

 

 だが、それでいい。

 

 俺の本当の目的は、もう一つある。

 

     ◆

 

 数度の攻防を終えた後、俺は黒瀬に頼んだ。

 

「今度は、目で追いづらいような速い動きを、何度か見せてもらえませんか?」

 

「何だよ。動体視力の訓練か?」

 

「はい。前回の試合で、速い相手への対応がまだ甘いと感じたので」

 

 黒瀬は納得したように頷いた。

 

 彼は《身体能力強化》を維持したまま、左右への高速ステップ、フェイントを混ぜた踏み込み、連続したパンチのコンビネーションを繰り返す。

 

 俺は、視線を黒瀬の胸元へ固定し、全身の動きを観察した。

 

 《動体視の魔眼》は、もともと黒瀬戦で彼の動きを見切るために獲得した能力だ。

 

 同じ黒瀬が、身体能力強化を使って高速で動く姿を再び観測することで、魔眼の使用回数も補充される可能性がある。

 

 数十秒後。

 

 《ライブラリ》の画面が反応した。

 

『既登録能力に関連する観測情報を確認しました』

 

『《動体視の魔眼》Tier4』

 

『高速動作に対する視覚処理情報を再登録します』

 

『使用可能回数を補充します』

 

『使用可能回数:3回』

 

 (戻った……!)

 

 ゼロだった魔眼のストックが、三回まで回復した。

 

 これで、前回の黒瀬戦で使い切った切り札が、再び使用可能になった。

 

 俺は、表面上は純粋な技術訓練を続けながら、内心では大きく安堵していた。

 

     ◆

 

 ただし、検証はここで終わりではない。

 

 同じ黒瀬から、短時間に何度も繰り返して補充できるのかを確かめる必要がある。

 

 俺は休憩を挟んだ後、もう一度、黒瀬に《身体能力強化》を使ってもらった。

 

『既登録能力の再観測を確認しました』

 

『新規情報量が不足しています』

 

『使用可能回数の補充量が低下します』

 

『使用可能回数:18回』

 

 増えない。

 

 さっきと同じ人物、同じ能力、同じような動作を、短い時間のうちに繰り返して見ただけでは、新しい情報として扱われないらしい。

 

 黒瀬に、先ほどとは異なる出力や動き方を試してもらう。

 

 高出力の瞬発的な踏み込み。

 

 低出力での長時間維持。

 

 上半身だけを重点的に強化したパンチ。

 

 下半身の出力へ集中したキック。

 

 そのたびに、《ライブラリ》は個体差や運用方法の違いを解析した。

 

 しかし、回数の補充は一回目ほど大きくない。

 

 最終的に、身体能力強化の回数は十八回のまま。魔眼も三回のままだった。

 

 (同じ能力者から、短時間で無限に補充するのは無理か)

 

 だが、時間を空ければどうなるかは、まだ分からない。

 

 黒瀬と定期的に訓練し、数日から数週間の間隔を置いて再観測すれば、また補充できる可能性はある。

 

 少なくとも、完全に使い切った能力を『再使用可能な状態まで戻す』手段が存在することは、今回の検証で確認できた。

 

     ◆

 

 能力補充の検証を終えた後。

 

 俺は、本来の目的である格闘技の技術訓練へと集中した。

 

 黒瀬は、リング中央でキックミットを霧島に持たせると、俺へ向かって言った。

 

「佐伯。お前、色んな技を使えるようになったみたいだが、逆に『これだけは絶対に負けない』っていう決め技はあるのか?」

 

「決め技?」

 

「必殺技だよ。自分の得意な形に持ち込んだ時、最後に相手を仕留めるための武器だ」

 

 俺は考えた。

 

 《身体能力強化》による高出力の打撃。

 

 柔道の投げ技。

 

 レスリングのタックル。

 

 空手の突き。

 

 ボクシングのコンビネーション。

 

 俺は多くの技術を使える。

 

 だが、『佐伯直人の必殺技』と呼べるほど、特定の一つを磨き上げたものはない。

 

「……ありませんね」

 

「だろうな。お前の戦い方は、相手を見てから一番相性のいいカードを選ぶやり方だ。対応力は高いが、最後に相手へ押し付ける『軸』がない」

 

 黒瀬は、霧島が構えるキックミットの前に立った。

 

「俺の場合は、これだ」

 

 黒瀬が《身体能力強化》を発動する。

 

 そして、左足を一歩前へ置き、右膝を胸元まで鋭く引き上げた。

 

 腰を前へ突き出すようにして、足裏を一直線にミットへ叩き込む。

 

 バァンッ!

 

 施設内に、銃声のような破裂音が響いた。

 

 ミットを持っていた霧島の身体が、大きく後方へ押し飛ばされる。

 

 彼は三歩、四歩と後退し、かろうじて倒れずに踏みとどまった。

 

 黒瀬が放ったのは、何の変哲もない『前蹴り』だった。

 

 だが、そのフォームには、一切の無駄がなかった。

 

 軸足の置き方。

 

 膝を上げる速度。

 

 腰を前へ押し込むタイミング。

 

 上半身をわずかに後ろへ引く角度。

 

 蹴った足を即座に引き戻す軌道。

 

 両手のガード位置。

 

 《身体能力強化》の爆発的な出力を、足裏の『一点』へ一直線に集束させるための、極限まで無駄を削ぎ落とした完璧な動作。

 

 相手の前進の出鼻に差し込める。腹部や胸骨の急所を狙える。膝を上げる直前まで、軌道を読ませにくい。当たった後、すぐに足を引いて次の動作へ移れる。外されても姿勢が崩れにくい。相手を後方へ強制的に押し戻せる。不利な接近戦を、一撃で中断できる。

 

 それが、黒瀬が俺に敗れた後、自分の持つ身体強化の特性を最大限に活かすために磨き上げた『決め技』だった。

 

     ◆

 

 俺の視界の《ライブラリ》が、静かに反応した。

 

 これは、因果律を改変する『異能』ではない。黒瀬本人が血の滲むような反復訓練によって組み上げた、純粋な『格闘技能』だ。

 

『新規技能を観測しました』

 

『動作構造を解析します』

 

『基礎技能:《前蹴り》』

 

『派生技能の構築を確認しました』

 

『技能名称:《身体能力強化特化前蹴り》』

 

『分類:格闘技/直線打撃/迎撃技』

 

『※因果律改変能力ではありません』

 

『恒久技能として登録します』

 

『登録が完了しました』

 

 (……おっ。何かすごいのがコピーできたぞ)

 

 俺は内心で小さくガッツポーズをした。

 

 通常技能として登録されたため、異能のような『使用回数の制限』はない。身体能力強化を使わなくても、普通の威力の技として使用できる。

 

 もちろん、《身体能力強化》と併用すれば、先ほど黒瀬が見せたような規格外の威力を発揮するはずだ。

 

     ◆

 

 黒瀬が、少し得意げに息を吐いた。

 

「どうよ? ただの前蹴りだけど、十分に必殺技になるだろ」

 

「すごい威力ですね。でも、ただの前蹴りに見えますけど」

 

「前蹴りを甘く見るなよ」

 

 黒瀬が真剣な顔で説明する。

 

 格闘技における必殺技とは、一撃で必ず相手を倒す魔法の技のことではない。

 

『一度見せた後、相手がその技を警戒せずにはいられなくなる技』のことなのだ。

 

「この前蹴りを、腹へ一回まともにドカンと入れれば、次からは俺が膝を少し上げただけで、相手は勝手にビビって止まるんだよ」

 

「……」

 

「前へ出るのをためらう。腹を守るために、無意識に顔のガードが下がる。俺の正面に立つのを嫌がって、横へ動こうとする。……その『相手の反応』が分かれば、そこへ俺の別の技が確実に当てられる」

 

 俺はハッとした。

 

「当てて倒すことだけが目的じゃない?」

 

「そうだ。一発で倒せればそれに越したことはないが。技を出しただけで、相手の選択肢を減らし、俺の都合のいいようにコントロールする。相手の脳に『警戒させる』技こそが、実戦における本当の必殺技なんだよ」

 

 俺は深く頷いた。

 

「なるほど……。すごく、勉強になりました」

 

     ◆

 

 黒瀬は、ロープに腕を掛けながら続ける。

 

「まあ、色々あるぜ。決め技なんてのは人によって違うからな」

 

「右ストレートが異常に速いやつ。左フックを当てるためだけに、他のすべての動きを組み立てるやつ。ひたすらローキックで相手の足を壊すやつ。組み付いたら必ず投げるやつ」

 

「技そのものが、珍しい大技である必要はない。相手に『来ると分かっていても止められない』ところまで磨き上げれば、それがそのファイターの必殺技になるんだ」

 

 俺は考えた。

 

 自分は《ライブラリ》のおかげで、多くの技の種類を持っている。

 

 だが、「これが佐伯直人の技だ」「こいつにはこの技がある」と相手に警戒させるような代名詞は、まだ何一つない。

 

 状況に合わせて、コピーした便利な技のカタログから選んで使っているだけだ。

 

 黒瀬には、前蹴りを中心とした強固な戦い方がある。俺には、まだ他人の技術の寄せ集めしかない。

 

「……他にも、そういう決め技のコツみたいなものを見せてもらえませんか?」

 

 俺が図々しく頼むと、黒瀬は少し呆れたような顔をして苦笑した。

 

「おいおい。あんまり初対面の格闘家に、『あんたの決め技のコツを教えてください』とか安易に言うんじゃねえぞ」

 

「駄目ですか?」

 

「当たり前だ。本人が何年もかけて、血反吐を吐いて作り上げた商売道具だぞ。そう簡単にペラペラ教えるわけねえだろ」

 

「じゃあ、どうやって他人の技術を学ぶんです?」

 

 黒瀬は、ニヤリと笑って言った。

 

「黙って盗むんだよ」

 

「……」

 

「相手の試合映像をすり切れるほど見て、動きを真似する。実際にスパーリングでやってみて、失敗する。何が違うのか考える。自分の身体の骨格や筋肉に合うように、一から作り直す。……格闘技の技ってのは、そうやって相手から『黙って盗む』もんだ」

 

 俺は、なんとも言えない微妙な表情になった。

 

 (……すでに《ライブラリ》で、完全に盗み終わりました)とは、とてもじゃないが口が裂けても言えなかった。

 

 カメラを回していた水瀬が、横からクスクスと笑いながら口を挟んだ。

 

「代表、黙って盗むのはすごく得意そうですね♡」

 

「……どういう意味ですか?」

 

「観察が、得意ですから」

 

 水瀬は《ライブラリ》の存在を知らない。

 

 だが、偶然にしてはあまりにも俺の核心を突く言葉に、俺は少しだけ冷や汗をかいた。

 

     ◆

 

「じゃあ、さっそくやってみろよ」

 

 黒瀬に促され、俺はキックミットの前に立った。

 

 《身体能力強化》は使わない。今日は、純粋な技術だけの訓練だからだ。

 

 登録された《身体能力強化特化前蹴り》の技能データが、俺の脳から神経を通って、身体の各部位へと最適な動作指令を伝える。

 

 足の置き方。膝の引き上げ方。腰を前へ押し込む感覚。軸足で床を捉える角度。上半身の姿勢制御。蹴った足を素早く引き戻す軌道。両手の防御位置。

 

 俺は、息を吐きながら鋭く前蹴りを放った。

 

 バンッ!

 

 黒瀬が放った時ほどの凄まじい破裂音は出ない。身体能力強化を使っていないため、純粋な出力も低いままだ。

 

 しかし。

 

 その動作(フォーム)そのものは、素人とは思えないほど、異様なまでに完璧に整っていた。

 

 ミットを持っていた黒瀬が、眉をピクリと寄せた。

 

「……お前、今の前蹴り、俺がやったのを一回見ただけだよな?」

 

「まあ、似たような動きの経験が、なくもなかったので」

 

「いや、腰の入れ方のタイミングから足の引き方まで、今の完全に俺と全く同じだったんだけど」

 

 水瀬も、撮影した映像を巻き戻して確認しながら感心している。

 

「本当に、覚えるのが早いですねえ」

 

「他人のやり方を見て、要領よく覚えるのは、昔から得意なんです」

 

「ふふっ。そういうことにしておきますね♡」

 

     ◆

 

 スパーリングを再開する。

 

 俺は、覚えたばかりの前蹴りを馬鹿の一つ覚えのように連発することはしなかった。

 

 最初に一度だけ。隙を突いて、黒瀬の腹部へ軽く前蹴りを当てる。

 

 威力は抑えているが、黒瀬は嫌がって一歩後退した。

 

 次の攻防。

 

 俺が少しだけ膝を上げる。

 

 その瞬間、黒瀬の肘が、腹部への前蹴りを守るために無意識にわずかに下がった。

 

 俺は前蹴りを出さない。フェイントだ。そのまま空いた顔面へと、左のジャブを伸ばす。

 

 次は、前蹴りを警戒した黒瀬が、俺の正面から外れようと横へステップを踏む。

 

 俺は、彼の移動先を予測し、そこへ置きに行くようにローキックを放った。

 

「そうだ」

 

 黒瀬が、ガード越しに声をかけた。

 

「技を、無理に力任せに当てようとするな。技を使って、相手を動かせ」

 

 俺は、その時初めて、本当の意味での『戦い方の感覚』を理解した気がした。

 

 これまでは、相手の攻撃や行動を見てから、後出しジャンケンのように《ライブラリ》の技を選んでいた。

 

 今は違う。

 

 自分の技を見せることで、相手の行動を強制的に変えさせているのだ。

 

 前蹴りを警戒させる。顔のガードを下げさせる。正面から退かせる。前進を止める。逃げる方向を限定させる。

 

 その相手の反応を見て、俺が次の最適解の技を選ぶ。

 

 それは、相手の能力を観察し、法則を理解して隙を突くという、俺の本来の戦い方と、極めて相性が良かった。

 

     ◆

 

 一時間のスパーリングが終了した。

 

 二人でリング脇へ座り込み、スポーツドリンクを飲む。

 

「……強くなったな、佐伯」

 

 黒瀬がポツリと言った。

 

「今日は《身体能力強化》を使ってませんよ」

 

「そういう出力の話をしてるんじゃねえよ」

 

 黒瀬はタオルで汗を拭いながら、俺を見た。

 

「前に俺と戦った時のお前は、持ってる技のカードを、状況に合わせてただ順番に切ってただけだ」

 

「……」

 

「でも今は、相手がどう反応するかを計算して、先に技のカードを『置いて』いる。能力の出力が上がったわけじゃない。だが、戦い方が少しだけ、お前自身のものになり始めてる」

 

 俺は、返す言葉を見失った。

 

 《ライブラリ》は、確かに技術や異能を完璧に記録してくれる。一度見た動作を、身体へ定着させてくれるチート能力だ。

 

 だが。

 

 それをいつ使うか。何を警戒させるか。どちらへ相手を動かすか。どの技へ繋げるか。

 

 それは、《ライブラリ》が自動でやってくれるわけではない。俺自身が考え、判断しなければならないのだ。

 

 黒瀬戦。異界探索。御影戦。

 

 そこで得た血肉の経験は、《ライブラリ》の青白い文字列としてではなく、俺自身の『佐伯直人』の経験値として、確かに積み重なっている。

 

     ◆

 

 水瀬が、タブレットで訓練映像を確認しながら総括を始めた。

 

「佐伯代表の評価点。異能なしでも、黒瀬選手と高度な技術練習が成立している。相手の反応を見て技を柔軟に変えられる。新しい動作を連携へ組み込むのが異常に速い。御影戦で見られた、正面から力任せに突破しようとする傾向が減っている」

 

 そして、厳しい声で続ける。

 

「改善点。覚えた技をすぐに試したがる癖がある。観察に集中している間、自分の顔面の防御が薄くなる。前蹴りを出した後、右肩がわずかに前へ流れる隙がある。相手の『能力発動前の予備動作』へ視線を集中させすぎる。一つの仮説ができると、それを確認しようとして無用なリスクを取る」

 

 水瀬が、俺の顔を覗き込んだ。

 

「代表は、見たものを自分のものにしてしまうのが、本当に早いですねえ」

 

「……物覚えがいいだけですよ」

 

「そうでしょうか?」

 

 水瀬の目が、わずかに細くなる。

 

 だが、彼女はそれ以上は追及しなかった。

 

     ◆

 

 訓練が終了し、解散となった後。

 

 俺は一人で、更衣室の個室へ入り、鍵を閉めた。

 

 そして、《ライブラリ》の画面を開く。

 

『《身体能力強化》Tier4』

 

『残り使用可能回数:18回』

 

『《動体視の魔眼》Tier4』

 

『残り使用可能回数:3回』

 

『新規登録技能』

 

『《身体能力強化特化前蹴り》』

 

『分類:通常技能』

 

『使用回数制限:なし』

 

 本日の裏の目的は、完璧に達成された。

 

 身体能力強化は三回分回復。使い切っていた魔眼も三回分回復。さらに、使用回数を消費しない強力な新しい通常技能も手に入れた。

 

 ただし、黒瀬から同じ能力を短時間で繰り返し、無限に補充することはできないという『限界』も知った。

 

 同じ人物。同じ異能。同じ発動条件。

 

 連続して観測するほど、新しい情報量は減り、やがて補充されなくなる。

 

 一方で、時間を空ければ、その補充効率の低下は解除される。

 

 黒瀬と定期的に訓練できれば、少しずつ補充することは可能だ。

 

 だが、必要になったその日に、何度も発動してもらって一気に満タンへ戻すことはできない。

 

 (……黒瀬さんに頭を下げれば、いつでもポーションみたいに回数を満タンに戻せるわけじゃない。でも、時間を空ければ、また少し補充できる。世の中、都合がいいような、悪いような仕様だな)

 

     ◆

 

 帰宅後。

 

 俺は狭い自室の中央で、黒瀬から盗んだ前蹴りの動作を、ゆっくりとスローモーションで再現していた。

 

 身体能力強化は使わない。

 

 足を置く。膝を上げる。腰を前へ送る。蹴る。引き戻す。

 

 まだ黒瀬ほど自然な流れではない。技能として動作の理屈は完璧に分かっているが、それを自分の戦い方の『軸』へ組み込むには、意識的な反復練習が必要だ。

 

 黒瀬の言葉を思い出す。

 

『相手に警戒させる技が、格闘技における必殺技だ』。

 

 そして、もう一つ。

 

『技は、黙って盗むものだ』。

 

 俺は内心で苦笑した。

 

 盗むことに関しては、たぶんこの世界で俺以上に向いている人間は存在しない。

 

 問題は、盗んだその力を、俺がどう使いこなすかだ。

 

 使い切っていた魔眼は、三回だけ戻った。

 

 身体能力強化も三回分補充できた。

 

 そして俺は、新しい異能ではなく、一発の『前蹴り』という武器を持ち帰った。




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