冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

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第15話 見えているのに間に合わない

 黒瀬拓海との技術訓練から数日後。

 

 俺は、ネクサス・マッチングの面談室で、霧島が持参したタブレットの画面と睨み合っていた。隣には、すっかり俺のセコンド兼事務担当として板についてきた水瀬も座っている。

 

 霧島から持ち込まれた、新しい企業代理戦の依頼。

 

 対戦相手は、コードネーム《返し屋》。本名、榊原陣(さかきばら・じん)。

 

 試合の形式は、武器も障害物もない八角形の金網の中で行われる『能力者MMA』だった。

 

「今回、依頼元の企業側が確認したいのは、佐伯さんの純粋な『対人格闘能力』の底です」

 

「……これまでのオクタゴンの試合や、廃ビルの試合では、評価しづらかったんですか?」

 

「地形や周囲の道具を瞬時に利用し、格上の相手を絡め取る戦術的な判断力については、すでに各企業から極めて高く評価されています。前回のモールでのゾンビ戦などは、その最たる例ですね」

 

 霧島は、タブレットの画面をスワイプして榊原のプロフィール写真を表示させた。

 

「ですが、武器も隠れる障害物も一切ない、完全にフラットなケージ内という限定空間において、長年の経験を持つ格闘家とどこまで正面から渡り合えるのか。それは、全く別の評価軸になります」

 

「逃げ込めるアパレル店も、頭上から落とせる金属製の看板も、突撃させられる便利な買い物カートもありませんね♡」

 

「……水瀬さん。モールの話をするたびに、必ず買い物カートの単語を出すのはやめませんか。俺のトラウマをえぐらないでほしい」

 

「ふふっ。あのスロープでの玉突き事故、すごく印象的でしたから」

 

 水瀬が楽しそうに笑うが、俺の表情は少し硬かった。

 

 純粋な徒手空拳のみの格闘戦。それは、コピーした技術をパズルのように組み合わせているだけの俺にとって、最も地力が試される厳しい土俵だ。

 

     ◆

 

 水瀬が、自前のノートパソコンを開き、ネクサスのデータベースから引き出してきた榊原の過去の試合映像を再生した。

 

 画面の中。ケージの中央で、榊原と対戦相手が打ち合っている。

 

 相手選手が、踏み込んで鋭い右ストレートを放った。

 

 榊原はそれを避けることなく、両腕のガードを固め、前腕でその衝撃をガシッと受け止めた。

 

 直後、榊原が右ストレートを打ち返す。

 

 相手選手は、ガードを上げるのが明らかに遅れ、無防備な顎を撃ち抜かれてマットに沈んだ。

 

 別の試合の映像。

 

 相手が強烈な左ミドルキックを放つ。榊原はそれを脇腹で重く受ける。

 

 直後、榊原の左フック。またしても相手は反応できず、顔面を捉えられて崩れ落ちた。

 

 俺は、映像を低速再生で何度も見返した。

 

 榊原の拳が、途中で透明になって消えているわけではない。踏み込む足も、肩の回転も、攻撃の軌道も、カメラにはごく普通に映っている。

 

 それでも対戦相手は、毎回、判で押したように反応が『遅れて』いるのだ。

 

「……拳の軌道は、ちゃんと映像に映っていますね」

 

「はい。《無拍子》は、自らの姿や映像そのものを光学的に消し去るような異能ではありません」

 

 霧島が、八咫烏の資料を読み上げる。

 

「自分が開始した『一つの動作』について、対象がそれを認識するまでの時間を、脳内で一瞬だけ遅延させる。認識阻害系の能力です」

 

「つまり……見えているのに、反応が遅れる?」

 

「はい」

 

 水瀬が、もう一つの別の試合映像を一時停止した。

 

 榊原が相手の蹴りをガードで受けた直後。彼が打ち返した拳が、空気を破裂させるような尋常ではない威力を生み出しているシーンだ。

 

「そして、こちらが《蓄撃》ですね」

 

「攻撃を当てれば有利になる相手じゃないのか……」

 

「はい。代表が強く蹴れば蹴るほど、相手はさらに強く返してきます」

 

「しかも、その強烈な反撃が返ってくる時には、無拍子でこちらの反応が遅らされると」

 

「最悪のコンボですね」

 

 俺は深くため息をついた。

 

 ただでさえMMAの技術で劣る俺が、この鉄壁のカウンタースタイルを崩すのは、容易ではない。

 

     ◆

 

 水瀬は、俺たちが入手できる公開情報だけを基にして、ホワイトボードに素早く対策案を書き並べていった。

 

 ・打撃を無闇に全力で当てない(蓄積させない)

 

 ・組み技やテイクダウンを増やす(蓄積効率を下げる)

 

 ・蓄積後の強打の空振りを誘う

 

 ・右ストレート以外の反撃パターンも想定する

 

 ・ケージ際へ追い込み、相手の移動方向を制限する

 

 ・ラウンドをまたいで、認識阻害の連続使用による相手の集中力を削る

 

 彼女は淡々と戦術を組み立てていく。

 

 だが、俺は一つのことに気づいていた。水瀬は俺に、「ところで代表は、何の能力をあと何回使えるんですか?」とは一言も尋ねてこないのだ。

 

 俺も、自分からは話さない。

 

 水瀬のことは有能なセコンドとして評価しているが、まだ俺の《ライブラリ》という異能の根幹、その手の内をすべて見せられるほど、深い信頼関係が構築できているわけではない。

 

「代表が、ケージの中で何を使えるかは、代表ご自身で判断してください」

 

 水瀬は、俺の視線に気づいたように振り返り、ホワイトボードをペンで叩いた。

 

「私の仕事は、榊原選手が何をしてくるかを整理し、代表に提示することです。手札の切り方はお任せします」

 

「……それだけで、セコンドとして作戦を立てられますか?」

 

「立てにくいですよ、ものすごく」

 

 水瀬は即答したが、その直後にふわりと微笑んだ。

 

「でも、チームに加入したばかりの得体の知れない私に対して、代表が自分の切り札を全部馬鹿正直に見せる方が、人間としてよっぽど危険だと思いますから。私は、分かる範囲の情報だけで完璧に仕事をします♡」

 

 俺は、彼女の引いてくれたその絶妙な『距離感』に、内心で強く安堵していた。

 

     ◆

 

 水瀬が、タブレットの画面を分割し、先日俺が黒瀬拓海と行った技術訓練の映像を、榊原の試合映像の横へ並べた。

 

 画面には、俺が黒瀬からコピーした『身体能力強化特化前蹴り』を、ミットへ向かって完璧なフォームで打ち込んでいる姿が映っている。

 

「代表。この前蹴りは、榊原選手とは非常に相性が悪いです」

 

「正面から受けて、格好の《蓄撃》のエネルギー源にされるからですね」

 

「はい」

 

 水瀬は映像を指差す。

 

「黒瀬選手の前蹴りは、元々相手の突進や前進を『止める』ための迎撃技です。ですが榊原選手は、前進を止められることへのリスクより、その強烈な衝撃を『受けて蓄積する』利益の方が大きい。喜んで受けに来ます」

 

「……なら、試合では使わない方がいいですか?」

 

「相手が『受けたい』と待ち構えている時に、そのまま馬鹿正直に出すのは危険です」

 

 水瀬は少し間を置いた。

 

「使うなら。榊原選手が『それを受ける以外の選択肢を取りづらい状況』を、代表の足で作ってからです」

 

 俺の脳裏に、黒瀬がリングで語っていた言葉が蘇った。

 

『技を当てるんじゃない。技で、相手を動かすんだ』

 

 俺は、無言で頷いた。

 

     ◆

 

 試合当日の夜。

 

 事前の計量とメディカルチェックを終えた俺が、控室前の薄暗い通路を歩いていると、前から歩いてきた対戦相手の榊原とバッタリ顔を合わせた。

 

 榊原は、俺を見るなり人懐っこい笑顔を浮かべ、丁寧に頭を下げた。

 

「佐伯さん。本日はよろしくお願いします」

 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

「黒瀬さんから、少し噂を伺いましたよ。佐伯さんが、新しく強烈な前蹴りを覚えたと」

 

 俺の足が、ピタリと止まった。

 

「……黒瀬さんから、どこまで聞いているんですか?」

 

「『自分の身体能力強化と相性のいい前蹴りを作った。それを佐伯さんが一度見ただけで、かなり正確なフォームで真似しやがった』と、愚痴をこぼしていました。その程度ですよ」

 

 榊原は、引き締まった自分の腹部を軽くポンと叩いた。

 

「ぜひケージの中で一発、私に見せてください」

 

「……受けるつもりですか?」

 

「ええ。楽しみにしています」

 

 彼の言葉に、安っぽい挑発の色は一切なかった。

 

 彼は本当に、俺の前蹴りを受けたいのだ。俺の技術と威力を高く評価し、そのエネルギーを《蓄撃》で丸ごと自分の反撃へと加えようとしている。

 

 恐ろしいまでの、自分のスタイルへの確信だった。

 

     ◆

 

 会場の照明が落ち、重低音のBGMが鳴り響く。

 

『青側、コードネーム《返し屋》――榊原陣!』

 

 アナウンスと共に、榊原が入場してくる。

 

 派手なパフォーマンスや観客へのアピールはない。静かにケージの中へ足を踏み入れると、コーナーで短いシャドーボクシングを行った。

 

 ジャブ。右ストレート。左フック。タックルのフェイント。

 

 すべての動きが極めて小さく、速く、無駄がない。純粋な格闘家としての完成度の高さが、その動きだけで伝わってくる。

 

『赤側――佐伯直人!』

 

 俺が花道へ姿を現すと、前回の御影との死闘を見ていた一部の観客から、どよめきと大きな歓声が上がった。

 

『相手の能力を戦闘中に分析し、地形と複数の格闘技を使って攻略する、極めて高い適応力を持った選手です!』

 

 実況の声が会場に響く。続いて、解説者が冷静なトーンで返す。

 

『ただし今回は、彼が得意とする障害物のないケージでの一騎打ちです。純粋なMMAの経験値では、榊原選手が大きく上回ります。佐伯選手がどう立ち回るかが見物ですね』

 

 俺はケージの扉をくぐった。

 

 赤コーナーには、タオルと水を持った水瀬と、腕を組んだ霧島が立っている。

 

 客席のVIPエリアを見上げると、黒瀬がニヤニヤしながらこちらを見下ろしているのが見えた。

 

     ◆

 

 第一ラウンド開始前。

 

 ケージの中央で、レフェリーが両者に最終確認を行う。

 

 俺と榊原が、グローブを軽く合わせた。

 

「前蹴り、楽しみにしていますよ」

 

「期待しすぎないでください」

 

 レフェリーが、大きく手を振り下ろした。

 

「始め!」

 

 その瞬間、榊原が《身体能力強化》を発動させた。

 

 俺の視界の《ライブラリ》が、即座に反応の光を瞬かせる。

 

『別術者による類似因果現象を確認しました』

 

『《身体能力強化》Tier4』

 

『新規個体差情報を登録し、最適化します』

 

『使用可能回数を上限まで補充しました』

 

『使用可能回数:20回』

 

 俺は内心で小さく息を吐き、自分自身も《身体能力強化》を発動させた。

 

『使用可能回数:残り19回』

 

 全身の血管を熱い力が巡り、筋肉が爆発的に活性化する。

 

     ◆

 

 試合開始直後。

 

 榊原は、決して無理に攻め込もうとはしなかった。

 

 彼が放つ小さな左ジャブ。俺が右手で軽く払って防ぐ。

 

 続くローキックのフェイント。俺が反射的に前足を引く。

 

 榊原は俺のその『反応』をデータとして確認しながら、すり足で少しずつケージの中央を制圧していく。

 

 俺から仕掛ける。

 

 踏み込んでの左ジャブ。

 

 榊原は、首をほんの数センチだけ外側へずらし、最小限の動きでパンチを空振りにさせる。

 

 俺はそのまま、右ストレートへと繋ぐ。

 

 だが、榊原は両腕のガードを上げながら、俺の右足の外側へと自分の前足をスッと置いた。

 

 次の瞬間には、彼の身体は俺の正面から完全に外れ、俺の打撃の射線から消えていた。

 

 (……速さだけじゃない)

 

 俺の身体能力強化の出力(パワーとスピード)は、Tier4の最上位である俺の方が上のはずだ。

 

 しかし榊原は、俺が『動き始める前』に、常に自分にとって有利な位置(アングル)へすでに移動している。

 

 長年のMMAの経験差が、距離感と角度の取り方という残酷な形で、俺を圧迫し始めていた。

 

     ◆

 

 俺は、ジャブを二度速く見せた。

 

 榊原が顔面をガードで固める。

 

 俺は、右膝を高く引き上げた。黒瀬からコピーした前蹴りの予備動作だ。

 

 ただし、全力ではない。威力を六割程度に抑え、彼の腹部を狙って真っ直ぐに足を押し出す。

 

 榊原は、避ける素振りを全く見せなかった。

 

 両肘をギュッと内側へ締め、腹筋を極限まで硬く固め、俺の蹴りを正面から受け止めた。

 

 バンッ!

 

 鈍い音が響き、榊原の身体が一歩だけ後退する。

 

 俺の足裏には、分厚い筋肉の壁を蹴ったような確かな手応えがあった。

 

 俺の《ライブラリ》の文字列が、青白く走る。

 

『未知の因果現象を確認しました』

 

『受けた衝撃の一部が、対象内部へ移行(保存)されています』

 

『解析を開始します』

 

 榊原が、ガードの隙間から俺を見て笑った。

 

「……いい前蹴りですね」

 

 その声には、確かな苦しさがあった。六割の威力とはいえ、俺の強化された打撃が全く効いていないわけではないのだ。

 

 それでも榊原は、俺の蹴りを受けたことを心底喜んでいるようだった。

 

     ◆

 

 俺が前蹴りを放ち、蹴り足を床へ戻そうとした瞬間。

 

 榊原の右肩が動いた。

 

 腰が鋭く回転する。

 

 右足がマットを強く踏み込む。

 

 そして、彼の右の拳が、真っ直ぐに俺の顔面へと伸びてくる。

 

 俺の目には、その全ての動作がコマ送りのようにハッキリと映っていた。

 

 しかし。

 

 俺の脳が「右が来る」と理解し、防御の信号を出した時には、その拳はすでに俺の鼻先の数センチ手前まで到達していた。

 

「くっ!」

 

 俺は、致命的に遅れて左腕を顔の前へ上げる。

 

 ドンッ!!

 

 榊原の右ストレートが、俺の前腕へ激突した。

 

 すさまじい威力だった。ガードした俺の腕ごと顔面を後ろへ押し込み、俺の身体がたたらを踏んで二歩、三歩と後退させられる。

 

 先ほど彼が受けた俺の前蹴りの衝撃が、彼自身の打撃力にプラスされて、右拳へと加算されているのだ。

 

 《ライブラリ》が警告を出す。

 

『蓄積された衝撃の放出を確認しました』

 

『未知の因果現象を継続解析します』

 

 同時に、別の赤いエラー表示が走った。

 

『認識処理への干渉を確認しました』

 

『対象動作の開始認識に、重大な遅延が発生しています』

 

 (見えなかったんじゃない……)

 

 俺は痺れる左腕を振りながら、戦慄した。

 

 (見えていたのに、俺がそれに『気づく』のが遅れたんだ)

 

     ◆

 

 榊原が、追撃の左ジャブを放つ。

 

 俺は、それが来ると分かっている。彼の肩の動きを見ている。拳の軌道も見ている。

 

 それでも、俺の認識が一瞬だけ強制的に遅延させられ、パンチは俺の頬を薄く切り裂いてかすめていった。

 

 次は、下段へのローキック。

 

 俺は足を引いてかわそうとするが、やはり初動の認識が遅れ、太腿をモロに蹴り飛ばされる。

 

 俺は榊原の目を見るのをやめ、胸を見る。それでも遅れる。

 

 足元に視線を落とす。それでも遅れる。

 

 榊原の動き自体が、目で追えないほど速いわけではない。

 

 俺の脳が、彼の動きを『攻撃の開始だ』という意味のある情報として処理するまでの回線が、強制的にジャミングされているのだ。

 

 仕組みを知っていても、相手の動きを『見てから』反応しようとする限り、絶対に間に合わない。

 

     ◆

 

 俺が左ジャブを放つ。

 

 榊原はそれを前腕で受け止め、衝撃を《蓄撃》に変換する。

 

 直後、榊原が右ストレートを放つ。

 

 《無拍子》。

 

 俺の防御が遅れ、額を重く撃たれる。

 

 俺がローキックを放つ。

 

 榊原は脛で受けてブロックし、再び衝撃を溜める。

 

 榊原の左フック。

 

 《無拍子》。

 

 俺はギリギリでガードするが、蓄積された威力によって体勢を大きく崩される。

 

 (……攻撃すれば、相手の反撃が強くなる。攻撃しなければ、無拍子の打撃で一方的に削られ続ける)

 

 俺が迷い、手数を減らせば減らすほど、榊原はプレッシャーをかけて前へ出てくる。

 

 《蓄撃》が、こちらの攻撃をためらわせる盾となる。

 

 《無拍子》が、守りに入った相手を確実に削り取る矛となる。

 

 二つの能力が、互いの弱点を完璧に補い合って消している。

 

     ◆

 

 打撃を与えること自体が不利になるなら、グラップリング(組み技)へ移行するしかない。

 

 俺は右ストレートのフェイントを見せ、急激に姿勢を低くした。

 

 両脚を狙うダブルレッグ・テイクダウン。

 

 しかし、榊原の反応は早かった。

 

 彼は腰を素早く引き、両足を後方へ飛ばす『スプロール』でタックルを切る。俺の頭を外側へ押しやり、背中へ自身の全体重を乗せて潰しにかかる。

 

 俺は《身体能力強化》の強引な出力で相手の体重を跳ね除け、立ち上がった。

 

 そのまま、榊原をケージの金網へと押し込む。

 

 純粋な『押す力』であれば、出力の高い俺の方が上だ。

 

 しかし、榊原は金網を背負いながらも、俺の顎下へと的確に頭をねじ込み、俺の両腕の内側へと自分の腕を差し入れて(アンダーフックを取り)、決して腰を金網へ密着させない。俺の足の外側へ自分の足を置き、重心のコントロールを許さない。

 

 金網際での組みの攻防。

 

 その最中、榊原が、体勢を入れ替えるための組み手の開始動作へ《無拍子》を使用した。

 

 俺が、腕の侵入に『気づいた』時には、すでに完全に右脇を深く差されていた。

 

 強烈な力で体勢を入れ替えられ、今度は俺の方が金網へと強く押し付けられる。

 

 榊原の鋭い膝蹴りが、俺の腹部へめり込んだ。

 

 俺は呼吸を乱しながら、強引に首相撲の体勢を切り、彼を突き放して距離を取った。

 

     ◆

 

 試合開始から、三分が経過した。

 

 俺の視界に、《身体能力強化》の継続確認のポップアップが表示される。

 

『効果を継続しますか?』

 

 俺は意識の中で【YES】を選択した。

 

『使用可能回数:残り18回』

 

 俺の鼻からは少量の血が流れ、ローキックを受けた太腿には赤黒いミミズ腫れができている。

 

 榊原も、俺の前蹴りや打撃をガードの上から受けているはずだが、その表情には全く焦りがなく、呼吸も安定していた。

 

『佐伯選手、相手に強力なカウンターを返されることを警戒して、明らかに手数が減っています!』

 

『榊原選手の狙い通りですね。打てば倍になって返ってくるプレッシャーが、佐伯選手の動きを縛っています』

 

     ◆

 

 俺は、決断した。

 

 《動体視の魔眼》を発動する。

 

『《動体視の魔眼》Tier4を発動します』

 

『使用可能回数:残り2回』

 

 目的は、《無拍子》による認識の遅延そのものを無効化することではない。

 

 榊原の攻撃が『始まった後』の、拳の軌道、体重移動、蓄積した力を放出する瞬間のタイミング、そして打撃を打ち終わって姿勢が戻るまでの『短い隙』を、極限まで正確に見極めるためだ。

 

 榊原が右ストレートを放つ。

 

 俺の開始認識は、やはり遅れる。魔眼を使っても、脳の処理自体が遅延させられる事実は変わらない。

 

 ただし。

 

 拳が眼前に迫り、それを『攻撃だ』と認識した直後からの、拳の軌道は恐ろしいほど鮮明に追うことができた。

 

 俺は、直撃だけを首を振って避け、左肩でそのパンチを強引に受け流す。

 

 続く左フックも、完全な回避には間に合わない。

 

 俺は顎を引き、最も骨の分厚い額の部分でその衝撃を弾き返した。

 

 魔眼は、《無拍子》に対する完全な答えではない。

 

 しかし、致命傷を避け、被害を最小限に抑えながら、相手の能力の全容を観察し続けるための、最強の盾として機能していた。

 

     ◆

 

 俺は、あえて威力を抑えた軽い左フックを打った。

 

 榊原が、それを右の前腕で受ける。

 

 衝撃が彼の中に蓄積されるのを、魔眼の視界で捉える。

 

 榊原が、右ストレートを返す。

 

 開始は認識できない。

 

 しかし、拳が伸びた後の軌道を魔眼で追い、俺は左肩でそれを受ける。

 

 ドンッ! と肩口で衝撃が弾け、榊原の拳から蓄積分が放出される。

 

 その直後。

 

 魔眼で観察していた俺は、榊原の身体に『次の衝撃を受け入れられない、ごく短い空白の時間』が生じるのを見逃さなかった。

 

 俺はすぐさま、右のジャブを彼の顔面へと当てる。

 

 榊原はそれを受けたが、先ほどまでと違い、その衝撃は蓄積されずに彼を少しだけ後退させた。

 

 俺の視界で、《ライブラリ》の解析が一気に進行する。

 

『衝撃の蓄積を確認』

 

『保持状態を確認』

 

『次打撃への一括放出を確認』

 

『放出直後の再使用不能時間(クールダウン)を確認』

 

『《蓄撃》Tier4』

 

『登録しました』

 

『使用可能回数:3回』

 

 (……登録できた!)

 

 三回使える。

 

 だが、この場で焦って雑に一回使っても、榊原を倒すことはできない。

 

 相手の攻撃を蓄積し、その後に俺の打撃を確実に当てられる『完璧な状況』を作らなければならない。

 

     ◆

 

 残り時間一分。

 

 俺は無理に攻め込むことをやめ、榊原の攻撃をガードや肩で受け流しながら、ケージの中央へと戻ることに集中した。

 

 榊原も、すでに第一ラウンドの判定上の優位を確信しているため、無用なリスクを負って深い追撃をしてくることはなかった。

 

 カーン!

 

 終了のブザーが鳴り響く。第一ラウンド終了。

 

 ポイントは、明確に榊原が取っていた。

 

 俺は、コーナーへと戻る。《身体能力強化》の二回目の効果時間は、一分の休憩終了時まで続く。

 

     ◆

 

 赤コーナーの丸椅子に座った俺の顔を、水瀬がタオルとワセリンで手際よく拭っていく。

 

「代表。全部の攻撃を見てから対応しようとしていますね」

 

「見ないで防げって言うんですか」

 

「相手の攻撃を見ないという意味ではありません」

 

 水瀬は、俺の目に真っ直ぐに視線を合わせた。

 

「榊原選手が次にする行動を、代表が先に決めてください」

 

 俺の脳裏に、再び黒瀬の言葉が蘇る。

 

 相手が動いた後に対応するのではない。自分の技で、相手を動かす。

 

「組み技の展開では、純粋な経験の差が出すぎています。得策ではありません」と霧島が分析を伝える。

 

「でも、榊原選手の打撃に対する反応は、かなりパターン化されていますよ」

 

 水瀬が、氷嚢を俺の首筋に当てながら言った。

 

「強い打撃は、ガードで喜んで受けたがる。蓄積した後は、必ず右のストレートを返してくる。代表の前蹴りに対しては、腹を固めて受け、右足で踏み込んで反撃する準備をする」

 

「俺が前蹴りを出せば、あいつは右ストレートを返してくる……」

 

「はい。少なくとも、今までは」

 

 水瀬の言葉を聞いて、俺の中でバラバラだった戦術のピースが、一つに繋がり始めた。

 

 セコンドアウトの笛が鳴る。

 

     ◆

 

 カーン!

 

 第二ラウンド開始のブザーが鳴る。

 

 休憩終了と同時に、俺の《身体能力強化》の二回目の効果時間が切れた。

 

『効果を継続しますか?』

 

 俺は迷わず【YES】を選択する。

 

『使用可能回数:残り17回』

 

 俺はコーナーを蹴り、前へ出た。

 

 榊原は第一ラウンドと同じく、中央に陣取って俺を迎え撃とうとする。

 

 だが、俺は強い打撃を一切打たなかった。

 

 左の軽いジャブ。肩口を狙う短いパンチ。太腿への浅いローキック。

 

 榊原がガードで受けても、《蓄撃》のエネルギー源としては微々たるものにしかならない威力の攻撃だけを散らす。

 

 その代わり、俺は打撃によって榊原の『足の位置』を少しずつコントロールし始めた。

 

 榊原が右へ逃げようとすれば、左ジャブを置いて進路を塞ぐ。

 

 左へ逃げようとすれば、右ローキックを蹴り込んで動きを止める。

 

 打撃で彼を倒そうとするのではなく、打撃を柵のように使って、彼の立つ場所を俺の都合のいい方向へと動かしていく。

 

     ◆

 

 俺は右膝を高く上げた。

 

 前蹴りの明らかな予備動作。

 

 その瞬間、榊原の両肘が腹部へとスッと寄り、腹筋が岩のように固まるのが見えた。右足がマットを強く捉え、右ストレートのカウンターを放つ準備が完了する。

 

 だが、俺は蹴らない。

 

 上げた膝をそのまま下ろし、がら空きになった顔面へと左ジャブを放つ。

 

 榊原の意識とガードが完全に腹部へと寄っていたため、ジャブが彼の額へクリーンヒットした。

 

 次の攻防。

 

 俺は再び、前蹴りのように膝を上げる。

 

 榊原は、またしても腹を固めて右の準備をする。

 

 俺は前蹴りを出さず、空中で軸足を切り替え、彼の外腿へローキックを叩き込んだ。

 

 黒瀬の教え通りだ。

 

 前蹴りを当てるのではなく、前蹴りを『警戒』させて、別の技を当てる。

 

 ただし、榊原は俺の前蹴りを恐れてガードしているわけではない。

 

 彼は俺の前蹴りを『受けて、反撃の糧にするために』喜んで準備しているのだ。

 

 その相手の強固な成功体験に基づく準備すらも、俺は利用して立ち回っていた。

 

     ◆

 

 俺はガードを高く上げ、顔面を完全に守る姿勢を取った。

 

 榊原は、顔へのジャブでは崩せないと判断したのか、俺の足元を狙ってきた。

 

 ローキック。

 

 その初動に《無拍子》が乗る。

 

 俺の反応が強制的に遅れ、太腿をモロに蹴られる。

 

 次は俺が足を引いて下段を守る。

 

 すると榊原は、がら空きになった腹部へ左のボディブローを突き刺してきた。

 

 俺はダメージを受けながらも、榊原の『選択肢』を意図的に変えさせ、ひたすらに観察を続けていた。

 

 顔を守れば、腹か脚を狙ってくる。

 

 腹を守れば、顔面への打撃かタックルを狙ってくる。

 

 前へ強い圧力をかければ、右ストレートか組み技で対処してくる。

 

 《無拍子》は魔法ではない。何でも自由にできるわけではないのだ。

 

 一度に認識を隠せるのは、たった一つの動作の開始だけ。

 

 だからこそ榊原も、その状況において『最も成功率の高い攻撃』を選んで撃ってくる。

 

 俺は、無拍子の発動そのものを見るのではなく、「どの状況で、榊原がどの技を選ぶか」という彼の思考のアルゴリズムを、一つに絞り込もうとしていた。

 

     ◆

 

 俺は、あえて威力を抑えた前蹴りを浅く当てた。

 

 榊原がそれを腹で受け、《蓄撃》で衝撃を吸い込む。

 

 彼は予定通り、右ストレートを返してきた。

 

 《無拍子》。

 

 俺には、彼の拳がいつ動き始めたのか、開始の認識ができない。

 

 しかし今回は違った。

 

 俺は、前蹴りを出した瞬間から、『左腕を顔の横へ戻す』ところまでを一連の動作としてあらかじめ決めていたのだ。

 

 拳を見てから防ぐのではない。前蹴りを当てた直後、予定通りに左の前腕を顔の前にスッと置く。

 

 ドスンッ!

 

 榊原の右ストレートが、あらかじめ置かれていた俺のガードへと激突した。

 

 俺は初めて、《無拍子》の乗った彼の右を完全に防ぎ切った。

 

 榊原の余裕のある表情が、わずかに変わる。

 

「……今のは、見てから動いたわけじゃないですね」

 

「見てからじゃ、絶対に間に合いませんからね」

 

     ◆

 

 俺は、先ほどと全く同じ状況をもう一度意図的に作り出した。

 

 前蹴りの構え。榊原が腹を固める。俺が軽く蹴る。榊原が受ける。

 

 榊原の右ストレート。

 

 《無拍子》。

 

 俺は事前に、右へと頭を大きくずらし、左前腕を上げていた。

 

 榊原の拳は、俺のこめかみのすぐ横の空気を切り裂いて空振った。

 

 今度は、攻撃の開始から終了までを、俺は魔眼ではなく素の目で完全に直接観測することができた。

 

 榊原の動作は消えていない。開始の認識だけが遅れている。阻害が終わった後の彼の拳は、極めて普通に見える。

 

 《ライブラリ》の青白い文字列が、視界で踊った。

 

『単一動作の開始認識に対する阻害現象を確認』

 

『対象指定を確認』

 

『動作終了に伴う効果の消失を確認』

 

『事前行動による因果への対応を確認』

 

『《無拍子》Tier4』

 

『登録しました』

 

『使用可能回数:3回』

 

 (……これも三回か)

 

 強力な能力を手に入れた。

 

 だが、榊原自身も《無拍子》の弱点や特性を知り尽くしている。ただ俺が同じ能力をオウム返しに使ったところで、彼は事前に完璧な防御を置くだけだ。

 

 当てるための『状況』を自ら作り出さなければ、宝の持ち腐れになる。

 

     ◆

 

 試合開始から、合計九分が経過した。

 

『《身体能力強化》効果継続』

 

『使用可能回数:残り16回』

 

 第二ラウンド後半。

 

 俺は第一ラウンドのように、一方的にサンドバッグにされることはなくなった。

 

 しかし、有効打の数では圧倒的に榊原が上だ。ケージ際での組み技でも、彼のMMA技術にコントロールされ、優位を保たれている。

 

 ポイント判定では、俺は完全に負けている。

 

『佐伯選手、無拍子の対応は進んでいますが、ポイントでは大きく劣勢です!』

 

『このまま判定にもつれ込めば、榊原選手の勝利は揺るがないでしょう。佐伯選手は最終ラウンドで倒さなければ厳しい!』

 

 榊原の額にも、大量の汗が浮かんでいる。

 

 《無拍子》の連続使用は、彼の集中力(リソース)を確実に削っている。呼吸も少し荒くなってきた。

 

 だが、彼の技術の精度と鉄壁のガードは、まだ微塵も崩れていなかった。

 

     ◆

 

 俺は前蹴りを強く見せるフェイントをかけた。

 

 榊原が受ける準備をする。

 

 俺は蹴らずに姿勢を沈め、タックルへ入る。

 

 榊原は素早くスプロールして脚を引く。俺は脚を取り切らず、そのまま立ち上がりざまに右フックを放つ。

 

 榊原がガードする。

 

 こうした小さな攻防のテストを何度も重ね、俺は榊原の『反応のクセ』を完全にデータ化した。

 

 俺が前蹴りを見せた場合、榊原は極めて高い確率で、以下の行動を取る。

 

 ・腹部を固める

 

 ・両肘を少し下げる

 

 ・右足へ体重を乗せる

 

 ・受けた直後に右ストレートを放つ準備をする

 

 俺は確信した。

 

 榊原の完成された型は、確かに強い。

 

 だが、完成されすぎているからこそ、彼は無意識のうちに『最も成功率の高い行動』を単調に繰り返してしまうのだ。

 

 カーン!

 

 第二ラウンド終了のブザーが鳴る。

 

 ポイントは完全に榊原だ。俺が勝つには、最終の第三ラウンドで一本かKOを取るしか道は残されていない。

 

     ◆

 

 インターバル。俺は赤コーナーの椅子に座り、肩で息をした。

 

「判定では負けますね」

 

 水瀬が、タオルで俺の汗を拭いながら冷静に告げた。

 

「分かっています」

 

「……勝つ方法は?」

 

「一つだけあります」

 

 水瀬は、それ以上詳しい戦術を聞こうとはしなかった。俺が能力の詳細をペラペラと説明することもない。

 

 彼女はただ、外から見えている範囲の事実だけを伝えてきた。

 

「榊原選手は、代表の前蹴りを受けた後、ほぼ必ず『右』を返しています」

 

「ええ。今までそれがずっと成功し続けているから、彼には変える理由がないんです」

 

「……最後も、同じ右を打たせます」

 

「受け切れますか?」と霧島が懸念を示す。

 

「受ける前提で動きます」

 

 水瀬が、俺の目に冷たい水を当てながら言った。

 

「代表。覚えた技を試すためではなく、勝つために使ってくださいね」

 

「そのつもりです」

 

 ブザーが鳴る。最終、第三ラウンド。

 

     ◆

 

 全体時刻十二分。

 

『《身体能力強化》効果継続』

 

『使用可能回数:残り15回』

 

 第三ラウンド開始。

 

 榊原は、絶対に無理をしない立ち回りに切り替えていた。すでに二ラウンドを確実に取っているため、このまま判定まで逃げ切れば彼の勝利だからだ。

 

 俺は前へ出るしかない。

 

 榊原は下がりながら、牽制のジャブを放つ。俺が追う。榊原がローキック。俺は受ける。

 

 榊原はケージの金網を背負わないよう、サークリングして横へと動き続ける。

 

 俺は左右の打撃を使って、彼の進路を少しずつ塞いでいった。

 

 ジャブを置いて左側を閉じる。ローキックを蹴って右側へと動かす。

 

 まるで羊飼いのように、俺は榊原を少しずつ、少しずつ、金網の壁際へと追い詰めていく。

 

     ◆

 

 俺は前蹴りの構えを見せた。

 

 榊原の肘が下がり、右足へ体重が乗る。

 

 俺は蹴らない。左ジャブを放つ。榊原が受ける。

 

 俺は再び膝を上げる。

 

 榊原は同じ反応をする。

 

 俺は蹴らずに、右ローキックを放ち、榊原の逃げる方向をさらに狭める。

 

 金網まで、残り一歩。

 

 俺は左足を、榊原の右足のさらに外側(アウトサイド)へと深く踏み込んだ。

 

 これで、榊原が左へ回れば俺の右ストレートの射程に入り、右へ回れば俺の前足が物理的に進路を塞ぐ状態になった。

 

 後ろには、冷たい金網。

 

 正面には、俺。

 

 この逃げ場のない位置で、俺が前蹴りを出せば。

 

 榊原の取るべき最適解は、ただ一つしかない。

 

 腹で受ける。

 

 《蓄撃》で吸収する。

 

 無拍子の右ストレートを、俺の顔面へ返す。

 

 俺は、榊原のその強固な型を崩そうとはしなかった。

 

 その型を、そのまま『使わせる』のだ。

 

     ◆

 

 俺は、手持ちのカードを確認した。

 

 《身体能力強化》。

 

 《動体視の魔眼》残り二回。

 

 《蓄撃》残り三回。

 

 《無拍子》残り三回。

 

 通常技能《身体能力強化特化前蹴り》。

 

 俺は頭の中で、これらを使う『順番』を完璧に固定する。

 

 一、前蹴りを榊原へ当てる。

 

 二、榊原がその衝撃を蓄積する。

 

 三、榊原は《無拍子》の右ストレートを返す。

 

 四、右を認識してから防御することはしない。

 

 五、前蹴りを出す前から、左前腕を戻すところまでの一連の動作をあらかじめ決めておく。

 

 六、接触の直前、《動体視の魔眼》を発動する。

 

 七、右ストレートをガードで受ける。

 

 八、同時に俺の《蓄撃》を発動し、榊原の右の衝撃を保存する。

 

 九、榊原の《蓄撃》が放出直後のクールダウン(空白)へ入る。

 

 十、自分の《無拍子》を、二発目の前蹴りの開始へ使用する。

 

 十一、身体能力強化の最大出力と、蓄積した衝撃を、《身体能力強化特化前蹴り》のフォームへ全て乗せて叩き込む。

 

 失敗すれば、同じ状況は二度と作れない。

 

 榊原も、一度見れば必ず対応してくる。

 

 これが、文字通りの一発勝負だ。

 

     ◆

 

 榊原も、俺が前蹴りを軸にして自分をケージ際へ追い込んでいることを理解していた。

 

 しかし、彼は自分が不利だとは微塵も思っていない。

 

 彼にとって、俺の強力な前蹴りは、反撃の最高の燃料でしかないからだ。さらに判定では彼が勝っている。俺が焦って強く蹴れば蹴るほど、彼が返す右も強くなり、確実なKO勝利を彼にもたらす。

 

「……最後に、あの前蹴りで来ますか?」

 

 榊原が、笑みを浮かべて言った。

 

「受けたいんでしょう?」

 

「ええ」

 

 榊原は、嬉しそうに腹を固めた。

 

「今度は、全力でお願いします」

 

「後悔しますよ」

 

「お互い様です」

 

     ◆

 

 残り時間一分。

 

 俺がジャブを放つ。榊原がガードする。

 

 俺が半歩踏み込む。榊原の背中が、金網のすぐ手前まで下がる。

 

 俺が膝を上げる。

 

 榊原の両肘が腹部へ寄り、腹筋が極限まで固まる。右足が床を強く捉え、右拳が顎の横へ引かれる。

 

 すべてが、これまでと全く同じ完璧な反応。

 

 (これしかない)

 

 俺は《身体能力強化特化前蹴り》を放った。

 

 黒瀬から盗んだ、究極の動作。

 

 床を押す。腰を前へ送る。膝を最短距離で上げる。

 

 俺の足裏が、榊原のみぞおちへと鋭く突き刺さった。

 

 バンッ!

 

 榊原が一歩下がり、背中が完全に金網へと押し付けられる。

 

 榊原の《蓄撃》が、俺の前蹴りの衝撃を残さず保存した。

 

 彼は予定通り、強烈な右ストレートを俺の顔面へと返してくる。

 

     ◆

 

 榊原の右肩が動くより先に。

 

 俺は、前蹴りを出した時点から予定していた通り、左前腕を顔の前へと戻し始めていた。

 

 同時に、《動体視の魔眼》を発動する。

 

『《動体視の魔眼》Tier4を発動します』

 

『使用可能回数:残り1回』

 

 榊原の右ストレート。

 

 《無拍子》。

 

 開始認識は、やはり遅れる。

 

 だが、俺の左腕はすでに防御位置へと動いている。

 

 ドゴンッ!!

 

 榊原の拳が、俺の左前腕へと激突した。

 

 俺の前蹴りから蓄積した衝撃と、榊原自身の身体能力強化による打撃力が合わさり、凄まじい破壊力が腕全体を突き抜ける。

 

 骨が軋み、肩が後ろへ押し込まれ、視界が激しく揺れた。

 

 激突と同時、俺は《蓄撃》を発動した。

 

『《蓄撃》を発動します』

 

『使用可能回数:残り2回』

 

 榊原の放った渾身の右ストレートの衝撃の一部を、今度は俺の身体が吸い込み、保存する。

 

     ◆

 

 榊原は、右を完全に振り抜いた。

 

 彼の《蓄撃》は、保存した力を今放出した直後。

 

 ごく短い、再使用不能時間(クールダウン)の空白へと入った。

 

 俺が次にどんな強烈な打撃を放っても、今の数秒間だけは、彼はそれを蓄積して吸収することができない。

 

 榊原の右腕は伸び切っている。左手は顎を守っている。腹部は俺の前蹴りを受けた直後で、ガードが緩んでいる。

 

 背後は金網。横へ逃げるスペースも、俺の足が完全に塞いでいる。

 

 これこそが、俺が待っていた、たった一瞬の完璧な隙だった。

 

     ◆

 

 俺は、ガードに使っていた左腕をパッと開く。

 

 右足で床を強く押す。

 

 腰を正面へ鋭く送る。

 

 膝を高く引き上げる。

 

 榊原の目には、俺のその動作がハッキリと見えているはずだ。

 

 しかし俺は、前蹴りの開始へ《無拍子》を使用した。

 

『《無拍子》を発動します』

 

『使用可能回数:残り2回』

 

 榊原の認識が、強制的に遅延させられる。

 

 俺の腕が開いたことは見えている。腰が動いたことも見えている。膝が上がったことも見えている。

 

 だが、それらの情報が彼の脳内で「二発目の前蹴りが始まった」という意味のある脅威へと繋がるのが、致命的に遅れる。

 

 彼がハッとして気づいた時には、俺の足裏はすでに彼のみぞおちの目前まで迫っていた。

 

「な――」

 

     ◆

 

 俺の、二発目の前蹴り。

 

 通常技能として身体に染み込ませた、黒瀬の無駄のない完璧なフォーム。

 

 《身体能力強化》による最大火力の脚力。

 

 榊原の右ストレートから《蓄撃》で吸い取り、受け取った莫大な衝撃。

 

 《動体視の魔眼》によって捉えた、榊原の姿勢が戻る前の完全な無防備の瞬間。

 

 そして、《無拍子》による開始認識の遅延。

 

 俺の手札のすべてが、この一発へと重なり合った。

 

 榊原は咄嗟に《蓄撃》で受けようとする。

 

 しかし彼の能力は、放出直後のクールダウン中。受け入れが間に合わない。

 

 さらに前蹴りの開始認識も遅れているため、物理的な防御も、腹部の筋肉の緊張も、全く間に合っていなかった。

 

 俺の足裏が、榊原の無防備なみぞおちへと、文字通り突き刺さった。

 

 バァァンッ!

 

 榊原の身体が、後方の金網へと凄まじい勢いで叩きつけられた。

 

 金網が悲鳴を上げて大きくたわみ、その反動で彼の身体が前へと跳ね返される。

 

 榊原は両手で腹部を抱え込み、そのまま糸が切れたように膝からマットへ崩れ落ちた。

 

 カハッ、と空気が漏れる音がするが、呼吸が全くできていない。

 

 立ち上がろうと身をよじるが、足に全く力が入っていなかった。

 

     ◆

 

 俺は、追撃をしなかった。

 

 榊原の意識は飛んでいない。しかし、横隔膜が完全に麻痺し、息を吸うことも身体を起こすこともできない状態だ。

 

 レフェリーが、俺と榊原の間へと滑り込み、大きく両手を交差させた。

 

「ストップ!」

 

 試合終了。

 

 第三ラウンド、四分十二秒。

 

 前蹴りによるレフェリーストップ(TKO)。

 

 一瞬の静寂。

 

 直後、会場が割れんばかりの大歓声に包まれた。

 

『佐伯直人、最終ラウンドでの劇的な逆転KO劇!』

 

『榊原選手の必殺のカウンターを受け切り、その直後の隙を突いた強烈な前蹴りで試合を終わらせました!』

 

『榊原選手が、最後の前蹴りに全く反応できていませんでしたね! 右を打った直後のわずかな隙を、佐伯選手が完璧に突きました!』

 

 実況と解説が興奮気味に叫んでいる。

 

 外部の人間から見えたのは、

 

 俺の前蹴り。榊原の右ストレート。俺のガード。俺の二発目の前蹴り。

 

 ただそれだけの攻防だ。俺が五つもの能力と技能をパズルのように組み合わせたことなど、誰一人として気づいていない。

 

     ◆

 

 赤コーナーで、水瀬が試合の録画映像を食い入るように確認していた。

 

 榊原の右。

 

 直人は、拳が動くより先にガードを戻している。ここは、相手の選択を完全に読んだ予測防御だと説明できる。

 

 問題は、直人の二発目だ。

 

 榊原は《無拍子》の使い手であり、認識阻害を受けた人間がどのような無防備な反応になるかを、誰よりも熟知しているはずだ。

 

 その彼が、直人の前蹴りに対して『異常なほど』反応が遅れている。

 

 さらに、直人の二発目の前蹴りの威力は、一発目より明らかに重く、跳ね上がっている。

 

「……今の前蹴り」

 

「何か気づきましたか?」と霧島が尋ねる。

 

 水瀬は、すぐにいつものあざとい笑顔へと戻った。

 

「いえ。右を全力で打った直後で、榊原選手の反応が遅れただけかもしれませんね♡」

 

 だが彼女は、手元のタブレットに冷徹な事実だけを打ち込んで記録した。

 

『佐伯代表、相手の右ストレートを事前行動により完璧に防御』

 

『被弾直後、佐伯代表の打撃出力が一時的に異常上昇』

 

『榊原選手、最終打撃への認識反応が異常に遅延』

 

『複数の未確認要素あり』

 

 水瀬は、俺に質問をして答えを迫ることはしない。

 

 ただ、彼女の目で観察した事実だけを、チームのデータとして冷徹に残し続けていた。

 

     ◆

 

 医療スタッフの確認が終わり、榊原はケージ脇のベンチで荒い呼吸を整えていた。

 

 俺は彼に歩み寄った。

 

「大丈夫ですか?」

 

「ええ……肋骨は無事です。しばらく、全く息ができませんでしたけど」

 

 榊原は腹を押さえながら苦笑し、俺を見上げた。

 

「最後の前蹴り」

 

「はい」

 

「……始まりが、全く分かりませんでした」

 

 俺は、無表情を貫き、何も返事をしなかった。

 

「自分が使っている《無拍子》を相手から受けた時と、極めてよく似た感覚でしたよ」

 

「……俺があなたの右ストレートを耐え切って、あなたが打ち終わりに油断したから、反応できなかっただけじゃないですか?」

 

 榊原は、俺の顔をジッと見た。

 

 映像には証拠が残っていない。観客にも能力発動の有無は分からない。

 

「……そういうことにしておきます」

 

 (水瀬さんと同じような含みのある言い方をするのは、勘弁してほしい)

 

     ◆

 

 榊原が、自嘲気味に笑った。

 

「最初から、前蹴りを二発当てるつもりだったんですか?」

 

「いえ。最初は、単に覚えた技を普通に試したかっただけです」

 

「正直ですね。でも最後は、私が一発目を受けて、《蓄撃》して、必ず右を返してくると分かっていた」

 

「俺に、右を打たせた」

 

「一番成功している得意な形ですから。必ず選ぶと思いました」

 

「なるほど……」

 

 榊原は、痛む腹部を押さえながら、どこか清々しい顔で笑った。

 

「俺の必殺技を、そっちの必殺技を当てるための『撒き餌』に使われたわけだ。完敗ですよ」

 

 俺は、黒瀬の言葉を思い出していた。

 

『相手に警戒させる技が、格闘技における必殺技だ』。

 

 俺は、前蹴りの純粋な威力だけで勝ったのではない。

 

 前蹴りを受ければ右ストレートで気持ちよく返せる、という『成功体験』を榊原に与え続けた。

 

 そして最後の最後に、彼に同じ行動を選ばせた。

 

 技で相手を動かし、自分の当てたい技を当てる。

 

 あの前蹴りが、借り物ではない、初めて『佐伯直人自身の戦い方』へと組み込まれた瞬間だった。

 

     ◆

 

 医療検査後。

 

 俺は一人で更衣室の個室へ入り、《ライブラリ》の画面を開いた。

 

『【異能】』

 

『《身体能力強化》Tier4』

 

『残り使用可能回数:15回』

 

『《動体視の魔眼》Tier4』

 

『残り使用可能回数:1回』

 

『《蓄撃》Tier4』

 

『残り使用可能回数:2回』

 

『《無拍子》Tier4』

 

『残り使用可能回数:2回』

 

『【技能】』

 

『《身体能力強化特化前蹴り》』

 

『使用回数制限:なし』

 

 《蓄撃》と《無拍子》は、登録時にそれぞれ三回分の使用可能回数が付与されていた。

 

 最後の決着の攻防で一回ずつ使用したため、残りは二回ずつ。

 

 (新しい能力を、二つも手に入れた)

 

 俺は画面を見つめながら、静かに息を吐いた。

 

 (でも、能力を手に入れたから勝てたわけじゃない。使う順番を一つでも間違えれば、あのケージで倒れていたのは間違いなく俺の方だった)

 

     ◆

 

 帰宅後。

 

 俺は暗い部屋のパソコンで、今日の試合映像を再生していた。

 

 榊原の右ストレート。映像では普通に見える。

 

 俺の最後の前蹴り。これも映像ではごく普通に見える。

 

 第三者から見れば、

 

『榊原が右を打つ。直人がガードする。直人が前蹴りを返す』。

 

 本当に、ただそれだけの映像だ。

 

 だが、そのわずか一秒に満たない時間の中で、俺は。

 

 ・榊原へ、前蹴りを受ける選択をさせた。

 

 ・榊原へ、右ストレートを打たせた。

 

 ・見る前から、ガードをあらかじめ戻した。

 

 ・魔眼で、接触後の軌道と隙を捉えた。

 

 ・右ストレートの衝撃を《蓄撃》で受け取った。

 

 ・榊原の《蓄撃》が使えないクールダウンの瞬間を狙った。

 

 ・《無拍子》で、俺の前蹴りの開始を認識させなかった。

 

 ・身体能力強化特化前蹴りへ、受け取った力を全て乗せて放った。

 

 《ライブラリ》は、確かに俺に異能と技能を与えてくれる。

 

 だが。

 

 どの能力を先に使うか。

 

 相手へどの技を選ばせるか。

 

 一度しかない決定的な機会(チャンス)へ、何を重ね合わせるか。

 

 それらの組み合わせ方までは、システムは一切教えてくれない。

 

 (技を持っていることと、戦い方を持っていることは別だ)

 

 あの一発は、黒瀬から借りた技能と、榊原から盗んだ能力でできていた。

 

 それでも、それをあの状況でパズルのように組み立てたのは、他の誰でもない俺自身だ。

 

 見えているのに、間に合わない拳。

 

 それを防ぐ方法は、一つしかなかった。

 

 見える前から、次にやることを決めておく。

 

 そして、受け取った力を、そのまま相手に叩き返す。




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