冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる 作:パラレル・ゲーマー
深夜の静寂に包まれたワンルームには、冷蔵庫の低いモーター音だけが微かに響いていた。
壁掛け時計の針は、午前二時を回ろうとしている。
俺は小さなテーブルの前に胡坐をかいたまま、身動きもせずに座っていた。
目の前には、見慣れたコンビニのレジ袋。
中には、騒動のせいで煮物がご飯の領域へ侵食してしまった幕の内弁当と、ペットボトルのウーロン茶が入っている。
腹は減っているはずなのに、箸を割る気にはなれなかった。
胃の底で、得体の知れない興奮と混乱が渦巻いている。
無理もない。
数時間前、俺は非日常のど真ん中にいた。
強盗。
刃物。
人間を軽々と投げ飛ばす異常な力。
そして、俺自身の拳が大男を吹き飛ばした、あの感触。
「……夢じゃないんだよな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その言葉に呼応するように、視界の中央へ青白い文字が浮かび上がった。
『《ライブラリ》』
『【異能】
《身体能力強化》Tier4
《アイテムボックス》Tier4』
『【技能】
《空手》Lv.1』
『【ヘルプ】』
『【履歴】』
昔遊んだゲームのステータス画面にも似ている。
だが、派手な装飾は一切ない。
必要な情報だけを無機質に並べた、図書館の蔵書一覧のような画面だった。
目を閉じても、首を動かしても、表示は視界の中央へ追従する。
俺は唾を飲み込み、《身体能力強化》の文字へ恐る恐る人差し指を伸ばした。
指先が触れた瞬間、波紋が広がるように表示が切り替わる。
『《身体能力強化》Tier4』
『観測対象の身体能力を限定的に再現します』
『使用可能回数:残り二回』
『最大持続時間:三分』
『任意解除可能』
『発動時点で使用可能回数を一回消費します』
『再観測により、使用可能回数の補充、再現精度および持続時間の向上が可能です』
「残り二回……」
声に出して読み上げる。
コンビニで発動した時、俺は自分が何にでもなれるような錯覚を覚えた。
身体が羽のように軽くなり、大男を一撃で吹き飛ばした。
だが、あの力は無尽蔵に湧いてくるものではない。
使えば減る。
弾倉に収められた弾丸のようなものだ。
しかも、一度発動すれば、途中で解除しても使用回数は戻らない。
コンビニでは、強盗が逃げたことで緊張が切れ、無意識に解除したのだろう。
再観測すれば回数を補充できると書かれている。
つまり、あの強盗たちのような人間が異能を使うところを、再び直接見なければならない。
そんな連中が、この世にどれほど存在するというのか。
今日遭遇した二人が、極めて珍しい存在だった可能性もある。
有限であると分かったことで、頭に浮かびかけていた万能感が綺麗に拭い去られた。
代わりに、適度な緊張感が戻ってくる。
続いて、《アイテムボックス》の項目を選択した。
『《アイテムボックス》Tier4』
『物品を専用の保管空間へ格納します』
『使用可能回数:残り三回』
『最大持続時間:一分』
『一回の発動中、持続時間内であれば複数回の格納および取り出しが可能です』
『生物は格納できません』
『容量および対象制限は、観測元の異能に準じます』
こちらにも回数制限がある。
試してみたい。
だが、確認のためだけに貴重な一回を消費するのは、あまりにももったいない気がした。
それでも、自分がどんな力を持っているのか分からないまま日常へ戻る方が、俺には恐ろしかった。
「……一度くらい、本当に使えるか確かめておかないとな」
意を決し、《アイテムボックス》の発動を念じる。
『《アイテムボックス》を発動します』
『残り時間:一分』
対象は、テーブルの上に置かれた未開封のウーロン茶。
ペットボトルへ触れると、視界へ新しい表示が現れた。
『《格納しますか?》』
『【YES】 【NO】』
迷わず【YES】を選ぶ。
直後、手に持っていたはずの重みが、ふっと消えた。
光に包まれるような派手な演出はない。
ボトルが、何もない空間へ静かに沈み込むようにして消失したのだ。
「うおっ……本当に消えた」
慌てて周囲を見回す。
当然、床にもテーブルの下にも落ちていない。
画面には、新しい項目が追加されていた。
『【収納物】』
『ウーロン茶 一本』
収納物の名前を選択し、取り出すと念じる。
次の瞬間、何もない空中からペットボトルが現れた。
「危なっ」
重力に従って落ちてきたボトルを、慌てて両手で受け止める。
表面に残った水滴の冷たさも、五百ミリリットル分の重さも、収納する前と変わっていない。
やがて一分が経過し、《アイテムボックス》が自動的に終了する。
『使用可能回数:残り二回』
俺はその表示を見つめ、力なく笑った。
「……異能を一回使って、やったことがお茶の出し入れだけか」
もう少し有用な物をまとめて収納しておけばよかったかもしれない。
防災用品や現金、着替えなど、いくらでも候補はあった。
自分の計画性のなさに軽く落ち込みながら、今度は技能欄の《空手》を開く。
『《空手》Lv.1』
『観測した基礎動作および身体操作を習得しています』
『技能は習得後、恒久的に保持されます』
『反復訓練および上位技能の再観測により、熟練度が上昇します』
異能とは、明確に表記が違う。
恒久的に保持。
つまり、使って減るものではない。
一度見て覚えた技術は、俺自身の血肉として定着する。
俺は立ち上がり、姿見の前で両拳を握った。
左足を前へ出す。
右の拳を脇へ引く。
身体能力強化は使っていないため、肉体そのものは運動不足な三十五歳の会社員だ。
それでも、拳の握り方や足の置き方、重心を落とす感覚が自然と分かる。
初心者向けの型を、一通り指導された直後のような感覚だった。
「ふっ」
短く息を吐きながら、正拳突きを放つ。
鏡の中のくたびれた男が、少なくとも完全な素人には見えないフォームで拳を突き出した。
もう一度。
さらにもう一度。
五回ほど繰り返したところで、すぐに息が上がった。
「はあっ……はあっ……」
知識と技術を得ても、基礎体力まで向上するわけではない。
正しい動きを理解できても、それを長く続けられる筋力や持久力は別物らしい。
限界は明確だった。
「次は、コピーの条件か」
呼吸を整えながら、《ヘルプ》を開く。
『【登録条件】』
『技能または異能が実際に使用される様子を、肉眼で直接観測してください』
『静止画、録画映像、映像配信等を介した観測は、登録対象外です』
『【技能】』
『登録後、恒久的に習得します』
『実践および再観測により、熟練度が上昇する場合があります』
『登録時の熟練度は、観測した実演内容および解析範囲に基づいて決定されます』
『【異能】』
『登録後、使用回数または使用時間に制限が発生します』
『同一、または類似する異能を再観測することで、使用可能回数、出力、持続時間、機能等が拡張される場合があります』
『高Tier異能には、追加の登録条件が設定される場合があります』
Tierの意味は書かれていない。
数字の四が強いのか弱いのか、今の俺には知る由もなかった。
ライブラリは、自分自身の機能については説明してくれる。
だが、世の中に存在する異能や能力者についての知識までは持っていないらしい。
それよりも、気になる一文があった。
『録画映像等を介した観測は、登録対象外』
俺は半信半疑のままスマートフォンを手に取り、動画サイトを開いた。
検索窓へ入力する。
『空手 演武 達人』
画面の中で、世界的な名手による型が再生される。
コンビニ強盗の粗削りな前蹴りとは、次元が違う。
一つ一つの動作が研ぎ澄まされ、素人の俺が見ても隙がないと分かる。
もし、これをコピーできたら。
一晩で達人になれるかもしれない。
食い入るように画面を見つめる。
再生速度を落とし、同じ場面を何度も確認する。
しかし、待てど暮らせど、青白い文字が浮かぶことはなかった。
格闘技のライブ配信も開いてみる。
録画ではない。今、この瞬間に行われている試合だ。
それでも反応しない。
レンズや画面を通した時点で、ライブラリにとっては直接観測ではなくなるらしい。
「まあ、そりゃそうか。動画を見るだけで達人になれるなら、苦労はないよな」
少しだけ落胆する。
だが、逆に言えば。
本物の達人が技を振るう場面を、生で目撃できれば。
その技術を、自分のものにできる可能性がある。
《ライブラリ》という異能の底知れなさに、改めて背筋が伸びる思いがした。
時計を見る。
いつの間にか、午前三時を回っていた。
俺は冷え切った幕の内弁当を、水で流し込むようにして腹へ詰め込んだ。
脳裏へ浮かぶのは、あの強盗たちのこと。
警察官が漏らした「上」という言葉。
そして、防犯カメラ。
映像には、強盗だけではなく、常人離れした動きで大男を殴り飛ばした俺の姿も映っている。
警察に怪しまれるのではないか。
後日、改めて事情を聞かれるかもしれない。
布団に潜り込んでも、不安と期待が入り混じった思考が頭の中を巡り続けた。
ライブラリを閉じると念じる。
視界から青白い文字が消え、薄暗い天井だけが残る。
明日、会社へ行けば。
周囲には、他人が長い時間をかけて身につけた技能が溢れているのではないか。
そんな考えが頭から離れないまま、俺は浅い眠りへ落ちていった。
◆
翌朝。
四時間も眠れなかった重い身体を引きずり、俺は会社のデスクへ座った。
パソコンを立ち上げた直後、背後から不機嫌そうな声が降ってくる。
「おい、佐伯。昨日の資料、まだ会議室に持ってきてないのか?」
「……データは昨夜のうちに、共有フォルダへアップロードしたはずですが」
「パソコンを持ち込まない役員もいるんだよ。紙で十部、今すぐ持ってきてくれ。会議まであと十五分しかないんだぞ」
課長は苛立ったように言い捨て、さっさと歩き去っていった。
共有フォルダにあるなら、自分で印刷すればいいだろう。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、共有フォルダから印刷指示を飛ばす。
俺はフロアの隅に設置された大型複合機へ向かった。
だが、今日はとことん運が悪いらしい。
印刷を開始した途端、パネルに赤いエラーランプが点滅した。
紙詰まり。
「このタイミングでかよ……」
俺は機械の類があまり得意ではない。
普段なら、適当に触って余計に壊す前に、総務の担当者を呼ぶところだ。
途方に暮れていると、通りかかった事務職の同僚が足を止めた。
「佐伯さん、おはようございます。どうしました?」
「おはようございます。印刷しようとしたら、紙が詰まったみたいで……急いでるんですけど」
「ああ、またこれですか。ここのローラー、最近調子が悪いんですよ」
同僚は慣れた手つきでパネルを操作した。
側面のレバーを開き、内部の部品を順番に確認していく。
奥で蛇腹状になっていた紙を、破らないよう慎重に引き抜いた。
ものの十数秒だった。
その一連の動きを、俺の目が捉えた瞬間。
『《技能の使用を確認しました》』
『《事務機器操作》Lv.1』
『習得しました』
思わず声が出そうになる。
空手のような武術だけではない。
複合機の紙詰まりを直す行為すら、ライブラリは技能として認識したのだ。
「はい。これで大丈夫です。再開を押せば印刷されますよ」
「あ、ありがとうございます」
「また同じ場所で詰まったら、今開けたレバーを確認してください」
同僚が立ち去る。
俺は言われたとおり再開ボタンを押した。
今まで何となく触っていた複合機の操作画面が、以前よりも分かりやすく感じられる。
用紙の選択。
両面印刷。
部数設定。
基本的な操作なら、迷わず選択できる。
やがて、十部の資料が整然と排出された。
「本当に……仕事にも使えるのか」
資料を抱えながら、俺は自分の手を見つめた。
戦闘だけではない。
日常のささやかな動作すら、俺の力になる。
◆
その事実をさらに決定づけたのは、午前の会議が終わった後だった。
「佐伯。悪いが、各部署から上がってきた今月の経費データを、今日の夕方までに一本のリストへまとめておいてくれ」
課長から巨大な表計算ファイルが送られてくる。
「重複している項目や入力ミスがないか、目視でしっかり確認してくれよ」
ファイルを開く。
書式はバラバラ。
全角と半角が入り乱れ、項目名も部署ごとに微妙に違う。
数千行に及ぶ、悪夢のようなデータだった。
普段の俺なら、一つ一つセルを確認しながら、定時を大幅に超えるまで作業することになる。
俺は少し考え、斜め向かいの席へ向かった。
部署内で、表計算ソフトの扱いに一番詳しい後輩が座っている。
「ちょっと教えてほしいんだけど、いいか?」
「はい。どうしました?」
「こういう、形式がバラバラのデータを一括で照合する方法ってあるか?」
「ああ、それなら――」
後輩は嫌な顔一つせず、自分のパソコンで簡単なダミーデータを作った。
「まず、余計な空白や文字の形式を整えます。別シートとの照合は、VLOOKUPかXLOOKUPを使えば楽ですよ」
後輩の指がキーボードを叩く。
「条件付き書式で重複している値だけ色を付けて、最後にピボットで項目ごとの合計を出せば、異常な数字も見つけやすくなります」
複雑だったデータが、みるみる整列していく。
俺は指先の動きと、画面の変化を一つも見逃さないよう注視した。
『《技能の使用を確認しました》』
『《表計算ソフト操作》Lv.2』
『習得しました』
知識が文章になって頭へ流れ込んでくるわけではない。
だが、
この結果を出したいなら、この機能を使えばいい。
この作業なら、この関数が最短だ。
そんな道筋が、直感的に分かるようになった。
もちろん、後輩本人の記憶や、会社独自の事情を理解できるわけではない。
コピーできたのは、あくまで実演された範囲を中心とした表計算ソフトの操作技能だけだ。
「なるほど。助かったよ」
「これくらいなら、いつでも聞いてください」
礼を言って自席へ戻る。
深呼吸し、キーボードへ手を置いた。
今まで遠回りしていた道の、最短経路が見える。
必要な関数を入力し、複数のショートカットを使ってデータを整形する。
重複や入力ミスの可能性がある箇所が、色付きのセルとして次々と浮かび上がった。
内容を確認し、書式を統一し、最後に集計結果を見やすく整える。
普段なら四時間。
下手をすれば五時間はかかる作業。
それが、四十分ほどで終わってしまった。
「……嘘だろ」
完成したデータを、上から下まで確認する。
ミスは見当たらない。
完璧とまでは言わない。
それでも、今までの俺が作るものより、明らかに速く、正確だった。
胸の奥から、じんわりとした熱が湧き上がる。
仕事ができる人間は、いつもこんな景色を見ていたのだろうか。
何をすればいいか分からず立ち止まるのではなく、やるべきことへの道筋が最初から見えている。
その高揚感のまま、俺は課長へファイルを送信した。
『先ほどのデータ集計、完了しました』
すぐに課長が席を立ち、俺のところへやってくる。
「おい、もう終わったのか?」
「はい。重複確認と、フォーマットの統一も済ませてあります」
「ずいぶん早いな」
課長は画面を確認し、意外そうに眉を上げた。
「なんだ。やればできるじゃないか」
その言葉に、ほんの少しだけ期待してしまった。
だが、次に課長の口から出たのは、労いでも評価でもなかった。
「じゃあ悪いが、この新規案件の候補もリストアップしてくれ。それと、時間に余裕があるなら、山本の伝票処理も手伝ってやってくれ。あいつ、今かなりテンパってるから」
追加のファイルが送られてくる。
俺は黙って画面を見つめた。
仕事が早くなっても、早く終わった時間は俺のものにはならない。
ただの空き時間と判断され、別の仕事が詰め込まれる。
昨日までと同じだ。
やって当然。
文句を言わない、便利な人間。
能力を得たからといって、会社の構造まで魔法のように変わるわけではない。
だが、今の俺は、ただ諦めるだけではなかった。
能力のすべてを、他人へ見せる必要はない。
仕事が早く終わったからといって、すぐに終わったと報告する必要もない。
手札は、見せる相手と場面を選ぶべきなのだ。
◆
昼休み。
俺は屋上のベンチへ座り、缶コーヒーを開けた。
周囲に人がいないことを確認し、《ライブラリ》を呼び出す。
『【技能】』
『《空手》Lv.1』
『《事務機器操作》Lv.1』
『《表計算ソフト操作》Lv.2』
技能には、使用可能回数が表示されていない。
何度使っても消えない。
表計算ソフト操作の詳細を開く。
『《表計算ソフト操作》Lv.2』
『実務で使用可能な基礎および一部の応用操作を習得しています』
『実践および上位技能の再観測により、熟練度が上昇します』
異能は使えば減る。
技能は一度覚えれば、自分の中へ残り続ける。
しかも、コピーして終わりではない。
自分で使い続けることでも、さらに成長できるらしい。
「誰かの借り物のままじゃないんだな」
空手も、表計算も。
最初のきっかけは他人の動作を見たことだった。
だが、その後どう使い、どう伸ばすかは俺次第だ。
午後の業務へ戻る。
俺の目に映る会社の景色は、朝までとは少し違って見えた。
これまで周囲の社員は、自分より要領よく仕事をこなす人間か、仕事を押しつけてくる人間にしか見えていなかった。
だが、誰もが何かしらの技能を持っている。
長い時間をかけ、失敗しながら身につけた技術。
その一端を、俺は直接目にするだけで自分のものにできる。
俺は周囲の動きへ意識を向け、今の自分に役立ちそうな技能を探した。
やがて、斜め前の席から、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
ベテランの女性社員が、電話対応をしている。
受話器の向こうからは、相手が声を荒らげているのが微かに聞こえた。
「はい。左様でございますか。ご不便をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません」
彼女は一切動じない。
相手の言葉を途中で遮らず、まず最後まで聞く。
「お客様のおっしゃるとおり、事前の案内が不足していた点は否めません」
怒りを正面から否定しない。
だが、必要以上に非を認めることもない。
相手の感情と、実際に起きた事実を切り分けながら、要求を整理していく。
「その件につきましては、私の一存では即答いたしかねます。一度上長へ確認し、本日十五時までに、必ずこちらからご連絡いたします」
できない約束はしない。
代わりに、次に何をするかと、その期限を明確に伝える。
しばらくして、相手も落ち着いたのか、女性社員は穏やかな声で電話を終えた。
『《技能の使用を確認しました》』
『《電話応対》Lv.2』
『習得しました』
俺は息を呑む。
肉体を動かす技術だけではない。
相手の感情を受け止め、会話を組み立てる方法すら、技能として習得できるらしい。
これなら、会社での立ち回りにも使える。
今後、コンビニ強盗のような異常な連中と関わることになった時にも、役立つかもしれない。
午後に振られた追加業務は、新しく得た技能を使って、ひっそりと片づけた。
だが、今度はすぐに提出しない。
ミスがないか二度確認する。
残った時間は、社内規則や業務資料に目を通しながら過ごした。
そして、定時を告げるチャイムが鳴った直後。
俺は完成したデータを送信し、カバンを手に取った。
「本日の作業は完了しましたので、お先に失礼します」
課長が目を丸くする。
「あれ? お前、今日はもう帰るのか?」
「はい。指示された分は、すべて終わっています」
「そ、そうか。ミスがないならいいけどな」
「確認済みです」
「……お疲れ」
「お疲れさまでした」
狐につままれたような顔をする課長を残し、会社を出た。
自動ドアを抜け、夕暮れの街へ出る。
肺へ吸い込む空気が、いつもより軽く感じられた。
暴漢を殴り倒した時のような、派手な高揚感はない。
ただ、他人に振り回されず、自分で仕事の流れを管理し、定時に帰る。
それだけのことが、今の俺には小さな勝利だった。
能力は、誰かを助けるためだけのものではない。
俺自身の、すり減った時間を守るために使ってもいい。
◆
帰り道。
俺は昨日のコンビニの前を通った。
店内の照明は消え、入口には黄色い規制線が張られている。
ガラス戸には、『休業のお知らせ』と書かれた紙が貼られていた。
昨日の出来事が現実だったことを、改めて突きつけられる。
電車へ乗ってから、スマートフォンで事件を検索した。
扱いは驚くほど小さかった。
『昨夜十一時ごろ、市内のコンビニエンスストアで、刃物を持った二人組による強盗未遂事件が発生しました。犯人は現在も逃走中です』
それだけだった。
何もない空間からナイフを取り出したこと。
大人の男を片手で投げ飛ばした異常な腕力。
それらについては、一切触れられていない。
防犯カメラには確実に映っていたはずだ。
警察官たちも、映像を確認していた。
それなのに、超常的な部分だけが綺麗に消えている。
「どうなってるんだ……?」
薄気味悪さを覚えたが、答えは出ない。
俺はスマートフォンをしまい、家路を急いだ。
◆
午後九時過ぎ。
夕食を終えた俺は、部屋の中央で《ライブラリ》を開いていた。
『【異能】』
『《身体能力強化》Tier4
使用可能回数:残り二回』
『《アイテムボックス》Tier4
使用可能回数:残り二回』
『【技能】』
『《空手》Lv.1』
『《事務機器操作》Lv.1』
『《表計算ソフト操作》Lv.2』
『《電話応対》Lv.2』
昨日まで、俺には誇れるものなど何もなかった。
それが、たった一日で、これだけできることが増えた。
この力があれば、少なくとも会社にすべての時間を奪われずに済む。
理不尽な仕事を押しつけられても、今までのように黙ってすり減るだけではない。
そして。
世の中には、あの強盗たちのような能力者がほかにもいるはずだ。
彼らが能力を使う瞬間を直接見ることができれば、《ライブラリ》はさらに増えていく。
自分から危険へ飛び込む気はない。
だが、自分がどこまで変われるのか。
純粋な好奇心と期待が、確かに胸の奥で燻り始めていた。
――ピンポーン。
静寂を破り、突然インターホンが鳴った。
俺は肩を跳ねさせる。
こんな時間に、宅配便を頼んだ覚えはない。
ライブラリを閉じ、玄関脇のモニターを覗き込む。
そこには、地味なグレーのスーツを着た、二十代後半ほどの女性が立っていた。
営業だろうか。
いや、午後九時を過ぎている。
さすがに非常識すぎる。
俺は少し迷った末、応答ボタンを押した。
「はい……どちら様ですか?」
女性はカメラを真っ直ぐに見据えた。
その表情からは、感情がほとんど読み取れない。
『夜分遅くに申し訳ありません、佐伯直人さん』
名前を呼ばれ、背筋が強張る。
『先日のコンビニ強盗事件について、少々お話を伺いたいのですが』
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
俺の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!