冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる 作:パラレル・ゲーマー
榊原陣との死闘から数日後。
定時で仕事を終えた俺は、帰宅途中の満員電車に揺られながら、スマートフォンでネクサス・マッチングの登録者用アプリを開いていた。
届いていたのは、次回の企業代理戦の試合依頼ではなかった。
『登録選手・企業分析担当者向け:特別観戦枠のご案内』。
アプリの画面には、今夜行われる予定の試合のカードが表示されている。
『青柳迅(あおやぎ・じん)』対『真壁剛志(まかべ・たけし)』。
両者の公開されている能力情報に目を通した俺は、青柳側の欄でピタリと視線を止めた。
『保有能力:《重心転写》Tier4』
《重心転写》。自分の肉体の重心位置を、本来存在する位置から一時的にずらす能力、とある。
俺がまだ持っていない、完全に未知の異能だった。
(……これ、観戦するだけでコピーできるんじゃないか?)
映像や録画では、《ライブラリ》は因果の起点を観測できないためコピーが発動しない。それはすでに実証済みだ。
だが、生の試合会場で、リング上で発動される能力をこの肉眼で直接見ることができれば。
自分が血を流して戦わなくても、新しい能力を安全に登録できる可能性がある。
俺は少し興奮しながら、観戦チケットの購入画面を下へとスクロールした。
料金の項目が表示される。
『一般モニター観戦席:三万円』
『アナリスト専用リングサイド席(強化透明板越し直接観戦可):五十万円』
俺は、電車の中で思わず「高っ」と声に出しそうになり、慌てて口をつぐんで画面を閉じた。
深呼吸をして、もう一度アプリを開く。
何度見直しても、表示されている金額のゼロの数は変わらなかった。
一席、五十万円。
(……会社員の給料なら、手取りで二ヶ月分以上が軽く吹き飛ぶ額だぞ)
もちろん、御影戦と榊原戦で得たファイトマネーがあるため、物理的に払えない金額ではない。試合に一度出れば、百万円以上の現金が動く世界だ。
しかし、俺の染み付いた一般庶民の金銭感覚が、激しく警鐘を鳴らしていた。五十万円は、どう考えても普通に大金だ。
それに、リスクもある。
五十万円も払って特等席に座っても、選手が能力を全く使わずにパンチ一発の秒殺で試合が終わってしまえば、解析が間に合わない可能性が高い。あるいは、目当ての選手が能力を温存したまま負けてしまうかもしれない。
当然、そんな理由でチケット代が返金されることはない。完全なギャンブルだ。
俺は揺れる車内で五分ほど迷った末、決断した。
「……自分が戦わずに能力を手に入れられるか、そのシステムを検証するための『必要経費(研究費)』だ。安いもんだ」
誰に言い訳しているのか分からない言葉を心の中で呟きながら、俺は震える指で『購入』のボタンをタップした。
直後、画面に表示された『決済完了:五十万円』の無機質な文字を見て、俺は激しい後悔と胃の痛みに襲われた。
◆
試合当日の夜。
俺は水瀬を誘わず、一人で会場へと向かっていた。
水瀬には、俺の《ライブラリ》の詳細な仕様を話していない。
表向きには「他選手の戦い方を勉強するため」という理由で観戦を申し込んでいる。
もし水瀬を連れていけば、あの鋭い分析担当の少女は必ずこう聞いてくるだろう。
「どうして三万円の普通のモニター席ではなく、わざわざ五十万円も払って、能力の発動起点まで肉眼で確認できる最前列の席を選んだんですか?」と。
その質問を躱す自信は、今の俺にはなかった。能力の詳細を隠している俺が一人で座っている分には、ただの熱心な変わり者として不自然には見えないはずだ。
会場は、ネクサス系列が所有する地下の専用試合場だった。
通常席はリングから遠く離れており、防護壁の向こう側から巨大なモニターを通して観戦する形になっている。
リングサイドの『アナリスト専用席』だけが、能力の余波を防ぐ分厚い強化透明板越しに、選手の動作と因果の揺らぎを直接肉眼で確認できる構造だった。
席の背もたれには、厳重な注意書きのプレートが貼られている。
『取得した能力情報を外部へ漏洩させない守秘契約への同意』
『いかなる機器による撮影および録音の禁止』
『観戦中の、自身の能力の使用禁止』
俺の《ライブラリ》は、外部へ向けて発動の光や因果現象を一切出さないパッシブ(受動的)なシステムだ。規則上、観戦中に能力を使っていると見なされてつまみ出される心配はない。
◆
係員に案内され、俺はリングが目の前に迫る最前列の指定された座席へと向かった。
隣の席には、すでに一人の初老の男性が座っていた。
小柄で細身。白髪交じりの髪を上品に流し、見るからに仕立ての良さそうな高級スーツを着ているが、ネクタイは少し緩められており、どこかリラックスした雰囲気を漂わせている。
俺は最初、どこかで見たことのある顔だな、と思った。
男性が、俺の気配に気づいて振り返った。
(……え?)
俺は、息を呑んで立ち止まった。
テレビの経済番組や、ネットの企業ニュースで何度も見たことのある顔だった。
通信事業、インターネットサービス、AI開発、半導体、海外ベンチャー投資。それらを包括する、日本有数の巨大企業グループ『ソフトリンク・グループ』の代表取締役社長、白川征一郎。
一般人である俺の姿勢が、反射的に新入社員のようにガチガチに固くなった。
「し、白川社長……?」
「そうだよ。こんばんは、佐伯君」
白川は、まるで会社の休憩室で顔見知りの同僚に話しかけるような、気さくで軽い調子で微笑んだ。
俺はパニックになりかけ、慌ててスーツの内ポケットから自分の会社の名刺を探そうとした。
白川が、笑いながらひらひらと手を振る。
「いいよ、いいよ。今日は会社の仕事で来てるんじゃないんだから、そんなに畏まらなくて」
「ですが、どうして俺の名前を……」
「社長だって、たまには息抜きに試合くらい見るさ。プロ野球のオーナーがお忍びで球場へ来るのと同じだよ」
白川はにこやかに、自分のすぐ隣の空いている座席を軽くポンポンと叩いた。
「座りなよ。君がここへ来ると聞いて、今回はわざわざ席を君の隣にしてもらったんだ」
俺は、今の言葉を聞いてさらに緊張した。
偶然隣り合わせたわけではない。この日本有数の大企業のトップが、わざわざ『佐伯直人』の隣の席を指定して座っているのだ。
◆
試合開始まで、あと十五分。
俺が緊張で背筋を伸ばしたまま座っていると、白川は高級そうな瓶入りのミネラルウォーターをグラスに注ぎながら、ただの世間話のような調子で口を開いた。
「君の試合、これまでの録画を全部見たよ」
「ぜ、全部ですか?」
「ああ。黒瀬君とのデビュー戦。荒木君との廃ビルでの死闘。御影君とのモールのゾンビ騒動。それから先日の、榊原君とのMMAの試合もね」
俺は内心で激しく警戒した。
一企業の社長が、たった数戦しかしていない新人選手の試合をすべてチェックしている?
白川は、俺の警戒を察したように軽く笑った。
「失礼。少しだけ、君のことを調べさせてもらったんだよ」
彼は、グラスを傾けながら俺の経歴をスラスラと暗唱し始めた。
「年齢は三十五歳。中堅の不動産管理会社勤務。役職はなしの平社員。目立った格闘技のバックボーンもなし。八咫烏への能力者登録は、ごく一般的な《身体能力強化》のみ」
白川の目が、面白そうに細められた。
「しかし、実際の試合の映像ではどうだ。君は、登録していない複数の種類の格闘技を使いこなしている。廃ビルでは、黒瀬君と同じ魔眼らしき視覚能力を使った形跡がある。先日は、榊原君の《無拍子》と酷似した現象を起こし、さらに彼の打撃を受けた直後、君の打撃の威力が急上昇した」
白川が、にこやかな笑顔のまま、少しだけ顔を俺の方へと近づけた。
「登録上の申告は《身体能力強化》だけなのに、ずいぶんと多芸で強いじゃないか。佐伯君」
「……運がよかっただけですよ」
「それだけじゃないだろう?」
白川の声のトーンが、わずかに低くなった。
「君……何か、隠してる?」
俺の心臓が嫌な音を立てた。
ここで慌てて否定すれば、余計に怪しまれる。かといって、《ライブラリ》の存在をペラペラと喋るわけにはいかない。
俺は、できる限り自然な苦笑いを浮かべて返した。
「……さあ、どうでしょうね。裏の世界で、手札を全部見せて戦う馬鹿はいないでしょう?」
数秒の、重い沈黙が降りた。
やがて、白川は「ふははっ!」と心底楽しそうに声を立てて笑った。
「ふふふ。そうかい。いい答えだ」
彼はそれ以上、俺の能力の正体を深く追及してこなかった。
「ますます君のことが気に入ったよ。すっかり君のファンになってしまってね。それで今回は、無理を言って隣の席を取ってもらったのさ」
俺は引きつった愛想笑いを浮かべながら、内心で冷や汗を拭っていた。
日本有数の大企業の社長に「ファンになった」と笑顔で言われても、微塵も安心できない。むしろ、胃に穴が空きそうなプレッシャーだった。
◆
白川はリングの設営状況を眺めながら、ごく自然な、まるで天気を尋ねるようなトーンで話題を変えた。
「どうだい。うちの会社へ来ないか?」
俺は、一瞬言葉に詰まった。
「……ソフトリンクへ、ですか?」
「表の職業では、君はずっと平社員のままで燻っているらしいじゃないか」
悪意は全くないのだろうが、三十五歳のプライドの痛いところを正確に突いてくる。
「新規事業部の役職付きのポストでも用意してやろうか。君のあの状況判断能力と適応力なら、うちが投資している能力者関連事業の現場調整役にも、すごく向いていそうだ。給料も、今の会社の数倍は保証するよ」
普通なら、人生が一変するようなシンデレラストーリーの提案だ。
給料も待遇も、今のブラックな中小企業とは比較にならない。二つ返事で飛びつくのが普通の社会人だろう。
しかし俺は、数秒だけ考えた末、静かに首を横に振った。
「ありがたいお話ですが……結構です」
白川が、意外そうに眉を上げた。
「ほう。理由を聞いても?」
「今のこの『二重生活』が、少し好きになってきたので」
昼は、誰からも期待されない冴えない平社員。
夜は、百万円以上の金と命が動く企業代理戦のファイター。
以前の俺なら、昼間の息の詰まる会社から逃げ出したいとばかり思っていた。
だが今は違う。どちらか一方に自分の人生のすべてを預けるのではなく、昼と夜、全く異なる二つの世界を持っていることが、俺の精神的なバランスを保つ上で心地よいのだ。
白川は、俺の目を見て納得したように深く頷いた。
「ふふふ。そうかい。なるほどね」
「……変でしょうか? 大企業のポストを蹴ってまで、平社員と能力者を兼業するなんて」
「全然」
白川は、グラスの水を一口飲んで平然と言った。
「表向きは普通の営業社員として取引先にペコペコ頭を下げながら、夜は依頼された能力犯罪者を始末する『殺し屋』をやっている連中もいる世界だからね」
「……本当に、そんな漫画みたいな奴がいるんですか?」
「いるよ。人間というのは、一つの肩書きだけでは息が詰まる生き物だからね」
白川は軽く肩をすくめた。
「そういうイカれた連中に比べれば、君の兼業スタイルくらい、ちっとも珍しくないさ」
俺は、この能力者社会という裏の世界の底が、俺の想像以上に深く、まだ全く見えていないことを改めて思い知らされていた。
◆
会場の照明がゆっくりと落ち、リングを照らすスポットライトだけが残された。
最初に、赤コーナーから真壁剛志が入場してきた。
身長百八十八センチ、体重百キロを超える、まるで岩山のような巨体だ。
派手な入場パフォーマンスは一切せず、リングへ上がると、足裏でキャンバスの床の感触を確かめるように、ズン、ズン、と何度か重く踏み込んだ。
彼が一歩踏み込むごとに、リング全体がかすかに揺れるような錯覚を覚えた。
続いて、青コーナーから青柳迅が入場してくる。
アップテンポの軽快な音楽。青柳はリングサイドへ来ると、ロープを掴むことなく跳躍し、そのまま最上段のロープをふわりと飛び越えた。
そして、着地する直前。彼の身体が不自然なほどゆっくりと空中で起き上がり、音もなくリングの中央へと舞い降りた。体操選手のような無重力感のある動きだった。
白川が、俺の方を見ずに尋ねた。
「さて、佐伯君。プロの目から見て、どっちが勝つと思う?」
俺はすぐには答えず、リング上で準備運動をしている両者の様子を凝視した。
二人が、同時に《身体能力強化》を発動させる。
俺の視界の《ライブラリ》が、激しく反応した。
真壁の身体能力強化は、明らかに異常だった。出力のほとんどが、足裏からふくらはぎ、太腿、臀部、そして背筋といった『下半身』へと極端に集中している。
一方、青柳の身体能力強化は、瞬発力、関節の柔軟性、そして全身の姿勢制御へと重点的に配分されていた。
同じ能力でも、原理も運用も全く異なる。
しかし、俺の《ライブラリ》の中では、どちらも同じベースの能力として処理された。
『登録済み能力との類似因果を確認しました』
『《身体能力強化》Tier4』
『新規術者二名の個体差情報(アプローチ)を取得し、最適化します』
『使用可能回数を上限まで補充しました』
『残り使用可能回数:20回』
俺は内心で小さくガッツポーズをした。
残り十五回まで減っていたストックが、一気に上限の二十回まで回復したのだ。これだけでも、五十万円の元は少し取れた気がする。
俺は感情を顔に出さないようにして、リングを見つめ続けた。
白川が、もう一度尋ねてきた。
「どうだい? 予想はついたかな?」
「……どちらも強いですね」
「それではただの感想だよ。解説者としての君の予想を聞きたいんだ」
「純粋な《身体能力強化》の出力(パワーとスピード)だけなら、あの二人とも、俺とほぼ同じレベルだと思います」
白川が、面白そうに俺を見た。
観客席から見ているだけで、他人の能力の出力を自分と比較して正確に測れる。その発言の裏にある俺の観察力に、彼は興味を示したようだ。
「序盤は、巨体の真壁選手が有利に試合を進めるはずです。リングは狭い。逃げ回る青柳選手にとって、物理的に逃げる場所が限られていますから」
「最終的な勝敗は?」
「青柳選手が……ロープを『単なる壁』ではなく『足場』として使い始めたら、どう転ぶか分かりません」
白川が、満足そうに声を出して笑った。
「なるほど。見事な分析だ。では、私は真壁君の方へ賭けようかな」
「……賭けるんですか?」
「あくまで個人的な予想の遊びだよ。裏賭博で金銭は動かさない。……今日はね」
白川は、最後に意味深なウインクをして、リングへと視線を戻した。
◆
第一ラウンド開始のゴングが鳴った。
真壁は、巨体に似合わず滑らかなすり足で、リング中央へとゆっくり進み出た。
急いで間合いを詰めることはしない。だが、その一歩一歩が重く、確実に青柳の退路を狭めていくプレッシャーがあった。
青柳が、サークリングしながら牽制のジャブを放つ。真壁は避けることなく、額と前腕のガードでガシッと受け止めた。
続くローキック。真壁はすねで受けるが、その巨体はミリ単位たりとも位置を動かさない。
『真壁選手の《地鎮》が出ました!』
実況の声が会場に響く。
『下半身へ能力の強化出力を極限まで集中させ、リングそのものへ根を張るように踏ん張っています! 青柳選手の打撃が、全く通用していません!』
しかし、俺の《ライブラリ》は、実況が叫んだ『地鎮』という言葉を、新しい異能としては認識しなかった。
『《身体能力強化》の運用派生を確認しました』
『下半身出力集中』
『足裏接地』
『姿勢固定』
『既登録の同能力へ、新たな運用アプローチの情報を追加統合します』
俺は、他人が《地鎮》と仰々しく呼んでいる能力を、《ライブラリ》が単なる「身体能力強化の特殊な使い方」として事務的に整理したのを確認した。
白川が、横目で俺の顔を見て尋ねてきた。
「真壁君の《地鎮》、どう見る?」
「……新しい別の能力というよりは、身体能力強化の極端な『使い方(アプリケーション)』だと思います」
「ほう」
「出力のほとんどを足裏と背筋に流して、地面に自分を固定しているだけです。本人がそれをどう呼んでいるかは別として、ですが」
白川の口元の笑みが、わずかに深くなった。
「なるほど。君は、世間がつけた能力の『名前』ではなく、純粋にその『中身』を見るんだね」
◆
真壁の攻勢が続く。
真壁は、ジリジリとした圧力で、ついに青柳をロープ際へと追い込んだ。
青柳が左右へステップして逃げようとしても、真壁はその巨体を動く壁のように配置し、先回りして進路を完全に塞ぐ。
青柳の苦し紛れの前蹴りを腹で受けながら、真壁は一気に前進した。
クリンチ。青柳の両脇へ太い腕を差し込み、上半身を万力のような力で完全に固定する。
そのまま、百キロの巨体と強化された筋力で、青柳の身体を強引に宙へ持ち上げようとした。
(……投げられる!)
そう思った直前。
青柳が、未知の能力《重心転写》を発動させた。
青柳の身体は、真壁の投げの力によって左へと大きく傾いている。
しかし、彼の『重心』だけが、身体の外側である右方向へとスッと移動したのだ。
真壁が投げようとして力を込めている方向と、青柳の『実際の重さ』がかかっている方向が、完全にズレた。
真壁の投げが、まるで空の段ボール箱を持ち上げたようにスカッと空振りに近い形となり、バランスを崩す。
その隙を突き、青柳が真壁の脇の下からヌルリと滑り落ちて脱出した。
《ライブラリ》が、激しく反応した。
『未知の因果現象を確認しました』
『肉体構造と重心位置の不一致を確認』
『解析率:24%』
俺は、青柳の身体全体ではなく、彼の骨盤、軸足、胸部の角度、そして着地位置だけを食い入るように凝視した。
白川が、それに気づいた。
「派手な投げ抜けの場面だったのに、ずいぶんと足元の方が気になるんだね?」
「……ええ。彼の『重心』が、今どこにあるのかと思いまして」
「重心? 普通は、身体の真ん中にあるものだけどね」
「普通なら、です」
◆
第一ラウンドは、終始圧力をかけ続けた真壁の優勢で終わった。
一分のインターバル後、第二ラウンドが開始される。
青柳の戦い方が、明確に変わった。
彼はリング中央でステップを踏んで戦うことをやめた。自ら進んでロープ際へと後退し、金網を背負うような位置取りをする。
真壁が、好機とばかりに圧力をかけて接近する。
青柳は、背中をロープへと完全に預け、自分の身体を大きく後ろへと倒した。
通常なら、リングの外へと真っ逆さまに転落してしまうほどの極端な角度だ。
しかし、彼は倒れなかった。
肉体は外へ傾いているのに、『重心』だけをリングの内側(足元)へと残しているため、物理法則を無視した姿勢で静止しているのだ。
真壁の強烈なフックが、青柳の鼻先の空間を空しく通過する。
青柳はそのまま、ロープの弾力を利用し、しなる弓のように身体を前方へと戻した。
同時に、自らの重心をさらに前方へと転写する。
踏み込みの予備動作が全くない、不自然なほどのゼロ距離からの急加速。
青柳の鋭い膝蹴りが、真壁の無防備な腹部へと真っ直ぐに突き刺さった。
『重心位置の前方転写を確認』
『加速動作への運用を観測』
『解析率:46%』
ドスッ! という重い音が響く。
だが、真壁は腹部の筋肉を強化してその一撃に耐えた。そして、膝を当てて密着した青柳を、今度こそ捕まえようと丸太のような両腕を伸ばす。
青柳は、身体を真横へと極端に傾けた。
倒れる直前、重心を軸足の真上へとピンポイントで残す。
真壁の伸びてきた太い腕の下を、ほとんど地面と平行に近い、リンボーダンスのようなありえない姿勢で潜り抜け、そのまま背後へと回り込んだ。
白川が、感心したように声を上げた。
「面白いね、あの動き」
俺は、無意識のうちに分析の言葉を口にしていた。
「でも、あの能力は連続では使えないはずです」
「どうしてそう思う?」
「極端に姿勢を変えた直後、青柳選手の目が一瞬だけ泳いで焦点が合っていません。視線の固定が遅れている。……頻繁に重心を外部へ移すことで、三半規管が混乱して、平衡感覚に多大な負担がかかっているんだと思います」
白川は、リング上の選手ではなく、俺の横顔をじっと見た。
俺自身は、《ライブラリ》の解析表示と観察をすり合わせて判断しているだけだ。
だが、白川の目には、俺がただ数回見ただけで、他人の未知の能力の『明確な弱点と制限』を論理的に推測したように映ったはずだ。
◆
真壁も、ただやられっぱなしではなかった。
青柳が重心を不自然にズラす瞬間、どんな姿勢になろうとも『足の裏だけは完全に地面から離れていない』ことに気づいたのだ。
真壁は、青柳のトリッキーな上半身の動きを無視し、彼の『軸足』そのものを狙って、強烈な低いローキックを放った。
青柳は重心を移して避けようとするが、支点となっている軸足そのものを蹴り払われ、大きく体勢を崩した。
そこへ、真壁が猛然と組みつく。
今回は、器用に投げ飛ばそうとはしなかった。青柳の腰と片脚を、両腕でガッチリと抱え込むようにしてロックする。
重心が身体の外のどこへ逃げようとも、物理的に『肉体ごとすべて』を持ち上げてしまえば関係ないという、脳筋だが極めて合理的な力技だ。
能力の理屈を理解した上で、純粋な組み技の技術で相手を封じ込める。
白川が、展開の妙に身を乗り出して尋ねた。
「これなら、さすがの青柳君も逃げられないかな?」
「普通なら、逃げられませんね」
「また『普通なら』、かい?」
「青柳選手は……まだ『空中』で能力を使っていませんから」
俺は、リングの上の二人の動きから一瞬たりとも目を離さなかった。
◆
真壁が、青柳の身体を頭の高さまで高く持ち上げた。
そのまま、リング中央の硬いキャンバスへ向けて、全体重を乗せて叩きつけようとする。
青柳の足が、完全に床から離れた。
空中に浮いた絶体絶命の瞬間。青柳が、《重心転写》を発動した。
持ち上げられた青柳の身体の重心が、真壁の肩よりさらに後方の空中へと移動する。
真壁は突然、自分が持ち上げている数十キロのバーベルの重さが、自分の背中側の虚空へと不自然に引っ張られたような異常な感覚を受けた。
「なっ!?」
真壁の姿勢が、重力に逆らえず前へと大きく崩れる。
青柳は、空中で自らの重心を支点にするように身体を回転させ、真壁の肩を越えて、背後へと鮮やかに着地した。
『空中における重心位置転写を確認』
『姿勢制御および落下軌道修正への応用を観測』
『解析率:71%』
着地した青柳が、すぐさま反撃に転じようとする。
だが、空中で重心を移動させるという荒業の連続使用による反動で、彼の視界が激しく揺れていた。一瞬、踏み込みが遅れる。
真壁は前へ崩れながらも、振り向きざまに強烈なバックエルボーを放った。
青柳は避けきれず、右頬に重い一撃を受けて吹き飛んだ。
能力を使えば無敵というわけではない。
平衡感覚の乱れという代償が、明確な弱点としてリング上に浮き彫りになった。
◆
第二ラウンド終了。試合は、互いの疲労によって一時的に膠着状態となっていた。
インターバル中、白川が何でもない世間話のように、再び勧誘の言葉を投げてきた。
「やっぱり、うちの会社へ来る気はないかい?」
「……試合の真っ最中に、もう一度聞きますか?」
「君のその恐ろしい観察力と分析力を見ていたら、さっきよりさらに君が欲しくなってしまってね」
「評価していただくのは光栄ですが、申し訳ありません」
「本当に? 役職をさらに上げようか。新規事業部の部長待遇でもいい。君の裁量で動かせる予算もつけよう」
「そういう条件の問題じゃありませんよ」
白川は、肩をすくめて笑った。
「君、本当に欲がないね」
「五十万円のリングサイド席を、身銭を切って自腹で買っている人間に『欲がない』なんて言われたくありませんよ」
俺が少しだけ刺のある声で返すと、白川は「はははっ!」と周囲の客が振り返るほど大きな声を立てて笑った。
俺も、つられて少しだけ口元が緩み、緊張が解けていくのを感じた。
この何気ない会話の応酬によって、俺たちは単なる『雲の上の大企業社長』と『冴えない平社員』という関係から、同じ能力者試合を楽しむ『観客同士』というフラットな立ち位置へと、少しだけ近づいていた。
◆
最終、第三ラウンド開始。
真壁は、リング中央から一歩も動こうとしなかった。
ポイント判定では、彼が確実に勝っている。無理に攻めてカウンターや奇襲を受ける必要はどこにもない。中央に《地鎮》で陣取り、青柳が焦って飛び込んでくるのを待つ構えだ。
青柳が、正面から細かくステップを踏んで近づく。
ジャブ。ローキック。フェイント。
真壁は鉄塔のように動かない。
青柳が、大きく右へと回ろうとする。
真壁は、すり足で進路を塞ぐ。
青柳が左へ動く。
真壁も、リングの端に追いやられないように追う。
俺は、二人のステップの軌跡を見て、青柳の本当の狙いに気づいた。
青柳は、無意味にサークリングしているわけではない。彼は真壁を、少しずつ、少しずつ、リングの中央から『ロープ際』へと誘導しているのだ。
白川が、俺の視線の動きに気づいて尋ねた。
「青柳君は、何を狙っていると思う?」
「……真壁選手の足を、リング中央の『一番硬い場所』から外しています」
俺は、かつて自分がMMAの試合映像で学んだ知識と、目の前の能力の特性を結びつけた。
「リングの構造上、中央とロープ際では、キャンバスの床の沈み込み方がわずかに違うんです」
「床の、沈み込み?」
「ええ。真壁選手の《地鎮》は、足裏から床へ強化の力を逃がして、自分の身体を物理的に固定する能力です。つまり……トランポリンのように柔らかく沈むロープ際では、中央の硬い床ほど強固に踏ん張れないはずです」
◆
青柳が、鋭い前蹴りを放った。
真壁がガードで受ける。
青柳は、蹴った直後に重心を『後方』へと転写し、蹴り足を引き戻す反動の隙を完全に消し去った。
そして、流れるような動作で再び踏み込む。
真壁が、今度こそ捕まえようと両腕を伸ばして組みつこうとする。
青柳は、伸びてきた真壁の太い肩へ片手を置き、それを支点にして大きく跳躍した。
真壁の正面から、彼の頭上へと高く飛び上がる。
そして空中で、自らの重心を『前方』へと急激に転写した。
青柳の身体が、物理法則による通常の跳躍の放物線軌道を完全に無視し、空中で鋭角に折れ曲がるようにして、真壁の背後へと急降下していく。
『跳躍軌道への干渉を確認』
『同一因果現象の全運用構造の観測を完了しました』
『解析率:100%』
『《重心転写》Tier4』
『使用可能回数:3回』
『新規異能の登録が完了しました』
俺の視界で、システム完了の青白い光が弾けた。
目的の能力の取得は完了した。
だが、目の前のリング上の死闘は、まだ終わっていなかった。
◆
青柳は、真壁の背後へと音もなく着地した。
真壁が「チッ」と舌打ちをして、巨体を反転させて振り向く。
だが、青柳は着地した瞬間には、すでに前方へと重心を転写し、ありえない初速で急加速していた。
通常なら数歩の助走が必要な威力の『飛び膝蹴り』を、ほぼゼロ距離のその場から跳び上がって放ったのだ。
真壁は回避が間に合わず、腹部へ極限まで強化出力を集中させ、その膝蹴りを正面から受け止めた。
ドゴォン! と鈍い音が響く。
だが、真壁は倒れない。《地鎮》の力で、なんとかその場に踏みとどまった。
しかし。
青柳は、膝が真壁の腹部に激突したその瞬間に、自分の重心を『さらに前方(真壁の体内方向)』へと移したのだ。
青柳の身体全体が、真壁の巨体へと吸い込まれるように、尋常ではない圧力で押し込まれる。
そして、真壁が立っていた足元は――青柳が執拗に誘導した、柔らかく沈み込むロープ際だった。
ズズッ。
《地鎮》による絶対の固定が、柔らかいキャンバスに吸収され、わずかに沈んでズレた。
鉄塔のように動かなかった真壁の巨体が、試合開始から初めて、一歩後退した。
真壁の広い背中が、ロープへと触れる。
青柳は、ロープの反発力で前へと戻されかけた真壁の顎を打ち抜くように、渾身の左フックを叩き込んだ。
真壁の目が白目を剥き、巨体がドスンと膝をついて崩れ落ちた。
レフェリーが慌てて二人の間に割って入り、試合を止める。
第三ラウンド。青柳迅の、鮮やかなTKO勝利だった。
単純に重心転写という能力の力だけで殴り勝ったのではない。
真壁の固定能力の弱点を観察し、リング中央からロープ際へと意図的に誘導し、床の沈み込みを利用して初めて後退させ、ロープの反動に打撃を合わせる。
それは、格闘技の環境利用と異能の特性を完璧に組み合わせた、芸術的な勝利だった。
◆
白川が、立ち上がって惜しみない拍手を送った。
「素晴らしい。君の予想通り、青柳君が見事にロープを使って勝ったね」
「……ええ。俺も、あそこまで完璧に組み立ててやるとは思いませんでした」
「嘘だね」
白川は、拍手の手を止めて俺を見て笑った。
「第三ラウンドの途中から、君の目は『次に何が起きるか完全に分かっている顔』をしていたよ」
俺は、何も答えなかった。肯定も否定もしない。
白川も、それ以上追及しようとはしなかった。
「秘密が多い人間は、嫌いじゃないよ。経営者という生き物も、自分の持っているカードを最初から全部テーブルに見せたら、その時点で負けだからね」
白川は、高級そうな革のカードケースから名刺を一枚取り出し、俺に差し出した。
表にはソフトリンク・グループ代表取締役の肩書きと、一般向けの会社代表番号。
だが、裏側には、個人の直通の連絡先が、万年筆で手書きされていた。
「また面白い試合や情報があれば、直接君に連絡するよ」
「……招待していただけるんですか?」
「情報だけだよ」
白川は、楽しそうに笑いながら肩をすくめた。
「五十万円の席代は、ちゃんと自分で自腹で払ってくれたまえ」
「……ですよね」
無料観戦で無限に能力を集められるような、甘い展開にはならないらしい。
白川は、一般では手に入らない特等席を確保する『ルート』は提供できるが、その費用は俺持ちだ。シビアな大人の関係だった。
俺も自分のスマートフォンを取り出し、白川と連絡先を交換した。
数秒後、白川からすぐに短いメッセージが届く。
『白川です。次の試合も、隣で観戦できるのを楽しみにしています』
俺は画面を見つめ、日本有数の大企業社長の連絡先が、平社員である俺のスマホに直接登録されたという事実に、改めて現実感を失いそうになっていた。
◆
帰宅後。
俺は自室の安アパートのベッドに倒れ込み、《ライブラリ》の画面を開いた。
『【異能】』
『《身体能力強化》Tier4』
『残り使用可能回数:20回』
『新規登録能力』
『《重心転写》Tier4』
『残り使用可能回数:3回』
『新規運用情報追加』
『《身体能力強化》下半身出力集中』
『《身体能力強化》足裏接地・姿勢固定』
さらに、青柳の体操とパルクールの動きから、いくつかの通常技能も自動で登録されていた。
『《空中姿勢制御》Lv.1』
『《ロープワーク》Lv.1』
『《受け身》Lv.2』
俺は、本日の成果を頭の中で整理した。
五十万円払って、身体能力強化を五回分補充。新能力《重心転写》を三回分取得。身体能力強化の新しい運用アプローチ。三つの格闘技能。そして、大企業社長との強力なパイプ。
能力者として考えれば、とてつもなく得をしている。
だが、月収二十数万のしがない会社員として考えれば、一晩の観戦に五十万円を使った異常な出費だ。
俺は、《重心転写》を一回使うことの価値を、頭の中で雑に計算してみた。
五十万円÷三回。
一回使うごとに、およそ十六万六千円が飛んでいく計算だ。
もちろん、身体能力強化の補充や他の技能のおまけもあるため、実際の単価はもう少し下がる。それでも、目が飛び出るほど高いことには変わりない。
さらに今回は、両者が自分の能力の特性を何度も見せ合うような、泥沼の長期戦だったからこそ、一〇〇パーセントの解析が間に合ったのだ。
もし、試合開始十秒でどちらかがKOされていれば、俺は五十万円を払って何も得られずに帰宅していた可能性すらある。
俺は結論を出した。
自分が血を流して戦わずに、新しい能力を取得することは十分に可能だ。命の危険もない。
ただし、非常に高額であり、目当ての能力が解析しきれるまで観測できる保証はどこにもない。ポンポンと頻繁に利用できる手ではない。
自分が試合で命を懸けて稼いだ金を、次の能力獲得の観戦チケット代へと投資する。そんな自転車操業の循環になるだろう。
俺はベッドに仰向けになり、天井のシミを見つめた。
戦わずに、新しい能力を手に入れた。
その代わり、今回は肋骨や肩ではなく、俺の銀行口座の残高が、回復不能なほどの甚大なダメージを受けていた。
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