冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

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第21話 平社員、九つの仕事を拾う

 スマートフォンから鳴り響く無機質なアラーム音で、俺は目を覚ました。

 

 画面をスワイプしてアラームを止め、ベッドから起き上がろうと上半身を起こした瞬間。

 

「ッ……ぐぅ……!」

 

 全身の筋肉と骨が悲鳴を上げ、鋭い痛みが電流のように走った。

 

 たまらずベッドへ倒れ込む。

 

 昨夜の企業代理戦。

 

 城戸岳人が放った必殺の《城落とし》を、土壇場の《自己質量操作》と《蓄撃》でどうにか受け流し、勝利をもぎ取った。

 

 だが、完全に無傷で済んだわけではなかったのだ。

 

 特に痛むのは、腰、肩、背中、右脚、そして三方向からの衝撃を最も強く受けた脇腹だ。

 

(能力者同士の死闘に勝った翌朝に、まさか自分の安アパートの布団との戦いで負けるとは思わなかった……)

 

 俺はベッドの上で数分間、芋虫のように動けず、天井を見つめながら内心でぼやいた。

 

     ◆

 

 痛みを堪えながら、俺は《ライブラリ》の画面を視界に呼び出した。

 

 昨夜の戦闘で、回避のために切り札として使った《重心転写》が、残り一回まで減っている。

 

 すでに日付が変わっているため、新機能の《日次再装填》が使用可能になっていた。

 

 俺は《重心転写》を指定した。

 

『《日次再装填》を実行します』

 

『対象:《重心転写》Tier4』

 

『残存回数一回から、三回へ再装填しました』

 

 システム上、能力の使用可能回数は瞬時に回復した。

 

 しかし、俺の身体を支配する激痛は、一ミリも変わらない。

 

(……なるほどな。弾倉に弾は補充されても、撃ちすぎて焼き付いた『銃身(からだ)の歪み』までは直らないらしい)

 

 能力のストック回数と、俺自身の肉体的な疲労や負傷は、全く別物として処理されている。

 

 当たり前のことだが、《ライブラリ》は怪我を癒やす魔法のシステムではないのだ。

 

     ◆

 

 スマートフォンを確認すると、チームの事務長である水瀬からメッセージが入っていた。

 

『おはようございます、佐伯さん。昨日の負傷について、提携しているネクサスの医療機関から診断結果が届いています。レントゲンの結果、骨折および内臓への深刻な損傷はありませんでした』

 

『ただし、全身の筋繊維と腱が悲鳴を上げていますので、本日から【三日間】は、能力を使用した戦闘および訓練を完全に禁止します』

 

 そこまで読んでホッとしたのも束の間、メッセージの最後には、実に無慈悲な一文が添えられていた。

 

『なお、肉体労働以外の【通常勤務は可能】とのことです♡』

 

 俺は、その画面を見つめながら乾いた笑いを漏らした。

 

 通常勤務は可能。

 

 三十五歳のしがない会社員にとって、これほど厳しく、逃げ場のない診断結果もない。

 

 ちなみに、玲奈の個人アカウントからは、

 

『昨日はお疲れさまでした! 私は一晩寝たらすっかり元気です! 今日も仕事頑張りましょうね!』

 

 という、眩しすぎるほど元気なメッセージが届いていた。

 

(……二十二歳の回復力、恐るべし)

 

 俺は若さという暴力に打ちのめされながら、痛む腰と脇腹に大量の湿布を貼り付け、スーツを着て、重い足取りで会社へと向かった。

 

     ◆

 

 出勤し、オフィスを歩く俺の姿を見て、給湯室から出てきた同僚が怪訝な顔をした。

 

「佐伯さん、おはようございます。……なんだか歩き方がおかしいですけど、腰、どうしたんですか?」

 

「おはよう……。いや、週末にちょっと、ハードな運動をしましてね」

 

「急にですか? その歳で、準備運動もせずに急に激しい運動なんかすると危ないですよ。ぎっくり腰の入り口じゃないですか?」

 

 俺は愛想笑いでごまかしながら、三十五歳という年齢のリアルを改めて突きつけられていた。

 

 昨夜、企業代理戦という裏社会のデスゲームで高額な報酬をもぎ取り、建物を壊す能力者と殴り合ったなどと、当然表の世界で話せるはずがない。

 

 表向きの俺は、ただ休日に運動不足を解消しようとして自爆し、ひどい筋肉痛になった哀れな中年会社員でしかないのだ。

 

     ◆

 

 自席に座ってパソコンを立ち上げると、斜め向かいの席から、いつものように課長から声がかかった。

 

「佐伯君。ちょっと今日、こっちの案件を手伝ってくれないか。担当の山田が、急な体調不良で欠勤になっちゃってね」

 

 課長が差し出してきたファイルには、俺の担当外である管理物件で、複数の問題が同時多発的に起きていることが記されていた。

 

・管理ビル五階の給湯室付近での原因不明の漏水。

 

・その下階である四階テナントから、「天井に染みができている」という強い苦情。

 

・以前から依頼していた修繕業者の見積書が上がってきたが、予算を大幅に超過している。

 

・来月更新予定のテナントの契約書類に、内容の不備が発覚。

 

・修繕工事の日程が、別の必須の設備点検と重複してしまっている。

 

・それらすべてをまとめた、オーナー向けの報告書の提出期限が明日に迫っている。

 

 完全に、トラブルのオンパレードだった。

 

「山田の代わりに、悪いが設備担当やテナント営業の現場に『同行』してやってくれ。写真の撮影と、状況の記録、あと書類運びを頼む」

 

 課長としては、俺に専門的な判断や解決を期待しているわけではない。

 

 あくまで、足りない人手を補うための「いつもの便利な雑用係」としての扱いだ。

 

 俺は反論せず、「分かりました」とファイルを受け取った。

 

 以前の俺なら、面倒な仕事を押し付けられたと内心で毒づいていただろう。

 

 しかし。

 

 今の俺にとって、社内の各分野の『専門家』の仕事へマンツーマンで同行できるということは、彼らの培ってきた技能を至近距離で観察できる、絶好の『コピーの機会』に他ならなかった。

 

     ◆

 

 午前中。

 

 俺は、社内のベテラン設備担当者と一緒に、問題の起きた管理ビルへと向かった。

 

 五階の給湯室。

 

 床には目立った水たまりはない。

 

 しかし、すぐ下にある四階テナントの天井には、確実に水濡れの染みが広がっていた。

 

 同行していた入社三年目の若手社員が、「給湯室のシンク下の排水管が割れてるんじゃないですかね?」と安易に推測を口にする。

 

 だが、ベテランの設備担当者は現場をざっと見渡すと、すぐに管理室から持ち出した建物の『竣工図面(青焼きのコピー)』をバサッと広げた。

 

 彼は図面を指でなぞりながら、配管の正確な経路、天井裏の梁の位置、壁を通る給水管の立ち上がり、そして壁の内部構造を、現実の空間と照らし合わせて瞬時に立体的に把握していく。

 

 俺は彼の真横に立ち、その図面を読む視線の動きと、空間認識の思考プロセスを食い入るように観察した。

 

『既知の技能との体系的な関連性を確認しました』

 

『《建築設備図面読解》を登録します』

 

 その瞬間。

 

 俺の目の中で、ただの線と記号の羅列にしか見えなかった平面図面が、実際の建物内部の隠された構造――骨組みと血管として、頭の中に立体的に立ち上がった。

 

 俺は図面を一度見ただけで、見えない配管の位置関係を完璧に理解した。

 

     ◆

 

 ベテラン担当者は図面から目を離し、再び現場を観察し始めた。

 

「天井の染みの広がり方を見てみろ。壁紙の浮き具合、水が落ちてくる方向……それと、この階の配管の勾配の角度だ。水道メーターの微細な変化もな」

 

 彼は若手に教えるように呟く。

 

「漏水している『発生地点』と、水が実際に表面へと現れる『被害地点』は、必ずしも一致しない。水は、建物の見えない隙間を這って移動するからな」

 

 俺は、彼の経験に基づく観察方法と推論の手順を、そのまま脳内へコピーした。

 

『《漏水経路推定》を登録しました』

 

 俺は図面の配管図と、下階の染みの位置を脳内で重ね合わせた。

 

 すぐに答えが出た。

 

 給湯室の排水管ではない。

 

 その隣にある、清掃業者用の流し台から壁の裏へ伸びている、古い『給水管の接続部』が怪しい。

 

 そこから漏れた水が、梁を伝って下階の天井へと流れているのだ。

 

 ただし、俺のようなただの営業の平社員が、急に専門的な断言をすると不自然に怪しまれる。

 

 俺は、あくまで素朴な疑問を装って口を開いた。

 

「……あの、素人考えで申し訳ないんですが。水が梁を伝っているとしたら、この給湯室じゃなくて、こっちの清掃用流しの配管の辺りも、一応確認した方がいいんでしょうか?」

 

 俺の言葉に、ベテラン担当者が図面を見直し、ハッとした顔をした。

 

 彼はすぐに清掃用流しの点検口へ向かい、内部を確認する。

 

「……よく気づいたな、佐伯。お前の言う通りだ。こっちの給水管のジョイント部分が怪しい」

 

     ◆

 

 彼は工具を取り出し、壁の点検口を開けた。

 

 配管の接続部、バルブ、そして保温材が湿っているのを直接確認する。

 

 俺は、彼の工具の正確な使い方、配管から聞こえる異音の聞き分け方、手のひらを使った触診、そして単なる『結露』と『漏水』の違いを見分ける判断基準を、真後ろから凝視した。

 

『《配管設備点検》を登録しました』

 

 俺の頭の中に、その配管の緩みの原因と、必要な応急処置の手順が完全にインストールされた。

 

 だが、俺は自分から手を出して修理をしようとはしなかった。

 

(……技術や手順が頭で分かることと、法的に『その仕事をしていい資格があること』は別だ)

 

 俺は勝手にバルブを締めたり、検査済みの書類に署名したりはせず、担当者へ状況の写真を撮って報告するだけに留めた。

 

 《ライブラリ》は、俺に他人の技能や知識をそのままコピーして与えてくれる。

 

 だが、国家資格の証明書や、社会的な役職の権限までは与えてくれないという、絶対的な制約を再認識していた。

 

     ◆

 

 午後。

 

 漏水の影響を受けた四階テナントの責任者が、カンカンに怒って事務所へ乗り込んできた。

 

 俺は、社内で最もクレーム処理に長けたベテランのテナント対応担当者と一緒に、面談室へ入った。

 

「うちの売り物の商品に、あわや水がかかって駄目になるところだったんですよ! 営業時間中に天井から汚い水がポタポタ落ちてくるなんて、どういう管理をしてるんですか! 以前から、天井裏で変な水の音がするって報告してたのに、何で放置してたんですか!」

 

 俺なら、相手の剣幕に押されて、とにかく最初から平謝りしてその場を収めようとしていただろう。

 

 しかし、ベテラン担当者は違った。

 

 彼は無闇にペコペコと頭を下げたり、すぐに金銭補償の話へ飛んだりすることはしなかった。

 

 まず、相手の怒りの言葉を一切遮らずに、最後まで聞き切る。

 

 その上で、相手が『今、何に対して最も強く怒っているのか』を冷静に分析し、整理する。

 

 今回のテナント責任者が本当に求めているのは、単なる迷惑料の金銭補償だけではない。

 

「以前の報告を無視されたことへの説明」

 

「二度と起きないという再発防止策の確約」

 

 そして、

 

「次に異常が起きた場合に、たらい回しにされない明確な連絡先」

 

 なのだと、ベテランは見抜いていた。

 

『《苦情対応》を登録しました』

 

 俺は、その心理誘導と対話のスキルをコピーした。

 

 俺はベテランの横から、静かに言葉を添えた。

 

「申し訳ございません。店長様のおっしゃる通り、以前の異音の報告に対する私どもの初動確認が遅れたことが、今回の最大の原因です」

 

「……」

 

「本日夕方までに、必ず原因調査の一次報告を書面でお持ちします。そして翌日までに、完全な修繕の完了予定日を通知いたします。また、今後の水漏れに関する緊急連絡先は、すべて私の携帯へ一本化してください。……商品への被害確認と補償のお手続きは、その原因と責任の所在が完全に確定した直後に、責任を持って対応させていただきます」

 

 俺が相手の不満を項目ごとに整理し、具体的な期限と責任の所在を明確にして提示すると、テナント責任者の激高していた口調が、目に見えて少しずつ落ち着きを取り戻していった。

 

 面談が終わった後、同行していたベテラン担当者が、不思議そうな顔で俺を見た。

 

「佐伯さん……あなた、あんなに理路整然としたクレーム対応、できましたっけ? まるで十年来のベテラン営業みたいな手際でしたが」

 

「ええ? いやいや、横で主任の対応を聞いていて、見よう見まねで言ってみただけですよ」

 

 俺は愛想笑いで必死に誤魔化した。

 

     ◆

 

 夕方。

 

 会社へ戻ると、今度は例の修繕業者から、漏水箇所の本格的な修理に関する見積書がファックスで届いていた。

 

 その内容は、壁の広範囲な解体、配管の全面補修、保温材の交換、天井ボードの交換、足場の設置費、深夜の夜間作業費、大量の廃材処分費、そして曖昧な諸経費。

 

 合計額は、オーナーが想定していた予算を大きく超過していた。

 

 課長は金額を見て「うわ、高いな……」と顔をしかめたが、内訳の『どこが不当に高いのか』を専門的に判断する能力はない。

 

 そこで、見積もりの精査を専門とする先輩社員が呼ばれた。

 

 彼は過去の類似工事の単価データや、現場の図面における施工範囲と、見積書の項目を一つ一つ細かく照合していく。

 

 俺は後ろからコーヒーを運ぶふりをしながら、その書類をチェックする目の動きと、相場観のデータベースを頭へ流し込んだ。

 

『《修繕見積査定》を登録しました』

 

 技能を得た途端、俺の目にも、その見積書の『不自然な項目』が次々と浮き彫りになって見え始めた。

 

 足場設置費が、内装工事の別項目と二重に計上されている。

 

 壁の解体範囲が、実際の漏水箇所よりも不必要に広く設定されている。

 

 廃材処分費が、あの規模の解体で出る実際の量と全く釣り合っていない。

 

 夜間作業を二日間の工数で計上しているが、あの作業範囲なら、職人を増やせば一日で終わらせられる規模だ。

 

 再利用可能な部品まで、すべて新品交換の値段で入っている。

 

 これは悪質な架空請求の詐欺ではない。

 

 単に、業者側が利益と安全マージンを確保するために、余裕を持たせすぎた見積もりなのだ。

 

     ◆

 

 先輩社員が受話器を取り、修繕業者の担当者へ電話をかけた。

 

 彼は、ただ「予算がないから安くしろ」と理不尽に値下げを要求するような真似はしない。

 

 必要な工事の項目は、適正価格として認める。

 

 その代わり、不要な施工範囲だけを削る。

 

 夜間作業の工程を、一日へまとめる提案をする。

 

 今後の継続的な発注関係も考慮する。

 

 そして何より、相手の業者にも最低限の利益がきちんと残るラインを見極めて、交渉を進めていく。

 

『《業者価格交渉》を登録しました』

 

 電話の途中、俺は先輩の横へ行き、無言で『過去の適正な工事単価の資料』をファイルから抜き出して机へ広げ、交渉の補助をした。

 

 先輩はそれに助けられ、スムーズに業者を説得し切った。

 

 最終的に、見積額は安全性を担保したまま、大幅な減額に成功した。

 

 受話器を置いた先輩がホッと息をつき、横で見ていた課長が、珍しいものを見る目で俺を見た。

 

「佐伯、お前……なんだか今日は、妙に頭が冴えてるじゃないか。あの資料、よくすぐに出せたな」

 

「たまたま整理してただけですよ」

 

 俺は愛想笑いを浮かべながら、内心で呟いた。

 

 妙に冴えているのではない。

 

 たった今、この部署の先輩たちが十五年間で積み上げてきた泥臭い実務経験とノウハウを、丸ごと借りた――コピーしただけだ。

 

     ◆

 

 その後、俺の身体の痛みが引くまでの『三日間の戦闘禁止期間』を利用して、俺の《ライブラリ》による社内スキルの荒稼ぎは続いた。

 

 漏水修繕工事の日程が、ビル全体の消防設備点検や、別テナントの搬入予定とバッティングしていることが判明した時。

 

 工程管理のプロが、テナントの営業時間、館内作業の許可申請、騒音の発生時間、警備員の配置、貨物用エレベーターの占有時間などを、パズルのように組み直す思考をコピーした。

 

『《工程調整》を登録しました』

 

 俺は複数の予定が絡み合う条件を頭の中で瞬時に整理し、関係者への影響が最も少ない時間帯のスケジュールを提示できるようになった。

 

     ◆

 

 来月更新予定のテナントの契約書に、不備の疑いが出た時。

 

 企業の法務担当者が、原契約書、追加の覚書、そして今回の更新案の三つを横に並べて見比べる。

 

 更新日、原状回復の区分、共益費の計算方法、緊急修繕時の立ち入り条項などの不整合をチェックする。

 

 俺は、その契約実務の確認作業をコピーした。

 

『《契約書確認》を登録しました』

 

 文面を読んだだけで、細かい条項間の矛盾や、こちらに不利な文言の抜け漏れに気づけるようになった。

 

 もちろん、俺が急に弁護士のような法律家になったわけではなく、高度な訴訟判断や法解釈ができるわけではない。

 

 あくまで「企業の契約実務の担当者」としてのチェック能力だ。

 

     ◆

 

 そして三日目の夕方。

 

 現場の一次対応、原因の特定、修繕内容、費用の精査、テナントへの対応状況、そして今後の再発防止策。

 

 それらすべてをまとめた、オーナー向けの報告書を作成する時。

 

 ベテラン社員が意識している、「誰が読んでも時系列が分かる順序」「事実と推測の明確な分離」「こちら側の責任関係を不用意に断定しすぎない表現」「写真と図面の的確な対応」などのノウハウをコピーした。

 

『《現場報告書作成》を登録しました』

 

 俺は、これまでの俺なら丸一日かかっていたであろう報告書を、わずか一時間弱で、必要な情報が過不足なく整理された完璧なドキュメントとして完成させた。

 

 提出された報告書を読んだ課長が、信じられないという顔で俺を見た。

 

「佐伯……これ、本当にお前が一人で作ったのか? どこかのコンサルタントにでも頼んだんじゃないだろうな?」

 

「現場の担当者の皆さんに、色々と教えてもらったおかげですよ」

 

 俺の言葉に、嘘は一つもない。

 

 ただ、彼らから知識を教わって吸収する速度が、普通の人間とは違うだけだ。

 

     ◆

 

 課長に報告書を提出して自分の席に戻った直後。

 

 俺の視界の端に、いつもの青白いシステム文字が表示された。

 

『正式登録技能数が、規定値へ到達しました』

 

『正式登録技能数:二十個』

 

『機能拡張の条件の一部を達成しました』

 

 続けて、現在の全体条件が表示される。

 

『次回機能拡張条件』

 

『正式登録異能数:九/十』

 

『正式登録技能数:二十/二十』

 

 残る条件は、未知の異能をあと『一個』登録することだけだ。

 

 俺は自席のモニターを見つめたまま、これまで《ライブラリ》に登録してきた二十個の技能の一覧を眺めた。

 

 能力者として裏の世界で戦い始める前の俺は、会社でただの雑用ばかりを任され、「自分には誰にも負けない専門性など何一つない」と卑屈になっていた。

 

 だが、今の俺にはできる。

 

 建物の構造と図面を読むこと。

 

 設備の不具合を、音と触感で確認すること。

 

 怒り狂う相手の要求を整理して、対話すること。

 

 業者の見積もりの嘘を精査すること。

 

 適正な価格交渉を行うこと。

 

 複雑な工程を無駄なく組むこと。

 

 契約書の法的リスクを確認すること。

 

 事実を正確に伝える報告書を作ること。

 

 建物を破壊したり、空を飛んだりするような派手な異能とは違う。

 

 しかし、これらは間違いなく、表の社会で誰かが長年血の滲むような努力と経験を重ねて身につけてきた、本物の『力』なのだ。

 

 俺は三十五歳にして初めて、心の底から実感していた。

 

 戦う力だけが、すべてを解決する力ではない、ということを。

 

     ◆

 

 夕方。

 

 俺は課長から、オフィスの隅のミーティングスペースへと呼び出された。

 

 ミスを指摘されるいつもの叱責かと思ったが、違った。

 

「佐伯。……今回のトラブル対応の件だが、助かったよ」

 

「いえ、俺は皆さんの手伝いをしただけですから」

 

「いや、お前のあの段取りの良さと、業者やテナントとの交渉力は、ただの雑用係の域を超えてた。少し見直したよ」

 

 課長は、少しバツが悪そうに咳払いをした。

 

「来月から、お前にはただのサポートじゃなく、小規模な修繕案件やテナント対応の『取りまとめ』をいくつかメインで任せてみようと思う。……頼めるか?」

 

 それは、いきなりの劇的な昇進や、役職への大抜擢などという漫画のような話ではない。

 

 だが、「何でも都合よく人に振られていた平社員」から、「困った案件を任せても安心できる中堅社員」へと、俺に対する社内の評価が、確実に一段階上がった瞬間だった。

 

 俺は素直に嬉しかった。

 

 企業代理戦で一晩に百万円以上を稼いだとしても、俺はまだこの本業を辞める決断はしていない。

 

 新卒で入り、理不尽に耐えながら十五年間も働き続けたこの場所で、自分の仕事が正当に評価されたことには、金には代えられない意味があった。

 

「はい。やらせていただきます」

 

 俺は真っ直ぐに課長の目を見て答えた。

 

     ◆

 

 退勤時間の直前。

 

 俺のスマートフォンが振動した。

 

 玲奈からの電話だった。

 

 電話に出ると、彼女の声が明らかに興奮して上ずっていた。

 

「佐伯さん! 今夜、定時で上がって事務所に来られますか!?」

 

「いや、俺は今日まで医者から戦闘を禁止されてるはずだが……」

 

「試合じゃありませんよ! それと……私たちフィールドワークスに、『指名依頼』が来ました!」

 

 俺は駅へ向かう足をピタリと止めた。

 

 試合直後、水瀬が「勝率一〇〇%なら、企業からの指名依頼もすぐ来ますよ」と笑っていたが、その言葉がこんなに早く現実のものになるとは思わなかった。

 

     ◆

 

 夜。

 

 俺がフィールドワークス事務所へ到着すると、水瀬と玲奈がすでにデスクで待っていた。

 

 玲奈は初の指名依頼に分かりやすく喜んでいるが、水瀬は手元のプリントアウトされた資料を読みながら、少しだけ慎重な表情を浮かべていた。

 

「依頼主は、都内に複数のオフィスビルを所有している、中堅の不動産関連企業です」

 

 水瀬が資料を俺のデスクへ置きながら、説明を始めた。

 

 彼らが、星の数ほどあるチームの中から、新参のフィールドワークスを指名してきた理由は明確だった。

 

「先日の三対三の代理戦の記録が評価されたんです。佐伯さんが前衛で近接と状況の変化に対応し、玲奈さんが環境を利用した遠距離制圧を行い、私が事前の偵察と情報収集を行う。……この三人なら、不測の事態が起きる『小規模な異常事案』に対して、最も安全に対処できると見込まれました」

 

 依頼料は、命懸けの代理戦よりはベースが低めに設定されている。

 

 だが、現場での危険度や討伐対象の有無に応じて、高額な追加報酬が発生する仕組みの契約だった。

 

     ◆

 

「それで、依頼の内容は?」

 

 俺が尋ねると、水瀬がタブレットの画面を俺たちに向けた。

 

「都内にある彼らが所有する中型オフィスビルで、ここ数日、夜間に『原因不明の異常』が続いているそうです」

 

 発生している現象のリストは、気味の悪いものだった。

 

・深夜、誰もいないはずの無人区画で、人感センサーの照明が次々と反応する。

 

・施錠された部屋の備品が、翌朝になると全く別の部屋へと移動している。

 

・壁の中から、足音や叩く音が聞こえる。

 

・夜間巡回中の警備員が、監視カメラの死角で『黒い人影』を何度か目撃した。

 

・防犯カメラに、その人影が『壁の中へとすり抜けて消える』様子が記録されている。

 

・調査へ入った警備員一名が、見えない何かに突き飛ばされて転倒し、軽傷を負った。

 

・さらに、建物内で数分間の『記憶が曖昧になる――抜け落ちる』者が続出している。

 

 玲奈が、気味悪そうに腕をさすった。

 

「現時点では、悪質な能力者の不法侵入なのか、異界の『怪異』や呪物の類なのか、空間異常なのか、それとも内部関係者による手の込んだ偽装なのか、全く分かっていないそうです」

 

     ◆

 

 水瀬が、その問題のビルの平面図と設備図面を机の上に大きく広げた。

 

 玲奈はそれを覗き込んだが、線の集まりにしか見えず、「うわ、複雑ですね」とよく分かっていない様子だった。

 

 しかし、俺の目は違った。

 

 昼間に《ライブラリ》へ登録したばかりの《建築設備図面読解》の技能によって、その図面が意味する『建物の構造の真実』が、一瞬にして見えたのだ。

 

「……おかしいな」

 

 俺は図面の一箇所を指差した。

 

「防犯カメラに映ったという影の移動経路と、この図面上の『壁』の位置が、構造的に全く一致していないぞ」

 

「え?」

 

 玲奈が首を傾げる。

 

「影がすり抜けて消えたというこの壁の向こう側には、部屋も通路も、エレベーターシャフトや配管の設備スペースすら存在しない。ただのコンクリートの厚い外壁だ。それに、数十秒後に影が再び現れたという別の階の場所までは、配管や空調ダクトでも物理的に一切繋がっていない」

 

 俺は確信を持って指摘した。

 

「人間が、壁の裏の隠し通路やダクトを使って移動したという『物理的なトリック』の線は、極めて薄いと思います。この二つの場所は、建物の構造上、絶対に繋がっていません」

 

 水瀬が、驚いたように目を丸くして俺を見た。

 

「佐伯さん……あなた、こんな複雑な建築図面を読めるんですか?」

 

「ああ、今日、昼間の仕事で少し教えてもらって覚えたんだ」

 

 玲奈が、ジト目で俺を見上げて突っ込んだ。

 

「今日ちょっと教えてもらって覚えた人の見方じゃないですよね、それ。一瞬で構造の矛盾に気づくって、一級建築士ですか」

 

 俺は苦笑した。

 

 昼間にコピーして拾い集めた平社員の技能が、その日の夜に、裏の異能案件で即座に役に立つとは、人生は分からないものだ。

 

     ◆

 

 水瀬がパソコンで、依頼主から送られてきた防犯カメラの映像データを再生した。

 

 深夜の薄暗い廊下。

 

 照明の届かない端の暗がりに、人型をした真っ黒な影が立っている。

 

 顔も服装も、ノイズがかかったように判別できない。

 

 影は数秒間、ピクリとも動かない。

 

 その後。

 

 影は身体を横へ向けるなどの物理的な動作を一切行わず、そのまま背後の壁の中へと、液体のようにドロリと沈み込んで消えた。

 

 別の階のカメラ映像へ切り替わる。

 

 数十秒後。

 

 全く同じ黒い影が、何もない壁の表面から、染みが滲み出すようにしてヌルリと現れた。

 

 俺は画面を凝視したが、俺の視界の《ライブラリ》は全く反応しなかった。

 

 《ライブラリ》の能力コピーは、俺自身の肉眼による直接の目視観測が絶対条件だ。

 

 録画されたモニター越しの映像では、因果の起点が捉えられず、コピーは発動しない。

 

 水瀬が映像を止めて、判断を下した。

 

「……映像だけでは、これが能力者の仕業なのか、怪異なのか判断できませんね。ですが、現地へ行って同じ現象を直接確認できれば、その正体を判断するための材料が増える可能性は高いです」

 

 俺の視界の端には、機能拡張の条件が静かに表示され続けている。

 

『正式登録異能数:九/十』

 

 あと、一個。

 

     ◆

 

 水瀬は、今回の任務の方針を決定した。

 

「今夜は、いただいた図面と資料の確認のみとします。佐伯さんの三日間の戦闘禁止期間も、今夜いっぱいで終わります。明日の夜、三人で現地調査に入りましょう」

 

「了解」

 

「第一目的は、異常の原因の特定です。もし怪異だった場合は、危険度を測定して報告するまでが今回の依頼です。討伐や祓いが必要なレベルであれば、別途追加報酬の契約を結び直します。……佐伯さんも玲奈さんも、正体不明の空間へは、絶対に不用意に入らないでくださいね」

 

 玲奈は「任せてください」と頷き、さっそくロッカーから自分の装備を取り出し、準備と確認を始めた。

 

 俺は、モニターに映ったまま停止している、黒い影が壁へ沈む瞬間の映像を、もう一度食い入るように見つめた。

 

 映像からはコピーできない。

 

 実際に明日の夜、あの不気味な現場へ行き、自分の目で直接見なければならない。

 

(……もし、あの壁を通り抜ける影の現象が『異能』なら。あれが俺の、記念すべき十個目の異能になる)

 

 だが。

 

 あれを使っているのが、『人間(能力者)』であるとは限らない。

 

『次回機能拡張まで』

 

『正式登録異能――残り一個』

 

 そのシステム文字の淡い光を見つめながら、俺は静かに覚悟を決めていた。

 

 明日の夜、次の仕事で俺たちが相手にするものは、企業に雇われた代理人などではない。

 

 そもそも、それが人間なのかどうかさえ、分からないのだ。




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