冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる 作:パラレル・ゲーマー
三日間の戦闘禁止期間を終えた、翌日の夜。
定時退社をキメた俺は、FIELD WORKSの経費でリースしたミニバンに乗り込み、玲奈と水瀬と共に、問題のオフィスビルへと向かっていた。
城戸岳人から受けた《城落とし》による身体の痛みは、完全には消え去っていない。
しかし、日常生活や通常動作には支障がないレベルまで回復している。
助手席に座る水瀬が、後部座席で装備の点検をしている玲奈と、運転席の俺に念を押した。
「いいですか。今日の目的は『討伐任務』ではありません。あくまで異常の正体と、その危険度を確認するための現地調査です」
「でも、向こうから襲ってきたら、当然反撃はしますよね?」
玲奈が、ポーチに弾代わりのボルトを詰め込みながら尋ねる。
水瀬は、手元のタブレットから目を離さずに現実的なトーンで答えた。
「生命の危険がある場合に限り、自衛を許可します。ただし……建物内部を派手に壊すと、後から私たちに高額な修繕費が請求される契約になっていますからね♡」
不動産管理会社勤務である俺は、その言葉に首がもげるほど強く頷いた。
ビル内の設備を能力でぶっ壊した際の原状回復費用がどれほど恐ろしいか、俺は昼間の仕事で嫌というほど知っている。
「それと、今回のように異常が私有施設内へ限定されている案件は、現時点では認定民間チームである私たちの調査裁量内です。ただし、Tier3以上の怪異が確認された場合や、被害が建物外へ拡大する兆候があった場合は、その時点で即座に八咫烏へ引き継ぎます」
「つまり、今のところは私たちの仕事だけど、手に負えないと分かったら国の仕事に切り替わるってことですね」
「そういうことです。勝手に無理をして、八咫烏へ提出する報告書の題名が『認定民間チーム三名行方不明の件』にならないようにしてくださいね♡」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ!」
玲奈が顔を引きつらせる。
俺も冗談では済まないと思いながら、ハンドルを握る手へわずかに力を込めた。
◆
目的のオフィスビルの入り口では、依頼主である企業の『施設管理部長』と、現場の『夜間警備責任者』の二人が青い顔をして待っていた。
施設管理部長は、裏の企業代理戦や怪異の存在を知っている側の人間だ。
一方、現場の警備責任者は、八咫烏の秘密研修を受けているものの、実際に自分の目で怪異を見たことはなく、まだ半信半疑の様子だった。
しかし、実際に自分の部下が「見えない何か」に突き飛ばされて負傷し、さらに複数人の巡回スタッフの記憶が数分間ごっそりと欠落するという事態が起きているため、もはや笑ってはいられなくなっている。
警備責任者が、藁にもすがるような目で水瀬を見た。
「あの……本当に、幽霊か何かなんでしょうか。お祓いとか、そういうのが必要なんですかね?」
「現時点では、幽霊とは限りません」
水瀬は、プロの事務長としての冷静な態度で断定を避けた。
「悪意を持った能力者の仕業かもしれませんし、怪異、呪物、あるいは局地的な空間異常のいずれも考えられます。我々がそれをこれから特定します」
俺も、この時点ではただの一般的な心霊現象やポルターガイストだと決めつけることはしなかった。
原因不明の異常は、必ず何らかの『因果』に基づいているはずだからだ。
◆
俺たち三人は、まず一階の警備室へと案内された。
机の上には、依頼主が用意した資料が山積みになっていた。
人感センサーの作動履歴データの束、防犯カメラの時刻表、警備員の夜間巡回記録、備品が勝手に移動した際の報告書、そして記憶欠落を訴えた者たちの証言メモ。
水瀬が、その膨大な情報の全体像を俯瞰して整理し始める。
玲奈は、実際に警備員が襲撃を受けた場所と、その際の逃走経路を平面図の上で確認している。
俺は、昼間の仕事で得たばかりの《現場報告書作成》と《工程調整》の技能をフル回転させ、すべての散発的な現象を、一つの『時系列』へと並べ替えていった。
「……なるほどな」
俺は、センサーの作動履歴にマーカーで線を引きながら呟いた。
「異常が起きる時刻は毎晩違って、一見するとランダムに見えます。しかし、作動した地点と時刻を順番に並べてみると、ある一定の法則がある」
俺が示したリスト。
七階東側廊下、七階給湯室前、六階非常階段、六階倉庫前、五階西側通路、四階機械室前、そして一階玄関ホール。
「多少の時間差はありますが、センサーは必ず『上階から下階へと向かって』順番に反応しています。これは、悪戯目的の侵入者が目的地へ向かっている動きじゃない。決められた順番で、建物を一つずつ確認している動きだ」
さらに俺は、《工程調整》の思考ロジックを応用した。
センサーの反応を、作業工程表――ガントチャートのように並べる。
すると、各反応地点で、必ず「数十秒から一分程度」の停止時間が挟まれていることが見えてきた。
「ただ廊下を移動しているだけじゃない。扉の施錠確認、窓の確認、消火器の確認、人の残留確認……それらを行っているような間隔です」
俺は、確信を持って言った。
「これは単なる移動経路じゃありません。……『巡回工程』です」
◆
次に俺たちは、怪異によって移動させられた『備品』のリストを一覧化した。
消火器、清掃用具、折り畳み椅子、来客用の名札箱、台車、書類保管箱、古い壁掛け時計。
どれも盗まれたわけではない。壊された形跡もほとんどない。
すべて、本来あるべき場所から、全く別の部屋や廊下へと勝手に『移動させられているだけ』なのだ。
玲奈が、不思議そうに首を傾げる。
「ただの嫌がらせなら、もっと派手に壊したりしませんか? 地味すぎますよ」
「窃盗目的でもないですね。それに、人間を脅かすこと自体が目的なら、もっと分かりやすい心霊現象を起こすはずです」
水瀬も応じる。
俺は、現在の最新の図面に、移動後の備品の位置をペンで書き込んでみた。
しかし、いくら睨んでも、そこに規則性は見つからない。
ここで、俺の頭の中に、昼間の漏水調査で学んだ《漏水経路推定》の考え方がフラッシュバックした。
『現象が表へ出た場所――被害地点と、原因が存在する場所――発生地点は、必ずしも一致しない』
現在の図面だけを見ていても駄目なのではないか。
俺は、施設管理部長を振り返って尋ねた。
「部長。このビルの、大規模改修が行われる『以前』の古い竣工図面と、過去のテナント配置図は残っていませんか?」
「え? あ、ああ……。地下の資料保管室に、古いマイクロフィルムと紙の青焼き図面が当時のまま残っているはずですが」
俺たちは、即座に地下の資料室へと向かうことにした。
◆
地下へと向かうエレベーターを待っている途中。
警備室の無線機から、当直の警備員の強張った声が響いた。
『……七階東側の、人感センサーが反応しました。誰もいないはずです』
時刻は午後十一時十七分。
過去の履歴で、異常が始まりやすい時間帯とほぼ同じだった。
水瀬が、即座に調査班を二手に分ける指示を出した。
「私の分身二体を、七階と六階へ配置します。玲奈さんは、中央階段付近でいつでも退避できる射線を確保してください。私と佐伯さんは、防犯カメラの死角になっている七階廊下へ直接向かいます」
俺たちは息を潜め、七階の暗い廊下の奥へと足を踏み入れた。
◆
薄暗い廊下の奥から。
パチッ、パチッ、と。
人感センサーの照明が、まるで何者かが歩いてきているかのように、一つずつ順番に点灯していく。
しかし、そこには人の姿はない。
カツ。
カツ。
壁の奥から、硬い革靴が床を叩くような足音だけが響いてくる。
俺は脳内の図面と照らし合わせるが、その音の鳴っている壁の内部には、人間が歩けるような空間――ダクトや配管スペースは一切存在しない。
ただのコンクリートの塊だ。
そして。
廊下の壁の表面に、真っ黒なインクをこぼしたような染みがフワリと浮かび上がった。
染みは徐々に人型を形成し、古い制帽と警備服の輪郭を持った黒い影が、壁の表面からヌルリと半身を突き出した。
顔は、存在しない。
のっぺらぼうの黒い空間だ。
胸元には、錆びた古い認証札のような四角い影。
腰には、ジャラジャラという『鍵束の音』だけがぶら下がっている。
怪異は、壁際に置かれていた『現在の最新の消火器』を無言で持ち上げた。
そして、数メートル離れた、何もない不自然な壁際へとそれを移動させてコトリと置いた。
現在の消防設備の適正配置としては、完全に誤った場所だ。
しかし、その怪異の影は、それが「正しい警備の作業」であると信じて疑っていないような、淀みのない動作だった。
◆
怪異が、暗がりに潜む俺たちへ気づいた。
顔のない頭部が、ギギッ、とこちらへ向けられる。
そして、ゆっくりと再び背後の壁の中へと、身体を沈め始めた。
俺は、その一連の不可解な現象を、肉眼でハッキリと直接観測した。
視界の《ライブラリ》が、激しく明滅する。
『未知の因果律改変現象を確認しました』
『保有主体:怪異』
『Tier4相当の現象を観測しました』
『《境界潜行》を登録します』
続けて、待ち望んでいた金色のシステム通知がポップアップした。
『正式登録異能数:十/十』
『正式登録技能数:二十/二十』
『機能拡張の規定条件を達成しました』
だが、俺にはこの緊迫した現場で、長文の表示をのんびり読み切る余裕などなかった。
直後、怪異は壁の中へと完全に姿を消した。
◆
六階の非常階段に配置していた水瀬の分身から、危険な異常事態が伝わった。
「佐伯さん! 怪異が六階の壁から現れました! 私の分身の肩を掴んで……ッ!」
水瀬が、顔をしかめて即座に分身を強制解除する。
壁の中へと完全に引きずり込まれる寸前に消滅させたのだ。
これで一つの恐ろしい事実が判明した。
あの怪異は、自分だけが壁を抜けるのではない。
接触した対象――人間をも、壁の中の異常空間へと強制的に巻き込むことができるのだ。
次の瞬間、無線のインカムから玲奈の短い悲鳴が響いた。
『きゃっ……!』
怪異が、今度は中央階段付近の壁から出現し、そこにいた玲奈を「不法な夜間残留者」と判断して、無言のまま強烈な力で押し出そうとしたのだ。
玲奈は《身体能力強化》で必死に踏みとどまろうとするが、怪異の腕の力は、単なる物理的な筋力というより、「彼女が立っている空間そのものを、無理やり横へとズラす」ような不可避の作用だった。
玲奈の足元が滑り、非常階段の縁へと落ちかける。
俺は全力で階段を駆け下り、玲奈の腕をガッチリと掴んで強引に引き戻した。
ここで、手に入れたばかりの《境界潜行》を使って対抗することはしない。
俺は既存の身体操作と腕力だけで、なんとか彼女を怪異から引き剥がした。
玲奈は助かったが、数秒間だけ完全に意識が飛んでいた。
我に返った彼女は、青い顔をして自分の頭を押さえた。
「……今、何が……? 私、壁からアイツが出てきた後のことが、数秒間全く思い出せません……」
◆
水瀬はこれ以上の交戦は危険と判断し、一度一階の警備室まで後退するよう指示を出した。
俺たちが階段を駆け下りても、怪異が執拗に追いかけてくることはなかった。
怪異はただ、自分が決めた『巡回経路』へと静かに戻っていったのだ。
これでハッキリした。
あいつは、明確な悪意や殺意を持って人間を襲撃しているわけではない。
ただ、自分の「夜間巡回」という目的を妨害するイレギュラーな障害物だけを、機械的に排除しているだけなのだ。
◆
安全な警備室へと戻り、息を整えた俺は、先ほど保留していたシステム表示を改めて確認した。
『正式登録異能数:十個、正式登録技能数:二十個の条件を確認しました』
『《ライブラリ》の機能を拡張します』
『新機能《目録解析》を解放しました』
俺は、その新機能のヘルプテキストを開いた。
『《目録解析》』
『登録済みの異能および技能について、使用者が「直接観測・体験した情報」を分類し、その因果構造として目録化します』
『※未観測の情報は解析できません』
『※保有者の記憶、未使用の派生能力、未知の発動条件は取得できません』
『※追加の観測によって、目録情報は随時自動で更新されます』
重要なのは、これがゲームのチートのような『相手のすべてが分かる万能鑑定』ではないということだ。
あくまで、俺自身が自分の目で見た現象、直接体験した事実だけをベースに、「確定情報」「高確率の推定」「未確認情報」へと論理的に分類整理してくれる機能なのだ。
◆
俺はさっそく、新機能を使って《境界潜行》を指定し、解析目録を開いてみた。
『《境界潜行》Tier4』
『保有主体:怪異。個体名不明』
『観測済みの基本効果:
人工物によって形成された空間的な「境界」へ、自身を移行させる。壁内を物理的にすり抜けて通過しているのではない。壁、床、天井などが持つ「空間を分ける境界」という概念――因果を、移動経路として使用している』
『観測済みの派生効果:
接触対象を、境界移行へ強制的に巻き込むことが可能。対象は境界内部から帰還後、移行中の知覚および記憶が不明瞭となる副作用が発生する』
『高確率の推定:
移動先は無作為ではない。保有主体が認識している建物構造、または設定された巡回経路のポイントを参照している可能性が高い』
『未確認情報:
最大移動距離。建物外部への移動可否。自然物――土や木への潜行可否。潜行可能限界時間。連続使用回数。生命体を完全に取り込んだ場合の最終結果』
◆
俺は、深く納得して息を吐いた。
防犯カメラの映像を見た時、俺は単に「壁を物理的に通り抜けている」としか分からなかった。
しかし《目録解析》によって、「壁の中を歩いているのではなく、建物をこちらとあちらに区切る『境界』という概念の裏側を使っている」のだと明確に理解できた。
だから、物理的に繋がっていない離れた壁同士でも移動できるのだ。
記憶の欠落も、独立した記憶操作能力ではなく、境界空間へ巻き込まれたことによる知覚の断絶――副作用に過ぎない。
同時に、システムが答えを勝手に無から生み出して教えてくれたわけではないことにも気づく。
「巡回経路を参照している」という推定部分は、俺が先ほどセンサー記録を集めて《工程調整》で分析した思考そのものがベースになっているからだ。
つまり《目録解析》は、俺の代わりに謎を解いてくれる名探偵ではない。
俺の観測情報と推論を、絶対に忘却せず、正しい因果の構造へと整理して保存してくれる『完璧な書庫――ライブラリ』の機能なのだ。
◆
俺の視界には、《境界潜行》の残存使用可能回数――三回もハッキリと表示されていた。
壁の向こうへ移動できる、潜入、救助、逃走、奇襲に使える極めて強力な異能だ。
それでも、俺はこれを使用するという選択肢を早々に捨てた。
ここで俺が急に壁へ潜れば、水瀬や玲奈、そして依頼主の施設管理部長は必ずこう思うだろう。
「先ほど初めて出会ったばかりの怪異と、全く同じ能力を、なぜ佐伯が使えるのか?」と。
俺は目録の画面をそっと閉じた。
使えることと、使っていいことは全く違う。
昼間の仕事で得た「技能と資格は別物だ」という認識を、今度は裏社会での「異能の秘匿」という鉄則へと重ね合わせていた。
コピー能力を隠し通す限り、これは開けられない本なのだ。
◆
俺たちは、地下資料室から持ち出してきた『大規模改修以前の古い図面』を広げた。
この建物は約四十年前に建てられ、その後、テナント区画の大幅な変更、警備室の移転、一部廊下の封鎖、倉庫の増設、消防設備の更新などが行われている。
俺が、古い図面の上に、現在のセンサーの反応地点を書き込んでいく。
見事に、すべてが一本の綺麗な経路として繋がった。
現在の図面では分厚い壁に阻まれて行き止まりになっている場所も、改修前の図面では、ただの真っ直ぐな廊下だったのだ。
移動された備品の現在位置も、古い図面に重ね合わせる。
すると、衝撃の事実が判明した。
消火器は『旧消火器設置位置』へ。
清掃用具は『旧用具室』へ。
折り畳み椅子は『旧会議室』へ。
来客名札は『旧受付』へ。
壁掛け時計は『旧警備室の壁』へ。
すべてが、昔の正しい位置へと戻されていたのだ。
玲奈が、鳥肌が立ったように腕をさすった。
「……この怪異、物を適当に動かして暴れてたんじゃなくて、全部『昔の場所へ片付けてた』ってことですか?」
「ああ。こいつにとっては、今の俺たちが使っている最新の配置の方が『間違っている』んだ」
水瀬が、すべての情報を統合して結論をまとめた。
「これは、外部から面白半分に建物へ侵入してきた怪異ではありません。長年にわたり、この建物の役割として存在し続けた『夜間警備』という概念そのものが、古い巡回記録や警備用具に定着して生まれたものです」
倒すべき外敵が潜伏しているのではない。
建物の中で生まれた「役割」が、改修後もバカ真面目に古い規則に従って、終わらない夜勤を続けているだけなのだ。
◆
古い図面によると、怪異の巡回経路の終点は、一階西側の『旧警備室』だった。
しかし現在、その場所は大幅な改装によって、分厚い壁とエレベーターホールになっている。
俺が《建築設備図面読解》で二つの図面を見比べると、壁の奥に、配線工事の都合で完全に埋めきれなかった『小さな未使用空間――デッドスペース』が残されていることが分かった。
俺は《配管設備点検》の技能を使い、天井裏の配線経路から、その死角空間へと通じる隠れた点検口を発見した。
建物を破壊しないよう、施設管理部長の許可を得て、その点検口を慎重に開ける。
埃まみれの狭い内部には、いくつかの遺留品が残されていた。
錆びた鍵束。
古い警備員用の四角い認証札。
色褪せた夜間巡回記録簿。
壊れた懐中電灯。
そして、黄ばんだ当時の警備規則のマニュアル。
これらが、あの怪異をこの世に縛り付けている核――媒体だ。
俺は、夜間巡回記録簿の最終ページをそっとめくった。
各確認地点には、古いボールペンで几帳面にチェックマークが入っている。
しかし。
一番下の最後の欄。
『最終巡回完了』
『異常なし』
『勤務終了確認』
そのサイン欄だけが、真っ白な空白のままだった。
建物の大規模改修と、それに伴う警備会社の変更が急に行われ、この旧警備室がドタバタと閉鎖されたため、最後の夜勤記録が「正式に完了処理」されていなかったのだ。
怪異は四十年近くもの間、「最後の巡回がまだ終わっていない」という宙ぶらりんの状態を、毎晩毎晩繰り返し続けていた。
◆
玲奈が、ボルトを構えながら尋ねた。
「怪異の核みたいな物がこれなら、このノートごとボルトで粉々に撃ち抜いて壊せば、あいつは消滅するんですか?」
水瀬は、可能性としては認めつつも首を振った。
「破壊した場合、怪異が意味を失って暴走するリスクがあります。建物全体へポルターガイスト現象が拡散したり、巡回という役割だけが別の媒体へ移ったり、あるいは記憶欠落者への悪影響が永遠に残る危険性も否定できません」
俺は、空白のままの記録簿を見つめながら提案した。
「……壊す必要はないと思う。こいつは、ただ『終われていない』だけなんだ」
◆
古い警備会社の人間は、もう一人も残っていない。
しかし、怪異が真面目に守り続けているのは、特定の警備会社との契約ではなく、この『建物そのもの』だ。
俺は、昼間に得た《契約書確認》の実務知識から、一つの仮説を立てた。
現在の依頼主企業が、この建物の現在の所有者であり、管理責任者であること。
つまり、ここにいる『施設管理部長』には、建物の夜間警備業務を正式に承認し、終了させる『権限』が法的に存在している。
管理部長の承認であれば、怪異の役割の継承先として、因果的に成立する可能性が極めて高い。
俺たちは、討伐ではなく、怪異の『最後の巡回を一緒に再現して終わらせる』という計画を立てた。
古い巡回記録に従って、全確認地点を回る。
各地点で、現在の管理責任者が「異常なし」と声に出して記録する。
最後に旧警備室の前で、施設管理部長が最終確認欄へ署名・押印し、「巡回完了。勤務終了」と怪異へ正式に宣告する。
水瀬の分身体を各地点へ配置し、怪異の出現を監視する。
玲奈は、万一怪異が暴走した場合に備えて、階段や窓から離れた安全な位置で遠距離からの射線を確保する。
そして俺は、古い図面と巡回記録簿を持ち、管理部長と共に最後の巡回を先導する。
◆
午前零時を過ぎた。
俺と施設管理部長、そして水瀬の分身が、旧巡回経路をゆっくりと進む。
カツ。
カツ。
怪異の革靴の足音が、壁の中からずっとついてくる。
姿は見えないが、確実に俺たちを監視しているのが分かる。
俺は一つずつ、現在の状態を確認して声を上げた。
「七階東側非常口、施錠確認。異常なし」
管理部長が震える手で、古い記録簿へチェックを入れる。
現在は厚い壁になっている旧廊下では、俺が古い図面と現在の構造を脳内で照合し、読み替えて宣言した。
「旧六階西側通路。現在は倉庫区画へ統合されています。……異常なし」
怪異が、壁からヌルリと半身を現した。
しかし、俺たちを襲ってはこない。
俺たちが記録簿を持ち、正しい巡回――業務を行っていると認識し始めているのだ。
◆
怪異が移動させていた備品も、現在の正式な配置として一つずつ再確認していく。
「この消火器は、現在の最新の消防計画に基づき、東側廊下へ移設済みです。異常なし」
施設管理部長が、声を張って正式に宣言する。
怪異は、消火器を昔の位置へ戻そうと黒い手を伸ばしかけていたが、部長の言葉を聞くと、ピタリと動きを止めた。
現在の管理権限者の言葉によって、「新しい配置が正しい」と因果が上書きされ、認められたのだ。
◆
旧警備室へ近づくにつれ、怪異の黒い姿が異様に濃く、はっきりとしたものになっていった。
それは、自分の役割が終わることを恐れているからではない。
ただ、「最終確認がまだ完了していない」という四十年分の強烈な因果が暴走し、周囲の壁や廊下を無理やり『旧構造――昔の風景』へと戻そうとしているのだ。
廊下の輪郭がぐにゃりと揺れ、存在しないはずの古い木製の扉や、色褪せたポスターが空間に浮かび上がる。
水瀬の分身が、空間の歪みから管理部長を現在の正しい通路へと誘導する。
玲奈が《圧縮射出》で、怪異を直接狙うのではなく、床のコンクリートへ衝撃を走らせ、歪んだ空間の波から俺たちを物理的に引き離す。
俺は、怪異へ一切の攻撃を行わなかった。
ただ記録簿を持ったまま、真っ直ぐに前進を続けた。
◆
壁で封鎖された、旧警備室の真ん前へと到着した。
怪異が、壁から完全に抜け出し、完全な人型として立ち塞がった。
黒い制服。
顔のない頭。
胸元には古い認証札。
右手には、実体のない靄のような巡回記録簿を握りしめている。
怪異は、俺の持つ『本物の記録簿』へと、黒い手をゆっくりと伸ばしてきた。
俺は逃げずに、記録簿の最後の空欄ページを開き、施設管理部長へ差し出した。
部長は、額に大量の汗をかき、震える手でペンを握りしめた。
『最終巡回完了』
『異常なし』
『旧警備業務終了』
現在の正しい日付、会社名、そして氏名をしっかりと署名する。
最後に、朱肉をつけた管理印を、力強くバツンと押印した。
俺は、怪異の顔のない頭部へ向けて、一人の会社員として、静かに、そしてはっきりと告げた。
「夜間巡回、全項目確認しました」
「異常ありません」
「引き継ぎも、完了しています」
「もう、あなたが巡回を続ける必要はありません」
「長い間、本当にお疲れさまでした。……勤務終了です」
◆
怪異は、印鑑の押された記録簿を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて。
顔のない頭が、ゆっくりと下へ向けられた。
それは、古い警備員の敬礼のようにも、深い会釈のようにも見えた。
直後。
黒い身体が、朝靄が晴れるようにサラサラとほどけていく。
最後に、腰にぶら下がっていた鍵束の音だけが響いた。
チャリン。
その金属音を最後に、黒い身体は古い認証札と記録簿へ還るように吸い込まれ、怪異としての活動を完全に終えた。
◆
俺の視界に、《目録解析》の更新通知が表示された。
『追加観測情報を確認しました』
『《境界潜行》の目録情報を更新します』
『更新情報:
・発動媒体:人工構造物に対する、保有主体自身の強い「認識」。
・座標指定:物理的な配管や通路ではなく、保有主体が認識している建物の「構造・間取り」を参照して移動する。
・制約:建物への認識が現実と大きく異なる場合、移動精度と現象の安定性が著しく低下する』
俺は、この機能の真の有用性を実感していた。
《目録解析》は、一度で答えのすべてを教えてくれる魔法ではない。
観測を重ねれば重ねるほど、情報が補完され、目録の精度が上がっていく。
万能鑑定ではなく、因果情報の整理と保存。
俺が登録した能力を直接使わなくても、敵や現象の弱点を分析し、攻略するためには十分すぎる強力な武器だ。
◆
翌朝まで、ビル内で異常は一度も再発しなかった。
人感センサーの誤反応は完全に停止し、壁内の足音も消失、備品の勝手な移動も止まった。
記憶欠落者の新規発生もない。
今回のように、私有施設内へ被害が限定され、Tier4相当以下と判断された怪異案件は、認定民間チームの現場裁量で鎮静し、事後に八咫烏へ報告することが認められている。
依頼主は、この怪異の危険度を正式にTier4相当として八咫烏へ報告した。
討伐――破壊ではなく、「鎮静および役割完了」による平和的な解決として処理されたのだ。
俺たちFIELD WORKSには、事前の調査報酬、危険手当、怪異鎮静成功の特別報酬、そして夜間対応費が、満額で支払われることになった。
◆
オフィスの外へ出ると、夜明け前の冷たい風が吹いていた。
玲奈が、ポーチに残ったままのボルトを弄りながら、少しだけ不満そうに言った。
「今回は私、空間を揺らすために数発撃っただけで、ほとんど何もしてませんけど。……これで仕事としてお給料をもらっていいんでしょうか?」
「戦闘で撃たずに終わる方が、依頼主である企業には遥かに高く評価されますよ。建物も無傷ですからね♡」
水瀬が優しくたしなめる。
「水瀬さんの言う通りだ。とにかく原状回復の修繕費が俺たちに請求されないこと。それが一番大事だ」
俺が力強く同意すると、玲奈は呆れたような顔で俺たち二人を見た。
「なんか二人とも、すっかり不動産管理会社側の、大人の顔になってますよ……」
俺は苦笑しながら、回収された古い巡回記録簿を鞄の中へしまった。
会社員として十五年間、理不尽に耐えながら働いてきた俺には、自分の仕事がとっくに終わっているはずなのに、誰からも「終わり」を告げてもらえず、延々と暗闇の中で働き続けるしかなかったという、あの怪異の執念が妙に他人事とは思えなかった。
怪異になってまで夜勤をバカ真面目に続けた存在に、俺はほんのわずかな同情を抱いていた。
異能を十個集め、機能拡張を果たした夜。
俺が初めて《目録解析》で読み解いたのは、最強の無敵能力でも、敵を殴り倒す必殺技でもなかった。
四十年近くもの間、誰にも勤務終了を告げてもらえなかった、名もない古い夜番の仕事の記録だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!