冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

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第23話 刀の前に立つ

 壁をすり抜ける怪異の案件を無事に片付けてから、数日後。

 

 俺たち《FIELD WORKS》の三人が、契約したばかりの狭いオフィスに集まっているところへ、霧島が分厚いファイルを抱えてやって来た。

 

 新たな企業代理戦の依頼を持ってきたのだ。

 

 「今回の試合形式は、三対三のチーム戦ではありません。一対一の単独戦となります」

 

 霧島が、資料を俺のデスクへコトリと置いた。

 

 依頼主の企業が今回争っているのは、高額な設備保守契約の優先受注権だという。対戦相手の企業側は、現在五連勝中という波に乗っている専門の代理人を立ててきているらしい。

 

 「相手の情報は?」と俺が尋ねると、霧島はフラットな声で答えた。

 

 「今回の対戦相手は、武器の使用を前提とした代理人です」

 

 武器。

 

 その単語を聞いた瞬間、隣のデスクに座っていた玲奈がピクリと反応して身を乗り出した。

 

 俺も、思わず眉をひそめて警戒した。

 

 相手の武器とはなんだ。拳銃か、スタンガンか、それとも特殊な鉄パイプや鈍器の類か。

 

 霧島は、俺たちの警戒をよそに淡々と説明を続けた。

 

 「相手は《授与型(じゅよがた)因果律改変者》ですね。今回は、先祖伝来の『呪物刀』を使う剣士です」

 

 俺と玲奈の二人が、ほぼ同時に素っ頓狂な声で聞き返した。

 

 「「授与型?」」

 

     ◆

 

 裏社会の能力分類にまだ詳しくない俺たちに向けて、霧島が補足の説明を始めた。

 

 「《授与型》とは、本人の内部から発現した異能ではなく、外部に存在する『何か』から、因果律改変の能力を与えられている能力者の総称です」

 

 代表的な例としては、強力な呪物を装備している者、異界の存在と契約を交わした者、あるいは高位の能力者から一時的に力を付与されている者などが該当するという。

 

 だが実際のところ、八咫烏に登録されている授与型の大多数は、『呪物の使用者』だそうだ。

 

 玲奈が、納得がいかないという顔で確認した。

 

 「えっと……それってつまり、ただの普通の人でも、強力な呪物さえ拾って持てば、誰でもすぐに能力者になれるってことですか?」

 

 「原理としてはその通りです」と、霧島は肯定した。「本人に生来の異能がなくても、呪物の力を使用できる状態にある間は、八咫烏でも授与型の能力者として正式に登録・管理されます」

 

 水瀬が、相手の資料に目を通しながら尋ねた。

 

 「元から自分の能力を持っている人間が、追加の強力な装備として呪物を併用することもありますよね。今回の対戦相手の剣士は、彼本人にも固有の異能があるんですか?」

 

 「ありません。彼自身は、素の状態では完全に無能力者です」

 

 厳密に言えば、彼が『呪物刀』を装備して握っている間だけ、授与型の能力者として扱われる。

 

 しかし、もしその刀を失ったり、折られたりすれば、彼自身には何の異能も残らない、ただの一般人のおじさんになるということだ。

 

 霧島は、俺の顔を見て静かに補足した。

 

 「彼は、呪物刀から授与される異能は完璧に使いこなしていますが、本人固有の因果律改変能力は一切ありません。……ただし。佐伯さん、それを彼の『弱点』だとは絶対に思わない方がいいでしょう」

 

 俺は、机の上の資料へ目を落とした。

 

 「刀さえなくなれば、ただの普通の人、ということですよね?」

 

 「能力の有無だけを見れば、そうです。ただし、その『普通の人』は、三十年以上の間、毎日欠かさず血の滲むような思いで刀を振り続けてきた、生粋の剣術家です」

 

 それは、単に威力の高い強い呪物を、たまたま運良く手に入れただけの素人ではないということだ。

 

 本人の研ぎ澄まされた剣術の技術と、呪物の能力。その二つが完全に組み合わさって初めて成立する、極めて厄介な強敵であると、霧島は警告していた。

 

     ◆

 

 玲奈が、資料の隅に記載されている呪物刀の『推定評価額』の数字を見て、目を丸くして驚いた。

 

 「嘘……。この刀、一般市場に出たらいくらになるか分からないって書いてありますよ。ゼロの数が多すぎません?」

 

 霧島は、強力な呪物が単なる武器としてだけでなく、この能力者社会における極めて希少な『資産』であることを説明した。

 

 大企業、歴史ある資産家、古い能力者の血族、異次元を管理する共同体、あるいは巨大な宗教団体。

 

 そうした強大な資本を持つ組織が、強力な呪物を独占して保有している。

 

 能力者本人の基礎的な強さが同等であったとしても、装備へ投入できる資金の桁が違えば、実戦における能力(パフォーマンス)には絶望的なまでの差が生まれるのだ。

 

 玲奈が、ため息をつくように呟いた。

 

 「結局……裏の世界でも、表の社会と同じで、お金をたくさん持ってる方が強いんですね……」

 

 「資本主義ですからね♡」

 

 水瀬が、にっこりと残酷な笑顔で答えた。

 

 ただし、と霧島が続ける。

 

 「今回の相手の刀は、企業が大金に物を言わせてオークションで購入したような品ではありません。対戦相手の家に、代々家宝として受け継がれてきたものです」

 

 売買された高級装備ではなく、血統と流派の型に完全に一体化した因果を持つ刀。

 

 さらに対戦相手は、ほかの防具系の呪物や便利な道具などを一切併用していない。彼がリングへ持ち込むのは、己の身と、その一振りの刀だけだ。

 

 複数の高級装備で能力を無駄に水増しするのではなく、『一本の刀を完全に使いこなすこと』だけに三十年の人生を特化させた、純度の高い剣士なのだ。

 

     ◆

 

 霧島が、対戦相手のさらに詳細な登録情報をタブレットで開いた。

 

 画面には、流派と能力の詳細が表示される。

 

 『流派:《神代一刀流》』

 

 『武器:家伝呪物刀』

 

 『授与異能:《武者身》《残心》』

 

 『戦績:現在五連勝中。Tier4相当』

 

 俺は、まず《武者身》という異能の説明を読み、自分が使っている普通の《身体能力強化》との違いを確認した。

 

 俺の《身体能力強化》は、全身の筋力やスピードを全体的に広く底上げするものだ。

 

 しかし《武者身》は違う。

 

 踏み込みの速度、刃の軌道を見切る動体視力、手首の柔軟性と握力、腰と下半身の異常な安定感、斬撃後の姿勢の回復速度。

 

 そうした『刀を使った戦闘においてのみ必要な能力』だけを、重点的かつ爆発的に引き上げるという、侍特化型の強化能力だった。

 

 純粋な素手での殴り合いや、長距離の持久走であれば、俺の普通の身体能力強化の方が上回るかもしれない。

 

 だが、刀を持って構えた状態での近接戦闘においては、極めて無駄がなく効率の良い強化だ。

 

 「刀を抜いていない時の彼の身体能力は、ただの鍛えた一般人の範囲に収まります。しかし、抜刀した後は、完全に別次元の化け物になると思ってください」

 

 俺は霧島の説明を神妙に聞いていたが、この段階ではまだ、その「別次元」がどれほどのプレッシャーに変わるのか、実感としては湧いていなかった。

 

 続いて、二つ目の能力《残心》の説明を読む。

 

 『刀を振った約一秒後、同じ空間の軌道を、因果的な不可視の斬撃がもう一度なぞるように発生する』。

 

 俺は、その一文を読んで深く眉をひそめた。

 

 (……これ、タチが悪すぎるだろ)

 

 素手で刃物に対抗する場合、最も基本的な戦術は「相手の最初の大振りの一撃をギリギリで回避し、その直後の隙を突いて懐へ飛び込む」ことだ。

 

 しかし、この《残心》という能力があれば。

 

 最初の斬撃を避けて懐へ飛び込もうとした素手の相手を、一秒遅れて発生する『二撃目の不可視の刃』が背中から襲うことになる。

 

 素手側の最も有効な対刀戦術が、そのまま死地へ飛び込む罠になる能力なのだ。

 

     ◆

 

 霧島が、確認可能な直近の四試合の録画映像をモニターで再生した。

 

 対戦相手は五連勝しているが、最初の一戦だけは記録の公開範囲が限定されているため、映像として確認できるのは四試合分だけだ。

 

 そして驚くべきことに、彼が切り伏せてきた対戦相手は全員、格闘技や素手での近接戦闘を主体とする能力者だった。

 

 一試合目。ボクシング系の能力者。

 

 高速のステップとジャブで距離を測ろうとするが、神代一刀流の剣士は無理に追おうとしない。

 

 相手が踏み込んでくる予定の空間へ、先に刀の切っ先をスッと置く。それだけで、ボクサーは自分の眼球を貫かれそうになり、何度も攻撃の動きを止められる。

 

 最後は、剣士の横薙ぎを避けて懐へ入ろうとしたところへ、《残心》による二撃目が発生。腕に深い切り傷を負い、試合続行不能となった。

 

 二試合目。空手系の能力者。

 

 彼は腕で刀を受け流そうとしたが、対武器用の防具(手甲)を装備していなかった。刀身を完全には避けきれず、前腕の肉を深く斬り裂かれる。

 

 その直後、剣士は刀を大きく引き戻す動作もほとんどないまま、流れるように切っ先を相手の喉元へと突きつけ、絶望させて降参を奪った。

 

 三試合目。レスリング系の大柄な能力者。

 

 身体能力強化を全開にして、一気に組みついてタックルしようとする。

 

 だが剣士は、真後ろへは下がらない。半歩だけ斜めに角度を変え、相手の突進の進路からスッと外れながら、そこに刀の刃をそっと置いた。

 

 突進した側が、自分から自ら刃の間合い(死地)へと突っ込んでしまい、寸前で恐怖に顔を引きつらせて停止する。

 

 体勢を崩したところを、柄による打撃と足払いで綺麗に倒され、首元へ刃を置かれて終わった。

 

 四試合目。キックボクシング系。

 

 長いリーチの蹴りで、刀を持っている腕そのものを狙おうとする。だが、刀使いは攻撃の起点を完全に見切っている。

 

 最初の斬撃そのものはキックボクサーに回避されるが、彼が反撃へ移ろうと踏み込んだ瞬間、過去の斬撃軌道を《残心》がなぞる。

 

 軸足を浅く切られ、痛みに動きが止まったところを、あっさりと制圧された。

 

     ◆

 

 四試合の映像は、どれも異常なほど短かった。

 

 入場と牽制を含めても、長くても一分程度。

 

 実際に刃を交えて打ち合った時間は、どれも数十秒しかない。

 

 俺は、思わず声を上げていた。

 

 「いやいや、早すぎるでしょ……! 一人なんて、腕の肉がパックリ開いてかなり深い傷を負ってましたが!?」

 

 映像に映った生々しい血と、試合が即座にレフェリーストップで停止された惨劇を思い出し、俺は顔を引きつらせた。

 

 水瀬は、さほど動揺した様子も見せずに答えた。

 

 「あれは、相手が対武器用の『手甲』を装備していなかったからです。適切な手甲さえあれば、正面からの斬撃は防げますよ。多分」

 

 「……ちょっと待って。水瀬さん、今最後に『多分』って言いました?」

 

 玲奈も、ジト目で水瀬を見た。

 

 「そこは、これから戦う代表のために、嘘でもいいから断言してあげてくださいよ」

 

 水瀬は笑顔のまま、一切のオブラートに包まない現実的な説明を加えた。

 

 「呪物刀といっても、何でもスパスパ切れるような『異常な切れ味』や『防御無視』の魔法のような効果が付与されているわけではありません。あくまで物理的な、よく切れる日本刀です。ですから、十分な防刃性能を持つ装備なら、刃そのものを受け止めることは物理的に可能です」

 

 ただし、と水瀬は続ける。

 

 「受ける角度が悪い場合。手甲のない隙間の部分へ当たった場合。同じ場所を連続で斬られた場合。上段から剣士の全体重を乗せて全力で打ち込まれた場合。あるいは、《残心》の二撃目まで全く同じ場所へ重なった場合……それらの状況では、安全は保証できません」

 

 刀身を斬り裂くこと自体は止めたとしても、その凄まじい衝撃によって、腕の骨をへし折られたり、筋を痛めたりする可能性は十分にあるという。

 

 つまり、手甲は刀を無効化する無敵の魔法のアイテムではない。

 

 一度の回避の失敗で即座に腕を失い、出血多量で死ぬ状況を、辛うじて「骨折と引き換えに、一度だけ受けられるかもしれない」という状態へと変えるだけの、薄い保険にすぎないのだ。

 

     ◆

 

 水瀬が、今回の試合のために特別に用意したという手甲を取り出して見せた。

 

 両手首から前腕までをすっぽりと覆う、特殊合金と耐刃性の強化繊維を何層にも組み合わせた漆黒の防具だ。呪物ではなく、現代の科学技術で製造された、能力者専用の戦闘装備だった。

 

 俺が実際に腕に装着してみると、想像以上にズッシリと重かった。

 

 手首の可動域も少し制限される。素手でのパンチの打撃速度は確実に低下するだろうが、これで刀身を前腕で受け流す、最低限の防御手段が確保できたことになる。

 

 水瀬が、真剣な顔で注意した。

 

 「いいですか、佐伯さん。手甲があるからといって、絶対に『刀を直接掴んで止めよう』とはしないでください。手のひらや指先までは、構造上完全に守り切れませんから。指が飛びますよ」

 

 「じゃあ、どうやって使うんです?」

 

 「斬撃を正面からガッチリと受け止めるのではなく、斜めに角度を変えて、刃を外へ流すように使ってください。あくまで、回避が間に合わなかった時の最後の保険です」

 

 俺は、自分がこれまで戦ってきた「素手の能力者」との決定的な違いを、この重い手甲を通じて肌で実感していた。

 

 相手が拳なら、一発くらい顎や腹に受けても、根性で立ち上がって反撃できる可能性がある。

 

 だが、刀は違う。

 

 一度のミスが、そのまま手足の喪失に直結する。首や太腿の動脈へ当たれば、その時点で俺の人生は終わるのだ。

 

     ◆

 

 水瀬が、モニターの映像を止め、今回の戦いで最も重要な点を俺に説明した。

 

 「刀という武器が持つ絶対的な優位性は、大きく二つあります」

 

 一つ目は、言わずもがなの『攻撃力とリーチ』だ。

 

 刃物による斬撃や突きは、素手の拳や蹴りよりも遥かに致命的なダメージを与える。さらに、刀身の長さの分だけ、相手の方が俺よりも先に攻撃が届く。素手側は、自分の攻撃が届かない遠い距離から、一方的に斬られるリスクを背負う。

 

 そして二つ目は。

 

 『物理的な絶望感(恐怖)』だ。

 

 「素手同士の殴り合いなら、誰でも『一発くらい受けても反撃できる』と無意識に思えます。ですが、刀は違います。一度でもまともに当たれば、肉が裂け、血が吹き出し、大怪我をする。……その冷たい事実だけで、普通の人間は恐怖で踏み込む足が完全に止まるんです」

 

 映像の格闘家たちも、普段ならもっと鋭く踏み込めるはずだった。

 

 だが、彼らは刀の冷たい輝きを目の前へ出された瞬間、本能的な恐怖によって、普段よりも動きが小さく、硬くなっていた。

 

 合理的に怖がっているからこそ、決死の攻撃へ入れない。

 

 歴戦の刀使いは、素手側が抱くその『一瞬の躊躇』を、決して逃さずに斬り捨てるのだ。

 

 水瀬が、真っ直ぐに俺の目を見て言い切った。

 

 「今回、佐伯さんに最も求められるのは、優れた格闘技術でも新しい異能でもありません。……刀が突きつける死のプレッシャーに、絶対に負けない『心』です!」

 

 俺は、両腕にはめた重い手甲を見下ろした。

 

 「……素手で、三十年も修行した本物の刀使いに挑むのかぁ……。これ、普通に考えて俺が負けて、相手の六連勝目の綺麗なハイライト映像になるのでは?」

 

 水瀬は、あっさりと即答した。

 

 「そうですね。常識的に考えれば」

 

 玲奈が、横から激しく突っ込む。

 

 「そこは全力で否定してくださいよ、事務長!」

 

 水瀬は、ニコリと完璧な笑顔を作って続けた。

 

 「ですが。勝つ可能性が万に一つもないような赤字確定の試合なら、私は最初から受けていませんよ♡」

 

     ◆

 

 俺は、モニターの録画映像をもう一度食い入るように見直した。

 

 録画映像である以上、俺の視界の《ライブラリ》は当然ながら反応しない。

 

 彼の純粋な剣術技能も、刀戦闘へ特化した《武者身》の運用情報も、時間差の二撃目を生む《残心》も、ここでは一切登録できない。

 

 実際の試合のリングで、彼が刀を振るう姿を、この肉眼で直接観測する必要がある。

 

 ただし、呪物から発生した能力を観測したからといって、その呪物そのものまでコピーできるわけではない。

 

 《ライブラリ》が登録するのは、あくまで俺が直接観測した『技能』と『因果律改変現象』だけだ。

 

 仮に彼の『剣術技能』をコピーできたとしても、俺自身は刀を持っていない。刀術の知識と型を得たからといって、素手で同じ斬撃を使えるわけではない。

 

 《武者身》や《残心》についても、刀剣を媒介とする発動条件まで都合よく消えるとは考えにくい。《ライブラリ》が、登録した能力と一緒に刀を一本生み出してくれるわけでもないのだ。

 

 さらに、後から何らかの刀を用意して再現できるようになったとしても、それを相手の目の前でこれ見よがしに使用すれば、「なぜお前がうちの家伝の能力を使えるんだ」と、俺のコピー能力の正体を完全に疑われることになる。

 

 俺は、自分が今回の戦いでも、

 

 『コピーした能力をその場で直接使って勝つのではなく、あくまで観測による情報だけを利用し、自分の既存の手札だけで勝たなければならない』

 

 という縛りプレイになる可能性が高いと考えていた。

 

 ただし、今回は前回までとは違う。俺には《目録解析》がある。

 

 直接彼の斬撃を観測できれば、本人の純粋な『剣術の技術』と、《武者身》による『異能の補助』、そして《残心》が発生する正確な軌道やタイミングを、完全に切り分けて丸裸にできる可能性が高い。

 

 とはいえ、俺自身も残酷なほど理解している。

 

 能力の仕組みを完全に理解するまで、俺がリングの上で五体満足で生き残れる保証など、どこにもないのだ。

 

 仕組みを見抜く前に、一太刀でも急所を斬られれば、それで俺の人生は終わる。

 

     ◆

 

 試合当日までの数日間。

 

 俺は、仕事終わりの時間を使って、水瀬の《分身体》を相手にした対武器の模擬訓練を徹底的に行った。

 

 水瀬の分身が、木製の模擬刀を持って俺の前に立つ。

 

 ただし、水瀬は神代一刀流の使い手ではないため、再現できるのはあくまで「刀が届く間合い」と「刃物を向けられる恐怖」だけだ。

 

 しかし、それだけでも十分だった。

 

 俺は最初、相手が持っているのが絶対に切れないと分かっている模擬刀だと頭では理解しているのに、踏み込む足がどうしても止まってしまった。

 

 顔や首へ向かって、棒状の物体が高速で迫ってくる。それだけで、人間の防衛本能が強烈に働き、身体を無意識に後ろへ逃がそうとしてしまうのだ。

 

 水瀬は、俺に勝つための型や技を教えるのではなく、ただ三つの心構えだけを徹底して身体に叩き込ませた。

 

 「刀身(刃)だけを見てはいけません。相手の肩、腰、そして足の運び全体を見て、軌道を読んでください」

 

 「一撃目を避けたからといって、絶対に『その軌道上へ身体を戻さない』でください。《残心》が来ます」

 

 「どんなに怖くても、足を止めたら死にます。絶対に、足を止めないでください」

 

 特に《残心》対策として、「一度避けた刀筋の空間には、約一秒間はまだ見えない刃が存在しているものとして扱う」という異常な空間認識を、俺は痛い思いをしながら身体へ覚え込ませた。

 

 手甲を使って模擬刀を受ける訓練も何度も行った。

 

 正面から受け止めるのではなく、腕の角度を斜めにして、刃の力を外へ逃がす感覚。

 

 しかし。本物の呪物刀の鋭さ、本物の《武者身》による超人的な踏み込み、そして本物の神代一刀流の洗練された速度は、水瀬の模擬戦では決して再現できない。

 

 俺は、最後まで完全な自信を得られないまま、重い胃を抱えて試合当日を迎えることになった。

 

     ◆

 

 試合当日。

 

 企業代理戦の専用地下会場。

 

 今回は、明確に『武器の使用が認められた一対一の殺し合い』に等しいルールのため、リングの周囲には普段よりも倍近い人数の医療班がピリピリとした空気で待機していた。

 

 試合前、審判と立会人によって、対戦相手の持ち込む『呪物刀』の厳密な検査が行われた。

 

 事前に登録済みの家伝呪物と同一であること。刀身に毒物や麻痺薬などが塗布されていないこと。登録外の未知の能力が直前に追加されていないこと。そして、持ち込まれた武器が本当に『刀一振りだけ』であること。

 

 それらが、金属探知機や特殊なセンサーで入念に確認される。

 

 俺の装備する手甲も、同様に検査を受けた。

 

 隠し刃などの武器としての機能がないことを確認され、あくまで『防具』として使用が許可された。

 

 控室で、玲奈が俺の手甲の留め具を最終確認しながら、不安そうな声で尋ねた。

 

 「佐伯さん……。本当に、大丈夫ですか?」

 

 「ああ。絶対大丈夫だと言いたいところだけど、水瀬さんが『多分』って言ったからな。保証はできない」

 

 水瀬が、いつもの完璧な笑顔で俺をリングへと送り出した。

 

 「佐伯さん。間違っても、腕をリングの上に置いて帰ってこないようにしてくださいね♡」

 

 「……送り出す応援の言葉として、最悪だな」

 

 俺たちは軽口を叩き合って笑ったが、その実、三人とも手に汗を握るほどの極度の緊張状態にあった。

 

     ◆

 

 俺が、薄暗い通路を抜けて試合場(リング)へと足を踏み入れた。

 

 向かい側の青コーナーから、神代一刀流の剣士が静かに姿を現す。

 

 見た目は、四十代の後半ほど。

 

 城戸岳人や矢吹のような、威圧的な筋肉の鎧を纏っているわけではない。小柄でも大柄でもなく、どこにでもいそうな中肉中背の体格だ。

 

 黒を基調とした簡素で動きやすい稽古着と袴を身につけ、腰に一振りの黒鞘の刀を差している。

 

 顔つきも至って穏やかで、対戦相手を威圧するような殺気や、ギラギラとした闘争心は微塵も感じられなかった。

 

 俺は、少しだけ拍子抜けした。

 

 事前の録画映像で見た時は、恐ろしいほど速く、冷徹な殺人マシーンのように見えていた。

 

 だが、実際に今こうして目の前へ立っている男からは、これまでの対戦相手たちが放っていたような「圧倒的な力の気配」を感じないのだ。

 

 (……なんだ? 四十代後半くらいか。刀を持ってはいるけど、思ったより全然圧がないぞ)

 

 俺は内心で、素直な感想を抱いていた。

 

 (ハッキリ言えば、今までの対戦相手の誰よりも、一番弱そうに見える)

 

 相手の剣士は、リングの中央へ進み出ると、俺へ向かって静かに、そして深く一礼をした。

 

 極めて礼儀正しく、下品な挑発の言葉なども一切ない。

 

 俺も、慌てて背筋を伸ばして礼を返した。

 

 この時点では。

 

 単に『刀』という強力な武器と、『呪物』の恩恵によって、運良く五連勝してきただけの人物なのではないかという、致命的な『侮り』が、俺の心の中に僅かに生まれていた。

 

     ◆

 

 試合開始直前。

 

 レフェリーが、両者へ向かって戦いの準備を促した。

 

 神代一刀流の剣士が、静かな動作で左手を鞘へ添えた。

 

 右手が、ゆっくりと柄を握る。

 

 親指で、刀の鍔(つば)を僅かに押し上げた。

 

 カチリ。

 

 会場の静寂の中に、鯉口を切る小さな音が響いた。

 

 刀身が、音もなくゆっくりと鞘から抜かれる。

 

 その、瞬間。

 

 対戦相手の、全身から放たれる『雰囲気』が、完全に別のものへと変貌した。

 

 少し猫背気味に見えていた背筋が、一本の鋼の糸で吊られたように自然に伸びる。

 

 重心が、床へ根を張るように深く沈む。

 

 肩から余計な力みが完全に消え去り、同時に、彼の呼吸音が俺の耳から完全に聞こえなくなった。

 

 抜かれた刀の冷たい切っ先が、俺の顔面の中心線へと、ピタリと迷いなく置かれた。

 

 彼の大きな筋肉が、急に風船のように膨れ上がったわけではない。

 

 周囲に露骨な光や、漫画のような衝撃波が発生したわけでもない。

 

 それなのに。

 

 俺の身体の全細胞と生存本能が、最大級の警鐘をけたたましく鳴らした。

 

 目の前の男が、刀を抜く前とは『まったく別の生き物』へと変わっている。

 

 刀という呪物と、使い手である彼の因果が完全に接続され、異能《武者身》が発動したのだ。

 

 俺の視界の《ライブラリ》も、刀から男の身体へ流れ込んだ因果律改変現象を捉え、激しく明滅した。

 

 『既知の因果律改変と同系統の現象を確認しました』

 

 『《身体能力強化》へ特殊運用情報を追加します』

 

 『派生運用:《武者身》』

 

 『発動条件:刀剣の保持、および剣術に基づく適切な構え』

 

 『※登録情報は、媒介となる刀剣そのものを生成しません』

 

 『正式登録異能数に変更はありません』

 

 《武者身》は、十一個目の新しい異能ではなかった。

 

 以前に観測した《地鎮》と同じく、既存の《身体能力強化》を特定の用途へ偏らせる、特殊な運用として整理されたのだ。

 

 そして、男はまだ一度も刀を振っていない。

 

 時間差の二撃目を生む《残心》は、まだ登録されていなかった。

 

 しかし、今の俺には、それ以上のシステム表示へ意識を向ける余裕など、一秒たりともなかった。

 

 (……うおっ……!)

 

 俺は、冷や汗を流しながら、奥歯を強く噛み締めた。

 

 (この人、刀を抜いた瞬間、さっきの五倍は強く、巨大に見える。すんげえ圧だ……!)

 

 (やべえ。本当に、やべえ相手だ……!)

 

 刀を抜く前に俺が抱いた「弱そう」という侮りが、いかに浅はかで完全な間違いであったかを、俺は身の毛もよだつほどのプレッシャーの中で思い知らされていた。

 

 剣士は、刀を正眼に構えたまま、静かに、だが会場全体に響く声で名乗った。

 

 「神代一刀流――参ります」

 

 俺は、両腕の手甲を顔の前へと掲げ、自身の《身体能力強化》を最大出力で起動する準備を整えた。

 

 目の前にいるのは、ただ刀を持っただけの一般人ではない。

 

 一振りの強力な呪物と、三十年以上の血を吐くような修練によって完成した、正真正銘の『授与型の剣士』だ。

 

 レフェリーが、右手を鋭く振り下ろした。

 

 「――試合開始!」




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