冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる 作:パラレル・ゲーマー
レフェリーが右手を鋭く振り下ろした。
「――試合開始!」
その声と同時に、俺は即座に《身体能力強化》を最大出力で発動させた。
両腕の重い防刃手甲を顔の前に高く掲げ、ボクシングのフットワークで足を止めずに右へと動く。
まずは距離を取り、相手の出方と刀の『届く間合い』を測るのが定石だ。
対する神代宗一郎は、正眼の構えを維持したまま、開始位置からほとんど動かなかった。
追ってこない。
斬りかかってもこない。
ただ、俺が左右へステップを踏む動きに合わせて、前の足先と刀の切っ先の角度を、数ミリ単位で僅かに調整しているだけだ。
だが、その微細な調整によって、抜かれた刀の切っ先は、常に俺の顔面か喉の中心へと正確に向けられ続けている。
(……動いていないように見える。なのに、どこから懐へ入ろうとしても、必ず『刀が先にそこにいる』)
俺は苛立ちを覚え、黒瀬からコピーした《身体能力強化特化前蹴り》の予備動作を見せた。
刀よりは当然リーチが短いが、拳よりは間合いが広い。
右膝をスッと上げる。
その瞬間。
神代の切っ先が、俺の膝の動きに合わせて『僅かに下』へとスッと下がった。
刃は振られていない。ただ置かれただけだ。
それでも、俺にはハッキリと直感できた。
このまま無策に蹴りの足を伸ばせば、俺の足の甲か脛の骨が、自らあの切っ先へと真っ直ぐに突き刺さりにいくことになる。
俺は冷や汗を流し、蹴りの動作を途中で中断して足を戻した。
神代は何もせず、再び静かに元の正眼へと刀を戻した。
攻撃されていない。
ただ刃をそこに置かれただけで、俺の攻撃の『起こり』を完全に潰されたのだ。
刀の刃が届き、俺の拳も蹴りも届かない絶対の空間。
ただそこに立っているだけで、神代は一切の力みもなく、この試合の主導権を一方的に完全に支配していた。
◆
俺は無理に踏み込むのをやめ、神代の全身をじっくりと観察することにした。
光る切っ先だけを見てはいけない。水瀬の忠告通り、肩、腰、足の運び、呼吸の波、そして柄を握る手首の角度を見る。
神代が俺のステップへ対応するたびに見せる、無駄のない動き。
前足が床を滑る距離。
後ろ足が床を噛む絶妙な角度。
腰が無理なく回転できる範囲。
刀身が最も速く、最短距離で俺へ届く『線』。
斬撃を放った直後に、彼が姿勢を戻すべき中心の位置。
そして、俺に攻撃させないための、切っ先の完璧な置き所。
それらのバラバラの動作が、俺の頭の中で連続した一つの『技術体系』として繋がり始めた。
視界の《ライブラリ》が、青白い光を放って反応する。
『体系化された刀剣戦闘技能を直接観測しました』
『《神代一刀流》を登録します』
『正式登録技能数:二十一個』
登録が完了した、その瞬間。
俺の見ているリング上の世界が、劇的に変化した。
神代が握っている刀が、単なる「危険な金属製の棒」ではなくなった。
彼の足元から、腰、肩、腕、そして刀の切っ先までが、一本の連動した『有機的な構造物』として見え始めたのだ。
刀が現在届く物理的な範囲だけでなく、彼が『次の一歩を踏み出せば届く範囲(死地)』まで、感覚的にハッキリと理解できる。
神代が最も力を込めて斬れる場所。逆に、斬りにくい死角となる場所。刀を振った後に必ず生まれる、空間の空白。
そして何より、素人目には一見安全に見えて、実は神代にとって「最もカウンターで斬りやすい誘いの踏み込み位置」。
それらが、まるでリングの床へ赤と青の線を引かれたように、明確な情報として理解できた。
(……あっぶねえ……!)
俺は内心で震え上がった。
もしこの技能コピーがなければ、俺は今、相手の側面へ回り込んだつもりで、神代にとって「最も気持ちよく袈裟斬りにできる位置」へ、自分から嬉々として飛び込むところだった。
(今の俺なら、分かる。間合いも、足運びも、刀を合理的に振るための条理も。……この人が、次にどこから俺を斬ろうとしているのかが、ハッキリと見える……!)
俺の立ち方が、自然に変化した。
格闘技のように両拳を正面へ揃えてガードするのをやめた。
僅かに半身の姿勢を取り、左前腕の重い手甲を、身体の斜め前へと立てるように構える。
それは、筋力で刀をガッチリと受け止めるための構えではない。刀身の側面を手甲に滑らせて、軌道を外へ逸らすための剣術的な配置だ。
足幅も変わる。大きく踏み込んで殴り倒すためではなく、いつでも神代の斬撃線から半歩外へと外れられる、軽く流れるような足運びへと変わった。
神代の細い目が、さらに僅かに細くなった。
「ほう」
俺は構えを崩さず、額の汗を流したまま神代を見た。
「……何か?」
「先ほど開始した時とは、貴方の立ち方がまるで違う。……御同輩(剣を学ぶ者)でしたか」
俺の心臓が嫌な音を立てた。
コピー能力の存在を、ここで悟られるわけにはいかない。
「いやあ……。動画サイトで、昔の達人の映像を少し見た程度ですよ……!」
神代は一瞬だけ沈黙し。
そして、穏やかに、心底嬉しそうに笑った。
「ふふふ。ならば、貴方は大変な『天才』ですな。過去の映像を見ただけで、剣の深い条理をそこまで正確に拾い上げて実践できる者を、私はこの三十年間、一人も知りません」
(……誤魔化せたのか? いや、これ余計に剣術の天才扱いされて、ハードル上がってないか?)
◆
神代は正眼に構えたまま、静かに告げた。
「では、映像だけでは決して伝わらぬものを、一つお見せしましょう」
神代の身体が、スッと僅かに下へ沈んだ。
俺は《神代一刀流》の技能によって、その踏み込みの『起こり』を完全に捉えていた。
(来る!)
そう脳で認識した時には。
神代の姿は、すでに俺の眼前数メートルの間合いを完全に潰し、俺の眼の前に立っていた。
速い。異常な速さだ。
そして、上段から振り下ろされる、必殺の袈裟斬り。
俺は、後方へは逃げなかった。
ここで下がれば、二の太刀、三の太刀を永遠に浴び続けることになる。
俺は、左前腕の手甲を斜めに立て、振り下ろされる刃の切っ先そのものではなく、刀身の『側面(鎬)』の辺りへと、下から擦り上げるように当てた。
刀の刃と腕を、正面衝突させるのではない。
神代一刀流における『受け流し』の理屈を、刀の代わりに自分の前腕の防具へと適用したのだ。
ガギィンッ!!
耳を劈くような激しい金属音が響く。
神代の刀身が手甲の表面の強化繊維を滑り、俺の首筋を両断するはずだった軌道から、僅かに外へと逸れた。
俺の左腕へ、骨の髄まで響くような凄まじい衝撃が走る。
だが、斬られてはいない。手首も無事だ。
(……防げた!)
俺は反射的に、刀が通り過ぎて空いた神代の懐へと、反撃のために踏み込もうとした。
その瞬間。
視界の《ライブラリ》が、二度目の反応を示した。
『未知の因果律改変現象を確認しました』
『刀剣によって形成された斬撃軌道の、同一空間への遅延再現を確認』
『《残心》を登録します』
『正式登録異能数:十一個』
しかし、その表示の文字をのんびり読んでいる余裕などない。
先ほど刀が通過し、今は何もないはずの空の空間へ。
不可視の『二度目の斬撃』が、約一秒遅れて、全く同じ軌道で突然再発生したのだ。
俺は、《神代一刀流》の技能によって、その一秒前の太刀筋の軌道を身体で辛うじて予測・記憶していた。
懐へ飛び込む動きを急ブレーキで中断し、身体を床スレスレまで低く捻ってしゃがみ込む。
ヒュンッ! と、俺の頭上の空気が鋭く裂ける音がした。
避けたはずの俺の左肩の道着が、見えない刃によって浅く切り裂かれた。
実体の刀は、神代の手によってすでに下段へと振り下ろされ、別の位置にある。
それなのに、過ぎ去ったはずの過去の斬撃が、もう一度全く同じ場所の空間を切り裂いたのだ。
俺は冷や汗を流しながら、大きくバックステップを踏んで神代から距離を取った。
刀を受けた左腕が、先ほどの衝撃で激しく痺れている。
(……これが《残心》。ふざけた能力だ……!)
◆
俺は呼吸を整えながら、視界の端で《目録解析》のデータを素早く開いた。
『《残心》Tier4』
『観測済み基本効果:
刀剣によって実行された斬撃の軌道を、約一秒という一定時間後に、同一空間上へと再発生させる』
『観測済み条件:
刀剣による実際の物理的な斬撃動作を、発動の起点とする』
『高確率の推定:
再発生する斬撃は、最初の斬撃と「完全に同一の軌道上」へ空間的に固定される。対象をホーミングして追尾するような能力はない』
俺は、この異能の本当の恐ろしさの本質を理解した。
厄介なのは、単に「二回連続で斬られるから防御が難しい」ということだけではないのだ。
刀を持つ相手へ、リーチの短い素手で勝つための絶対条件。それは「相手の斬撃を避けた直後の隙に、一気に懐へ飛び込むこと」だ。
だが、この《残心》は、その入り口となる空間に、一秒遅れの『見えない刃の壁』をトラップとして置き残す。
最初の斬撃を上手く回避できたとしても、反撃へ移るために通らなければならない空間が、そのまま死地へと変わるのだ。
(この異能は、相手が間合いを潰してくること『そのもの』を、強烈に拒絶している。……迂闊に飛び込めない……!)
神代は、距離を取った俺の強張った表情を見て、俺が能力の性質を理解したことを察したようだった。
「もう、私の《残心》の性質を見抜かれましたか。やはり、並の目ではありませんな」
俺は何も答えず、左腕の痺れを散らすように軽く振った。
神代が、静かに笑う。
「見事です。……しかし」
彼は刀を、正眼から少し低めの中段へと落とした。
「私はまだまだ未熟者ゆえ。いつまでも相手が隙を見せるのを待ち続けるほど、気が長くはありません」
神代の重心が、さらに僅かに前傾する。
「こちらから、少し動きますよ」
◆
神代が、一気に床を蹴って踏み込んできた。
先ほどまでの静けさが嘘のような、嵐のような連続攻撃の始まりだった。
最初は、右からの鋭い横薙ぎ。
俺は左腕の手甲で、それを上へと滑らせるように流す。
刀が通り過ぎるより早く、神代は手首を滑らかに返し、今度は斜め下から逆袈裟に切り上げてくる。
俺は後ろへ逃げず、半歩だけ横へスライドしてそれを避ける。
その瞬間、一撃目の横薙ぎの《残心》が、俺の背後の空間を見えない刃で切り裂いた。
続く切り上げの《残心》が、さらに一秒遅れて、俺の顔のすぐ横の空間を下から上へと発生する。
現在の、実体のある刀。
一秒前の、不可視の《残心》の刀。
二つの時間の斬撃が、試合場の限られた空間へと次々と重なり合い、見えない檻を作っていく。
神代は、自分が過去に振った《残心》の発生位置とタイミングを、完全に把握している。
彼は、自らが作った遅延斬撃を『見えない壁』として利用し、俺の逃げ道をパズルように限定していくのだ。
現在の刀で、右側の退路を塞ぐ。
過去の斬撃で、左側の空間を塞ぐ。
実体の切っ先で、正面への踏み込みを牽制して止める。
完璧な足運びで、俺が後退する方向を誘導する。
俺には《神代一刀流》の技能があるからこそ、その理不尽な条理がハッキリと見えている。
それでも、純粋な身体の動かし方と、三十年という技量と経験の差が大きすぎる。
見えるからこそ、余計に絶望感が募る。
神代は、俺が剣術の理合で理解できる「最も合理的な防御の選択肢」を読み切り、さらにその『一手先』から刀を置いて潰してくるのだ。
(……見えてる。軌道も見えてるのに、対応して避けるだけで精一杯だ!)
◆
神代の強烈な斬り下ろしが迫る。
俺は、自分の前腕を『一本の刀身』に見立てて動かした。
手甲の外側の装甲を「鎬(しのぎ)」。肘から先の腕全体を「刀身」。そして、肩と腰の連動を「柄を握って動かす両手」とする。
腕の筋力だけで刃をガッチリと受けるのではない。
一本の刀として相手の刀へ触れ、中心線から外すように円を描いて動かす。
それは、《神代一刀流》の剣術技能をコピーしているからこそ可能な、無茶苦茶な身体の応用だった。
神代の刀を、手甲の側面へ擦らせて滑らせる。
切っ先の方向を僅かに変える。
刀身を受けた瞬間に腕をビクッと引かず、逆に腰と足を連動させて、衝撃を床へと逃がす。
神代が、俺の奇妙な防御を見て目を細めた。
「……なるほど。その防具を、己の刀に見立てましたか」
「そうでもしないと、すぐに腕がバラバラになっちまいますからね!」
俺は必死に軽口で応じた。
再び刀と手甲が衝突する。
ガンッ!
さらに一撃、横薙ぎを弾く。
ギィンッ!
手甲は、確かに刃の切断を止めている。
だが、神代の体重と踏み込みを乗せた凄まじい衝撃までは、完全に消してくれない。
前腕の骨がミシミシと悲鳴を上げているのが分かる。手甲を固定している指先の感覚が、徐々に薄れていく。肩から首にかけて、嫌な痺れが走り続けている。
(や、やばい! 刀としての動かし方が頭で分かってるから、なんとか致命傷を避けて受け流せてるだけだ!)
(痛いわ、普通に! 手甲の装甲があっても、こんなの何度も受け続けられるものじゃない!)
神代の《武者身》は、刀を振るための握力、踏み込み、腰の回転、そして衝撃後の姿勢回復を、完璧に彼へ最適化している。
俺は剣術の条理だけはコピーしたが、刀の代わりに使っているのは、しょせん生身の腕だ。
構造そのものの強度が、決定的に違うのだ。
◆
俺は、息を荒げながら、抜刀時に登録された《武者身》の特殊運用情報を、脳内で必死に思い出した。
《武者身》という異能は、家伝の呪物刀の魔法の力をそのまま奪ってきたものではない。
あれは、既存の《身体能力強化》のベースに対して追加された、『刀戦闘用の極端な出力配分(プログラム)』なのだ。
握力、手首、肘、肩甲骨の連動、腰の回転、下半身の踏み込み、動体視力、姿勢回復。
それらの局所へ、必要な能力出力を優先的に回す運用技術。
俺は、戦いながら考えた。
(……俺は刀を持っていない。でも、今は手甲をつけた腕そのものを、剣術上の一本の刀として仮想的に動かしている)
(だったら。《武者身》を新しい異能としてそのまま発動させるんじゃない。俺が持っている普通の《身体能力強化》を、手動で《武者身》と『同じ出力配分』へと無理やり切り替えるんだ)
俺は、全身へ均等に回していた強化の力を、意識的にコントロールした。
前腕の筋肉の強固な固定。手首と肘の角度の維持。肩甲骨の滑らかな連動。腰の回転力。そして、踏み込みと重心を保持する下半身。
そこだけへ、強化の出力を極限まで集中させる。
その瞬間、俺の構えがさらに一段階、変化した。
両腕を大きく顔の前に掲げる、格闘技のような防御姿勢ではない。
左前腕を、一本の刀のように斜め前へ静かに置き、右手を身体の近くへと引く。
神代が、それを見て嬉しそうに微笑んだ。
「ほう。……さらに気配が変わりましたな」
彼は、俺の左腕の角度をジッと見た。
「腕を刀の代わりとするだけではない。その身体の筋肉の在り方まで、剣を振るう形へと組み替えましたか」
「……泥縄の思いつきですけどね……!」
神代は、刀を正眼の高さへとピタリと戻した。
「すべてを一点に懸ける、捨て身ですかな?」
「たぶん、そうなります」
神代の表情に、試合開始から初めて、明確な闘争の喜びが浮かんだ。
相手を痛めつけることではなく、自分の理解できない未知の技術や成長を見せる相手に対する、純粋な武道家としての喜びだ。
「良いでしょう。全力で、受けて立ちます」
◆
俺は、神代一刀流の剣術を使って、神代本人を『斬り伏せよう(殴り倒そう)』などという傲慢な考えは毛頭なかった。
三十年以上、毎日刀を振ってきた本物の宗家に、数分前にコピーしたばかりの付け焼き刃の技能だけで勝てるはずがない。
腕を刀扱いしているのも、攻撃のためではない。
俺の目的は、最初から最後までただ一つだ。
『本物の刀を、一度だけ大きく外へ流す。その一瞬に、神代の懐(密着距離)へ入る』。
刀は長い。
長いからこそ、切っ先から一定以上の『内側』へと入られてしまえば、遠心力を使って自由に振ることができなくなる。
鍔(つば)より近い距離まで入り込めば、刀の最大の強みである攻撃力とリーチは、大きく失われるのだ。
だが、問題は《残心》だ。
最初の刀を上手く外へ弾けたとしても、一秒後に全く同じ軌道が空間に再発生する。
したがって、普通に斬撃を避け、その軌道を横切るようにして真っ直ぐ懐へ入ることは絶対にできない。過去の刃に背中を斬られる。
俺は《目録解析》の確定情報と、これまでの斬撃の軌道を脳内で重ね合わせた。
《残心》は、同じ空間上へ固定された斬撃だ。俺を追尾はしない。最初の刀身と全く同じ軌道を、馬鹿正直になぞるだけだ。
ならば。
刀の軌道を、手甲で『大きく外へずらした』うえで、そのずれた軌道の『内側』――つまり、神代の身体に完全に密着する位置へと真っ直ぐ飛び込めばいい。
残心が再現するのは、俺が外へ逸らした後の、何もない外側の刀の軌道になる。
そこへは、俺はいない。
ただし、それは極めて危険な綱渡りだ。
刀を外へ流す俺の力が少しでも弱ければ、俺の首や肩が斬られる。
逆に強すぎれば、神代が異常を察知して刀を素早く引き戻し、距離を取られてしまう。
たった一瞬だけ、相手に気づかれずに、完璧に中心線を奪わなければならない。
◆
俺は左腕を前へ置き、ジリジリと神代へと近づいた。
神代も不用意には動かない。
互いに、相手の中心線を奪うための僅かな位置を探り合う。
俺は、わざと右足を僅かに前へと出し、身体の左半身を開いた。
神代一刀流の技能を持つ者なら、それが明確な『隙』だと分かる配置だ。
右肩から左脇へと抜ける、袈裟斬りの綺麗な線。
そこを全力で斬り下ろせば、俺は左の手甲で受けるしかなくなる。
神代が、そのあからさまな誘いを理解して口元を緩めた。
「……誘っておられますな」
「分かりますか」
「分かるからこそ、踏み込む価値がある」
神代は、それが俺の張った罠だと完全に理解しながら、逃げずに正面から応じた。
もはやこれは、相手を騙す剣術家同士の読み合いではない。
お互いに狙いを理解したうえで、どちらの「理」が上回るかを正面からぶつけ合う、純粋な力比べだった。
◆
神代が、一歩、音もなく深く踏み込んだ。
試合開始からこれまでで、最も鋭く、重い踏み込み。
それは、単なる上段からの力任せの斬撃ではない。
俺が前へ置いた左腕――仮想の刀ごと、俺の中心線を完全に叩き潰して奪い取る、神代一刀流の秘技《切落(きりおとし)》。
腕でまともに受ければ、手甲ごと骨を叩き潰される。
外へ避ければ、そのまま身体の軸を崩され、胴体を両断される。
後ろへ下がれば、二の太刀の間合いから永遠に逃げられない。
俺の頭の中の《神代一刀流》の技能が、「これは絶対に受けてはいけない」と激しく警告を発していた。
だが、受けなければ懐へは入れない。
俺は逃げなかった。
左前腕を、刀の鎬(しのぎ)のような絶妙な角度で前へ差し出す。
同時に、持てる複数の能力と技能を、一瞬の接触へとすべて組み合わせた。
《身体能力強化・武者身配分》
左手首、肘、肩、腰、下半身へと出力を限界まで集中させ、腕の角度を鋼のように崩さない。
《自己質量操作》
刀と接触する瞬間だけ、左腕と上半身の質量を爆発的に増加させる。刀の凄まじい衝撃に押し負けないための、絶対的な『支点』を作る。
《重心転写》
刀の圧力で自分の重心を後方へ逃がさず、逆に神代の前足のさらに『内側』へと強引に移す。斬撃を受けながらも、決して後退せず、前へ進むための姿勢を強制的に維持する。
神代の呪物刀と、俺の手甲が激突した。
ガァァンッ!!!
火花が散る。手甲の表面の強化素材が深く抉れる。
左腕の骨が軋み、凄まじい痛みが脳を貫く。
だが、俺は刀を止めなかった。
手甲の表面で、刀身をギリギリで滑らせる。
剣先の向かう方向を、俺自身の右外側(神代の左側)へと、円を描くように強引に流す。
神代の絶対の『中心線』から、刀が完全に外へと逸れた。
神代が、試合で初めて驚愕に目を見開いた。
「見事――!」
◆
刀が外へ流れた、その刹那。
俺は決して後ろへ逃げなかった。
流した刀の軌道を追いかけるように、神代のガラ空きになった懐へと、弾かれたように飛び込んだ。
通常なら、一秒後の《残心》が、そこに飛び込んだ俺の背中を斬るはずだ。
しかし、俺が全力で外した刀の軌道は、俺の右後方へと大きく逸れている。
当然、《残心》が発生する場所も、俺が外へ逸らしたその歪んだ軌道の上だ。
俺は、その軌道を横切らない。
刀の峰に沿うように真っ直ぐ前進し、鍔よりも内側へと深く入り込んだ。
神代の右肩と胸元へ、俺の身体が完全に密着する。
直後、俺の背後で《残心》が発生した。
ヒュンッ! と、不可視の斬撃が、誰もいない俺の右後ろの空間を空しく切り裂いた。
(……入った!)
神代は、俺に密着されたことに驚き、即座に刀を引き戻して間合いを取り直そうとした。
だが、彼の最大の武器である「長い刀身」が、ここでは仇になる。
俺が胸を合わせるほど密着した超近距離では、長い刀を引き戻して振るための空間(クリアランス)が存在しないのだ。
神代は瞬時に判断を切り替え、刀の柄頭(つかがしら)や、肘、膝を使った近接戦へと移行しようとした。
神代一刀流は、決して刀を振るだけの流派ではない。懐へ入られた際の体術(組み討ち)も当然備えている。
しかし。
俺もまた、これまでの代理戦でコピーしてきた『素手の格闘技能』のプロフェッショナルなのだ。
◆
神代が、金属の柄頭を俺の顔面へと打ち込んでくる。
俺は頭を僅かに外へずらしてそれを躱し、右手で神代の「刀を持っている右手首」を上からガッチリと押さえた。
左腕は先ほどの衝突の痛みと痺れで、ほとんど力が入らない。
それでも俺は、左肘と肩を神代の右上腕へと強く押し付け、彼が刀を振るための空間を物理的に封じ込めた。
神代が、俺の腹を狙って膝蹴りを上げる。
俺は自分の膝を上げ、内側からそれをブロックして止める。
神代が俺の足を掛けて、柔道のように崩そうとする。
俺は《重心転写》で重心を逆側へと移し、決して倒れない。
互いに離れた刀の距離では、神代が圧倒的に、絶望的なほど強かった。
だが、胸と胸が触れ合うほどの超近距離の泥仕合においては。
俺がこれまでコピーしてきた、空手、ボクシング、レスリング、身体操作、重心制御の技術が、一斉に牙を剥いて機能する。
俺は右足を、神代の前足のさらに外側へと深く置いた。
腰を完全に密着させる。
刀を持っている彼の右腕を、俺の肩で下から上へと強引に押し上げる。
神代の右肘が曲がった状態で固定され、刀の切っ先が、完全に俺の背後の明後日の方向へと向いた。
(……刀を奪おうとするな。刀身へ触るな。ただ、相手が刀を持っている腕と、振るための身体の軸だけを止めろ!)
◆
先ほど、神代の《切落》を左腕の手甲で受け流した瞬間。
神代の体重と踏み込みを乗せた凄まじい衝撃の一部を、《蓄撃》がまだ俺の身体の奥底へ保持していた。
蓄えた衝撃は、時間が経てば減衰を始める。
だが、あの一撃を受けてから、まだ数秒しか経っていない。
これまでなら、その衝撃は拳へ乗せて強烈なパンチとして放っていた。
しかし現在、左腕は痺れて動かず、右手は神代の手首を制している。拳を振りかぶって殴る空間もない。
だから俺は、減衰が始まる前の衝撃を、神代に密着している右肩へと即座に集中させた。
神代の胸骨と肩口へ向けて、わずか数センチの距離から、自分の身体ごと叩きつけるようにぶつかる。
大振りのタックルではない。相手を殺さないように威力を調整した、短距離の強烈な『肩当て』。
《蓄撃》解放。
さらに、そこへ城戸からコピーした《衝撃伝播》の因果を重ね合わせる。
俺の肩から入った爆発的な衝撃が、神代の胸から、背中、そして腰へと、身体の内部を波のように伝わって広がった。
ドンッ!
神代の呼吸がピタリと止まる。
下半身の強固な安定感が、一瞬だけ完全に失われた。
《武者身》によって強化された異常な姿勢制御も、密着状態で身体の内部へ直接伝わってくる見えない衝撃波までは、完全には処理できなかったのだ。
神代の足が、ふわりと床から浮いた。
◆
俺は、神代の身体が浮いたその一瞬を逃さなかった。
右足を、神代の足へ深く掛ける。
腰を鋭く回し、肩と腕を一体化させる。
刀を持つ腕を制したまま、神代の身体を柔道の投げ技のように、床へと叩きつける。
神代は空中でなんとか受け身を取ろうとしたが、右腕を刀ごと俺に完全に固定されているため、十分な受け身が取れなかった。
彼の背中が、試合場のマットへと激しく叩きつけられる。
俺は彼と一緒に倒れ込まず、立ったまま神代の右腕を伸ばさせ、膝で彼の肩を強く押さえ込んだ。
そして、刀を持っている手首を、関節が極まる方向へ容赦なく捻り上げる。
神代の指から、ついに力が抜けた。
カランッ、と。
家伝の呪物刀が、彼の手から離れて床へと落ちた。
刀が手を離れた、その瞬間。
彼と呪物を繋いでいた因果が切れ、《武者身》の異常な強化が完全に消失した。
神代の身体から、抜刀後に感じていたあの恐ろしい圧力が、嘘のように急速に薄れ、ただの一般人の気配へと戻っていくのが分かった。
俺は、落ちた刀を足で蹴り飛ばしたりはしなかった。
あれが彼にとって大切な家伝の呪物であることを理解しているため、刃先に触れない距離を保ったまま、神代の腕だけを確実に制圧し続けた。
「……参りました」
神代が、床に倒れたまま、静かに、だが清々しい声で告げた。
レフェリーが即座に二人の間へ割って入り、両手を大きく交差させた。
「勝負あり!」
◆
俺は神代の腕を放し、その場へどっと座り込んだ。
左腕が、痛みと痺れでまともに動かない。
手甲の表面には無数の深い傷が刻まれ、内部の耐刃繊維までが一部露出してボロボロになっていた。
俺は右手を使い、自分の左手を動かそうとしたが、指先がピクピクと僅かに震えるだけだった。
「……これ、折れてませんよね?」
医療班が慌てて駆け寄ってくる。
リングの外から、玲奈がフェンスにしがみついて叫んだ。
「佐伯さん! 腕、ちゃんと繋がったまま持って帰ってきてくださいよ!」
水瀬は、俺の手甲の酷い損傷具合を見ながら、いつも通りの冷静なトーンで言った。
「形としてはちゃんと残っていますね。多分」
「また最後に『多分』って言った!」
俺が顔を引きつらせて突っ込むと、極限の緊張が解けた会場のスタッフたちの間に、小さな笑い声が起きた。
◆
神代は、医療班のチェックを受けた後、落ちた家伝刀を自ら拾い上げる前に、座り込んでいる俺へ向かって深く一礼をした。
「見事でした。素晴らしい手合わせに感謝します」
「いや……途中まで、本当に手も足も出ず、何もできませんでしたけど……」
俺が左腕を医療班に固定されながら苦笑して返すと、神代は静かに首を振った。
「貴方は、剣の深い条理を理解しながらも、決して『剣だけで勝とう』とはされなかった」
神代の真っ直ぐな目が、俺を捉える。
「自らの腕を刀の代わりとして私の一太刀を外し、その直後、その刀を躊躇なく捨てるようにして私の懐へ入った。……長く剣術を学んだ者ほど、自尊心から、剣術の中だけで答えを出そうとしてしまうものです」
神代は、本当に嬉しそうに穏やかに笑った。
「貴方は、剣の理を上手く使って、見事に『剣の外』へと出られた。それが、刀にこだわりすぎた私の敗因でしょう」
(いや、俺はついさっき剣術をコピーしたばかりだから、剣士としてのプライドやこだわりが全くなかっただけなんだけど……)
俺は内心でそう思いながら、曖昧に笑って誤魔化した。
神代は、刀を拾い上げて鞘へ納め、さらに言った。
「ただし。次に戦う時は、懐へ入られた後の体術の稽古を、私の方ももう少し積んでおきますよ」
「勘弁してください。次は全力で遠慮します」
俺が即座に答えると、神代は声を立てて笑った。
◆
医務室へ運ばれるストレッチャーの上で、俺は視界の端に表示された《目録解析》の更新通知を確認した。
『《神代一刀流》』
『登録区分:技能』
『観測済み要素:
・中心線の制圧
・切っ先による攻撃起点の事前封鎖
・刀身の側面を用いた受け流し
・斬撃後の姿勢回復
・刀の内側へ侵入された際の近接体術対応』
続いて、《残心》の項目。
『追加観測情報を確認しました』
『《残心》の目録情報を更新します』
『確定情報:
・発生時間は、斬撃完了から約一秒後。
・再現される斬撃は、最初の軌道と同一空間へ固定される。対象を追尾しない。
・最初の刀筋を外部からの干渉で変更した場合、その「変更後の軌道」がそのまま再現される』
俺は、その最後の一文を見て冷や汗を流した。
俺が神代の刀筋を手甲で強引に外へ流したから、《残心》の刃も一緒に外へと逸れてくれたのだ。
もし、あの最後の一瞬の判断がなければ、俺は懐へ入った直後に背中から両断されていたことになる。
さらに、《武者身》の運用情報も更新されていた。
『《身体能力強化》特殊運用:《武者身》』
『追加運用:
刀剣戦闘を想定した極端な出力配分は、刀剣そのものを保持していない場合でも、類似した身体操作へと限定的に転用可能』
『注意:
発動のための媒介条件(呪物刀の保持)を満たしていないため、元の《武者身》と同等の完全な最適化および出力は再現されない』
つまり、俺が最後に行ったのは、神代の家伝刀の能力を完全にシステムで再現したわけではないのだ。
自分の持っている普通の《身体能力強化》を、コピーした《武者身》のプログラムの配分へ、自分の意志で可能な限り近づけただけの『応用』だ。
設定上も、呪物刀を持たずに《武者身》という異能を完全発動したことにはならない。あくまで身体強化の使い方の工夫だ。
◆
医務室での精密検査の結果、医療班から「左腕は骨折ではなく、重度の打撲と一時的な神経の麻痺だ」と告げられた。
数日安静にしていれば、後遺症もなく回復するという。
俺は、ベッドの上で心底安堵の息を吐いた。
玲奈が「腕が繋がってて良かったですね!」と無邪気に喜び、水瀬はすでにパソコンを開いて、今回の試合報酬と手甲の修繕費の計算を始めている。
俺は、ボロボロに破損して外された手甲を見つめた。
刀を受けるたび、斬られる恐怖で何度も足が止まりかけた。
《神代一刀流》の技能をコピーしていなければ、俺は間違いなく最初の一撃で斬られて終わっていた。
しかし、剣術をコピーしただけでも、三十年の修練を積んだ彼には勝てなかった。
最後に必要だったのは、刀を持たない自分が、刀使いと同じ勝ち方をしようとしないこと。
俺は、痺れの残る自分の左腕を見ながら、内心で静かに呟いた。
(……刀の理屈を理解する必要はあった。でも、刀に勝つために、俺まで刀になる必要はなかったんだ)
(必要だったのは、たった一度だけ、恐怖に打ち勝って刃を外へ流し――その内側へと飛び込む勇気だけだった)
試合開始から、まだ三分も経っていなかった。
《身体能力強化》の消費は、最初に発動した一回だけで済んでいる。
こうして、俺の企業代理戦における最も死に近づいた対武器戦は、左腕の激痛と引き換えに、無事に勝利の判定をもぎ取って終わったのだった。
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