冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる 作:パラレル・ゲーマー
黒岩征司の捕獲任務から数日後。
俺の左腕の打撲と、右腕の筋肉痛はすでに完治していた。
FIELD WORKSの事務所に、ネクサス・マッチングの担当である霧島がやってきて、いつものように次の企業代理戦の契約資料を机へ置いた。
今回は、特別な指名依頼でも、神代宗一郎のような誰かからの意趣返しでもない。八咫烏のシステムで自動的にマッチングされた、通常興行の公式カードだ。
勝敗に関わらず支払われる基本出場料と、勝利した場合の特別報酬を合わせれば、百万円前後になるという。
水瀬が、霧島から受け取った資料に目を通し、淡々とした声で俺へ告げた。
「佐伯さん。次の対戦相手は『弓使い』です」
俺は少し間を置いてから、ため息混じりに返した。
「……刀の次は、弓か」
隣のデスクで、玲奈が対戦相手の登録能力のリストを確認して読み上げた。
「登録異能は四つですね。《身体能力強化》、《標定(ひょうてい)》、《追矢(ついや)》、《強矢(きょうや)》」
「多いな」
俺が素直に反応すると、水瀬が資料のページをめくりながら訂正した。
「数が多いというより、能力構成に一切の無駄がありませんね♡ 四つともすべて『弓を当てて勝つため』だけに特化した能力です」
つまり、ただ珍しい強力な固有異能を一つだけ振り回すような大味な能力者ではない。複数の異能を組み合わせて、一つの完成した戦闘体系(スタイル)を作り上げている、職人のようなタイプの人物だということだ。
◆
水瀬が、モニターに相手の過去の試合映像を映し出した。
録画映像からでは、俺の《ライブラリ》は能力を直接コピーすることはできない。だが、純粋な戦術分析として映像を見ることは必須だ。
対戦相手の名前は、高峰蓮司(たかみね・れんじ)。三十四歳。企業代理戦での戦績は十一勝四敗。
使用武器は、一般的な和弓やロングボウではなく、身体能力強化の筋力を前提に設計された、特注の小型『コンパウンドボウ』だ。
通常の競技用よりも一回り短く、狭い廊下や室内でも取り回しが利くようにカスタマイズされている。弓の本体部分(ライザー)も金属で極端に補強されており、映像を見る限り、近距離では相手を殴る打撃武器としても使用している。
映像の中で、高峰が矢を放つ。
コンクリートの遮蔽物の裏へ逃げ込んだ相手選手を、放たれた矢がまるで意思を持っているかのようにカーブを描いて追いかけ、肩口に突き刺さった。
別の試合の映像。
高峰が、弓を限界まで引き絞り、約一秒半だけ完全に静止する。
そして放たれた一本の矢は、分厚い金属製のロッカーの扉を容易く貫通し、中に隠れていた相手の胸を貫いた。
ただし、映像で見ても、通常の追尾する矢と、貫通する《強矢》の見た目(矢の形状)は全く同じだった。
映像だけでは、どの射撃で《強矢》を発動したのか判別できない。高峰も、通常矢との具体的な見分け方を公開していなかった。
玲奈が、画面を食い入るように見ながら分析した。
「《追矢》で曲がる矢は、飛んでいる途中で確実に初速が落ちています。佐伯さんの《動体視の魔眼》があれば、目視からの回避は十分に可能だと思います」
玲奈はそう言った後、俺の顔を真っ直ぐに見て、強い口調で念を押した。
「でも、いくら見えていても、飛んできた矢を『手で掴む』ような漫画みたいな真似は絶対にしないでくださいね」
「分かってるよ。さすがに素手で矢は掴まないって」
俺が苦笑して答えると、水瀬が黙ってジッと俺の目を見た。
「……なんだよ、水瀬さん。その目は」
「いえ。今の佐伯さんの発言、念のため事務所のレコーダーで録音して記録に残しておいた方がいいかと思いまして♡」
◆
試合に向けた装備の選択。
玲奈は、矢を防ぐための『大型の防護盾(シールド)』の持ち込みを提案したが、俺はそれを却下した。
理由は明白だ。
今回の会場は、狭い階段や廊下が複雑に入り組んだ廃オフィスビルだ。大型の盾を持てば移動速度が著しく落ちるし、両手が塞がってしまう。それでは、高峰にすぐに距離を取られ直されてしまう。
さらに、《強矢》の貫通力であれば、一般的な簡易盾など容易く貫通して俺の腕ごと破壊してくる危険性が高い。
代わりに、水瀬が手配してくれたのは、
指先の感覚を殺さない高強度の『耐切創グローブ』。刀戦の時よりは軽く動きやすい『前腕保護具』。そして、首の頸動脈周りを補強したタクティカル仕様の戦闘服と、腰の救急ポーチへ収める『簡易止血材』だった。
俺の今回の基本方針は、「建物の遮蔽物を徹底的に利用して、弓の射線を切りながら距離を詰め、近接格闘へ持ち込むこと」だ。
玲奈が、俺の戦闘服の防刃襟を直しながら、もう一度だけ注意した。
「いいですか、代表。普通の矢に見えても、手を出さないでくださいね」
「……」
「返事は?」
「……善処します」
俺は、目を逸らして返事を濁した。
◆
試合当日。
会場は、解体予定の地上六階建ての巨大な廃オフィスビル。
中央には一階から六階までを吹き抜けた巨大な『アトリウム(吹き抜け空間)』があり、東西の両端に二つの階段が設置されている。
各階には、壊れた事務机、オフィス用の薄いパーティション、防火扉、太いコンクリート柱が残されている。窓ガラスは安全のためほぼ撤去されており、風が吹き抜けている。
試合条件は、俺が一階の東側スタート。高峰が六階の西側スタート。
試合開始前に一度だけ、中央アトリウムの空間を挟んで、互いの姿を確認する時間が設けられた。
試合中の外部通信による情報支援は禁止されているため、玲奈と水瀬は別室から中継を見るだけで、俺へ声を届けることはできない。
ピーッ!と、ブザーが鳴る。
俺は一階の東側のバルコニーから、六階の西側を見上げた。
高峰蓮司が、アトリウムの手すりからこちらを見下ろしていた。
彼はすでに黒いコンパウンドボウを手にしている。背中の矢筒には、二十四本の矢。
俺は素手だ。
高峰は、下品な挑発の言葉も、礼儀正しい挨拶も口にしなかった。
ただ、薄氷のように冷たい目で、俺の姿を静かに凝視していた。
この数秒間の目視によって、彼は俺を能力《標定》の『対象』として完全に登録し終えたのだ。
試合開始十秒前のアナウンス。
高峰は、スッと六階の奥の暗がりへと下がり、俺の視界から完全に姿を消した。
俺は、高峰の姿が見えなくなっても、彼がいた六階のその位置から決して目を逸らさなかった。
レフェリーの合図が、ビル全体に響き渡った。
「――試合開始!」
◆
俺は一階の東側ロビーから、中央のアトリウムの吹き抜け空間へと向かって歩き出した。
すぐには走らない。
相手の矢が、どの程度の速度で、どういう軌道で曲がって飛んでくるのかをまず直接確認するため、あえて開けた場所へ一歩だけ身体を晒した。
ヒュッ!
上階の暗がりから、空気を裂く弦の音が鳴った。
しかし、矢は俺の正面の吹き抜けからは来なかった。
一度、アトリウムの空間を大きく横切って飛ばされた矢が、二階部分のコンクリート柱を滑らかに回り込むように急激に軌道を変え、そこから一階にいる俺の背後へ向かって下降してきたのだ。
俺は《動体視の魔眼》を発動させた。
俺の視界の中で、背後から迫る矢の動きがスローモーションのように引き延ばされる。
矢は、ただ放物線を描いているのではない。まるで目に見えない糸で引かれているように、少しずつ方向を修正しながら、俺の背中の中心(心臓の裏)へと確実に近づいている。
俺は、一歩だけ横へ動いた。
矢の先端も、俺の動きに合わせて僅かに追尾して曲がった。
ここで、俺は相手の《追矢》の因果効果を、肉眼でハッキリと直接観測した。
視界の《ライブラリ》が反応する。
『未知の因果律改変現象を直接観測しました』
『《追矢》を登録します』
『正式登録異能数:十四個』
矢が、俺の背中に突き刺さる最終軌道へと入った。
その瞬間。
俺は身体を反転させ、飛来する矢の鋭い鏃(やじり)ではなく、矢軸の後方(羽に近い部分)を、横から右手でガシッと掴み取った。
矢は俺の手の中で、まるで生きた魚のように激しくブルブルと震えて抵抗したが、やがて運動エネルギーを失って完全に停止した。
「……なんだ。普通に掴めるな」
中継映像を見ている玲奈が、今ごろどんな顔をしているかは想像しないことにした。
水瀬なら、おそらく楽しそうに『予想通りですね♡』と言っているだろう。
◆
俺は、捕まえた一本目の矢を、すかさず《アイテムボックス》の中へと収納した。
そして、そのまま東側の階段へ向かって走り出す。
次の矢は、正面の階段の吹き抜けからではなく、横にある開け放たれた会議室の窓を通って飛んできた。
矢は、開いた扉の空間を通り抜け、俺の横腹へ向かって鋭く曲がってくる。
俺は屈み込んでそれを避けた。
矢はさらに進路を修正して俺の頭を狙おうとしたが、急角度で二度も曲がったため、空力的な失速を起こして明らかに速度が落ちていた。
俺は振り返り、今度は左手でその矢の軸をパシッと掴み取った。
(……なるほど。《追矢》は、曲がれば曲がるほど推進力が殺されて、急激に遅くなるんだな)
俺は、戦闘の中で能力の限界値(ルール)を確認した。
三射目が、階段の金属製の手すりの隙間を縫うようにして飛来する。
俺は、左手に持っていた二射目の矢を短い棒のように握り、飛んできた三射目の矢軸を横から弾くように叩いた。
軌道を逸らされた三射目の矢は、カンッ!と手すりの鉄柱に当たって床へ落ちた。
俺は、上階にいるであろう高峰の射撃姿勢そのものよりも、『矢が通ることのできる物理的な穴』、『廊下の直線距離』、『曲がり角の角度』、そして『上下階を繋ぐ吹き抜けの空間』を強く警戒し始めた。
◆
六階の西側にいる高峰は、俺が矢を素手で捕まえたことに対して驚愕はしたが、決してパニックにはならなかった。
彼は最初から、通常の速度の落ちる《追矢》だけで、俺のような能力者を簡単に倒せるとは考えていなかったのだ。
最初の数射は、あくまで俺のデータを取るための『観測射撃』だった。
俺の反応速度。回避する方向の癖。どちらの手を主に使うか。矢を避けるタイプか、それとも捕まえようとするタイプか。どの程度の距離まで矢が近づけば、正確に認識できるのか。
俺が『矢を掴む』という悪癖を持っていることを完全に確認した高峰は、表情を変えないまま、背中の矢筒から次の一本を引き抜き、能力《強矢》を混ぜる準備へと入った。
◆
俺は、東側の階段を使って二階へと上がった。
高峰は、能力《標定》によって、俺の高度が上がったことを壁越しに正確に認識している。
彼は六階のバルコニーから、直接俺を狙って撃つことはしない。
一度、アトリウムの反対側の空き空間へと大きく矢を飛ばし、そこから二階の開口部(窓)を通って、俺の背後へ向けて曲がる経路を作った。
一射目が、俺の背後から迫る。
俺が背後の矢の気配に振り返った、その瞬間。
二射目が、俺の正面にある防火扉の小さなガラス窓を突き破って、顔面へと飛んできた。
背後からの回り込む矢と、正面からの直線の矢。二本の到達時間が、俺の立ち位置で完全に重なるようにズラされていたのだ。
俺は、背後からの矢を身体を捻ってギリギリで避け、正面から来た矢を右手で掴み取った。
しかし、俺が避けた背後の矢が、再び俺の背中へ向かって曲がり、戻ってこようとする。
ただし、矢には完全なUターンのような鋭角な旋回はできない。大きな円を描くように、横の空間を大きく使って戻ってこなければならない。
俺は即座にコンクリートの壁際へと背中をくっつけ、矢が曲がって戻ってくるための『空間的余裕』を物理的になくした。
矢は曲がり切れず、壁に激突して砕けた。
(《追矢》は俺の現在位置へ向かおうとはするが、建物の構造や壁の有無までは理解して避けてくれないんだな)
◆
高峰も、六階の同じ場所に留まってはいなかった。
彼は《身体能力強化》の脚力を使い、西側階段の手すりを滑り降りるようにして、一気に二階分を降り、四階へと移動していた。
俺は、矢が飛んでくる方向だけを頼りにしていれば、常に彼が数秒前までいた「古い射点」の幻を追いかけることになる。
撃つ。移動する。別の角度の射線から撃つ。
高峰は、息をするようにその狙撃手の基本を繰り返している。
俺は、建物の壁に阻まれて、相手の姿を直接確認することができない。
一方、高峰には《標定》があるため、俺が今どの階のどの方向へ移動しているかが、常に赤い点のように見え続けている。
情報面では、完全に高峰が有利なまま試合が進んでいた。
◆
二階のオフィス区画。
左右には薄い事務用のパーティションが並び、中央には何もない長い直線の廊下が続いている。
左側の部屋の奥から、通常の《追矢》が曲がって飛来した。
俺は右へステップして避ける。
次は、背後の階段側から二本目。
俺は、背中を撃たれないために前へ出ざるを得ない。
高峰は、通常の曲がる矢を『牧羊犬』のように使い、俺をこの隠れ場所のない長い廊下の中央へと、意図的に誘導しているのだ。
俺も、自分が誘導されていることには気づいていた。
しかし、この廊下を抜けなければ上階への階段に辿り着けないため、あえて罠と分かった上で前進を続けた。
◆
一本目の矢が、左側の会議室の開いたドアから曲がって飛んでくる。
二本目が、俺の背後から追ってくる。
俺は一射目を左手で軽く掴み取り、二射目を身体を低く沈めて避けた。
その直後。
長い廊下の真っ直ぐ正面の奥から、三本目の矢が飛来した。
三本目も、見た目は先ほどまでと同じ形状の矢だ。
真っ直ぐに飛んできて、ほとんど軌道が曲がっていなかったため、俺は一瞬「追尾に失敗した、ただの通常矢だ」と判断した。
そして、これまでと同じように、右手をスッと伸ばして矢軸を掴もうとした。
だが。
俺の掌に触れた瞬間の『速度(エネルギー)』が、まるで違った。
《動体視の魔眼》の遅延視界の中でさえ、その矢の勢いは止まりきらなかったのだ。
ズシャッ!
矢軸を掴んだ右手の耐切創グローブが、摩擦で悲鳴を上げて裂けた。
矢が俺の手の中を強引に滑り抜け、掌の肉を深く抉り、長い切創を作った。
「ッ……!!」
俺は激痛に顔を歪め、咄嗟に上体を大きく右へと捻った。
胸のど真ん中を貫くはずだった鋭い鏃が、俺の右上腕の外側の肉を浅く裂き、そのまま俺の背後にある分厚いコンクリートの壁へと、深々と突き刺さった。
ドガンッ!
壁に刺さった矢の周辺のコンクリートに、蜘蛛の巣のようなひび割れが走る。
拳銃の弾丸以上の貫通力だ。
致命傷ではない。
しかし、右掌からおびただしい血が流れ、指先の握力が急激に落ちていく。右上腕にも細い出血の線が走っている。
俺は、この激痛と引き換えに、《強矢》の現象を直接肉眼で観測した。
《ライブラリ》へ、《強矢》が正式に登録される。
◆
俺はすぐさま横のコンクリート柱の陰へと退避し、荒い息を吐いた。
腰の救急ポーチから簡易止血材を引き抜き、血の流れる右手へ素早く、きつく巻きつける。
負傷の痛みよりも、自分の慢心による判断ミスを深く反省していた。
通常矢と《強矢》の違いを、魔眼の記憶映像で再確認する。
壁へ深々と刺さった矢を見る。
通常矢は、飛行中、空気抵抗によって矢軸がわずかにしなり、ブレていた。
《追矢》で無理に方向を変える際には、矢軸の向きと鏃の向かう方向に、微細な『ズレ』が生じていたのだ。
しかし《強矢》は、矢軸の強度全体が因果的に異常強化されており、空を飛んでいる間も全くしなることがない。空気を裂く線が、恐ろしいほど細く、鋭い。
さらに《強矢》は初速があまりにも高すぎるため、追尾による軌道の修正角度が極めて小さい(曲がれない)のだ。
俺は、以降の防御の基準を完全に切り替えた。
大きく曲がってくる遅い矢は、捕獲可能。
直線に近く、矢軸が全くしならない矢は、絶対に手を出さず回避。
判断できない微妙な矢は、すべて回避。
薄いパーティションの壁や木製の家具を、盾として信用しない。
身を守れるのは、分厚いコンクリートの柱の裏だけだ。
俺は、血の滲む右手を見つめて呟いた。
「……掴める矢と、絶対に掴んじゃいけない矢があるのか。玲奈さんの言う通りだったな」
◆
俺は、高峰のいる現在位置を直接目で追うのをやめた。
代わりに、彼の射撃の『リズム』と『音』に全神経を集中させた。
通常矢の連射される間隔。
《強矢》を撃つ直前に必ず生まれる、約一秒半の空白の時間。
弦が弾かれる音の高低の差。
矢が俺の所まで到達するのにかかった時間。
矢が空中で曲がった回数。
高峰が《強矢》を撃つ際、彼は弓を限界まで引き絞り、約一秒半の間、完全に静止して狙いを定める必要がある。
つまり、移動しながら走り撃ちで《強矢》を放つことはできない。
《強矢》が飛んできた直前の数秒間だけは、高峰は必ず『その射点に完全に留まっている』のだ。
俺は、相手の現在地ではなく、「次に高峰が《強矢》を撃つために選びやすい場所」を逆算して考えた。
この廃ビル内で、長い直線の射線を取ることができ、かつ、俺の進路を上から見下ろせる場所。
候補は三つ。
四階西側の連絡廊下。五階の大会議室。そして、アトリウム西側のバルコニー。
◆
俺は、西側の階段を使って通常通りに上階へ上がるふりをした。
途中で、わざと足音を大きくドタドタと鳴らし、高峰へ自分の進路を分かりやすく伝える。
高峰は《標定》の能力で、俺が階段を真っ直ぐ上がっていると把握した。
彼は階段の上部空間へ向けて、牽制の通常矢を二本放った。
俺は一射目を壁際で避け、二射目を無傷の左手で空中でパシッと捕まえた。負傷した右手はもう捕獲には使わない。
高峰が次の矢をつがえる間に。
俺は階段を最上段まで上がらず、途中の踊り場から、三階のオフィス区画へと静かに戻った。
そして、壊れたパーティションを踏み台にして走り込み、中央アトリウム側の手すりへと一気に飛び乗った。
《身体能力強化》した脚で手すりを蹴り、まず四階の外側へ張り出した鉄骨梁へ跳ぶ。
着地と同時にもう一度梁を蹴り、今度は五階の手すりへ両手をかけた。
一本の跳躍では届かない高さを、建物に残された二つの足場で繋いだのだ。
高峰には、《標定》によって俺の『位置(点)』が急激に移動したことは分かる。
しかし、俺が「どの姿勢で、何の能力を使って、何をしているか」という具体的な映像までは見えていないはずだ。
◆
俺は五階のフロアへ上がり、高峰がいると予測した『大会議室』へと音もなく踏み込んだ。
だが、そこには誰もいなかった。
床の埃の上に、射撃時に靴底が強く踏ん張って滑った痕跡だけが残っている。数秒前まで、確実にここにいたのだ。
その瞬間。俺のはるか下の階から、弦の鳴る音が響いた。
ヒュッ!
矢が、四階の吹き抜け空間から下から上へと急上昇し、五階の手すりを越えて、俺の顔面へと鋭く曲がってきた。
俺は、左手に持っていた矢を振って、その矢を横から叩き落とした。
高峰は、五階からさらに上の六階へ逃げたのではない。
外側の非常階段を使って、俺が上がってくるのと入れ違いに、『三階』まで一気に降りていたのだ。
俺が上へ上へと追ってくることを、完全に読まれていた。
◆
俺が通常の階段を使って三階まで律儀に戻れば、その間に高峰は再び移動して別の射点へ移ってしまう。
俺は、五階の吹き抜けの手すりから、真下に見える三階のバルコニーへと、直接飛び降りることを選んだ。
高さは二階分、およそ七メートル。
普通の人間なら確実に脚の骨を折る高さだが、今の俺には二つの異能がある。
《身体能力強化》と《自己質量操作》。
落下中は《自己質量操作》で身体を軽くし、空気抵抗を受ける。
三階の床へ近づいた瞬間に通常の質量へ戻し、《身体能力強化》した脚と受け身で着地の衝撃を逃がす。
高峰は《標定》で、俺の高度が「異常な速度で急激に下がった(落ちた)」ことを察知した。
彼は即座に、俺の落下予測地点へ向けて通常矢を一本放った。
そして続けて、弓を限界まで引き絞り、《強矢》の準備へと入った。
通常矢がアトリウム内の空中で大きく曲がり、落下中の無防備な俺の胴体へ向かってくる。
俺は空中で、手に持っていた矢を刀のように振り、飛来する矢の腹を横から激しく弾いた。
通常矢は軌道を大きく外され、壁へ刺さる。
次に、《強矢》が三階の下方から、恐ろしい速度で飛来した。
ほぼ直線の軌道。
俺は、その矢軸の硬さと空気を裂く音を聞いて、絶対に掴まず、手すりの壁を空中で強く蹴った。
身体の落下位置を、空中で半身分だけ強引にずらす。
《強矢》は、俺の戦闘服の脇腹の布地を鋭く裂き、そのまま五階の天井のコンクリートへと深々と突き刺さった。
ドンッ!
俺は、三階のバルコニーへと重い音を立てて着地した。
床のタイルに細かなひびが入ったが、姿勢は崩れない。
俺と高峰との距離は、約二十五メートル。
試合開始から初めて、俺たちは『同じ階のフラットな視界』へと到達した。
◆
三階の、壁が取り払われた開けたオフィス区画。
二十五メートル先の暗がりに、高峰の姿がハッキリと見えた。
高峰は、《強矢》の一射を終えた直後の体勢だった。
俺が上から直接降ってきたことに僅かに目は見開かれたが、すぐに油断なく後退しながら、矢筒から次の矢をつがえた。
俺はここで初めて、高峰の射撃動作の全体を正面から観察した。
身体能力強化によって、本来なら全身の筋力を使う重い弓を、腕だけの力で高速で引き絞っている。
放つ直前の一瞬だけ、上半身のブレが完全に静止する。
通常射撃と《強矢》では、弦を引き切った際の『肩の位置(引き尺)』が数センチだけ違う。
移動しながらでも通常矢なら連射できるが、《強矢》には必ず『一秒半の完全な静止』が必要になる。
一方、《標定》の能力については、彼の外見上に光る目などの分かりやすい現象は一切なかった。
俺の視界の《目録解析》が情報を整理する。
『障害物越しの位置感知能力が存在する可能性:極めて高い』
『高低差も認識可能』
『対象の姿勢、顔の向き、周囲の詳細な構造までは認識していない可能性が高い』
『正確な射程限界と、対象の指定条件(マーキング)は不明』
やはり、《標定》は直接観測できない内部感覚の能力であるため、俺の《ライブラリ》にはコピーされなかった。
◆
高峰は、俺から常に距離を取りながら、通常矢を次々と連射してきた。
身体能力強化の恩恵により、彼は横へカニ歩きで走りながら射る。倒れた机を跳び越えながら空中で矢をつがえる。柱の陰へ入る直前のコンマ一秒で放つ。
俺の視界から完全に消えた後も、《追矢》の能力でカーブさせて命中を狙ってくる。
俺は、彼を直線的には追わなかった。
矢が曲がって追尾してくるため、単純なジグザグ走行も全く通用しないからだ。
俺は、太いコンクリート柱の間を縫うように移動し、飛来する矢に対して常に「急角度の修正」を強いるような位置取りを続けた。
大きく曲がって速度の完全に落ちた矢は、左手で軽く掴んで防ぐ。
直線に近い矢は、手を出さずに避ける。
高峰は通常矢と《強矢》を巧みに混ぜてくるが、俺は彼の「肩の静止時間」と「矢軸のしなり」から、どちらが来るかを瞬時に識別していた。
一射の《強矢》が、俺の頬を浅く掠めて血が飛んだ。
大きな傷ではないが、距離が縮まるほど、完全には避け切れなくなっていく。
それでも、俺と高峰の距離は。
二十五メートル。
十八メートル。
十二メートル。
ジリジリと、確実に縮まっていった。
◆
高峰は、三階北側の長い直線の廊下へと後退した。
その奥は非常階段になっており、彼にも逃げ道があるように見える。
だが俺は、高峰が「追い込まれたふり」をしていることに気づいていた。
この長い廊下は、この建物内で彼が最も長い直線の射程(キルゾーン)を取れる場所だ。
高峰にとって、ここが俺を仕留めるための最後の迎撃地点なのだ。
だが、ここを抜けなければ彼を捕まえることはできない。
俺は、腹をくくってその廊下へと足を踏み入れた。
◆
高峰は、まず通常矢を二本、驚くべき速度で立て続けに放った。
一本目は、俺の左側の空間へと大きく外して発射された。《追矢》によって、左側の会議室の空間をぐるりと経由し、俺の真横から戻ってくる軌道。
二本目は、天井近くへ高く飛ばされ、俺の頭上から急角度で下降してくる軌道。
二本を別方向へと配置した後。
高峰は完全に足を止め、立ち止まった。
弓を、ミシミシと音を立てて限界まで引き絞る。
《強矢》。
俺は、
左から曲がってくる通常矢。
上から落ちてくる通常矢。
正面から音速で飛んでくる《強矢》。
その三つの死の軌道を、全く同時に処理しなければならなくなった。
正面の《強矢》が、最も速く到達する。
俺は右へ避けるのではなく、その場で重心を急激に落とした。膝が床に触れるほど、身体を深く沈め込む。
ヒュッ!と、《強矢》が俺の肩の数センチ上を通過し、背後の闇へと消えた。
頭上から落ちてきた通常矢を、左手を伸ばして空中でガシッと掴み取る。
左から横腹を狙ってきた矢は、俺が姿勢を極端に沈めたことで、空中で再修正(急旋回)を余儀なくされた。
矢が大きく曲がり、推進力が落ちて空中でフワッと失速した瞬間。俺は掴んだ矢を振り回し、その矢を横から叩き落とした。
三本すべてを、無傷で処理した。
高峰が、次の《強矢》の矢を矢筒から引き抜く前に。
俺は床を蹴り、全力で走った。
距離は、ついに八メートル。
◆
高峰は《強矢》の静止時間を諦め、弓を半分だけ引いた状態で、通常矢を速射してきた。
至近距離すぎるため、《追矢》の旋回能力はもはや期待できない。
彼の狙いは、俺の脚だ。
一射目が、俺の右腿へ向かう。
俺は脚を外側へ捻って、矢をズボンの布地ごと掠めさせる。
二射目をつがえようとした高峰へ、俺は一気に四メートルまで肉薄した。
高峰は、矢を弓に射たず、手に持ったまま、まるで短槍のように俺の顔面へと鋭く突き出してきた。
俺は首を傾けて回避する。矢の羽が頬を掠めて通過する。
◆
高峰は、弓の中央部を両手でガッチリと持ち、短い杖のように振り回した。
《身体能力強化》の筋力を乗せた、金属で補強された弓の硬い端が、俺のこめかみを砕こうと迫る。
俺は左の前腕でそれを受ける。
ガンッ!と重い衝撃が走り、受けた腕の骨がジンジンと痺れる。
高峰は、弓の弦を俺の右手首へと引っ掛け、負傷している掌の傷口を狙って強く手前に引いた。
俺の右手の傷口が開き、血がドッと滲む。
続けて、高峰の重い前蹴りが俺の腹部を襲う。
俺は完全には防げず、半歩後退させられた。
高峰は、その隙に再び後ろへステップし、距離を取ろうとする。
接近戦に持ち込まれても、高峰は決して弱くはなかった。
むしろ彼は、弓と矢を、杖として、引っ掛ける鉤として、突き刺す短槍として、そして「再び自分の距離を作るための支点」として使うための近接訓練を、徹底して積んでいたのだ。
◆
高峰が、俺から二メートル離れようとした。
俺は《重心転写》を発動し、自分の仮想重心を彼のいる前方へと強引に移した。
腹を蹴られて後退した姿勢のまま、身体が前へ透明な糸で引かれるようにして再接近する。
高峰は、俺の予想外に早い復帰に一瞬だけ対応が遅れた。
俺が、弓の下側の金属部分を左手でガッチリと掴んだ。
高峰は《身体能力強化》の力で、弓を自分の方へ強引に引き戻そうとする。
俺は《自己質量操作》で身体を重くし、足を床へガッチリと固定した。
二人の間で、弓の激しい奪い合いになる。
高峰は弓を決して手放さず、そのまま右膝で俺の脇腹の急所を狙ってきた。
俺は腰を引いてその衝撃を逃がす。
◆
俺は、左手で弓を掴んだまま、《アイテムボックス》から序盤の段階で捕まえて保管していた『一本の矢』を、右手に取り出した。
高峰は、俺の何もない手の中へ突然自分の矢が現れたのを見て、一瞬だけ理解が追いつかず対応が遅れた。
俺は、その矢を武器として彼の身体へ突き刺しはしなかった。
コンパウンドボウの複雑な弦と補助ケーブルの隙間、そして滑車の部分へと、その矢の軸を深く「差し込んだ」のだ。
高峰が弓を引こうとすると、差し込まれた矢の軸がケーブルと滑車にガッチリと引っかかり、滑車が回らなくなった。
弦が、完全に引けない。
力任せに無理に引けば、滑車が砕けて弓本体が破損する。
弓の「射撃機能」が、完全に物理的に停止した。
試合の序盤で、俺がわざわざ危険を冒して矢を捕まえ、《アイテムボックス》へ密かに保管していた意味不明な行動が、この最後の攻略の鍵へと繋がったのだ。
◆
高峰は、撃てなくなった弓へ一秒たりとも固執しなかった。
即座に両手を離して弓を捨て、右拳を俺の顎へと鋭く放ってきた。
《身体能力強化》による高速の拳。
俺は左腕でそれを受け、続く左肘の打ち下ろしを避けて、彼の腰へ組みつこうとする。
高峰も近接格闘の訓練を積んでおり、簡単には腰を取らせてくれない。
彼は、俺の右手が負傷して握力が落ちていることを利用し、俺の右側へと回り込んだ。
俺の右手首を掴み、傷口を容赦なく圧迫する。俺の握力を完全に潰し、再び距離を作ろうとする。
◆
俺は、右手で無理に掴み返して抵抗することはしなかった。
高峰が俺の右側へ回り込もうとする動きの勢いに合わせ、自分の左足を一歩だけ大きく後ろへ引いた。
そして、自分の重心を、高峰の移動先のさらに『外側』へと転写した。
高峰は、俺の背後へ回り込んで有利なポジションへ出たつもりが、逆に俺の重心線の『内側(死地)』へと自分から入り込む形になった。
俺は、空いた左腕を高峰の胴へと深く回した。
《自己質量操作》で身体を鉛のように重くし、高峰の腰を絶対に浮かせない。
高峰は焦って俺の背中に肘を落とし、組みつきを切ろうと打撃を見舞ってくる。
俺は打撃の痛みを耐えながら密着を維持し、右足を高峰の踵の後ろへと深く入れた。
俺は、力任せに彼の上半身を引いて倒すのではない。
自分の仮想重心を、後方斜め下の床へと一気に移す。
高峰の身体が、バランスを完全に失い、俺の重い体重と一緒に床へと崩れ落ちた。
俺が上になる。
《自己質量操作》の発動を切らないまま、高峰の右腕を床へガッチリと固定し、俺の左膝で彼の肩を強く押さえ込む。
高峰は《身体能力強化》の力で強引に起き上がろうと暴れるが、鉛のように重い俺の身体を跳ね除けることができない。
高峰の左手は自由だが、彼が捨てた弓は数メートル先に落ちており、届かない。
俺が、右の拳を高峰の喉元数センチのところでピタリと止めた。
高峰は、数秒間だけ俺の拳と自分の身体の拘束状態を確認するように抵抗を試みた後。
静かに息を吐き、空いた左手で床を二度叩いた。
降参。
試合終了のブザーが鳴り響いた。
◆
試合後。
医療スタッフがリングへ入り、俺は右掌の深い裂傷と上腕の切り傷の治療を受けた。
傷は縫合が必要なほど深刻ではないが、包帯を巻かれ、数日は右手で重いものは持てないだろうと告げられた。
高峰は、滑車に矢が挟まって壊れた自分の特注弓を無言で確認してから、包帯を巻かれている俺の方へ歩み寄ってきた。
「……最初の矢を、貴方が素手で掴まれた時点で。私が放つ《強矢》も、同じように掴みに来ると確信していました」
俺は、ぐるぐる巻きにされた右手の包帯を見ながら苦笑した。
「ええ。そちらの想定通り、見事に引っかかりましたよ」
「普通は、一度でも判断に失敗して深い傷を負えば、恐怖で必ず距離を取るものです」
「あそこで距離を取って逃げたら、一生あなたの距離から抜け出せなくなるでしょう?」
俺が当然のように答えると、高峰は少しだけ口元を緩めて笑った。
「……それは、そうですね。完敗です」
高峰はそれ以上何も言わず、軽く一礼して去っていった。
俺たちの間に、特別な因縁や、熱い再戦の約束などは存在しない。
ただ、命懸けの公式試合を終えた代理人同士の、静かで短い敬意だけが残された。
◆
控室へ戻る。
玲奈が、俺の包帯で太くなった右手を見て、ジト目で非難した。
「代表。試合前、あれほど『矢は絶対に掴まない』って言いましたよね?」
「……いや、ゆっくり曲がってくる通常の矢は、普通に掴めたんだよ。安全に」
「調子に乗って、速くて強い方まで素手で掴みに行ったから、そんな怪我をしたんでしょうが! 自業自得です!」
玲奈の正論に、俺はぐうの音も出なかった。
水瀬が、手元の端末を操作しながらニコニコと告げた。
「試合前の事前発言の音声録音はありませんが、佐伯さんが矢を掴んで血を吹き出している映像は、バッチリ高画質で残っていますよ♡」
「……それ、恥ずかしいから消せないのか?」
「公式の試合記録映像ですので、永久保存です♡」
俺は深くため息をつき、頭を抱えた。
◆
試合後、俺は《目録解析》を開いて、今回の観測結果を整理した。
新規登録。
『《追矢》Tier4』
『自分が放った矢の軌道を、指定した対象へ向けて修正・追尾させる。
※ただし使用には、弓、矢、および対象を指定するための何らかの認識条件が必要』
俺は《標定》の能力をコピーできていないため、現時点では「俺が直接目視している対象」に対してのみ、矢を曲げて撃つ使い方が中心になるだろう。
『《強矢》Tier4』
『十分に引き絞った弓から放つ矢の速度、強度、貫通力を因果的に強化する。
※弓矢という物理的な武器がなければ発動できない』
また、新たな《身体能力強化》の使用者と戦闘を行ったため、俺の《身体能力強化》の使用回数が上限の二十回まで補充された。
コピーされなかった能力についても、目録には考察が記録されていた。
『《標定》の可能性:
対象が障害物越しに佐伯の位置を把握していることは、行動履歴から高確率で推測できる。
しかし、知覚現象そのものを直接目視していないため、《ライブラリ》には正式登録されない』
『位置感知型能力が存在する可能性:極めて高い』
『正確な能力名・条件・範囲:未確認』
俺は、その表示を見て再確認した。
「……やっぱり、外見に現象が出ない見えない能力は、ただ見ただけじゃコピーして取れないか」
俺の正式登録異能数は、十三個から十五個へと増加した。
しかし、追加された《追矢》も《強矢》も、どちらも「弓矢」という専用の武器がなければ発動できない能力だ。すぐに普段の俺の格闘スタイルへ組み込めるような便利な能力ではない。
ただ、俺は高峰の弓術技能も間近で観察していたため、
『コンパウンドボウの基本射法』『移動しながらの射撃』『室内での短弓運用』『弓を利用した近接格闘』などが、通常の技能としてライブラリへと追加されていた。
水瀬が、俺の顔を覗き込んで尋ねた。
「せっかく能力を得ましたし、佐伯さんも、新しくコンパウンドボウの弓を購入する予定はありますか? 経費で落とせますよ♡」
「ない。絶対にない。俺の柄じゃない」
俺が即座に否定すると、玲奈が俺の包帯を巻かれた不格好な右手を見て、小さく笑った。
「……その回答だけは、心から信用してあげます」
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