冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

40 / 40
第31話 四百五十万円稼いでも、事務所は狭い

 巨大因果設備《アトラス》の強奪事件を無事に解決し、警護任務を終えてから四日後の土曜日。

 

 この日は、依頼主であった東央都市開発グループから、俺たちFIELD WORKSの法人口座へと『最終報酬』が正式に振り込まれる日だった。

 

 俺は昼間の不動産管理会社が休日。玲奈も特に予定を入れておらず、水瀬から「本日は、午後から報酬の精算と、今回の事件の反省会を行います♡」と呼び出されていた。

 

 時刻は、午後一時少し前。

 

 深夜の警護や命懸けの車両追跡から解放され、三人とも連日十分に睡眠を取って、体力も気力も完全に回復した状態だ。

 

 俺は約束の時間より少し早く、一人で雑居ビルの事務所へと到着していた。水瀬と玲奈はまだ来ていない。

 

 現在の俺たちの事務所は、古い雑居ビルの一室だ。

 

 設立当初は「三人で事務作業の真似事をするだけなら、これで十分だろう」と思っていた。

 

 しかし、FIELD WORKSの業務が拡大し、企業からの直接依頼を受けるようになってから、この部屋は明らかに手狭になっていた。

 

 室内には、俺の事務机、水瀬の事務机、そして玲奈が使う小さな作業机。二人掛けの古いソファ、折り畳みテーブル、複合機、小型冷蔵庫。

 

 そこへさらに、水瀬が厳重に保管している契約書用の重い書庫、救急箱、敵を縛るための拘束具の箱、通信機器のケース、防護装備のコンテナ、玲奈の《圧縮射出器》用の長細いガンケース、交換部品、予備バッテリー、そして『現場ごとの記録資料をまとめた箱』が、テトリスのように詰め込まれている。

 

 先日のアトラス案件を終えてからは、さらに物が増えた。

 

 破損した通信機、交換予定で破棄を待つ俺の防護服、回収した現場の映像記録のメディア、警察へ提出する前の書類の控え、車両損耗の報告資料、大型設備警護用に急遽新たに購入した各種の備品。

 

 それらの段ボール箱が積み上がり、事務所の床面積の大半が『箱』で埋め尽くされている状態だった。

 

 入口から奥の冷蔵庫へ向かうためには、人一人が横向きにカニ歩きにならなければ通れない場所すらある。

 

「……完全に、ただの倉庫だな」

 

 俺は一人で呟きながら、自分の事務机の下にある、重さ二十キロほどある「大型の工具箱」を引きずり出した。

 

     ◆

 

 俺が早く事務所へ来たのは、片付けのためだけではない。

 

 新しく《ライブラリ》へと登録された『あの能力』を、誰にも見られない範囲で、最低限の挙動だけこっそりと確認しておくためだ。

 

 ただし、ド派手な大規模な実験はしない。

 

 建物の構造と用途から、通常時の床荷重ならおおよその概算はできる。だが、ここは古い雑居ビルで、竣工時の構造図も正確な改修履歴も手元にはない。床スラブや梁の現在の状態を実測したわけでもなかった。

 

 まして、《荷重移送》で一か所へ通常とは異なる集中荷重を成立させた場合、俺の概算どおりに負担が分散される保証もない。

 

 分からないから試さないのではない。今ある情報だけでは、安全を保証できないから試さないのだ。

 

 俺は、床へ二十キロの『工具箱』と、普段書類整理に使っている頑丈な『鋼製キャビネット』を並べた。

 

 そして、備品で買っておいた家庭用の体重計を二台用意し、それぞれの荷物の下へと敷いた。

 

 体重計の針が、それぞれの実重量を示す。

 

 俺は、深く息を吐き、能力を起動した。

 

(《荷重移送》……)

 

 対象は、左の工具箱。移送先は、右の鋼製キャビネット。

 

 俺の視界の中で、因果の薄いパイプが二つの物体の間に繋がるのを感じた。

 

 次の瞬間。

 

 工具箱を載せている体重計のデジタルの数値が、スッと十キロほど下がった。

 

 同時に。鋼製キャビネットを載せている体重計の数値が、全く同じ分(十キロ)だけ、カチャッと増加した。

 

「……能力そのものの起動は、正常だな」

 

     ◆

 

 俺は、能力を維持したまま、十キロ分『軽くなった』はずの工具箱の取っ手を握り、上に持ち上げてみた。

 

 確かに、下方向へと地球から引っ張られる重さ(荷重)は、劇的に軽くなっている。片手で簡単に持ち上がる。

 

 しかし。

 

 持ち上げた工具箱を、横方向へ向かってスッと動かそうとした時。

 

 軽い感覚で勢いよく動かしたはずの工具箱が、予想より遥かに重く、俺の腕の筋肉をガクッと強く引っ張ったのだ。

 

「おっと……!」

 

 俺は慌てて力を入れ、工具箱の横移動を止めた。

 

《アトラス》の担当者が言っていた説明と、高速道路での車両の挙動の意味を、この手で完全に理解した。

 

(質量そのものは、絶対に変化していない。地面へかかる『荷重(重力)』だけを別の場所へ移している。……だから、物体を横へ加速させたり、急に停止させるために必要な『慣性の力』は、完全には消えていないんだ)

 

 俺が普段使っている《自己質量操作》は、物体(自分)の質量そのものを増減させるため、慣性も一緒に軽くなる。

 

 だが、《荷重移送》は違う。重さは消えても、物質の『存在の抵抗』はそのまま残っているのだ。

 

     ◆

 

 俺は、もう少しだけ移送する荷重の量を増やしてみようと試みた。

 

 工具箱の重さをさらに削り、キャビネットの方へと負担を押し付ける。

 

 ミシッ……。

 

 キャビネットの下にある体重計のプラスチックのカバーが、限界を告げるように嫌な音を立てて軋んだ。

 

 同時に、古い雑居ビルの床板からも、微かにミシッという音が鳴った。

 

 俺は、即座に《荷重移送》の能力を完全に解除した。

 

 解除された瞬間、工具箱の本来の二十キロの荷重が、空中で突然元へ戻る。

 

 ドンッ!と、重力に従って工具箱が床の体重計の上へと落下し、鈍い音を立てた。

 

 幸い、体重計が壊れたり、床が抜けるような大きな事故にはならなかった。

 

「……こんな狭い事務所の床を壊してまで、検証するような能力じゃないな」

 

 俺は冷や汗を拭った。

 

 本格的な《荷重移送》の検証は、いずれ八咫烏の頑丈な訓練施設か、屋外の誰もいない場所で安全に行うことにしようと決めた。

 

 この場での秘密の検証は、

 

『小さな物体には俺個人でも使用可能』『全荷重ではなく、一部だけを切り取って移せる』『移送先を俺の意思で指定できる』『重さは消えても、慣性までは消えない』。

 

 そして、『現時点での俺の最大移送量と、最大距離は不明』。

 

 その最低限の事実だけを肌で確認して、終了とした。

 

     ◆

 

 俺が、工具箱と体重計を所定の位置へ片づけ終わった、ちょうどその時。

 

 事務所の扉がガチャリと開き、水瀬と玲奈の二人が入ってきた。

 

 先ほど、工具箱がドンと床へ落ちた重い音を廊下で聞いていた水瀬が、少しだけ首を傾げて尋ねた。

 

「佐伯さん。今、何か重いものを落としました?」

 

「ああ。工具箱を片づけていたら、少しだけ手を滑らせただけです」

 

 俺は、平然とした顔で答えた。手を滑らせたというのも、完全な嘘ではない。

 

 水瀬は、俺の足元の床の傷を確認するように一度ジッと見た後、いつもの笑顔に戻った。

 

「雑居ビルの床を傷つけた場合、退去時の修繕費は代表個人の給料から天引きで払っていただきますからね♡ 気をつけてください」

 

「……善処します」

 

 俺は、秘密の能力実験まで彼女に見抜かれたわけではないと分かりながらも、微妙に落ち着かない気持ちで自分のデスクへと座った。

 

     ◆

 

 水瀬が、自分のデスクでノートパソコンを開き、FIELD WORKSの法人口座のネットバンキングへとログインした。

 

 彼女が画面をモニターへと出力する。

 

 そこには、今日の午前中の日付で、依頼主である東央都市開発グループからの振込履歴が表示されていた。

 

『入金 4,500,000円』

 

 玲奈が、身を乗り出してモニターの数字に顔を近づけた。

 

 画面を指差しながら、ゼロの数を一つずつ数えていく。

 

「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん……。嘘、本当に四百五十万円、丸ごと入ってます!」

 

「私が自分で各種の危険手当の加算を計算して請求書を出したので、当然金額は知っていますよ♡」

 

 水瀬が、当然のように返した。

 

「そういう問題じゃないですよ、事務長! 見積もりの紙の数字と、こうして実際に『口座の中に現金が入っている』のを見るのとでは、感動が全然違いますって!」

 

 玲奈が興奮してパソコンの画面を拝むように両手を合わせた。

 

 俺も、表情には出さないように努めていたが、内心ではかなり驚いていた。

 

 昼間の普通の会社員としての俺の感覚からすれば、四百五十万円という金額は、下手すれば一年分の年収に近い大金だ。

 

 それを、FIELD WORKSはたった一晩の『一件の警護案件』でもぎ取ったのだ。

 

     ◆

 

 玲奈が、早速その大金の使い道をウキウキと提案し始めた。

 

「これだけあれば、こんな倉庫みたいな場所じゃなくて、もっと広い綺麗な事務所に引っ越せますよね! 大きなファミリー用の冷蔵庫も買えるし、足を伸ばせる三人掛けの高級なソファも置けます! 良いコーヒーメーカー! 私の銃につける新しい暗視スコープ! 事務所用の大きなテレビ! ……あ、あと、徹夜明け用の仮眠用ベッドも欲しいです!」

 

 思いついたものを、息継ぎもせずに次々と挙げていく。

 

 俺も、室内を改めて見回しながら同意した。

 

「確かに、今のこの事務所の環境は狭すぎるな。物が増えすぎた」

 

 玲奈が自分の椅子を後ろへ引こうとすると、背後に積まれた装備箱へガツンとぶつかる。

 

 俺が複合機の用紙トレイを開こうとすれば、手前のソファに座っている人間の膝が邪魔で全開にできない。

 

 奥の冷蔵庫を開けるためには、手前に置いてある玲奈の《圧縮射出器》の重いガンケースを、毎回「よっこいしょ」とどけなければならない。

 

 もし昼食を食べるために折り畳みテーブルを部屋の中央へ広げれば、入口のドアから奥のトイレへ行くための通路が完全に塞がってしまう。

 

 視覚的にも、物理的にも、この空間の許容量は明らかに限界を迎えていた。

 

     ◆

 

 だが、水瀬は冷静だった。

 

 彼女は、口座の画面の横に、別の緻密な表計算ファイル(エクセル)を開いて表示した。

 

「では、現実のお話をしましょう。……その四百五十万円の『使い道』についてご説明します♡」

 

 玲奈が、期待に目をキラキラさせて聞いた。

 

 水瀬は、冷酷なまでに順番に項目を表示していった。

 

「まずは、今回の案件でかかった『直接的な経費』の精算です。……我々が呼んだ緊急車両の外注費。企業警備員の方々の追加の拘束時間に対する支払い。破損した通信装備の交換費用。佐伯さんの切り裂かれた防護服の補修。その他弾薬などの消耗品。深夜の交通費。現場で使い潰した機材。そして、保険の追加費用と、損耗した車両の修理代の『会社側の一時負担分』です」

 

 画面の右下に、合計金額が出た。

 

『経費合計:約680,000円』

 

 玲奈が「えっ」と声を漏らした。

 

「あの、修理代とかは、全部依頼主へ請求して払ってもらう契約だったのでは?」

 

「もちろん、後日依頼主から支払われます。ですが、業者の修理工場や備品の購入先へは、まず『会社(うち)の口座から』先に支払わなければならないものがあるんです。黒字倒産しないためのキャッシュフローの基本ですよ♡」

 

     ◆

 

 水瀬は次に、俺たち三人への『報酬』の項目を開いた。

 

「次に、今回の案件について、通常の基本給(基本報酬)とは別に、我々三人へ『特別危険手当』を支給します」

 

 俺は、その画面を見て言った。

 

「俺の分の危険手当は、出さなくていい。そのまま会社の口座に残しておいてくれ」

 

 水瀬が、即座に笑顔を消して却下した。

 

「駄目です。却下します」

 

「……なんでだよ。俺はこのFIELD WORKSの代表だぞ。経営者が自分の取り分を減らして、会社の利益や設備投資を優先するのは、ベンチャー企業として普通の判断だろ」

 

 俺が反論すると、水瀬は俺の目を真っ直ぐに見て言った。

 

「代表が自分の命を削って稼いだお金を、会社が無料で使っていい理由にはなりません。……それは『やりがい搾取』というブラック企業の典型です」

 

     ◆

 

 水瀬は、俺が今回の案件で行った危険行動の数々を、事務的に列挙していった。

 

「武装した侵入者との近接戦闘。高速道路上での深夜の車両追跡。……時速八十キロで走っている車両間での、命懸けの跳躍。暴走する車内での犯人の制圧。そして、総重量十八・八トン、そのうち約十六トンもの荷重を外部へ移していた未知の因果設備を積んだ車両の、安全停止」

 

「……」

 

「これだけのリスクを負って、代表が『自分の取り分(危険手当)は無給でいい』と処理してしまえば。会社として、その仕事にかかった『事故や危険の本当の費用(コスト)』が、帳簿上でまったく把握できなくなります」

 

 水瀬が、経営の冷徹な事実を説明した。

 

「代表が毎回毎回、自分の正当な取り分を放棄して、自己犠牲だけで会社の数字を黒字に成立させるようになったら。……それはもう、健全な事業の継続とは呼べません」

 

 俺は、その正論に完全に反論できなくなり、黙って頷いた。

 

     ◆

 

 玲奈の項目にも、高額な特別危険手当が計上されていた。

 

 玲奈は、少し戸惑ったように言った。

 

「……あの、私は今回、遠くから撃ってただけで、侵入者を一人も直接倒したりはしてませんけど。こんなにもらっていいんですか?」

 

 水瀬は、首を横に振った。

 

「玲奈さんは、走行している揺れる車両から、相手の持っている切断端末だけを正確に破壊しました。受荷ユニット本体を一切傷つけず。道路上の障害物を的確に排除し。人間を殺傷せずに武器だけを撃ち落とし。周囲の一般車両を一台も巻き込みませんでした」

 

「……」

 

「……誰も殺さず、人を撃たなかったからこそ。貴方には、この高額な危険手当を支払う価値があるんです」

 

 水瀬のそのプロとしての評価の言葉に。

 

 玲奈は少しだけ照れたように俯き、黙って深く頷いた。

 

     ◆

 

 俺は、予算表の数字を見ていて、一つだけおかしな点に気づいた。

 

「水瀬さん。……あんた自身の手当の金額が、俺や玲奈に比べて少なすぎないか?」

 

 水瀬は、平然と答えた。

 

「私は、安全な車内で事務と指揮を行っていただけですから。妥当な額ですよ♡」

 

「ふざけるな」

 

 俺は、画面を指差して反論した。

 

「相手の嘘を見抜いての契約変更。カメラ映像の異常な速度での情報解析。上の道路を走っていた受荷車両への分身による強襲と制圧。二台の複数車両の正確な距離管理。警察との連携。そして事後のえげつない請求と、依頼主との責任交渉。……あれのどこが『ただの事務』なんだ」

 

「……」

 

「現場で動いていた俺と玲奈だけが危険手当をふんだくって、あんたが通常の安い事務報酬だけなのは、どう考えてもおかしいだろ」

 

 俺が強く主張すると、水瀬は少しだけ驚いたように黙り込み。

 

 やがて、小さくため息をついて微笑んだ。

 

「……分かりました。では、私の分も正当に頂戴することにします♡」

 

 最終的に、四百五十万円という利益は、俺たち三人全員への『特別手当』として、誰か一人の英雄的な個人の行為ではなく、チーム全体の成果として公平に精算された。

 

     ◆

 

 だが、水瀬の現実の授業はまだ終わっていなかった。

 

「さて。これで経費と皆さんの報酬を引きましたが……残ったお金を、そのまま全額好きに使えるわけではありません♡」

 

 水瀬が、さらに非情な項目をエクセルに追加していく。

 

「まず、会社の利益にかかる税金と、各種保険の支払いに備えるための『留保金』。……次に、万一次の依頼まで数ヶ月間売上がなくても、会社を潰さずに動かし続けるための『運転資金』。使い潰した装備の『更新費』。そして、緊急時に我々以外の手が足りなくなった際に、外部人員を雇うための『予備費』と、賠償事故に備えるための資金です」

 

 玲奈が、どんどん減っていく口座の残高表示を見て、泣きそうな声で聞いた。

 

「……四百五十万円も入ったのに、そんなにお金を残して塩漬けにするんですか?」

 

 水瀬は、冷たく現実を突きつけた。

 

「今回たまたま四百五十万円という大金が入ったからといって、来月も同じように四百五十万円が入ってくる保証は、この業界のどこにもありません」

 

「……」

 

「たった一件の大きな成功報酬だけをアテにして、毎月の家賃などの『固定費』をむやみに増やしたり、無駄遣いをすれば。……会社は一瞬で資金ショートを起こして死にます」

 

     ◆

 

 水瀬が、最終的なエクセルの結論を画面に表示した。

 

「四百五十万円のうち、我々が会社の口座から『今すぐ自由に好きに使ってよい予算(余剰金)』は。……約三十万円です♡」

 

 残りの四百二十万円は、すでに使った経費の支払い、三人の報酬、税金と保険のための留保、運転資金、そして装備更新費として、すべてガチガチに用途が決定されていた。

 

 玲奈が、呆然と口を開けて呟いた。

 

「……四百五十万円が、一瞬で三十万円になりました……」

 

「消えてなくなったわけではありませんよ? 会社を存続させるために、口座に残して『使わないだけ』です♡」

 

 水瀬が明るく訂正した。

 

 俺は、深く納得して頷いた。

 

「商売においては、『使わない金』が一番大事な命綱になることもあるからな。水瀬さんの財務判断は完璧だ」

 

 玲奈だけが、ネットバンキングの『4,500,000』という煌びやかな数字と、エクセルの『300,000』という現実の予算表を、交互に悲しそうに見比べていた。

 

     ◆

 

 報酬の現実的な精算が終わった後。

 

 水瀬が、いつものように反省会を始めるため、部屋の隅からホワイトボードを引っ張り出してきた。

 

 だが、置く場所がない。

 

 水瀬は無言で、ソファの前に積まれていた装備箱を二つ、俺の机の下へと移動させた。

 

 玲奈の椅子を畳む。

 

 折り畳みテーブルを、壁際へと立てかける。

 

 それだけの家具の移動をしただけで、今度は俺たち三人がホワイトボードの前に『立つための場所』が完全になくなってしまった。

 

 水瀬が、無言のまま、行き場を失ったホワイトボードをジッと見つめていた。

 

 俺が、苦笑しながら呟いた。

 

「……アトラス案件の反省会を始める前に、まずはこの『事務所の異常な狭さ』について反省した方がいいかもしれないな」

 

     ◆

 

 なんとか隙間を作って、ホワイトボードを設置した。

 

 一番上には、『《アトラス案件・改善事項》』と書かれている。

 

 最初に水瀬が、青いマーカーでサラサラと書き込んだ。

 

『1.情報開示の徹底』

 

『警護対象の営業秘密そのものは不要。ただし、破損時の危険性、異能効果、停止手順、想定される強奪方法については、依頼主からの事前開示を必須とする』

 

 それは、俺たちが依頼主へ突きつけ、契約書へ新たに追加した条項の再確認だった。

 

     ◆

 

 続いて、俺が二番目の改善事項を口頭で指摘した。

 

「内部関係者も、完全な警戒対象として扱うことだ」

 

 水瀬が頷きながら書き込む。

 

「前夜に侵入してきた連中は偽者だったが、今回車を運転して裏切った八木は、本物のベテラン社員だった。……今後は、社員証、運転免許、顔写真、社内での在籍確認だけでは、完全な安全確認にはならない」

 

 今後は、重要設備の案件においては、権限保有者のリスト、金銭問題の有無の調査(依頼主側での)、急な勤務シフトの変更履歴、保守用認証キーの物理的な管理状態、そして直前のシステム操作履歴まで、依頼主へ厳密に確認・報告させる必要がある。

 

 ただし、俺たちFIELD WORKSという外部の警備会社が、社員の私生活まで探偵のように勝手に調査する権限はない。

 

 あくまで、「依頼主側(企業側)に、内部統制の確実な確認責任を負わせる」という契約の線引きだ。

 

     ◆

 

 次に水瀬が、自分自身の反省点を記載した。

 

『3.公開分身は一体を前提に配置する』

 

『公の場での警備体制は、八咫烏へ登録済みの「分身一体だけ」で完全に成立する配置と計画を事前に組むこと』

 

 水瀬は、具体的な自分の分身の『最大数』については一切触れなかった。

 

 俺はホワイトボードの文字を見ながら、(……やっぱり、水瀬さんが実際に出せる本当の分身の上限は、一体だけじゃないのかもしれないな)と一瞬だけ考えた。

 

 だが、水瀬本人が自ら語らない以上、俺から深く詮索して聞くような無粋な真似はしない。

 

 あくまで『公に使える一体だけ』を、会社の正式な戦力として計算し、それで勝てる作戦を組むのが俺の仕事だ。

 

     ◆

 

 玲奈が、小さく手を挙げて提案した。

 

「……私の射線(狙撃ポイント)を、事前にちゃんと確保して共有してほしいです」

 

 水瀬が、玲奈の言葉をホワイトボードへ箇条書きにしていく。

 

『建物の外から安全に撃てる位置』

 

『車両間での追跡時に、射線が通る角度』

 

『誤射した際に、後ろに人がいない安全な方向』

 

『撃ってよい設備(防具やタイヤ)』

 

『絶対に撃ってはいけない設備(爆発物や重要部品)』

 

 玲奈が不満げに言った。

 

「今回のアトラス案件では、その場のノリと直感で、相手の切断端末やダンプの投下機構だけを上手く狙えましたけど。……あんな曲芸みたいな射撃が、毎回毎回、同じ精度でラッキーで成功する保証なんてどこにもないんですよ?」

 

 俺は、玲奈のプロとしての意見に深く頷いた。

 

「分かった。次からは俺が、建物の構造と現場の設備配置を事前に確認して、『ここからなら安全に撃てる』という射撃可能箇所を、図面にまとめてお前に渡すようにする」

 

     ◆

 

 玲奈が、マーカーを水瀬から奪い取り、ホワイトボードの空きスペースに、極太の赤い文字で力強く書き殴った。

 

『5.代表は、走行中の車両から別の車両へ「勝手に」飛び移らないこと!!』

 

 俺は、その赤い文字を見て抗議した。

 

「おい。その“勝手に”という部分は余計じゃないか? 俺は状況から判断して、あれしかないと思ったから……」

 

「事前に一言でも私や水瀬さんに相談してくれたら、絶対に全力で止めましたよ!」

 

 玲奈が、怒って食ってかかってきた。

 

 水瀬が、苦笑しながら玲奈からマーカーを受け取り、少しだけマイルドな表現へと修正した。

 

『走行中の車両間移動は、他に安全な手段が一切存在しない緊急の最終手段の場合に限る』

 

 俺が、その文章を見て頷いた。

 

「……まあ、それなら妥当なルールだ」

 

 水瀬が、さらにその下に青い文字で追記した。

 

『実行前に、必ずチームへ無線で報告すること』

 

 俺が渋い顔をして言った。

 

「いや……現場では、切羽詰まって報告している時間がない場合もあるぞ」

 

「せめて、飛ぶ一秒前の直前に『今から飛びます!』って言ってください! 心臓に悪すぎます!」

 

 玲奈が、涙目で怒った。

 

 最終的に、その項目は、

 

『車両間移動は最終手段。可能な限り、実行前にチームへ意図を共有する』

 

 という、努力目標のような形で決着した。

 

     ◆

 

 反省会を終えた。

 

 ホワイトボードには、真面目な改善事項のリストの中に、

 

『代表は飛ぶ前に言う!』

 

 という玲奈の怒りの手書きの文字だけが、赤く目立って残されていた。

 

 水瀬は、それをわざと消そうとはしなかった。

 

 俺も、消してくれとは言えずに諦めた。

 

     ◆

 

 反省会が終わると、玲奈が再び、真剣な顔で提案してきた。

 

「水瀬さん。……やっぱり、この自由に使える三十万円の予算を使って、もっと広い事務所へ移転しましょうよ」

 

 彼女がそう言った直後。

 

 玲奈の後ろに高く積まれていた書類の段ボール箱がバランスを崩し、ドサッ!と崩れて、玲奈の肩へ直撃した。

 

 幸い中身はただの紙束なので、怪我をするような危険な重さではない。

 

 玲奈は、落ちてきた段ボール箱を恨めしそうに抱えながら、俺たちを見た。

 

「四百五十万円も大金を稼いだ会社の事務所が、ただ人が歩いた振動だけで『書類雪崩』を起こすなんて、絶対におかしいです」

 

 その主張には、逆らいがたい説得力があった。

 

     ◆

 

 実は、水瀬はすでに、周辺の不動産屋の情報をチェックし、事務所物件の候補をいくつか調べていた。

 

 彼女がノートパソコンの画面を俺たちへ見せる。

 

 候補A。

 

 駅近の綺麗なオフィスビルの三階。現在の倍近い広さがある。

 

 だが、家賃が極端に高く、ビル専用の駐車場がない。

 

 俺が即座に却下した。

 

「ダメだ。俺たちは現場へ大量の防護装備や機材を運び出す会社だ。建物の目の前に車を横づけして積み込めない物件は、仕事にならない」

 

 候補B。

 

 少し離れた場所にある、新築のデザイナーズ事務所。

 

 オートロックなどの警備設備は優秀で、部屋も広い。

 

 だが、上階にあるため、床の『耐荷重』が弱い。

 

「今後、防護装備や重い機材、玲奈の弾薬用の金庫なんかを増やしていったら、確実にビルの床の使用制限重量に引っかかって、床が抜けるぞ」

 

 これも俺の建物管理の知識で却下された。

 

 候補C。

 

 少し郊外にある、一階がシャッター付きの倉庫になっている物件。

 

 これなら車も横付けでき、機材も一階に置けて使いやすい。

 

 しかし、賃貸の初期費用(敷金・礼金)と、事務所として使えるようにするための改装費が、あまりにも高額すぎた。

 

「今のうちの売上規模(件数)では、この家賃の固定費は重すぎる。すぐに資金がショートする」

 

     ◆

 

 玲奈が、納得がいかないという顔で聞いた。

 

「でも、会社の口座には四百五十万円があるんですよ? 敷金や初期費用くらい、ポンと払えるのでは?」

 

 俺は、玲奈へ経営の現実を説明した。

 

「問題は、最初の『初期費用』を払えるかどうかじゃないんだ。……新しい広い事務所へ移れば、毎月の『高い家賃』が必ず発生する。それに加えて、広い部屋の共益費、駐車場代、エアコンの電気代、警備会社への警備費、保険料、通信費、清掃費。……そういう固定費が、何もしなくても毎月必ず、何十万と継続して出ていくようになるんだ」

 

「……」

 

「今回の四百五十万円は、命懸けの仕事で稼いだ『一度きりのボーナス』だ。毎月入ってくる安定した定期収入じゃない」

 

 俺が言い切ると、水瀬も深く頷いた。

 

「その通りです。一回大きく稼いだからといって、浮かれて毎月出ていく固定費まで大きくするのは、倒産する会社の典型的なパターンです♡」

 

 それは、俺が昼間の不動産会社で、見栄を張って身の丈に合わないオフィスを借りて夜逃げしていったベンチャー企業を、山のように見てきた経験からの判断だった。

 

     ◆

 

 俺たちは、今はまだ移転しないという結論を出し、将来のための『移転条件』だけを三人で明確に決めておいた。

 

 条件。

 

『数ヶ月連続で、一定額以上の安定した売上を確保できるようになった時』

 

『移転して初期費用を払った後も、半年分程度の運転資金を口座に残せること』

 

『車両を目の前に横づけできること』

 

『重い機材を置ける一階、または十分な床荷重があること』

 

『機材を置く装備倉庫と、事務仕事をする事務室を分離できる間取り』

 

『安全のため、避難経路が二方向以上あること』

 

『玲奈の射撃装備(銃器)を、頑丈な金庫で安全に保管できること』

 

『徹夜明けの仮眠場所があること』

 

『深夜に出入りしても、近隣へ迷惑をかけない環境であること』

 

 玲奈が、最後にボソッと一つだけ追加した。

 

「……あと、『冷蔵庫を開けるために、いちいち重い武器ケースを動かさなくていい広さ』であること」

 

 水瀬は笑いながら、その切実な要望を正式条件の一番下へと書き加えた。

 

     ◆

 

 移転は見送りとなった。

 

 その代わり、自由に使える三十万円の予算の一部を使って、この現在の狭い事務所を『限界まで使いやすくするための模様替えと環境改善』を行うことに決めた。

 

 俺が、腰のポーチから金属製のメジャーをシャッと取り出した。

 

 本業の施設管理担当者として、プロの目つきで室内の寸法を測り始める。

 

 壁と机の距離。扉の開閉範囲。火災時の避難経路の確保。コンセントの配置とタコ足配線の解消。複合機の排熱スペース。鋼製キャビネットの重量バランス。床の傷み具合。窓を開けるための通路の確保。

 

 俺が、現状の問題点を次々と列挙していく。

 

「まず、使わない重い装備箱が、部屋の中央に無造作に積まれすぎている。救急箱が書類の奥にあって、緊急時に一秒で取り出せない。熱を持つ予備バッテリーが、熱を出す冷蔵庫のすぐ近くに置かれている。契約書の重要書類と、装備の油臭い金属部品が同じ棚に混在している。……それに、玲奈のガンケースが、入り口への避難通路を物理的に塞いでいる」

 

「……」

 

「複合機の用紙を交換するたびに、俺の机を数センチ動かさなきゃいけない。極めつけは、ソファをベッド代わりに広げると、入口のドアが開かなくなる」

 

 水瀬が、苦笑しながら呟いた。

 

「よく今まで、こんな劣悪な環境で仕事をしていましたね……」

 

「最初は、ここまで防護服や通信機材なんかの『物』が増える予定じゃなかったからな」

 

 俺が答えると、水瀬も頷いた。

 

 この事務所の狭さと物の多さは、俺たちFIELD WORKSという会社が、確実に仕事を受けて成長してきた証拠でもあったのだ。

 

     ◆

 

 三人で、大規模な模様替えを開始した。

 

 命懸けの戦闘ではなく、ただひたすら家具と段ボール箱をパズルのように移動させるだけの地味な作業だ。

 

 俺が《身体能力強化》を発動し、書類が詰まって一人では動かせない重い鋼製キャビネットを、「よっ」と軽々と持ち上げて部屋の隅へと移動させた。

 

《身体能力強化》は、すでに企業代理戦などで公に何度も使用している能力なので、二人の前で使っても何の問題もない。

 

 玲奈が、その光景を見て感心したように言った。

 

「……こういう引っ越しの時って、パワー系の能力者って本当に便利ですね」

 

「腰の椎間板を痛めない程度にな」

 

 俺が苦笑して答える。

 

 本当は、先日のアトラス案件で登録されたばかりの《荷重移送》を使えば、もっと簡単にキャビネットを運ぶことができる。

 

 だが、二人の前でその能力を使うわけにはいかない。

 

 俺は秘密を腹の底に守り、あえてただの身体能力(筋力)だけで、汗を流して重い荷物を運ぶ作業を続けた。

 

     ◆

 

 水瀬は、俺たちが家具を動かしている間、膨大な書類を細かく分類して整理していった。

 

 契約書、経理関係の領収書、過去の依頼記録、八咫烏への能力使用報告書、警察関連の調書、装備の購入記録などを、用途別にインデックスをつけて分けていく。

 

 玲奈は、山積みになっていた装備箱の中身を仕分けして整理していた。

 

 箱の中から、カオスな物が次々と発掘されていく。

 

 使いかけの結束具(タイラップ)。血のついた古い防護手袋。断線して壊れたイヤホン。誰のものか分からない規格不明の充電ケーブル。俺が現場の職人からもらったまま放置していた未使用の軍手。水瀬が契約書用に大量にまとめ買いした付箋の山。

 

 そして、賞味期限が間近に迫った、備蓄用の『非常食』の段ボール。

 

 玲奈が、呆れたようにため息をついた。

 

「これ、会社というより、完全に『倉庫の落とし物置き場』ですね……」

 

     ◆

 

 玲奈が発見した、賞味期限が今月で切れる備蓄用の非常食。

 

 水瀬がそれを見て、パンッと手を叩いた。

 

「そのまま廃棄してしまうのは経費の無駄でもったいないので、今日のおやつ(昼食)はそれにしましょう♡」

 

 水瀬が、缶入りの保存パンと、パサパサの栄養バーを開封してテーブルへ並べた。

 

 玲奈は、缶詰のパンをかじりながら、少し不満そうに口を尖らせた。

 

「……あの、今日って、四百五十万円の入金祝いの記念日ですよね? そのお祝いの食事が、期限間近の非常食の処分なんですか?」

 

「無駄な出費を抑える、立派な経費削減です♡」

 

 水瀬が、笑顔で完璧な正論を返した。

 

 俺は、栄養バーを水で流し込みながら苦笑した。

 

     ◆

 

 家具の配置が終わり、予算三十万円の中から、新しく購入する『収納用品』の内容を三人で決定した。

 

 壁際へ隙間なく置くための、頑丈な天井突っ張り式のスチールラック。

 

 玲奈の銃器を安全に保管するための、鍵付きの装備キャビネット。

 

 発火の危険があるリチウムバッテリー用の、耐火仕様の収納箱。

 

 救急箱を、入口のドアのすぐ近くの壁へ固定するための専用金具。

 

 来客時(霧島が来た時など)用の、折り畳み式の追加のパイプ椅子。書類用のファイルケース。床を這っている配線をまとめるためのケーブル整理用品。

 

 玲奈が、カタログを見ながら最後に一つ要求した。

 

「……あの、美味しいコーヒーが飲める、コーヒーメーカーも買っていいですか?」

 

 水瀬が、予算表の残額を厳しい顔で見た。

 

 俺が、玲奈へ助け舟を出した。

 

「買ってやってくれ。アトラス案件で、夜通し眠らずに一番極限の環境で働いたのは、機械じゃなくて人間だからな。コーヒーくらい安いもんだ」

 

 水瀬は、「代表がそう言うなら」と、小型のコーヒーメーカーだけは特別に購入を許可した。

 

 玲奈が「やりました!」と喜んでガッツポーズをした。

 

     ◆

 

 夕方。

 

 事務所の模様替えが、ついに終了した。

 

 物理的な床面積が増えたわけではないので、劇的に広くなったわけではない。

 

 だが、動線は完璧に改善された。

 

 入口のドアから奥の窓際まで、カニ歩きにならなくても真っ直ぐに歩ける『通路』が確保された。

 

 邪魔だった装備箱はすべて壁際のスチールラックへと立体的に整理され、救急箱は入り口ですぐに手に取れる位置へ。

 

 冷蔵庫は、前に何もない状態で普通に扉を開けられるようになった。

 

 俺の机を動かさなくても複合機の用紙交換ができ、ソファにはちゃんと二人が並んで座れるようになった。

 

 そして、玲奈の物騒な武器ケースは、鍵付きの安全な区画へとキッチリと収まった。

 

 俺たち三人は、汗を拭いながら、整然となった室内を見回した。

 

 玲奈が、少しだけ誇らしげに言った。

 

「……なんか、ちょっとだけ、本物の『会社(オフィス)』らしくなりましたね」

 

     ◆

 

 水瀬が、会社の口座の画面と、綺麗に整理された事務所の空間を見比べて、静かに言った。

 

「今回のアトラス案件によって、我々が得たものは、四百五十万円というお金だけではありません」

 

 東央都市開発グループという大企業との取引実績。未知の特殊設備警護という極限の経験。リスクを防ぐための新しい契約条項。車両追跡時の、人を殺さない行動基準。三人それぞれの明確な役割分担。そして、会社として守るべき安全基準の確立。

 

 俺は、コーヒーメーカーの空き箱を片付けながら話した。

 

「ただ大金を稼いだから、会社になったんじゃない。……稼いだその金を、どうやって残して、どうやって次の危険に備えるかを、三人でルールを作って決められるようになったから。だから、少しだけ『会社』らしくなったんだろうな」

 

 水瀬が、驚いたように俺を見て、クスクスと笑った。

 

「代表にしては、随分と経営者らしい、立派な発言です♡」

 

     ◆

 

 玲奈が、綺麗になったソファへとドスッと座り込んだ。

 

 今までは手前に装備箱が積まれていて邪魔だったが、今日は足を普通に前に伸ばして座れる。

 

 しかし、俺がその隣へと座ろうとすると、やはり二人掛けの小さなソファなので、肩がぶつかって狭い。

 

 水瀬も、自分の事務椅子以外に座る場所がない。

 

 俺は結局ソファに座るのを諦め、整理したばかりの頑丈な装備箱の上へと、よっこいしょと腰を下ろした。

 

 玲奈が、俺を見てため息をついた。

 

「……やっぱり、まだまだ狭いじゃないですか」

 

「昨日までよりは、遥かに広いさ」

 

 俺が負け惜しみのように答えた。

 

     ◆

 

 水瀬が、立ち上がって冷蔵庫を開けた。

 

「非常食だけでは、さすがに入金のお祝いとしては味気ないですからね」と言いながら、彼女が取り出したのは、小さなショートケーキの箱だった。

 

 実は、今日の午前中にこっそりと買って、冷蔵庫の奥へ隠していたらしい。

 

 玲奈が「わぁっ!」と声を上げて驚いた。

 

 水瀬が、ケーキを三つの紙皿に取り分けながら微笑んだ。

 

「四百五十万円を稼いだ会社ですから。これくらいのケーキ代は、経費からではなく、事務長である私のポケットマネーから出します♡」

 

 折り畳みテーブルを広げると、せっかく確保した通路がまた塞がってしまうため。

 

 三人はそれぞれ、俺は装備箱の上、水瀬は自分の事務椅子、玲奈はソファに座ったまま、行儀悪く膝の上で紙皿を持った。

 

     ◆

 

 三人でケーキを突きながら、数日前のアトラス案件の激闘を軽く振り返った。

 

 玲奈が、イチゴをフォークで刺しながら言った。

 

「……本当に、一般の人も、向こうの犯罪者も、誰も死ななくてよかったです」

 

「ああ。あれだけの重量物が暴走しかけたんだ。一歩間違えば大惨事だった」

 

 俺も深く同意した。

 

 水瀬が、満足そうに頷いた。

 

「設備も無傷で奪還。報酬も満額以上。契約上も、我々の完全な『勝ち』です♡」

 

 玲奈が、俺の方をジロッと見て念を押した。

 

「でも、次は本当に、誰も時速八十キロの車から飛び降りたりしない、安全なお仕事にしてくださいね」

 

「次の仕事が何かは、俺にも分からないさ。来る依頼を……」

 

 俺が言いかけた時。

 

 水瀬が、デスクの上の『会社用のスマートフォン』を手に取った。

 

 新着の依頼通知などが来たわけではない。彼女は画面を操作し、電源を切るのではなく、システムを『業務時間外(時間外アナウンス)』のモードへと設定したのだ。

 

「今日は、もうこれ以上、一切の仕事の依頼を受けません」

 

 水瀬が、キッパリと宣言した。

 

     ◆

 

 俺は少し驚いた。

 

 水瀬は普段、どれだけ疲れていても、売上につながる仕事の連絡だけは決して逃そうとしないワーカホリック気味なところがある。

 

 しかし今日は違った。

 

 報酬の精算、反省会、事務所の整理、装備の確認まで、すべて完璧に終わらせた。

 

 本当に命に関わる緊急の連絡は、八咫烏の専用回線を経由して直接届くようになっている。通常の一般依頼の受付窓口を一日くらい止めても、何の問題もない。

 

 水瀬が、ショートケーキを食べながら微笑んだ。

 

「玲奈さんのご希望どおり。……本日くらいは、誰も戦わない、平和な一日にして終わらせましょう♡」

 

「やったぁ!」

 

 玲奈が安心して、ソファの背もたれへと深く沈み込んだ。

 

     ◆

 

 夕方。

 

 ブラインドを上げた窓から、少し赤みを帯びた夕日が差し込んでいた。

 

 事務所は、数時間前よりは確かに整然としている。

 

 しかし、俺たち三人がこうして揃って座っていれば、やはり物理的には『狭い』空間だ。

 

 玲奈がソファ。水瀬が事務椅子。俺は硬い装備箱の上。テーブルを広げる余裕はない。冷蔵庫への通路は開通したが、開ける際には俺が足を少し引っ込めなければならない。

 

 玲奈が、ケーキの最後の一口を食べ終えて、改めて口にした。

 

「四百五十万円も稼いだのに、私たちの事務所は、やっぱり狭いままでしたね」

 

 水瀬が、お茶を飲みながら即答した。

 

「まだ『四百五十万円しか』稼いでいないから、狭いままなんですよ♡」

 

 俺は、二人を交互に見回した。

 

 少し前までは、自分一人の事務机と、最低限の備品しかなかった、ただの殺風景な部屋だった。

 

 それが今は。

 

 水瀬が厳重に管理する分厚い契約書があり、玲奈の命を守る装備があり、三人分の椅子があり、血を流して戦った現場の記録があり、会社としての口座があり、次の危険へ備えるための予算がある。

 

 この部屋が「狭く」なったのは、俺たちFIELD WORKSが『会社として増えたもの(歴史)』があるからなのだ。

 

 俺が、二人へ向かって静かに言った。

 

「今は、これでいいだろ」

 

「……」

 

「この部屋に本当に物が入りきらなくなって、本格的に足りなくなった時に。……その時は、ちゃんと俺たちが自分たちで稼いだ金で、もっと広い場所へ移ればいいさ」

 

 玲奈も、最後は小さく笑って妥協した。

 

「まあ、冷蔵庫が普通に開くようになったので、今日はこれで許してあげます」

 

 水瀬も、満足そうにクスクスと笑った。

 

 俺たちは、残ったケーキと非常食のパンをかじりながら、業務時間外になった静かな事務所で、事件とは何の関係もない、ただの何でもない雑談を続けた。

 

 電話は鳴らない。

 

 警報も鳴らない。

 

 怪しい依頼も来ない。

 

 誰も戦わず、誰も車から飛び降りない。

 

 四百五十万円稼いでも、事務所はまだ狭いままだった。

 

 けれど、俺たち三人で無事に生きて帰り、こうして笑って座っていられる場所としては。今のところ、十分に広くて、温かい空間だった。




ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

祖父の死に際、元ITエンジニアの御門悠真は、自分が「召喚師の家系」の末裔だと知らされる。▼御門家は、かつて神も悪魔も妖も精霊も呼び出した、万能召喚術の本家本元だった。▼だが、万能であるがゆえに術式はあまりにも複雑化し、始祖以降は衰退の一途を辿る。▼火だけを呼ぶ家、水神だけを祀る家、鬼だけを使う家――分家たちは属性や対象を絞ることで生き残った。▼一方、万能に固…


総合評価:1659/評価:8.46/連載:16話/更新日時:2026年06月15日(月) 17:23 小説情報

科(化)学系チート持ち転生者のお話(作者:金属粘性生命体)(原作:多重クロスオーバー)

▼ 数百世紀先の技術と創作上の技術を持って転生した男の好き勝手生活。▼ ディストピアルート、闇堕ちルート、どちらから先に読んでも問題ないようになってます。作者の個人的には闇堕ちルートの方がおもろいと思う。▼(作者の架空科学なので一切整合性はとりません、雰囲気で読め)▼ オタクルートを外伝にしました。↓がリンクです▼ https://syosetu.org/n…


総合評価:3426/評価:7.51/連載:107話/更新日時:2026年05月06日(水) 10:00 小説情報

祖父の遺品整理をしていたら封印AIが起動したので、地球中の異星遺産を回収して成り上がる(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

三十五歳、売れないフリーライターの久世恒一は、親に頼まれて東京にある祖父・久世宗玄の家を整理することになる。▼変人扱いされていた祖父の家で彼が見つけたのは、封印された異星文明の管理AI《イヴ》と、現代ではチート級の価値を持つ超技術だった。▼最初の遺産《セル・チューナー》は、地球のバッテリーを桁違いの高性能品へ変質させる基幹技術。▼スマホは一ヶ月充電不要。死に…


総合評価:2604/評価:8.02/連載:49話/更新日時:2026年05月26日(火) 21:44 小説情報

銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

ブラック企業で心身をすり減らした元社畜は、並行世界の地球軌道上に浮かぶ完全ステルス要塞〈サイト・アオ〉で目を覚ました。▼彼の新たな肉体は、銀河帝国の最高権力者のスペアとして培養された完全無欠のクローン「ティアナ・レグリア」。神のごとき超能力と超絶テクノロジーを行使し、広大な銀河での大冒険すら早々に「クリア」してしまった彼は決意する。▼「宇宙の覇権とか面倒くさ…


総合評価:2355/評価:6.77/連載:180話/更新日時:2026年07月09日(木) 17:16 小説情報

ブラック企業にすり減らされた社畜が主人公になれるアプリを手にしたらどうなるか→(作者:ぱちぱち)(オリジナル現代/冒険・バトル)

タイトル変更しました▼【旧題:最安10円レンタルチート ブラック労働で過労死数歩前だった俺の心の癒しだった動画アプリがマジモンの神アプリだった 】▼山里一也は金がない。時間も無ければ彼女もない。健康診断結果も20代とは思えない。▼唯一の娯楽は通勤退勤時にスマホのアニメ視聴。このまま会社の社畜として緩やかに死に向かって進んでいくだけだった一也の人生は主人公をレ…


総合評価:3235/評価:8.64/連載:98話/更新日時:2026年08月02日(日) 07:47 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>