冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる 作:パラレル・ゲーマー
その日の夜。俺と水瀬は、都内の解体予定である地上八階建ての旧オフィスビルへと到着していた。
今回の依頼主は、中堅の建物保全会社である『京浜アセットメンテナンス』。
争点は、老朽化した大型商業施設の地下部分における『地下躯体補強および止水設備更新工事』の優先施工権を巡ってのものだ。
対立する『東嶺基礎工業』という会社と、提案価格から施工期間までがほぼ同条件で並んでしまったため、発注企業との契約条項に基づき、一対一の企業代理戦で優先交渉権を決めることになったらしい。
FIELD WORKSがこの代理戦に勝った場合の報酬は、成功報酬込みで百二十万円程度。
前回の《アトラス》案件に比べれば遥かに安いが、一般的な一対一の代理戦としては十分すぎるほどの額だ。
今回、玲奈は事務所で留守番として待機している。
◆
旧ビルの駐車場には、対戦相手の所属する『東嶺基礎工業』のロゴが入った作業車が停まっていた。
今回の対戦相手である深見渉(ふかみ・わたる)は、すでに試合会場となる四階のフロアに立っていた。
彼が身につけているのは、企業代理戦の選手がよく着るような派手で高機能な専用ユニフォームではない。
黒い長袖のシンプルな競技服に、膝と肘の薄い保護具。足元は、滑りにくい安全靴に近い仕様の競技靴。そして、手首には実務的なテーピングだけが巻かれている。
深見は、試合開始の数十分前だというのに、静かにフロアを歩き回り、床、コンクリート柱、壁の亀裂を真剣な顔で確認していた。
壁を軽くコンコンと叩き、音で内部の空洞状態を調べる。床へ足を強く置いて体重(荷重)をかけ、タイルの浮きや沈みを細かく確かめる。
(……建設会社の人間だから、会場が古くて危なくないか、安全性を気にしているのだろうか?)
俺は、彼の実直そうな行動を見てそう推測した。
だが実際には、彼が確認していたのは単なる建物の安全性ではなかった。
自分の能力の『出口』として、どこが使えるかをシビアに見極めていたのだ。俺がそれに気づくのは、試合が始まってからのことだった。
◆
深見が、歩いてきた俺の姿を認め、静かに一礼して挨拶をしてきた。
そこに、闘争心剥き出しの敵意のようなものは微塵もなかった。
「東嶺基礎工業の深見です。……本日は、よろしくお願いします」
「佐伯です。こちらこそ」
深見は、俺の手首や肩の筋肉の付き方へと、一瞬だけ鋭い視線を向けた。
それは、事前の映像で俺の戦い方を徹底して分析・確認してきた者のプロの目だったが、彼から下品な挑発の言葉は一切出なかった。
深見は最後に、穏やかな声で言った。
「お互い、明日も朝から昼の仕事がある身です。……どうか、不要な怪我で『壊し合わず』に済ませましょう」
「ええ。俺も、そのつもりです」
俺は素直に同意して答えた。
しかし、俺の耳のインカム越しに、建物外の仮設管制室にいる水瀬から、小声で鋭い警告が入った。
『佐伯さん。……あれは、「優しく手加減しましょう」という平和な申し出ではありませんよ。自分は貴方の攻撃をすべて受けても『壊れずに勝てる』という、圧倒的な自信の表れです』
「……了解」
俺は表情を引き締め、気を引き締めた。
◆
試合開始直前。
水瀬が、管制室のモニターを見ながら、最終的な相手の情報を俺へインカムで送ってきた。
『深見渉。三十七歳。Tier4。授与型の能力者です』
『公開されている能力は、《身体能力強化》と、名称・詳細ともに非公開となっている「固有能力が一つ」のみ。公式登録上も、能力数はその二つだけです』
企業代理戦における彼の戦績は、堅実に勝ち越している。
だが、派手な打撃によるKO勝ちは極端に少ない。勝利の大半が、相手の攻撃をやり過ごした後の『投げ』、『関節技』、『絞め』、そしてそれに伴う『相手の降参』や『レフェリーストップ』によるものだった。
『公開されている過去の映像では、深見選手が相手の強打をモロに受けている場面が、極端に少ないです』
「相手が、打撃を避けられている(外している)からか?」
『いいえ。相手の攻撃が当たる前に、深見選手自身が自分から打撃戦の距離を潰し、密着する「組み」へと持ち込んでいるからです。……そのため、彼の固有能力の正体を正確に推測できるような映像のデータが、ほとんど残っていません』
水瀬が、冷徹に評価を下す。
『深見選手は、自分の能力の映像情報を意図的に隠しているというより。……そもそも『自分の能力を見せる必要のない勝ち方』を、三十七歳の今まで徹底して貫いてきたという事です。油断しないでください』
◆
開始地点は、四階の旧オフィスフロアの中央。
すでに机や椅子などの什器はすべて撤去されており、低い間仕切り(パーティション)だけがいくつか残されている。
窓は安全のために防護材で完全に塞がれ、階段室の吹き抜けには転落防止用のネットが張られている。
レフェリーの開始のブザーが鳴り響いた。
「試合開始!」
深見は、低く、重心を安定させた構えを取った。
それは、拳を前に出して殴り合うボクシングや空手のような打撃型のものではない。
両手を胸の前のやや低い位置へ置き、いつでも相手を掴めるように開いた、レスリングや柔道に極めて近い構えだった。
俺は即座に《身体能力強化》を起動した。
深見も、同時に《身体能力強化》を発動させた。彼の筋肉が微かに膨張する。
視界の《目録解析》が、相手の筋肉の収縮率を瞬時に計算し、単純な身体出力(パワーとスピード)の比較においては、俺の強化の方が『わずかに上回っている』と推定した。
(……能力の正体が全く分からない以上、まずは一度触れて、相手の反応を見るしかない)
俺は、床を蹴った。
◆
俺は、正面からバカ正直には突っ込まなかった。
ステップを踏みながら、軽い左の牽制(ジャブ)を放つ。
深見はそれに反応して目を向けたが、無理に腕で受けよう(ガードしよう)とはしなかった。
俺は途中で踏み込みのリズムを急激に変え、《無拍子》を発動して踏み込みの起こりを消した。
深見の視線が俺の左手へ向いた、その一瞬の死角。
俺は、右の拳を深見の無防備な右の脇腹へと、容赦なく叩き込んだ。
ドォォンッ!!
《身体能力強化》の全出力を乗せた、完璧に近い一撃(ボディブロー)。
俺の拳が、深見の肋骨へ深く、重く沈み込む感触があった。
(……入った!)
俺は確信した。
いくら《身体能力強化》で防御力を底上げしているとはいえ、同じ強化状態の俺のフルスイングの拳が急所へクリーンヒットしたのだ。通常のTier4の能力者なら、肋骨にヒビが入り、呼吸が止まって膝をついてもおかしくない威力だった。
◆
しかし。
深見は、倒れなかった。
顔色一つ変わらない。
苦痛に呼吸を乱すこともなく、打たれた脇腹を痛そうに庇うような動作すら、ピクリとも見せなかった。
代わりに。
深見が踏みしめていた『右足の下の床材』が。
バキンッ!と、まるでハンマーで叩き割られたように、鈍い音を立てて砕け散ったのだ。
コンクリートの上の薄い仕上げ材に、彼を中心とした放射状の亀裂が走る。
深見は、俺の拳を脇腹にめり込ませた姿勢のまま、無表情で俺の右の手首をガシッと掴もうとしてきた。
俺は反射的に悪寒を感じて腕を引き、大きくバックステップで後退した。
深見は無理に追ってはこず、静かに元の構えへと戻った。
そして、感情を一切交えない実務的な声で、
「……いい打撃です」
とだけ言った。
(おいおい……)
俺は、冷や汗を流しながら内心で毒づいた。
(今のクリーンヒットが、まさかのノーダメージだと?)
◆
俺は、相手から距離を取ったまま、インカムで水瀬へ確認した。
「水瀬さん。……今の、見えてたか?」
『はい。見えています。……深見選手の心拍、呼吸、筋活動のデータに、大きな損傷(ダメージ)の反応は一切ありません』
俺は、信じられない思いで聞いた。
「ただ《身体能力強化》の硬さだけで、気合で耐えた打ち方じゃない。……防御系の異能か?」
『開示された登録情報では、彼が持っているのは《身体能力強化》と、詳細非公開の固有能力一つだけです。今のが、その固有能力の現象で間違いありません』
「……殴った衝撃を完全にゼロにする、『無敵になる能力』か?」
水瀬は、俺の言葉を即座には否定せず、正確に答えた。
『物理的な攻撃に対して、無敵や絶対防御と呼べる異能は、この世に確かに存在します』
「……」
『ですが、深見選手はTier4です。……Tier4の格(出力)で、あらゆるレベルの攻撃を、無条件、無制限、かつ永続的に『拒絶(ゼロにする)』するような強大な能力は、絶対に成立しません』
水瀬の声が、冷徹に俺を現実に引き戻す。
『対象の限定、発動の条件、受け切れる容量、使用回数、防御範囲、あるいは受けられる物理現象の種類。……どこかに必ず『限界(ルール)』があります』
「……限界か」
『いいですか、佐伯さん。相手が無敵に見えるなら、焦らずにまず「発動の条件」を探してください。……威力を上げて無理やり突破しようとするのは、条件を見極めたその後です』
俺は小さく頷き、再び深見へと向き直った。
◆
俺は、一撃の威力を落とし、攻撃の種類(アプローチ)を細かく変えることにした。
今度は、深見の顔面へ向けて軽いジャブを二発放つ。
深見は、首を僅かに振ってそれを避けた。
(……なるほど。全攻撃を無敵でわざと受けるわけじゃないんだな)
俺は、彼が『攻撃を受けることそのもの』が、発動条件かもしれないと考えた。
右足で、強烈なローキックを放つ。
深見は、自分の脛(すね)でガッチリとそれを受けた。
俺の脚に、硬い丸太を蹴ったような痛みが走る。
その瞬間。深見の軸足の下で、再び床のタイルが小さくメキッと割れた。本人は無傷だ。
次に、胸へ向けて前蹴りを放つ。
深見は、両腕をクロスしてそれを受けた。
すると今度は、深見の背後にあった古い間仕切り(パーティション)の壁から、ドンッ!と重い衝撃音が響き、壁板が外側へ向けて丸く膨らんで割れた。
◆
俺の視界の《ライブラリ》に、分析結果の表示が浮かび上がった。
『物理攻撃に対する、損傷の軽減(無効化)を観測しました』
『身体硬化能力の可能性:低』
『衝撃吸収能力の可能性:中』
『損傷の代替(身代わり)の可能性:中』
『作用機序の正確な判定には、観測情報がまだ不足しています』
(……まだ、分からないのか)
俺は少し苛立った。
だが、《ライブラリ》は神様のような万能の即時鑑定機ではない。
深見の身体の「内部」で一体何が起きているかを、俺は透視して直接見ることができないのだ。
表面的な結果だけを見れば、「完璧に防御している」のか、「衝撃をスポンジのように吸収している」のか、「無効化している」のか、「別の対象へ転嫁している」のか、「一時的にダメージを保留している」のか、その区別が全くつかないのだ。
◆
俺は、攻撃のパターンをさらに細かく変えて攻め続けた。
拳、掌底、肘打ち、ローキック、体当たり、足払い。
一撃ごとの威力はあえて抑え、あくまで『能力の条件を探るための攻撃』を連打する。
深見は、そのすべてを無敵で受けるわけではなかった。
顔面や金的などの明確な急所への攻撃は、的確にステップで避けるか弾く。
そして、自分が確実に受けられる位置へ来た攻撃だけを、前腕、肩、胴、脚の硬い部分でガッチリと受ける。
俺の攻撃が深見に触れるたび。
床が軋む。壁からバラバラと埃が落ちる。柱のコンクリート表面に細い亀裂が入る。深見の靴底が接している場所だけが、不自然に破損する。
しかし、戦闘中の俺の視線は、深見本人の動き(身体)を見ることへと極限まで集中させられていたため、周囲で起きているその「すべての対応関係」には、すぐには気づけなかった。
◆
深見は、ただサンドバッグのように受け続けるだけではなかった。
俺が右のローキックを入れた瞬間。
深見はダメージを無効化したまま、俺の蹴り足を両手でガシッと掴んだ。
俺は慌てて足を引こうとするが、深見の体勢は極端に低く、まるで床と一体化した岩のようにビクとも動かない。
深見は、俺の膝裏へと自分の肩を当て、そのまま片足タックルの要領で俺を倒しにきた。
俺は即座に《重心転写》を発動し、崩れかけた重心を無理やり修正する。
普通なら、これで相手の投げの力は抜け、防げるはずだ。
しかし深見は、俺の重心の不自然な変化に驚くこともなく、それに合わせてスッと手の位置をずらし、俺の足首ではなく『腰』を深く抱え込んできた。
彼は、力任せに俺を持ち上げて投げようとはしなかった。
俺の腰を抱えたまま、ブルドーザーのように低い姿勢で前進し、俺の背中を壁際へと強引に押し込み、逃げ道を削ってきたのだ。
◆
俺は壁に押し込まれながら、深見の背中へ向けて鋭い肘打ちをガツンと落とした。
俺の打撃の衝撃で、深見の額が壁へと近づく。
だが、その衝撃は深見の身体には残らず、深見の『左掌が触れていた壁』へと綺麗に抜けたように、ドンッ!と壁板が深く陥没した。
深見本人は、一切止まらない。
そのまま俺を壁へと完全に押しつけ、身動きを封じる。
そして、空いた膝で、俺の腹部(レバー)へと鋭く重い膝蹴りを一発叩き込んできた。
ドスッ!
「グッ……!」
俺の口から、苦悶の空気が漏れた。
彼の一撃の威力自体は、俺の放ったボディブローよりも明らかに小さい。
だが、深見はそれを『絶対にガードできないタイミング』で確実に当ててくる。俺だけに、臓腑を揺らす鈍い痛みがハッキリと蓄積されていく。
◆
俺は、強引に身体を捻って深見から距離を取り、荒い息を吐いた。
(……俺の攻撃が軽い牽制だから、無傷で耐えられているのか?)
俺は、その仮説を確認するため、《身体能力強化》の出力を一気に限界まで引き上げた。
一撃必殺の《蓄撃》は、リスクが高すぎるためまだ使わない。
床を蹴り、《無拍子》の踏み込みから、深見の胸の中央へ向けて渾身の掌底を放つ。
深見は完全には避けられず、その強打を正面から受けた。
ドゴォォォンッ!!
爆発のような轟音が響き、深見の身体が数センチだけ後退した。
だが、彼は倒れなかった。
代わりに、彼の背後にあった太いコンクリート柱の表面が、ミシッ!と悲鳴を上げて大きくひび割れた。
深見は、胸を打たれて咳一つせず、無表情のまま再び俺へ向かって前進してきた。
(……シンプルに、能力が強すぎる)
俺は、初めて明確な焦りを感じた。
◆
建物の外の仮設管制室。
水瀬は、フロア内に設置された複数のカメラの映像を、恐ろしい速度で同期させて解析していた。
佐伯の打撃が、深見の身体へと『接触した時刻』。
直後に、床や壁へ『損傷(物理的破壊)が生じた時刻』。
その二つのタイムラグは、コンマ数秒の誤差もなく『ほぼ同時』だった。
水瀬は、三つの決定的な映像をモニターに並べた。
初撃のボディブローでは、深見の『右足の下』が割れた。
前蹴りでは、背後の『間仕切り壁』が割れた。
肘打ちでは、『左掌が触れていた壁』が陥没した。
必ず、攻撃を受けた瞬間に、深見が意図的に『別の場所』へ接触している。
水瀬は、まだ断定はしなかった。
吸収した衝撃を、接触先へ放出(発射)している可能性。
受けた自身の肉体の損傷を、接触先へ因果的に『転嫁(押しつけ)』している可能性。
自身の身体を経由せず、攻撃者と接触先を空間的に直接つないでいる可能性。
どれもまだ残っている。
だが、対応策は見えた。
水瀬が、インカムで直人へ鋭く伝えた。
『佐伯さん。……深見選手本人ではなく、彼が『触れている場所』を見てください』
「……触れている場所?」
『貴方の攻撃が当たるたび、床か壁のどこかが、必ず同時に壊れています』
◆
俺は水瀬の言葉に従い、深見の足元をジッと見た。
確かに、俺が彼を殴った直後、彼が床へグッと押し付けた足の周辺のタイルに、細かい亀裂が集中している。
彼が壁へ手をつけば、その手のひらの周りの壁が壊れる。
「……相手の打撃を、受け流しているのか?」
俺がインカムで聞くと、水瀬は答えた。
『その可能性は高いです。ただし、合気道のような単なる武術的な受け流しではありません』
「俺の殴った衝撃(物理的エネルギー)を、触っている別の場所(床や壁)へそのまま『逃がして』いる?」
『現段階では、それが最も有力な候補です』
水瀬が、冷静に分析を続ける。
『ですが、それが無制限に行えるのか、逃がすための『出口』が一つは必要なのか、攻撃した相手へそのまま戻せるのか、そして……もし『接触(出口)が切れたら』どうなるのかは、まだ不明です』
俺は深見を見た。
深見は、俺がインカムで会話して考察する時間など待ってはくれない。
再び無駄のない足運びで距離を潰し、俺の胸元へと迫ってきた。
◆
俺は、瞬時に判断した。
打撃の力(衝撃)をそのまま逃がされるのなら、瞬間的な衝撃が発生しない『関節技』や『絞め技』で倒すしかない。
俺は、深見の接近へ合わせ、自分から腕を差し込んだ。
深見の脇の下をくぐり抜け、背後へと素早く回る。
《身体能力強化》で腰を強く押し込み、深見の姿勢を前へと崩す。
今度は、殴らない。衝撃を与えない。
深見の首へと左腕を深く回し、右腕でロックして、背後からの完全な『裸絞め(リアネイキッドチョーク)』の形へと入った。
深見の能力が『物理的な衝撃処理』であるなら、頸動脈を持続的に静かに圧迫して脳への血流を絶つ『絞め』までは、無効化して逃がすことはできない可能性がある。
◆
だが。
深見は、能力云々以前に、純粋な組み技(グラップリング)の技術が異常に強かった。
俺が絞めようとした瞬間、彼は素早く顎を引いて隙間を作り、首への完全な圧迫を防いだ。
そして、俺の左肘の内側の急所へと自分の指を深く差し込み、絞めのロックを力ではなく『技術』で完成させないように阻む。
深見は腰を極端に低く落とし、俺の体重を自分の背中へ乗せさせない。
片足を俺の足のさらに外側へと置き、身体を独楽のように滑らかに回転させる。
俺の腕を首からスルリと外し、気がつけば、逆に俺の背後へと彼が回っていた。
柔道のような派手な投げ技ではない。
数センチずつ、確実に関節の位置と重心を奪い取っていく、恐ろしく熟練したレスリングの動きだった。
(……能力の正体が分からなくても、密着して組めばなんとかなる、と考えていた俺が甘かった)
俺は、完全に後手に回ったことを悟った。
◆
深見が、俺の背後を完全に取り、片腕を俺の首へと回してきた。
もう片方の手で、俺の後頭部を強く前に押さえ込む。
プロによる、完璧な『裸絞め』。
俺の頸動脈が圧迫され、視界の端が一気にチカチカと狭く暗くなり始める。
俺は《身体能力強化》の腕力だけで、首に回った腕を強引に外そうとした。
だが、外れない。深見の筋力が俺より圧倒的に上だからではない。
深見の腕、胸、足、腰が、一つの強固な建築物のような『形(フレーム)』として完成しており、俺が力を入れる方向(逃げ道)が完全に塞がれているのだ。
◆
俺は、絞めを抜けるため、隠し持っている複数の異能を立て続けに発動した。
まず《自己質量操作》を発動し、自分の身体の質量(重さ)を一気に極限まで軽くする。
深見が俺の腰の重さを利用して固定していた体重がフッと消え、彼の抱え込みのバランスがわずかに数センチだけ狂い、深くなった。
その一瞬の隙に。
《境界潜行》を発動。
背中側の、深見の腕と密着している部分の身体だけを、異空間の境界の向こう側へと滑らせる。
深見の両腕が、俺の実体をすり抜けて空を抱いた。
完全に潜って隠れるほどの時間的余裕はない。俺は肩と首だけを抜き、前へとゴロゴロと転がって脱出した。
さらに前方へ転がった勢いのまま立ち上がり、《身体能力強化》で一気に深見から距離を取る。
二つの手札(異能)を立て続けに消費して、ようやく俺はあの死の絞めから脱出することに成功したのだ。
◆
しかし。
脱出した俺が首を押さえてゼェゼェと荒い呼吸をしているのに対し、深見はほとんど消耗していない様子で、静かに元の構えへと戻っていた。
俺が複数の意味不明な能力を連続で使ったことに対しても、彼は驚きもしなかった。
「……本当に、手札(能力)が多いですね」
深見が、淡々とした感想を述べた。
「多くても……今の絞めを抜けるだけで、一気に二枚も使わされましたよ」
俺が嫌味交じりに返すと、深見は真顔で言った。
「それだけあれば、十分でしょう」
そこに、才能を妬むような嫌味は一切なかった。
◆
再び、打撃と組みの泥沼の攻防が続く。
俺は、深見の身体へ何度も的確に攻撃を当てていた。
しかし、深見のダメージは、壁や床が壊れるだけでほぼゼロのままだ。
逆に、深見が放つ反撃は、一発ごとに俺の身体へと確実に蓄積されていく。
腹部への短い膝蹴り。太腿への重いローキック。肩口への硬い掌底。壁際での体当たり。足を刈られて倒された際の、床への衝突のダメージ。
深見の攻撃は、決して派手ではない。
だが、俺の体力と肉体だけが、ヤスリで削られるように確実に削られていく。
俺が十発のクリーンヒットを当てても、戦況は全く動かない。
深見が一発当てるたび、俺の呼吸は荒くなり、ステップの足取りは重く悪くなっていく。
◆
俺は、息を荒げながら内心で絶望的な計算をした。
(……こっちの打撃は、ほぼノーダメージ。あっちの打撃だけが、普通に痛い。……このままバカ正直に殴り合いを続ければ、先にぶっ壊れるのは間違いなく俺の方だ)
視界の《ライブラリ》は、まだ解析中の青い文字を出している。
『対象の接触点と、周囲の構造物の物理的損傷における、因果的相関を確認』
『外力移送型(エネルギーの転送)能力の可能性:高』
『発動条件の完全な確定には、無効な接触先、または処理失敗の観測がさらに必要です』
俺は心の中で悪態をついた。
(失敗したところを見ろと言われても、あいつの防御が全部完璧に成功しているから困っているんだよ!)
◆
俺は、インカムで水瀬へ縋るように尋ねた。
「水瀬さん。仮に、俺の衝撃を別の場所へそのまま流しているとして。……これ、本当に『無制限』に流せるのか?」
『無制限ではありません』
「根拠は?」
『彼が、Tier4の能力者だからです』
水瀬が、冷徹に絶対のルールを告げた。
『ただし。今の佐伯さんが安全に出している打撃の威力程度では、彼が流せる容量の「上限」へは到底届かない可能性が高いです』
これは極めて重要な事実だった。
深見の能力の上限を突破して勝つために。俺が『相手が死ぬほどの一撃(蓄撃の最大解放)』や『このビル全体が崩壊するほどの無茶な力』、つまりTier4の限界を超えるような無謀な攻撃を使うという選択肢は、俺の頭の中には存在しない。
『出力(パワー)で上限を無理やり割ろうとするのではなく。……彼が能力を発動するための『条件(ルール)』そのものを崩してください』
◆
俺は、攻撃の手を一度休め、防御へ重点を移しながら深見の動きをジッと観察した。
深見は、俺の攻撃を受けるコンマ数秒の直前に、必ず『小さな動作』をしている。
踵(かかと)を床へ強く押し込む。
掌を壁へベタッと触れる。
肘を背後の間仕切りへ当てる。
あるいは、俺の腕をガシッと掴む。
攻撃を受ける前に、必ず『接触先(出口)』を増やして確保しているのだ。
逆に、彼が力を逃がして一度大きく亀裂の入った床や壁からは、必ずスッと離れている。
一度壊れて不安定になった場所を、二度目の出口には決して使わないのだ。
(……こいつは、ただ自分を守るためだけに能力を使っているんじゃない。接触先(建物の構造)が限界を超えて崩れる危険まで、計算して判断しているんだ)
◆
俺が、軽い右ストレートのフェイントを見せた。
深見はそれを受けようとする瞬間、右の踵を床のコンクリートへと強く接触させた。
俺は拳を途中でピタリと止め、代わりに下段の足払いを仕掛けた。
深見は足場を崩され、バランスを失いかけた。
しかし彼は倒れず、咄嗟に俺の肩へと片手を置いた。
その直後。俺の肩へ、上からハンマーで殴られたような重い圧力がドスン!とのしかかった。
「ぐっ……!」
深見は倒れず、逆に圧力を受けた俺が片膝を床についてしまった。
俺は、肩の痛みの中でハッキリと理解した。
(床や壁だけじゃない。俺に接触していれば、俺の攻撃の衝撃を、そのまま俺自身の方へ『返す』こともできるんだ!)
彼の能力は、防御だけではない。
組み合った相手を出口にすれば、俺自身の攻撃力が、そのまま俺へカウンターとして戻ってくるのだ。
◆
管制室の水瀬が、映像の解析結果を整理して告げた。
『佐伯さん。彼の能力は、力を「消して」いるのではありません』
「……」
『深見選手の身体へ入った物理的なエネルギー(力)を、そのまま彼自身の身体の『別の接触点』から、外へと押し出しているんです』
入口は、攻撃を受けた場所。出口は、彼の足、手、背中、あるいは彼が接触している『俺自身』。
「……自分の身体を、水を通す土管(パイプ)のようにして、衝撃を流しているようなものか」
『おそらく』
水瀬が肯定する。
『だから深見選手は、常に床、壁、柱、相手のどれかへ確実に『触れ続けて』います。……彼の能力は、力を消す無敵の能力ではなく、力の行き先を自由に選ぶ能力です』
◆
俺が攻撃を控えて下がり始めたことで、今度は深見の方から前へ出てプレッシャーをかけてきた。
俺は下がりながら、太いコンクリート柱の方向へと追い込まれた。
しかし深見は、俺をその損傷の大きい柱へは叩きつけなかった。
途中で強引に方向を変え、構造に関係ない薄い非構造壁(石膏ボード)の方へと俺を投げ飛ばした。
俺は壁を派手に突き破って隣の部屋へと転がったが、壁が壊れただけで、建物全体が崩落するような危険はなかった。
俺は、石膏の粉を払いながら立ち上がり、あることに気がついた。
(……あいつ、俺に勝つ(ダメージを与える)だけなら、俺の攻撃の衝撃をあえて傷んだ柱の方へ流して、建物ごと俺を危険に晒すこともできたはずだ)
深見は、戦闘中という極限状態にあっても、常に力の『出口』を冷静に選んでいる。
誰も巻き込まず、建物を不必要に壊さない、安全な場所へと。
能力を授けたあの『鳴海』という男の優しさと、現在の深見の建設会社としての実直な人生が。彼の戦い方の中に、一本の太い芯として繋がっているのを感じた。
◆
俺は、条件を完全に確定させるため、あえて深見へ接近した。
左の拳を、深見の肩へ当てる寸前でピタリと止める。
深見はそれに合わせて、右の踵を床へ強く打ち込んでいた。
俺は拳を打たず、その『床に固定された足』を狙ってローキックを放つ。
深見が、咄嗟に右足を浮かせて回避した。
その瞬間、俺は軽い掌底を彼の胸へと入れた。
深見は両足が空中に浮きに近い状態だったが、左手で横の間仕切り壁へと触れていた。
バンッ!と壁が砕け、深見本人は無傷だった。
(……出口となる接触先は、足でなくてもいい)
◆
次は、俺はわざと彼を周囲に壁のない『廊下の中央』へと誘い出した。
深見は俺へ深く組みつき、俺自身を『出口』にしてきた。
俺が彼の腹を打つと、その衝撃が、彼が掴んでいる俺の腕を通じてビリビリと返ってきて、俺の肩が痛む。
(……相手へ触れてさえいれば、床や壁がなくても使える)
これで、分かったことのすべてが繋がった。
攻撃を身体で直接受ける必要がある。
別の接触点が、力の『出口』になる。
出口は床、壁、物体、相手の身体でもよい。
受けた力を内部に蓄積することはできず、攻撃とほぼ同時に外へ流さなければならない。
有効な出口が存在している限り、打撃で倒すことは極めて困難。
残る、たった一つの未確認条件。
それは、『出口となるものが物理的に「一つも」存在しない時、どうなるか』だ。
◆
水瀬が、管制室で建物の構造図面を睨みつけていた。
『佐伯さん。……四階の旧会議室の中央に、撤去作業中の「配線ピット」があります。深さは五十センチ程度です』
「……配線ピット?」
『はい。その上には現在、固定ボルトを外された大きな鋼製の「点検板(チェッカープレート)」が、蓋として仮置きされているだけです』
人が上に乗る程度なら、十分に支えられる。
しかし、建物の躯体(コンクリート)とはボルトで固定されておらず、完全に浮いている状態だ。
その板へ衝撃を流しても、板そのものがズレて動くだけで、安定して力を逃がす『出口』にはならない可能性が高い。
周囲には、壁や柱まで数メートルの空間がある。下へ落ちても浅いピットなので、骨を折るような致命的な危険はない。
『佐伯さん。……彼を、旧会議室の中央へ誘導できますか?』
俺は、深見の重いローキックを太腿で受けながら、廊下の方向を確認した。
「……やってみる」
◆
俺は、露骨に背中を見せて逃げるような真似はしなかった。
深見の激しい組み合いへ必死に抵抗し、押し込まれているふりをしながら、ジリジリと少しずつ旧会議室の方向へと移動していった。
深見も、事前の下見で図面を完全に把握しているため、中央にある点検板の存在は警戒していた。
彼がその不安定な板の上へ、無造作に両足で乗ることはない。
俺は、その板を『罠』として使うことを悟らせないため。
まず自分から、その点検板の上へと乗って戦った。
深見は、
(佐伯自身が足場にして戦っているなら、即座に崩れるような罠ではない)
と瞬時に判断した。
俺へ組みつくため、深見が点検板の上へと片足を置いた。
もう片足は、まだ強固なコンクリートの床の上だ。彼にはまだ、完璧な出口がある。
◆
俺は、深見の左側へと回り込み、コンクリート床に乗っている方の足を執拗に攻め立てた。
深見が足を引いて躱し、ついに彼の『両足』が、点検板の上へと入った。
ただし、深見はすぐに俺の腕をガシッと掴んだ。
床が不安定でも、俺自身を力の出口にできるからだ。
深見は俺の腰を深く抱え込み、柔道の裏投げのような形へと入った。
このままでは、また組み負けて床へ叩きつけられる。
最終攻防の、第一段階。
俺は、《自己質量操作》を発動し、自分の質量(体重)を一気に羽のように軽くした。
深見が持ち上げようとして想定していた俺の腰の抵抗(重さ)がフッと消え、彼の抱え込みの姿勢が、わずかに前のめりに深くなった。
その瞬間。《境界潜行》。
深見の腕と、俺の胴体が密着している接触面だけを、異空間の境界の向こう側へと滑らせる。
深見の両腕が、俺の身体をすり抜けて空を抱いた。
俺は完全には潜行せず、深見の横へとスリ抜けた。
これで。深見の身体が触れている外部のものは、足元の『固定されていない点検板』だけになった。
◆
最終攻防の、第二段階。
俺は、会議室の床へ手をつかず、低い姿勢のまま右手を前へと突き出した。
《圧縮射出》。
狙ったのは、深見本人ではない。彼が乗っている鋼製点検板の『端(フチ)』だ。
圧縮された見えない空気の弾丸が、板の縁へとドガンッ!と命中した。
固定されていなかった重い鉄の板が、横へと大きく滑り。片側が、浅い配線ピットの穴の中へとガシャン!と落ち込んだ。
深見の両足から、「安定した床との接触」が同時に消え去った。
深見の身体が、バランスを崩してわずかに宙へと浮く。
周囲の壁までは、数メートルあって手が届かない。俺にも触れていない。
試合開始から初めて。彼が力を逃がすための『出口』が、この世界から一つも存在しなくなった瞬間だった。
◆
最終攻防の、第三段階。
(《無拍子》は、これが今日最後の一回だ)
俺は《無拍子》で、ピットへ落ちかける深見の懐へと踏み込んだ。
深見は空中で必死に身体を捻り、どうにかして俺の腕へ触れよう(出口を作ろう)と手を伸ばしてきた。
俺は、絶対に掴ませない。
狙いは、致命傷になる顔面でも、肋骨でもない。
相手を殺さず、ただ呼吸の機能を完全に止めるための、鳩尾(みぞおち)への掌底。
そこに《身体能力強化》の全出力を乗せる。相手を壊してしまう《蓄撃》までは使わない。
ドゴスッ!!
深見の鳩尾へ、俺の掌底が完璧にめり込んだ。
今度は、床も壁も壊れなかった。
代わりに。
深見の口から、「ガッ……!」というカエルの潰れたような音が漏れ、彼の屈強な身体が「く」の字に折れ曲がった。
試合開始後、深見が初めて見せた、明確な生物としての『苦痛』の反応だった。
◆
その瞬間。俺の視界の《ライブラリ》が、青白い光を放って反応した。
『有効な外力移送先(出口)を喪失した際、能力効果が成立しないことを確認』
『因果律改変現象の発動条件、作用経路、失敗条件のすべてを観測しました』
『能力構造の解析を完了』
『《還流》を登録しました』
俺の正式な登録能力数は、これで十七種類となった。
だが、俺は登録したばかりのこの《還流》を、この試合の最中に使うような無粋な真似はしなかった。
同じ能力を突然使えば、深見にも水瀬にも不自然極まりない。
何より。俺はすでに自力で、深見を倒すための『完璧な勝ち筋』を作っているのだ。他人の能力をパクリたてで振り回す必要はない。
◆
最終攻防の、第四段階。
深見は鳩尾を強打されて呼吸が止まりながらも、《身体能力強化》の力でなんとかピットの底へと着地しようとした。
だが、足元は傾いた鋼板と浅い溝だ。安定した構えを作れない。
俺は最初の失敗を踏まえ、もう二度と正面からは彼の首を取りにいかなかった。
深見が呼吸を取り戻して態勢を立て直す前に、彼の側面へと素早く回り込む。
片腕を彼の脇の下へと通し、肩の動きを完全に制御する。
腰をピタリと密着させる。
深見の背後を、今度こそ完全に取った。
そして、首へ腕を回す。
完璧な『裸絞め』。
◆
深見は、俺の腕へ指をかけて強引に外そうとした。
最初の絞めの時なら、彼の圧倒的な技術で外せていただろう。
だが今は、鳩尾の衝撃で呼吸が完全に止まっており、何より足場が最悪だ。
俺は《自己質量操作》を発動し、今度は自分の質量を一気に重く増加させ、深見の背中側へと重い重心をズシリと預けた。
これは深見へ打撃ダメージを与えるためではない。彼を絶対に「立ち上がらせないため」の重りだ。
さらに《重心転写》も併用し、深見が身体を回転させて逃げようとする方向へ、俺の重心を先回りさせて置く。
深見の熟練の技術による脱出ルートを、能力で物理的にすべて潰した。
深見は、なんとか足を床へつけて力を逃がそうとした。
だが、片足はピットの溝。もう片足はグラグラ動く鋼板の上だ。
仮に力をどこかへ流せたとしても、絞め技そのものは瞬間的な衝撃(エネルギー)ではない。頸動脈への持続的な圧迫と、俺の完成した体勢そのものだ。
それは、《還流》の能力だけでは絶対に解決できない物理的拘束だった。
深見は、数秒間必死に抵抗した。
無理に立ち上がって俺を振りほどこうとすれば、自分の膝の靭帯か、首の骨を深刻に傷めることになる。俺も、彼の腕や首を折るつもりはない。
深見は、現在の絶望的な状況を冷静かつ正確に判断し。
俺の腕を、自分の手でポン、ポンと二度叩いた。
タップ。
試合終了の合図だった。
◆
レフェリーが、直ちに笛を吹いて試合を停止させた。
俺は即座に絞めを解除し、深見を後ろのピットへ倒れさせないように、肩を支えてゆっくりと床へ座らせた。
深見は、ゲホゲホと激しく咳き込みながら、止まっていた呼吸を整えた。大きな骨折などの負傷はない。
俺も、腹部、首、肩、太腿に、彼から受けたかなりの打撃の損傷が蓄積していた。立ってはいるが、明確に消耗し、息が上がっている。
レフェリーが、俺の右手を高く上げた。
勝者は、佐伯直人。
◆
深見は呼吸が落ち着くと、最初に自分の足元にある傾いた点検板と、周囲の床の状態を確認した。
大規模な建物の損傷がないことを見て、ホッと安心したように息を吐く。
それから、俺へ向かって深く頭を下げた。
「……完敗です」
「いや。最後の一発の掌底が入るまでは、こっちの方が完全に削られて負けていましたよ」
俺は、正直に苦笑して答えた。
深見が、信じられないという顔で言った。
「……まさか、自分の足元の『出口』を物理的に切られるとは、思いもしませんでした」
「力を消して無敵になってるんじゃない、自分の触っているどこかへ『逃がしてる』んだと分かったので。なら、逃がせない空中へ浮かせればいい」
深見は、少しだけ驚いた顔をした。
彼は自分の能力名も、仕組みの説明も一切公開していない。俺が、試合中の殴り合いの中でその複雑な構造を完全に見抜いたのだと理解したのだ。
◆
深見は、自分が壊した床の亀裂を撫でながら、静かに言った。
「……この能力は、《還流》といいます」
自分から、隠していた能力名を明かしてくれた。
「受けた力を、触れている別の場所へ流して逃がす。……ただ、それだけの地味な能力です」
「……その『それだけ』で、あそこまで俺の打撃が何も通らないんですか。化け物かよ」
俺が呆れたように言うと、深見は少しだけ誇らしげに答えた。
「二十二年、これ一つを使い続けていますから」
能力の数や派手さではない。使い続けた年月の重みだ。
だが、彼のその二十二年間は、決して『戦闘技術』だけを磨いてきた時間ではない。
工事現場での重機事故から身を守る術。地下設備での落盤への対応。災害現場での瓦礫の処理。日々の安全管理。……そして何より、「この莫大な力を、建物の『どこへ流せば安全か』を瞬時に判断する経験」の積み重ね。
深見という実直な建設マンだからこそ。建物を不必要に壊さず、人を巻き込まずに、《還流》という強力な能力を安全に運用し続けることができているのだ。
◆
深見が、ふと思い出したように俺へ聞いた。
「最後のあの『足場のない配線ピット』の場所……あれは、建物の構造図面を見て、最初から考えて誘導したんですか?」
俺は首を横に振った。
「うちの事務長(水瀬さん)が、管制室のカメラと図面からあの足場を見つけて、俺に教えてくれたんです。俺一人の頭では、あそこへ誘導して落とすところまで考えられなかった」
俺は、勝利を自分一人の手柄にはしなかった。
すると、俺のインカムから水瀬の声が割り込んできた。
『代表。私を素直に褒めてくださるのは結構ですが、まだ試合後の医療チェックが残っていますよ。勝手に感動的な雰囲気を出して帰らないでください♡』
俺が苦笑すると、深見が今日初めて、小さく声を出して笑った。
◆
試合後の医療区画。
水瀬が、タブレットで俺の首と腹部の損傷データを見ながらため息をついた。
「勝ったからいいものの。……あのまま、まともに打撃戦を続けていたら、確実に佐伯さんが先に内臓を壊して倒れていましたよ」
「分かってる。途中から、一発打つたびにこっちが損してる気分だったよ」
「相手の能力の発動条件を知るために、あえて殴るのは構いません。……ですが、分からないからと闇雲に何十発も殴り続けるのは、分析とは呼びません。ただの無謀です」
水瀬の厳しい正論に、俺は反論できずに黙った。
水瀬は、俺の包帯を替えながら、それでも最後に言った。
「ですが。条件を見抜いてから、出口を潰して絞め技へ移行した『組み立て』は見事でした」
「……半分以上は、水瀬さんのカメラでのタイムラグの分析のおかげだ。助かったよ」
「ええ。セコンド込みで勝った、立派な一対一でしたね♡」
◆
俺は一人になった時、視界の《ライブラリ》の新しい項目を確認した。
《還流》
『暫定解析:
自分の身体へ伝わった物理的な外力を、別の接触点(出口)へと流す。
有効な移送先が必ず一つは必要。
受けた力を内部に保存したり、増幅したりする機能はない。
処理可能な量には、使用者ごとの容量限界が存在する。
熱、毒、精神作用などは対象外と推定。
持続的な圧迫(絞め技など)への対応は限定的。
詳細な最大処理量は未検証』
俺は、この強力な防御能力を手に入れたが。
(……俺には、深見と同じようには使いこなせないな)と、はっきりと理解していた。
能力の構造をシステムとしてコピーできても。
彼の二十二年の経験。床や壁の強度を一瞬で判断するプロの目。力を安全に逃がす場所の選定。組み技と能力の完璧な統合。災害現場での極限の判断力。
それらの『彼の生きた時間』までは、一つの異能として自動的に手に入るわけではないのだ。
深見の技能の一部も観測登録される可能性はあるが、彼という人物全体の『判断力』までは、即座に俺に再現できるものではない。
◆
会場の旧ビルを出る前。
深見はすでに、企業代理戦の競技服から、見慣れた会社の作業着へと着替えていた。
翌朝早くから、地下の躯体補強工事の現場で安全確認の立ち会いがあるという。俺も、翌日は昼間の不動産会社へ普通に出勤だ。
深見が、カバンを持ちながら言った。
「……佐伯さんも、本当に明日も仕事なんですね」
「ええ。だから、お互いに骨を折って壊し合わずに済んで、本当によかったです」
俺が本心から言うと、深見は自分の首の赤い絞め跡をさすった。
「それでも、最後にかなり本気で首を絞められましたけどね」
「俺も、その前にアンタにガッツリ絞め落とされかけましたから。お互い様です」
俺たちは、駐車場で軽く握手を交わした。
深見は、俺の手を挑発するように必要以上に強く握り潰すような真似はしなかった。俺も、彼が能力で何かを仕掛けてくるなどと警戒せず、普通に力強く握り返した。
……殴っても、蹴っても、投げても壊れない、岩のような男だった。
だが、彼は決して無敵の魔法使いだったわけではない。
受けた力を消して逃げていたのではなく。その恐ろしい力を「建物のどこへ逃がすべきか」、自分の責任で、二十二年間ずっと選び続けてきただけの、実直な人間だった。
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