冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる 作:パラレル・ゲーマー
送られてきたヘルメットカメラの映像は、常軌を逸していた。
解体途中であるビルの、六階の旧オフィスフロア。
坂口という名前の現場主任と数名の作業員が、不要になった大型書庫を台車に乗せて移動させている。
突然。フロアの中央にあるエレベーターシャフトの奥から、ギギギギッ!という、太い鉄骨が無理やり捩じ曲げられるような異常な軋み音が響いた。
坂口が、音のしたシャフトの方へカメラ(頭)を向ける。
床にうっすらと積もっていた白い粉塵が、風もないのにスゥーッと『横の壁の方向』へ向かって不自然に流れ始めた。
次の瞬間。
作業員たちも、足元の工具箱も、そして重い大型書庫も。
すべてが、まるで重力の向きが九十度回転したかのように、一斉に『西側の壁』へ向かって落下していったのだ。
「うわぁぁぁッ!!」
坂口の絶叫と共に、カメラの映像が激しく回転する。
ドゴォォン!という轟音。本来なら垂直に立っているはずの西側の壁へ、大型書庫が激突し、坂口の右脚がその下敷きになった。
他の作業員たちは運良く別の方向へ滑り落ち、廊下伝いに這い上がって脱出していく姿が映っている。
カメラが、壁に叩きつけられて横に傾いた状態で固定された。
映像の奥。
本来なら垂直に立っているはずの、エレベーターの鉄の扉の横の壁。そこを、黒い大型の『何か』が、まるで平らな床の上を走るようにして、横向きにカサカサと通過していく不気味な姿が映り込んでいた。
そこで映像は途切れている。
◆
俺たちFIELD WORKSの三人は、その映像を見た直後、緊急の出動要請を受けて現場へと到着していた。
現場は、都内郊外にある地上九階建ての旧複合オフィスビルだ。
建物の前には、規制線を張った警察、八咫烏の職員、消防の特殊救助隊、解体会社の関係者、そして医療班が物々しく待機している。
だが、ビルの内部の『重力方向』が異常なために、通常の救助隊員ではロープの降下もままならず、内部へ進入できずに立ち往生しているのだ。
俺は、管制車両のモニターで先ほどの映像をもう一度確認した。
「……建物自体が地震で傾いたんじゃない。ビルの中の一部の空間だけ、『下』という方向の定義が横へ書き換わっているのか」
玲奈が、画面の隅を指差して言った。
「見てください。あの最後に映った黒い怪異だけは、重力がおかしくなっているのに全く混乱せずに、綺麗に横向きの壁を移動しています」
水瀬が、建物の構造図面を重ね合わせた。
「エレベーターシャフトの付近で鉄骨の軋む音がしてから、現象が発生していますね。……怪異が、あのシャフトを中心に何らかの能力を使っている可能性が高いです」
◆
八咫烏の職員から、暫定のブリーフィングが行われた。
取り残されているのは、映像にあった坂口祐介(四十五歳)。
彼は現在も六階にいて、携帯電話での通話は可能だ。右脚を書庫に挟まれ、肩も負傷している。彼がいる現在の六階は、「西側の壁」が下になっている状態らしい。
彼は命綱(安全帯)を壁の配管へ引っ掛けて固定しているため、命に別状はない。
だが、怪異がエレベーターシャフトを上下に移動するたびに、各階の重力方向が変化しているらしい。現時点では、方向の変化に規則性があるのか、怪異が任意に選んでいるのかまでは判明していない。
次に六階の重力が切り替われば、坂口の脚を挟んでいる書庫が別方向へ落下する。安全帯で固定された坂口の身体も強く引かれ、書庫や配管に挟まれて圧死する危険が極めて高い。
八咫烏がつけた怪異の暫定呼称は《転床虫(てんしょうちゅう)》。Tier4相当。
全長は二・五メートルから三メートル。黒いコンクリート片と錆びた鉄筋を組み合わせたような外殻を持ち、左右に四対、合計八本の太い脚を持つ。大型のムカデとクモを混ぜたような姿だという。
確認されている異能は、『局所的な重力方向の変更』だけ。
巨大な鉤爪による物理攻撃は行うが、それは怪異の生物的な身体能力であり、異能ではないらしい。
俺の役割は明確だった。
まずは坂口の救助。次に、あの怪異の討伐だ。
◆
水瀬は、自身の『本体』を建物外の仮設指揮所のテントへと残した。
そして、八咫烏へ公開登録されている『一体の分身』だけを、俺と玲奈の内部進入へ同行させる形を取った。
「いいですか、代表。今回はこの分身体一体が、貴方たちの内部支援担当です」
水瀬の本体が、インカム越しに念を押した。
「もしこの分身が途中で行動不能になって消滅しても、すぐに次を出せる保証はありません。……分身がいなくなっても、お二人だけで作戦を継続できる前提で動いてくださいね♡」
俺は頷いた。
彼女の分身体は、いくらでも死なせて使い捨てにできる便利な無限の予備戦力ではない。公的な任務において、登録外の能力(複数の分身)を安易に使うことは、彼女自身のリスクになるからだ。
水瀬の本体は外のテントに残り、建物の構造図面、俺たちのヘルメットカメラの映像、慣性センサー、生体情報、そしてエレベーターシャフトの微細な振動データを、外部から一括して監視・分析する役割に徹する。
◆
俺は、仮設テントの裏の死角へ回り、誰にも見られない場所で《アイテムボックス》の能力を一度だけ開いた。
亜空間の保管庫から、今回の作戦に必要な大量の装備を取り出す。
高所用のフルハーネス。数十メートルの強化ロープ。自動巻き取り式の安全索(ブロックリール)。多数のカラビナ。コンクリート用の簡易アンカー。手巻きの小型ウインチ。救助用のソフト担架。落下保護用のエアバッグ。ヘルメット。粉塵マスク。強力な投光器。
玲奈が、その大量の装備を見て呆れた。
「代表……。いくらなんでも、登山隊みたいな重装備すぎませんか?」
「怪異に殺されるより先に、横の壁から降ってくる机やコピー機に潰されて死ぬ可能性の方が高い現場だぞ。これでも足りないくらいだ」
俺は、玲奈と水瀬の分身へもハーネスを装着させ、厳重に指示を出した。
「移動中は、必ず三人のうち『誰か一人』が、建物の躯体(柱や梁)へ安全索のフックを固定した状態で動く。全員が同時にフックを外して移動することは絶対に禁止だ」
◆
俺、玲奈、水瀬の分身の三人は、解体工事の足場を組まれた一階のエントランスへと慎重に足を踏み入れた。
一階は、まだ『通常の重力』だった。床が下だ。
だが、受付のカウンターは横倒しになり、重いソファや椅子が東側の壁へと突き刺さるように落下して山積みになっている。
一度、この一階の重力も横方向へと変更された形跡だった。
二階へと続く階段を上る。ここまでは普通だ。
しかし。二階の防火扉を開けて、オフィスフロアの廊下へと足を踏み入れた、その瞬間だった。
ピピッ!と、水瀬の分身が持っていた慣性センサーが鋭く警告音を鳴らした。
フロアの中央にあるエレベーターシャフトの奥から、先ほどの映像と同じ、金属がギギギギッ!と軋む嫌な音が響く。
床に積もっていた白い粉塵が、フワッと宙に浮き、『東側(右側)』へと向かって流れ始めた。
外にいる水瀬の本体から、インカムに鋭い叫びが飛ぶ。
『代表、右です! 次の下方向は、東側の壁になります!』
俺が構えるより早く。たった一秒後。
空間全体の重力方向が、ゴルンッ!と九十度、完全に横へと回転した。
俺たち三人の身体が、立っていた床から足をすくわれ、廊下の『東側の壁』へと向かって、真っ逆さまに落下し始めた。
◆
玲奈と水瀬の分身は、階段の入り口の手すりへとかけていた安全索のロックが作動し、空中でガチンッ!と身体を止められた。
俺は、壁へ向かって落ちながら、空中で《重心転写》を一回だけ使用した。
自分の疑似的な重心を、落下していく東側へと瞬時に設定し直し、猫のように空中で身体を綺麗に回転させる。
足から、東側の壁へとドスンッ!と無事に着地した。
誤解してはならないが、これは俺の能力で重力そのものを無効化したわけではない。単に、落下する際の『着地姿勢』を安全に整えただけだ。
俺は、自分が着地すると同時に、宙ぶらりんになって壁へ激突しかけていた玲奈と水瀬の分身のロープを力任せに掴み、二人が壁へ激突する速度を強引に引き殺した。
三人が、東側の壁へと着地(?)した。
今まで俺たちが歩いていた平らな床が、今は『垂直な壁』として俺たちの左側にそそり立っている。そして、蛍光灯の照明器具がズラリと並んだ天井が、右側の壁になっている。
廊下の奥へと進むには、本来の壁の上に貼られた壁紙の上を、ザクザクと歩いていかなければならないのだ。
「……マジかよ。本当に、壁が床になった……」
俺は、自分が横向きの世界に立っているという強烈な視覚のバグに眩暈を覚えながら、ポツリと呟いた。
◆
俺たちは、二階のフロアを東側の壁を足場にして慎重に移動した。
本来の壁にある窓枠の段差、飛び出した柱型、露出した配管の凹凸を避けながら歩く。机やスチール棚は、すでにすべて俺たちの足元(東側の壁)へと落下してきており、巨大な瓦礫の山を作っていた。
三階へと通じる階段室の扉を開ける。
階段は、本来の「上下方向」で作られているため、重力が横になった今では、ただの『ギザギザの巨大な横穴』と化している。
俺たちは、手すりの支柱へロープを張り、壁を這うようにして三階へと移動した。
三階のフロアへ足を踏み入れる。
すると今度は、俺たちの身体がフワリと浮き、ドスンッ!と『天井』へと落下した。
三階では、照明器具の並んだ『天井』が、下(床)になっていたのだ。
四階へ上がると、今度は『西側の壁』が下。
五階へ上がると、今度は『本来の床』が下になっていた。
水瀬が、管制室の図面へその状況を記録していく。
一階:本来の床。二階:東壁。三階:天井。四階:西壁。五階:本来の床。
四つの方向で、綺麗に一周している。
『佐伯さん。現時点の状況では、各階へ上がるごとに、重力が右回りに「九十度ずつ」規則的に回転しているように見えます』
「……なるほど。つまり、このビルの中では、床が四方向の全部にあるってわけか」
俺が納得して呟いた。
◆
俺は、一つの攻略法を思いついた。
(……階数ごとに重力の方向が完全に固定されているなら。次の階へ上がる前に、あらかじめ身体の姿勢とロープの位置を変えておけば、落下の危険なく安全に進めるはずだ)
しかし、五階のフロアを通常通りに歩いて移動していた時のことだ。
再び、中央のエレベーターシャフトの奥から、ギギギギッ!という不吉な軋み音が響いた。
直後。
俺たちが立っていた五階の重力が、突然『本来の床』から『東壁』へと急激に変化(再転換)したのだ。
俺たちの身体が、横へ向かって激しく投げ出される。
事前に床へ落ちて散乱していた瓦礫や机の山が、今度は東側の壁へ向かって、雪崩のようにザザァァッ!と滑り落ちていく。
俺たちは、間一髪で柱へかけていた安全索によって空中で耐え、瓦礫の下敷きになるのを免れた。
水瀬の本体が、インカムで冷静に推測を修正した。
『……訂正します。階ごとの固定のルールではありません。怪異が後から、自分の意思で重力を書き換えています』
「……チッ」
『怪異が選べるのは四方向だけですが、どの階を、どのタイミングで、どの方向にするかは、怪異自身の意思で自由に変更できるようです』
これで、このビルが単なる『移動パズル』のようなゲームではなく。怪異が俺たち侵入者を明確に殺すために、能動的に罠を仕掛けてきていることがハッキリと分かった。
◆
六階へと到達した。
現在の下方向は、『西側の壁』だった。
本来の床から見れば、俺たちは重力に逆らって、横向きの壁をスタスタと歩いているような状態だ。
俺たちは、西壁に設置されていた太い配管ラックの近くで、取り残されていた坂口を発見した。
彼は、西壁へ落下してきた巨大なスチール製の大型書庫の下敷きになり、右脚を深く挟まれていた。
彼自身の安全帯のフックは配管へガッチリと繋がっているため、もし重力が再転換しても即座に天井や床へ落下することはない。
だが、彼の体重と書庫の重さを支え続けている配管の固定金具が、すでにギリギリと音を立てて歪み始めていた。
坂口は意識は保っているが、長時間の圧迫で脚の感覚が弱くなり、顔面蒼白になっていた。
俺が《身体能力強化》の全出力で、その巨大な書庫を「フンッ!」と力任せに持ち上げる。
玲奈がその隙に、坂口の身体を素早く引き抜き、水瀬の分身が救急キットで右脚の止血と副木の固定を行った。
持ち上げた書庫は、元の床(今の壁)へは固定されていない。俺が手を放せば、再び西壁の俺たちの方へと落下してきてしまう。
玲奈が、太い固定用ロープを書庫へ回し、近くの太いコンクリート柱へと頑丈に縛り付けて固定してくれた。
怪異《転床虫》は、この場所にはまだ姿を見せていない。
だが、数十メートル離れたエレベーターシャフトの暗闇の奥から、カシャ、カシャ、という、太い爪がコンクリートを引っ掻く不気味な足音が、確実にこちらへと近づいてきていた。
◆
俺たちが、坂口を救助用のソフト担架へと乗せ、固定バンドを締めている最中だった。
ギギギギッ……!
ガイドレールの、今までで一番大きな軋み音。
俺たちの足元(西壁)にあった白い粉塵が、一斉に上方――本来の『天井』の方向へと向かって、滝を逆流するように流れ始めた。
水瀬の本体が、悲鳴のような警告を飛ばす。
『六階、再転換します! 次は、本来の天井が下になります!』
安全索を今の壁から天井の方向へと張り直す時間は、もう一秒もなかった。
俺は、坂口が乗った担架を両腕でガシッと抱え込んだ。
そして、《自己質量操作》を一度だけ使用した。
自分の質量(重さ)を、極限まで軽くする。
これは、俺と担架を直接軽くして落下を防ぐためではない。俺自身が命綱のロープへかける負荷(負担)を減らし、重い坂口を抱えた状態でも、空中で安全な着地姿勢へと身体を捻りやすくするための処置だ。
玲奈と水瀬の分身は、それぞれ既存の安全索へと身体を預け、衝撃に備える。
ゴルンッ!
重力が、強烈に転換した。
俺たち全員の身体が、西壁から、本来の『天井』へと向かって、数メートルの空間を真っ逆さまに落下した。
◆
重力が天井方向へと変化したことで。
六階の本来の床にボルトで固定されていなかったすべての物が、一斉に俺たちへの『凶器』へと変わった。
大型の複合機(コピー機)。事務机。キャスター付きの椅子。分解された鉄製の棚。天井裏から外れて放置されていた重い金属資材。
それらが、雨あられのように、俺たちのいる天井へ向かって降り注いできたのだ。
本来の天井が下になったため、約三メートルという十分な落下距離と加速が生まれている。
百キロ近い重量の大型複合機が、坂口の乗った担架の頭上へと、真っ直ぐに落下してきた。
玲奈は、射線上に俺と坂口が重なっているため、銃を撃つことができない。
俺は、片手で担架を抱えたまま、空いている右手を上へ突き出した。
《圧縮射出》を一回使用。
複合機そのものを木端微塵に破壊するのではなく、その巨大な側面のボディへと、圧縮された空気の衝撃波を斜めからぶつける。
ドガンッ!
複合機の落下の軌道が、空中でわずかに数センチだけ逸れた。
巨大な塊が、担架の真横の空気を掠め、天井のコンクリートへと激突して粉々に大破した。
俺たちは、安全索に吊られた状態から、バラバラと降ってくる瓦礫を避けながら、ゆっくりと天井のパネルの上へと降り立った。
◆
水瀬の分身の頭上へと、巨大な鉄製の棚が落下してきた。
玲奈は、《圧縮射出》でその重い棚本体を撃ち落としたり、吹き飛ばそうとはしなかった。
彼女は、スコープ越しに、その棚が途中で引っ掛かっている『細い天井の吊り材(ワイヤー)』だけを正確に狙い撃った。
パチンッ!とワイヤーが切れ、棚の落下の回転方向が空中でクルリと変わる。
棚は、水瀬の分身から完全に外れた位置へと、ズガァン!と落下した。
さらに玲奈は、上から転がってくる椅子や小型の工具のうち、俺たちに直撃しそうな『必要なもの』だけを、精密射撃で次々と撃ち落としていく。
ただ適当に弾幕を張って周囲を吹き飛ばしているのではない。
坂口、俺、張られた安全索、そして建物の躯体を絶対に傷つけない『安全な射線と対象』だけを、一瞬で選んで撃ち抜いているのだ。
反省会で俺たちが定めた、「玲奈が撃ってよい安全な射線を事前に整理する」というルールと方針が、この極限の実戦で完璧に活きていた。
◆
坂口を、救助用担架へと完全に固定し終えた。
水瀬の分身が、坂口の担架を引いて、六階からの退避を開始する。
俺と玲奈は、怪異が再び重力を変更して救助の邪魔をしないよう、あえてエレベーターシャフトの方向へと向かい、囮になる道を選んだ。
水瀬の本体が、インカムで説明する。
『分身が、坂口さんを三階の階段にいる消防の救助隊のところまで運びます。……その後、また同じ個体の分身を、お二人のところへ戻します』
彼女は、「ここで消滅させて、新しく便利な二体目の分身を追加で出す」というようなルール違反はしなかった。
一体の分身が救助任務を物理的に終えた後、再び自分の足で階段を上って俺たちへ合流するという、正式な手続きを踏む。
それまでの間、俺と玲奈の二人だけで、怪異の足止めと討伐を担当しなければならない。
◆
六階の中央。エレベーターシャフトの前。
エレベーターの鉄の扉は、解体工事のために半分外されていた。
現在は『本来の天井』が下になっているため、俺と玲奈は天井のパネルの上を歩き、横向きに寝倒れたエレベーターの扉へと近づいた。
シャフトの暗い内部を、強力な投光器で照らし出す。
そこに、奴がいた。
黒い《転床虫》が、四角いシャフトの奥のコンクリートの内壁へ、平べったい巨大な腹部をベッタリと密着させていた。
八本の恐ろしい太さの鉤爪が、コンクリート、鉄のガイドレール、剥き出しの鉄骨、そして配線の支持材へと、深々と食い込んでいる。
怪異が、東側のシャフト壁の方へと、カシャカシャと身体を不気味に回転させた。
同時に、ガイドレールが激しく軋む。
水瀬本体が、警告を叫ぶ。
『来ます!』
六階の重力が、天井から、再び『東壁』の方向へと急激に切り替わった。
俺と玲奈の身体が、壁へ向かって投げ出される。
だが、怪異自身は、自分の能力で次にどこが床になるかを最初から完全に理解している。
重力が変わっても何の混乱も見せず、ただスッと姿勢を変えただけで、新しい床となった東壁を滑るように走って、俺たちへ向かってきた。
◆
《転床虫》は、自分の鉤爪や顎で直接襲いかかってくる前に、必ず『重力を変更して、獲物を壁や天井へ落とす』という行動を取る。
落下して骨を折ったり、飛んできた瓦礫で負傷した無防備な人間へと接近し、トドメを刺す。
能力で人間を直接押し潰したり、引き裂いたりするわけではない。
建物内にある家具、重い設備、そして『落下距離』そのものを、自分の最大の武器として利用する、極めて知能の高い狩りの方法だ。
(……こいつにとって、このビル全体が一つの巨大な『罠』なんだ)
俺は、壁へ着地しながら確信した。
玲奈が、迫り来る怪異の頭部へ向けて《圧縮射出》を放つ。
だが怪異は、玲奈の射線を見てから慌てて避けたのではない。
瞬時に重力をさらに『本来の床』へと切り替え、自分自身の落下方向を強引に変えることで、玲奈の射線からフワッと外れたのだ。
こいつは壁を自由に走れるだけではない。重力方向の変更そのものを、自分の『三次元的な移動手段』として完全に使いこなしている。
◆
俺は、《動体視の魔眼》を一回目として発動させた。
怪異の無数の脚の動きと、重力が転換する直前の『微細な身体の動作(予兆)』を、スローモーションの視界で徹底的に観察する。
怪異は、重力を変えるたび、必ず同じ動作を繰り返している。
シャフトの強固な躯体へ、腹部を強く押しつける。
四本以上の脚を、ガッチリと壁へ固定する。
身体を、次に下となる方向へと九十度回転させる。
そして、黒い外殻の内部にある青白い線が、脈打つように発光する。
その直後に、周囲の重力方向が切り替わる。
自由に、離れた場所から念じるだけで魔法のように発動しているわけではない。
さらに、怪異がシャフトの中から、俺たちのいる事務室側の廊下へと飛び出して追いかけてきた間は、一度も重力方向を変更していない。
俺は、インカムで水瀬へ報告した。
「水瀬さん。あいつ、エレベーターシャフトの壁に『触ってる時』しか、重力の向きを変えてないぞ」
必要な発動手順を見切ったところで、俺は《動体視の魔眼》を解除した。
残りの使用回数は、怪異をシャフトから引き剥がした後の直接戦闘へ残しておく。
『……過去の映像と、センサーのデータを照合しました』
水瀬が、即座に裏付けを取った。
『すべての重力転換の直前のコンマ一秒前に、エレベーターシャフトの躯体側で、必ず強い「振動(能力の発動反応)」が記録されています』
◆
水瀬が、建物の構造図面をモニターで確認し、一つの完璧な結論を導き出した。
『佐伯さん。中央の四基分のエレベーターシャフトは、建物の中心にある「ほぼ正方形」の筒状の構造です』
「ああ」
『怪異が選んで書き換えている四つの方向は、シャフトの下辺(本来の床)、東辺、上辺(天井)、西辺の、四つの壁面の向きと完全に一致しています』
水瀬の声が、確信に満ちて響いた。
『怪異は、この建物全体の空間を基準にして重力を変えているのではありません。……あの正方形の「エレベーターシャフトそのもの」を、能力の方位基準(羅針盤)として利用しているんです!』
シャフトの四つの壁のうち、『どの面へ自分の腹部を向けて接触するか』によって、その階の「下となる方向」を決定している。
それが、あの怪異の能力の絶対のルールだ。
「つまり……あの怪異を、シャフトの躯体から完全に引き離してしまえば、新しい方向へ変更できなくなる可能性が高いってことか」
俺は、明確な勝ち筋を見つけた。
◆
怪異を倒すだけなら、あのシャフトの中へ向けて、手榴弾のような強力な攻撃を撃ち込んで吹き飛ばせばいい。
しかし、それではダメなのだ。
シャフトの内部には、作動停止中の重いエレベーターの『かご』や、巨大なカウンターウェイトが残っている。
もしガイドレールや支持材を破壊してしまえば、数トンもの金属部品がシャフト内を落下し、建物全体に致命的なダメージを与える。
さらに、建物の下層階には、まだ救助隊と坂口がいる。各階ごとに重力方向がバラバラに歪んでいるため、破壊した部品がどこへ向かって落下して突き破っていくか、全く予測できない。
玲奈の射撃も、怪異だけをピンポイントで狙える角度は極めて限られている。
かといって、俺が自らシャフトの中へと飛び込んで肉弾戦を挑めば。
怪異に重力を一瞬で切り替えられ、数十メートル下の底ではなく、横方向の深いシャフトの壁へと叩きつけられてミンチになる可能性がある。
単純な火力で押し切るのではなく、怪異を『シャフトから、安全な場所へと誘い出す』必要があった。
◆
水瀬が、図面から最適なポイントを選定した。
『八階のエレベーター点検フロアへ向かってください』
「八階?」
『八階には、シャフト内へ出入りするための「大型の点検扉」と、一基だけ八階の位置で固定されて停まっている「旧エレベーターのかご」があります』
そのエレベーターかごの上部には、広い点検スペースがある。
かごは工事用の仮設支持材で固定されており、落ちることはない。そして重要なのは、『かご自体は、エレベーターシャフトのコンクリート躯体そのものではない』ということだ。
『怪異を、そのエレベーターのかごの「中央」へと乗せ、シャフトの壁やガイドレールへ一切脚が触れられない状態(空間)を作れば。重力を再変更できなくなるはずです』
完璧な作戦だった。
◆
それぞれの役割が明確に決まった。
俺は、怪異の誘導役(タンク)。
自分の命を餌にして、怪異をシャフトの中から、八階のエレベーターかごの上へと引きずり出す。
玲奈は、射撃役(スナイパー)。
八階の点検扉の外の安全な位置から、内部へ向かって射撃する。怪異がシャフトの壁へ脚を伸ばして触れようとした場合、脚そのものを撃つのではなく、接触しようとしている『コンクリートの壁や支持材』を狙って撃ち、接触を物理的に阻止する。
水瀬の分身。
坂口を消防へ引き渡した後、すぐに七階側から階段を上って合流する。
八階の防火シャッターと点検扉の『手動操作』を担当する。
水瀬本体。
外部の振動センサーから重力転換の微細な前兆を読み取り、俺たち三人へ『一秒前の警告』を出し続ける。
俺たちの作戦の第一目標は、怪異を殺すことではない。
まずは、怪異をシャフトから完全に『切り離す(引き剥がす)』ことだ。
◆
俺と玲奈は、怪異を上階へと追い立てるための追跡を開始した。
玲奈は、怪異本体へと直撃させる射撃はしない。
怪異の下側や、逃げ込もうとする横穴の進行方向へと威嚇射撃を行い、シャフトの設備を破壊しない範囲で、奴の逃げ道を物理的に上へ上へと限定していく。
怪異は玲奈の攻撃を避けるため、カシャカシャと不気味な音を立ててシャフト内を上方へと逃げていく。
ただし、奴はタダでは逃げない。途中で何度も、階層の重力方向をランダムに変えて、俺たちを壁へ叩きつけようとしてくる。
俺と玲奈は、階段室や吹き抜けを使いながら、壁、天井、本来の床、そして反対側の壁と、重力が変わるたびに順番に走る方向を変えながら追跡した。
俺の《身体能力強化》の筋力だけでは、突然の重力転換の落下には完全には対応できない。
持参したロープ、柱の出っ張り、扉の枠を必死に使い、物理的な安全確保を続けながら、泥臭く上へと登っていった。
◆
重力が変わるたびに、俺の《重心転写》や《自己質量操作》の能力を使えば、もっと安全に、スムーズに移動できるのは分かっている。
しかし、俺の能力には『一日各三回まで』という、絶対の呪いのような使用回数制限があるのだ。
その秘密を、水瀬や玲奈へ説明することはできない。
だから俺は、表向きにはこう理由をつけていた。
「最後に、あの怪異へ接近して肉弾戦をやる時のために、能力の出力(手段)を温存しておく」
実際、それは嘘ではない。
軽い重力転換なら、ロープと身体能力の踏ん張りだけで耐える。能力を切らずに済む場所なら、多少壁へドスンと叩きつけられてアザができても、歯を食いしばって耐える。
玲奈は、俺が不自然に能力をケチって温存しているとは露ほども考えず、「いざという時の切り札を、最後まで残しておく、実戦的なプロの判断だ」として、頼もしそうに受け取ってくれていた。
少しだけ胸が痛むが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
◆
八階へと到達した。
八階では、現在『東壁』が下になっている。
すぐ下の七階では、『本来の天井』が下。
上の九階では、『西壁』が下だ。
俺たちは、それぞれ別の階から同じエレベーターシャフトを覗き込むような形になった。
俺は八階の東壁に立つ。
玲奈は、八階の点検フロアの『本来の天井』側を足場にする。
救助を終えて戻ってきた水瀬の分身は、七階の天井に立っている。
同じシャフトの四角い筒を囲んでいるのに、俺たち三人は、互いに九十度ずつ傾いた、ありえない姿勢で見つめ合っている。
俺から見れば、玲奈は垂直な壁に立って銃を構えているように見える。
玲奈から見れば、俺が壁に張り付いているように見える。
水瀬の分身から見れば、俺も玲奈も、横向きに寝そべっているように見える。
脳がバグりそうな、最高に狂ったビジュアルだった。
玲奈が、スコープから目を離して眩暈を押さえるように言った。
「……もう、どれが正しい向きなんですか、これ」
水瀬の本体が、インカムで真面目に返した。
『この異常な建物の中では、お三方とも「全部正しい向き」です。……自分の足元だけを信じてください』
◆
作戦の最終段階、誘導を開始する。
俺が、八階のエレベーターかごの上(点検スペース)へと、横向きに飛び乗った。
かごの上部は、現在の重力方向では『横向きの壁のような足場』だ。
俺はそこに安全索のフックをガッチリと固定し、シャフトの奥にいる怪異へ向けて、自らの姿を完全に晒して挑発した。
《転床虫》は、自分のテリトリーであるシャフト内へ、愚かな人間が直接近づいてきたことで、俺を「確実な獲物」だと判断した。
カシャカシャカシャッ!と、八本の脚を蠢かせ、俺へ向かって一直線に突進してくる。
俺は、怪異と正面から殴り合わず、かごの中央へとジリジリと後退した。
怪異は、前脚をかごの屋根へと乗せてきた。だが、後脚の四本は、まだシャフトの壁へとベッタリと接触している。
この半開きの状態では、奴はまだ自由に重力を変更できる。
怪異が、身体をブルッと回転させた。
ガイドレールが、ギギギッ!と不吉な音を立てて軋む。
管制室の水瀬が、カウントダウンを叫ぶ。
『来ます! 三、二、――転換!!』
◆
重力が、東壁から『天井』の方向へと、一気にゴルンッ!と回転した。
俺は、ここで《重心転写》を二回目として使用した。
自分の疑似重心を、新しい下方向(天井)へと瞬時に設定し、空中で身体を綺麗に回転させる。
怪異の突進の牙をギリギリでかわしながら、かごの中央の平らな部分へと、ドスンッと完璧に着地した。
怪異も、新しい重力に合わせて、後脚をシャフトの別の壁面へと移そうと脚を伸ばした。
その瞬間。
シュガァンッ!
玲奈の精密射撃が火を噴いた。
彼女は怪異の脚そのものを撃つのではなく、怪異の爪がまさに届こうとしていた『ガイドレールの表面の空間』へと、圧縮された空気の衝撃波をピンポイントで叩き込んだのだ。
バチィンッ!
強烈な反発力に、怪異の前脚が大きく弾き飛ばされた。
◆
足場を失いかけた怪異は、バランスを保つため、六本の脚を俺のいるエレベーターかごの上へと強引に乗せてきた。
残る二本の後脚だけが、まだシャフトの躯体へと接触している。
俺は、怪異の硬い外殻へ直接殴りかかったりはしなかった。
奴の外殻は金属のように分厚い。不用意に接近した状態で重力を変えられれば、俺の方が不利になる。
俺は、怪異の『最後の二本の脚』が、どこに接触しているかを冷静に確認した。
一本は、シャフトの壁。
もう一本は、点検扉の金属の枠だ。
俺が合図を送る。
七階の天井にいた水瀬の分身が、手動のレバーを力強く引き、巨大な点検扉を『閉鎖方向』へと強引に動かした。
ガコンッ!と扉が動き、それに挟まれそうになった怪異の片脚が、枠から物理的に押し出されて離れた。
残り、一脚。
俺は右手を突き出し、《圧縮射出》を二回目として使用した。
狙うのは怪異本体ではない。怪異の最後の爪が深く食い込んでいる、『コンクリートの壁の表面』だ。
ドガンッ!と表面のコンクリートだけが浅く砕け飛び、爪の掛かりがスッポ抜けた。
怪異の八本すべての脚が、俺のいるエレベーターかごの上へと移った。
シャフトの躯体との接触が、これで完全に、物理的に切断されたのだ。
◆
怪異は、俺を壁へ落とすため、新しい重力方向へ変更しようとした。
黒い腹部の青白い線が、不気味に発光する。身体を九十度回転させようと力む。
しかし。
シャフトのガイドレールは、一切軋まなかった。
床の粉塵も、全く動かない。
重力方向も、微塵も変化しなかった。
怪異の能力が、俺たちの前で初めて、完全に『不発』に終わったのだ。
俺の視界の《ライブラリ》に、決定的な青い文字が浮かび上がる。
『局所重力方向の変更を観測』
『発動の基準として、固定構造物(シャフト)への直接の接触を必要とすることを確認しました』
『基準構造物との接触喪失による、発動の失敗を観測』
能力の謎は、これで完全に暴かれた。
だが、まだ戦闘の真っ最中だ。俺は、その青い文字をのんびり読んでいる余裕などなかった。
◆
《重力転向》の能力を封じられても、《転床虫》は依然として恐ろしい大型怪異だ。
丸太のような八本の脚と、金属のような硬い外殻を持つ。
怪異が、能力を諦めて俺へ直接の体当たりを仕掛けてきた。
鋭い顎を開き、俺の胴体を噛み砕こうと迫る。
エレベーターかごの上は狭く、逃げ場はほとんどない。
俺は、《動体視の魔眼》を二回目として発動させ、奴の無数の脚の動きと顎の軌道を完璧に読み切った。
怪異の外殻は、正面と背中が異常に分厚い。
だが、脚の付け根と、さっきまで光っていた『腹部の発光部分』だけが、比較的装甲が薄くなっている。
玲奈は、怪異と俺が近すぎるため、誤射を恐れてまだ決定打を撃てずにいた。
◆
怪異が俺を、かごの端へと徐々に追い詰めていく。
俺の背後は、深いシャフトの空間だ。俺がこれ以上後退すれば、怪異は再びシャフトの壁へと脚を伸ばして触れることができてしまう。
俺は、逃げなかった。
怪異の突進へ向けて、正面から真っ直ぐに踏み込んだ。
怪異の巨大な顎と前脚が、俺の身体を挟み潰そうとした、その直前。
俺は《境界潜行》を一回だけ使用した。
自分の身体を、かごの上面にある空間の境界へと、一瞬だけズブッと沈み込ませる。完全に別空間へ隠れて逃げるのではなく、怪異の物理的な接触を避けるためだけの、ほんのコンマ数秒の短い潜行。
俺の身体が、怪異の下をすり抜け、背後へと綺麗に抜け出た。
怪異は、俺を捕まえ損ねた勢いのまま、かごの端へと突っ込んでいった。
◆
怪異が、かごの端からシャフトの壁へと、再び脚を伸ばした。
あと数十センチで、壁のコンクリートへ接触してしまう。
俺は、《自己質量操作》を二回目として使用した。
自分の身体の質量を、一気に数百キロレベルへと極限まで増加させる。
そして《身体能力強化》の全出力で低く踏み込み、怪異の後部の外殻へと、自らの肩を全力でブチ当てた。
ドゴォォンッ!!
これは、怪異を殴り飛ばしてダメージを与えるためではない。
数百キロの重い俺の身体そのものを『巨大な楔(くさび)』として使い、怪異の巨体を強引にかごの中央へと押し戻したのだ。
怪異の伸ばした爪が、シャフト壁へ届かず空を切る。
ただし、俺一人の力では、この巨大な怪物を永遠に中央へ押さえつけ続けることはできない。
◆
仮設管制室の水瀬本体が、モニターの映像から致命的な弱点を特定した。
『玲奈さん、怪異の腹部の中央を狙ってください!』
「腹部?」
『重力転向を行う時、外殻内部の青白い光が、必ず腹部の中央へ集まっています。そこが、能力の発動器官(心臓部)である可能性が高いです!』
俺が怪異の身体を後ろから強引に押し上げ、奴の柔らかい腹部が、一瞬だけ点検扉の側にいる玲奈の方へと向いた。
水瀬が叫ぶ。
『今です! 代表の右脇の下から、一射だけ完全に射線が通ります!』
玲奈は、スコープ越しに、俺の身体、怪異の暴れる脚、そしてエレベーターの複雑な設備をすべて完璧に避ける、『たった一本の細い射線』を冷静に選び出した。
シュガァンッ!!
《圧縮射出》の最大出力。
圧縮された見えない空気の弾丸が、怪異の腹部中央の柔らかい部分へと、寸分違わずドガンッ!と命中した。
怪異の外殻が内側へと深く陥没し。青白い発光器官が、風船が弾けるようにパンッ!と破裂した。
ギャァァァッ……!
怪異の八本の脚から、一気に生命力が抜け落ちていく。
俺が重い身体を離すと、《転床虫》はエレベーターかごの上へと、ドサリと崩れ落ちて完全に動かなくなった。
◆
怪異が死亡した。
これで終わりだと、俺が息を吐こうとした瞬間。
各階に残っていた重力異常の磁場が、急速に弱まり始めた。
水瀬のセンサーが、建物全体の重力方向が、一気に『本来の地球の下方向』へと戻ろうとする強烈な兆候を捉えた。
ただし、即座にストンと戻るわけではない。約三秒ほどかけて、異常な壁や天井の方向から、ジワジワと本来の床へと切り替わっていく。
それはつまり。
この建物の中に残されている、壁へ積もった何トンもの家具、天井へ落ちていた無数の瓦礫、横向きの配管へ乗っていた重い資材、転がっていた工具。
そのすべての物が。一斉に『本来の床』へと向かって、滝のように落下してくるということだ。
水瀬が、インカムで全員へ悲鳴のような緊急警告を飛ばした。
『怪異を倒して終わりではありません! 全階、本来の重力へと一気に復帰します! ……三、二、一!』
◆
俺は、エレベーターかご上の太い安全索のワイヤーを、両手で死に物狂いで掴んだ。
玲奈は、点検フロアの太いコンクリート柱へと身体を回して固定する。
水瀬の分身は、七階の躯体アンカーへロープを繋いで耐える姿勢を取った。
ゴォォォォンッ!!
重力復帰。
俺たち三人の身体が、それぞれ今まで立っていた異常な壁や天井から、本来の床へと向かって一斉に引っ張られ、投げ出される。
エレベーターシャフト内の上部に引っかかっていた資材も、一斉に下へと雨のように落ちてくる。
怪異の重い死骸までもが、傾いたかごの上を滑って俺の方へと迫ってきた。
俺は、これ以上質量操作の能力を使わず、ただ安全索のテンションと《身体能力強化》の腕力だけで、落ちてくる瓦礫を避け続けた。
玲奈が、落下してくる鋭い金属板を《圧縮射出》で空中で撃ち抜き、俺の頭上から安全な方向へと逸らしてくれた。
数秒間の地獄のような落下の嵐の後。
俺たち三人は、ホコリまみれになりながらも、無事に『本来の床』へと着地することに成功した。
建物全体から、横の壁に積まれていた家具や瓦礫が、一斉に本来の床へと落下して叩きつけられる轟音が、しばらくの間響き渡っていた。
◆
水瀬本体が、外部の消防へと安全の連絡を入れた。
建物内の重力異常が完全に消失したことが確認された。
六階に取り残されていた坂口は、すでに三階の安全な場所で水瀬の分身から消防の特殊救助隊へと引き渡され、建物外へと搬送済みだった。
右脚の骨折と肩の脱臼という重傷だが、生命に別状はないという。他の取り残された作業員もいない。
俺、玲奈、水瀬の分身も、一階へと階段を下りて退避を開始した。
今まで俺たちが歩いていた垂直な壁や天井が、今はただの『普通の壁』と『普通の天井』に戻っている。
俺は、平らな普通の床を真っ直ぐに自分の足で歩きながら、重力が下にあることの妙な安心感とありがたみを、心の底から実感していた。
◆
建物外へ脱出し、医療テントで軽いチェックを受けた後。
俺が一人でパイプ椅子に座って水を飲んでいると、視界の《ライブラリ》に、最終的な解析完了の青い文字が浮かび上がった。
『因果律改変現象の作用、発動手順、基準構造、失敗条件のすべてを観測しました』
『《重力転向》を登録しました』
俺の正式な登録能力数は、これで十八種類となった。
暫定解析の内容。
『《重力転向》』
『接触している固定構造物を基準の方位盤として、周辺の局所的な「下方向」を九十度単位で変更する。
発動には、基準となる構造物への直接的な物理接触が必須。
変更可能な方向、影響範囲、持続時間、対象重量は、使用者の出力と認識の強さに依存。
怪異が使用していたような「建物階層全体」といった大規模な再現の可否については未検証。
固定構造物との接触を失った場合、新たな方向変更は成立しない』
俺は、その説明を読んで冷静に理解した。
(……俺がこれを使ったからといって、あの怪異と同じように、ビルの一階層の重力をまるごと変えられるとは思わない方がいいな)
あの怪異は、何日も前からあのエレベーターシャフトへ巣食い、長期間にわたってあのビル全体を『自分の領域』として支配し、認識を広げていたからこそ、あそこまでの大規模な干渉ができたのだ。
人間である俺が、咄嗟に戦闘で使用した場合。
「数メートル程度の範囲」「数秒の短時間」「一つの小さな室内」「自分の周囲だけ」など、大幅に出力と効果範囲が小さくなる可能性が極めて高い。
俺は、その《重力転向》の項目をそっと閉じ、後日、誰にも見られない安全な場所でこっそりと検証しようと決めた。
◆
建物の前で。
玲奈が、アスファルトの普通の地面へと、コンコンと片足を強く踏みつけて確かめていた。
「……床がちゃんと下にあるって、こんなに信用できて安心できることだったんですね」
隣に立つ水瀬の分身が、無表情のまま頷いた。
「ええ。今日までは、地球の重力の方向を疑ったことなど一度もありませんでしたから」
俺は、泥だらけの顔を拭いながら笑った。
「床、壁、天井、そして反対側の壁。……このビルの中の、四方向全部を走り回ったからな」
玲奈が、呆れたように俺を見た。
「代表、途中から垂直な壁の上でも、普通にスタスタ走っていましたよね? 適応早すぎませんか?」
「慣れたわけじゃない。重力に逆らって落ちて死ぬ前に、必死に走った方がマシだと思っただけだ」
すると、管制テントにいる水瀬の本体から、インカム越しに楽しそうな声が飛んできた。
『佐伯さん。その異常な適応の早さのことを、世間一般では「慣れた」と言うんですよ♡』
「……うるさい」
◆
夜。
FIELD WORKSの事務所へと戻り、片付けを終えた後。
俺は、一人で自分のデスクに座り、パソコンの画面を眺めるふりをしながら、頭の中で《重力転向》の項目をもう一度開いていた。
事務所の狭い室内を見回す。
俺の机。椅子。水瀬さんの重い書類棚。小型冷蔵庫。先日玲奈のために買ったばかりのコーヒーメーカー。
仮に、今ここで俺がこの事務所の「壁」を「下(床)」へと重力を変えてしまったら。
この部屋にあるすべての物が、横へ向かって雪崩のように落下し、一瞬で大惨事(スクラップ)になる。
俺は、能力の検証を行う候補場所のメモ欄へ、『事務所』と入力しかけて。
床の耐荷重を理由に《荷重移送》の実験を途中で止めたことを思い出した。
俺は、バックスペースキーでその文字を静かに削除した。
代わりに、
『八咫烏管理下の無人訓練施設』
『固定物撤去済みの部屋』
『水瀬さんと玲奈の不在時』
と、安全のための厳しい条件を三つも記録した。
最後に、机の端にあるピカピカのコーヒーメーカーを見る。
床が四方向に増える、とんでもない能力を手に入れた。
だが少なくとも、この狭くて物だらけの事務所の中で、気軽に試していい能力では絶対にない。
俺は、大きく背伸びをして、深い安堵の息を吐きながら、本日の業務の終了を宣言した。
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