冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる 作:パラレル・ゲーマー
三崎の事件の本格的な捜査は警察と八咫烏の専門部署へと引き渡され、俺たちFIELD WORKSは、何事もなかったかのように通常の業務へと戻っていた。
前回の久世一馬との一対一の企業代理戦は、会場の安全確保ができなかったため「ノーコンテスト(無効試合)」となっている。再試合の日程はまだ調整中だ。
その待ち時間の間に、別件として、新たな一対一の企業代理戦の依頼が入った。
ただし。
今回、FIELD WORKS側から代表選手としてリング(戦場)へ立つのは。
俺ではなく、羽田玲奈だった。
玲奈にとっては、FIELD WORKSへ加入して以来、初めて自分が代表選手として任された、本格的な一対一の公式戦となる。
そして対戦相手は。彼女のような遠距離狙撃手を狩ることに特化した、極めて厄介な能力者だった。
◆
今回の企業代理戦の争点。
京浜港湾地区にある、巨大な旧貨物ターミナルの再整備事業。
争われるのは、物流拠点全域における『防護設備・監視設備・侵入防止設備更新工事』の優先交渉権だ。契約規模は約十三億円。
防護柵、車両ゲート、防犯センサー、監視カメラ、非常照明、入退場管理設備、構内警報装置などの、大規模なセキュリティ更新工事の利権。
俺たちは《湾岸総合設備》から代理戦を受託し、相手は《東邦警備技研》という会社だ。
試合会場は、実際の工事区域とは別に一時的に封鎖された、旧貨物ターミナルの一角だった。
玲奈が、車を降りて大きく背伸びをし、晴れ渡った空を見上げた。
「……よかった。今回は完全な『屋外』ですね」
俺も、広い空を見上げて同意した。
「ああ。今日は、突然天井が落ちてくる心配はないな」
すると、横にいた水瀬の分身が無表情で付け足した。
「そうですね。……空そのものが落ちてこなければ、大丈夫ですね♡」
「……水瀬さん。そういう縁起でもないフラグを立てるようなことを言わないでくれ」
玲奈が、俺をジト目で睨んだ。
「代表。今日は私が戦う大事な日なんですから、変なフラグを立てないでくださいよ」
「俺じゃないだろ、今立てたのは事務長だぞ」
俺たちは、試合前特有の緊張を和らげるように、いつもの軽いやり取りを交わした。
◆
今回の試合形式は一対一。
FIELD WORKSは、三人の中から代表者を自由に選ぶことができる。
水瀬が、相手の公開情報を徹底的に分析した結果。
「今回の相手には、玲奈さんが最適です」
と判断し、彼女を指名したのだ。
一見すると、この判断は完全に矛盾しているように思えた。なぜなら、相手の能力は明らかな『対射撃能力(アンチ・スナイパー)』だからだ。
俺が、少し心配になって尋ねた。
「……俺が近接戦で出た方が、相性的には楽に勝てるんじゃないか?」
水瀬は、明確に否定した。
「相手を単純に殴り倒すだけなら、そうかもしれません。……ですが、公開情報が正しければ、代表が正面から殴り合うよりも、玲奈さんの方が『安全な攻略手段』を多く作れるはずです」
玲奈も、愛用の狙撃銃を肩に担ぎながら、自信ありげに頷いた。
「代表。……私にとって、相手の身体(人体)を撃つ以外にも、撃つべき場所なんてこの戦場にいくらでもありますよ」
この時点では、水瀬と玲奈は俺に具体的な作戦の全貌までは明かさなかった。
◆
今回の対戦相手。
柴崎圭吾(しばさき・けいご)。三十五歳。《東邦警備技研》所属。
本職は、重要施設警備計画および侵入対策の設計担当。登録評価はTier4。修練型の能力者。
保有能力は二つ。《身体能力強化》と、《反響標(はんきょうひょう)》。
柴崎は元々、民間の警備会社の現場警備員だった男だ。物流倉庫、データセンター、発電関連施設などで長年勤務してきた。
能力に覚醒した後も、単なる戦闘専門の傭兵にはならず、「どう侵入されるか」「どこから攻撃されるか」「どこを守れば人が通れなくなるか」を考える、施設警備の設計側へと進んだ実務家だ。
格闘の経験も、ボクシング、警備員向けの制圧術、対刃物訓練など、極めて実践的で堅実なものだ。玲奈ほど遠距離戦に特化してはいないが、中距離から一気に接近戦へ持ち込み、相手を制圧することには非常に慣れている。
そして、彼の持つもう一つの異能。
《反響標》。
基本効果。
柴崎本人へと向けられた、『明確な遠距離攻撃』が実行されるコンマ数秒の直前。
その攻撃の「おおよその発生方向」「攻撃の線(射線)」「発生地点」を、短いノイズのような『反響』として感知する能力。
彼本人の感覚としては、「自分の頭の中へ、見えない一本の細い針がチクリと刺さり、その針の延長線上に攻撃者がいるのが分かる」ような知覚だという。
これは、未来を完全に視る「予知能力」ではない。
あくまで、「自分という標的へ向けて、成立しようとしている攻撃の因果」を、直前にアラートとして感知しているだけだ。
有効距離は、約百二十メートル。それ以上離れると精度が大きく低下する。
感知できるものは、銃撃、矢、投擲武器、直線的な衝撃波、能力による弾丸など、「自分を直接狙ったすべての遠距離攻撃」だ。玲奈の《圧縮射出》は、完全に感知の対象となる。
◆
だが、この《反響標》にも、明確な弱点(感知できないもの)が存在する。
柴崎本人を直接狙っていない射撃には、一切反応しないのだ。
地面を撃つ。柱を撃つ。扉を撃つ。足場を動かす。煙や粉塵を起こす。物体を倒して進路を塞ぐ。
そうした、「攻撃線そのものが柴崎の身体へ到達しない行為」に対しては、アラートは全く鳴らない。
ただし、「壁へ向けて撃って跳弾させ、最終的に柴崎の身体を狙う」といったように、直接的な攻撃の因果として成立しているものは、当然感知されてしまう。単純な跳弾による裏のかき方は通用しない。
そして最大の弱点。
《反響標》は、攻撃を自動的に防いでくれるバリアではない。「どこから来るかが分かる」だけだ。
アラートが鳴っても、柴崎自身が肉体で回避できなければ普通に当たる。攻撃者の正確な能力の正体までは分からない。同時に複数方向から危険が来れば、感知情報も混線する。
柴崎の戦闘スタイルは、シンプルだ。
狙撃手からの攻撃の予兆を感じる。発射の直前に、横へ強く踏み込んで回避する。同時に、頭に刺さった針の感覚から、攻撃者の方向を把握する。
そして《身体能力強化》の力で、その方向へ向かって一気に距離を詰め、近接戦闘で制圧する。
つまり。
玲奈が彼へ向かって一発撃つたびに、確実に『自分の位置を柴崎へ教える』ことになる。
一般的な狙撃手ほど、絶望的に相性が悪い相手なのだ。
柴崎自身も、自分のその特性を熟知している。
◆
試合開始前。
玲奈と柴崎が、開始地点へと向かった。
開始距離は、約百八十メートル。玲奈の狙撃の有効範囲だが、柴崎の《反響標》の精度が落ちるギリギリの距離。
玲奈は普段の狙撃銃を携行している。柴崎は武器を一切持っていない。
柴崎が、玲奈の銃を見て静かに言った。
「羽田玲奈さんですね」
「はい」
「あなたの過去の試合映像は、すべて見させてもらいました。見事な射撃でした」
玲奈は、表情を変えずに短く返した。
「……私もです」
柴崎は、軽く頷いた。
「撃たれないように、頑張ります」
玲奈も、真顔で返した。
「私も、撃たないように頑張ります」
柴崎が、その玲奈の言葉に一瞬だけ「?」と首を傾げた。
◆
俺と水瀬の分身は、FIELD WORKS側のセコンド区画のテントへと入った。
水瀬の本体は、外部の仮設管制車両に残り、試合会場の固定カメラから全体の盤面を分析している。
俺は、双眼鏡を使わず、肉眼で見える範囲を中心に試合を観戦することにした。
今回は、俺が《ライブラリ》のコピーを狙って必死に相手の能力を凝視する必要はない。
俺が出る試合じゃない。今日は、玲奈が自分で勝つ試合だ。
◆
ブザーが鳴り響いた。
「試合開始!」
玲奈が、即座に《身体能力強化》を発動させ、右側の海上コンテナの群れの中へと足音を殺して走った。
柴崎も、玲奈から距離を詰めつつ、反対側の遮蔽物へと素早く隠れる。
玲奈は開始から約二十秒で、コンテナの脇にある低いコンクリート製の車止めの裏へと伏せた。
柴崎との距離、約百十メートル。《反響標》が明確に機能する距離だ。
柴崎は、まだ玲奈の正確な位置を把握していない。
玲奈が、スコープの十字(クロスヘア)へと柴崎の姿を捉えた。
狙うのは、急所の胸や頭ではない。殺傷ではなく戦闘能力を削るための安全な部位、右の肩口だ。
玲奈の指が、トリガーへと掛かる。
◆
玲奈が、『撃つ』と心の中で決めた、その瞬間。
まだ、彼女の指はトリガーを引き切ってはいない。
だが、スコープの中の柴崎が、突然右側へと大きく、鋭く踏み込んだ。
玲奈の目が、驚愕に見開かれた。
「……!」
その直後。
シュガァンッ!
玲奈の《圧縮射出》による見えない空気弾が、柴崎が『一瞬前までいた場所』の空気を虚しく切り裂いて通過した。
外れた。
しかも柴崎は、回避行動を取った直後、迷うことなく玲奈が潜んでいるコンテナの方向へと、鋭く顔を向けたのだ。
彼は玲奈の正確な位置(座標)までは分かっていない。しかし、「自分を狙ってきた攻撃が、どの方角から飛んできたか」は、頭に刺さったアラートの感覚によって完全に把握されている。
柴崎が、迷いなく玲奈のいるコンテナ群へ向かって走り始めた。
◆
玲奈は、即座に射撃地点を放棄した。
コンテナの裏を抜け、次の遮蔽物へと素早く移動する。
柴崎は、まだ百メートル以上離れている。
しかし、《身体能力強化》による高速接近。
彼は、一直線には向かってこない。コンテナ、車止め、古い管理設備などを巧みに利用し、玲奈からの射線を切りながら、ジグザグに確実に近づいてくる。
水瀬の本体から、インカムで冷静な分析が飛んできた。
『……柴崎選手の能力の反応開始は、玲奈さんの発射より「約〇・三秒前」です』
「撃った弾の音を聞いてから、場所を探してるんじゃないんだな」
俺が言うと、水瀬が肯定した。
『はい。玲奈さんが柴崎選手を標的とした攻撃の因果が成立し、トリガーを引く直前には、もう彼の回避行動は始まっています』
◆
玲奈が、別の地点へと移動した。
距離、約八十五メートル。
今度は、柴崎がこちらを見ておらず、完全に背中を向けて別のコンテナの陰を警戒しているタイミングだった。
背中の死角。
玲奈が、再びスコープで狙いを定め、引き金を引く。
シュガァンッ!
やはり。
発射のコンマ数秒前。柴崎が、背中に目でもついているかのように、突然身体を極端に低く沈め込んだ。
空気弾が、彼の頭の数センチ上を虚しく通過していく。
柴崎は即座に振り向き、そのまま玲奈の新しい狙撃位置へと向かって、さらに加速して走り始めた。
二回。
完全に、同じパターンを再現された。
◆
水瀬が、インカムで冷徹に告げた。
『羽田さん。……十分です。彼本人への直接射撃は、ここまでにしてください』
「……了解」
玲奈が、悔しさを押し殺して短く答えた。
俺が、横で聞いた。
「もう撃たせないのか?」
『はい。この相手に対しては、玲奈さんが彼本人へ向かって撃つたびに、確実に『自分の位置を教える』ことになります。百害あって一利なしです』
水瀬が、一拍置いて、俺たちのこの試合の絶対のルールを宣言した。
『この試合――』
『狙撃手が、相手を撃ったら負けです』
◆
柴崎も、玲奈が突然ピタリと射撃を止めたことに気づいた。
(……俺の能力の条件を、たった二発で完全に理解したか。優秀な後衛だ)
柴崎は走りながら内心で評価した。
だが、それ自体は彼の想定内だ。過去の彼の対戦相手たちも、皆この能力の厄介さを途中で理解して攻撃を止める。
それでも、結局のところ。自分(柴崎)を倒して試合に勝つためには、いつか必ず自分へ攻撃を仕掛けなければならないのだ。
だから、彼は強い。
柴崎は、遮蔽物を利用しながら着実に距離を詰めていく。
八十メートル。七十メートル。六十メートル。
玲奈は、一切撃ってこない。
◆
柴崎が、コンテナの長い列の角へと差しかかった。
玲奈は、息を潜めて銃口を構えていた。
しかし彼女が狙っていたのは、柴崎本人ではなかった。
彼の五メートル前にある、錆びた古い『貨物標識の金属支柱』だった。
シュガァンッ!
《圧縮射出》。
柴崎の《反響標》は、全く反応しなかった。
金属支柱の根元へ、凄まじい衝撃波が命中する。
バキンッ!と音がして、重い標識が柴崎の進行方向へと斜めに倒れ込んできた。
「……!」
柴崎は驚いて急停止し、倒れてきた標識を避けるために、慌てて走路を右へと変更した。
玲奈は、その彼が立ち止まった数秒の隙に、全く別のコンテナの裏へとさらに大きく移動していた。
柴崎は、倒れた標識を見て呟いた。
「……なるほど」
彼は、ようやく玲奈の本当の意図を理解し始めた。
◆
柴崎が、別ルートから再び接近を試みる。
玲奈は今度は、彼の足元から少し離れた『地面』を狙った。
舗装が傷んで、古い砂利が露出している部分だ。
シュガァンッ!
《圧縮射出》。
柴崎本人には当てていないため、《反響標》は当然反応しない。
地面の砂利が爆発したように弾け飛び、大量の砂埃と細かな石つぶてが、柴崎の顔面へと向かって大きく舞い上がった。
柴崎は、思わず腕で顔を覆い、視界が数秒間完全に遮られた。
玲奈は、その砂埃の目隠しの間に、さらに二十メートルも安全な方向へと後退していた。
水瀬が、管制室で頷いた。
『やはり、柴崎選手本人を『終点』としない間接的な射撃には、彼の能力は一切反応していません』
能力の条件の限界が、完全に確定した。
◆
だが、ここで柴崎をただの的(マト)だと馬鹿にしてはいけない。
彼はプロの警備設計者だ。玲奈が「環境を撃って自分をコントロールしようとしている」という戦術を理解すると、彼は即座に自分の走路を大幅に変更した。
倒れたり、動かされたりする可動物(コンテナや標識)が多いエリアから、あえて離れたのだ。
彼が向かったのは、貨物ターミナルの中央を貫く、広い舗装道路のど真ん中だった。
そこには、遮蔽物となるような大きな物はない。
あるのは、低くて動かないコンクリート製の中央分離ブロック、排水溝、白線、そして廃止された古い車両ゲートの鉄骨くらいだ。
柴崎にとって、そこは玲奈が「撃って動かせる物」が極端に少ない、能力を無効化されにくい安全なルートだった。
俺が、セコンド席で呟いた。
「……向こうも、玲奈さんの狙いが分かってるな」
『はい』と水瀬が答える。『自分から、射撃で環境操作されにくい、何もない場所へと移動しています』
◆
柴崎は、その広い中央道路を使って、一直線に玲奈への距離を詰め始めた。
玲奈との距離、五十メートル。
玲奈は、見つからないように射撃位置を細かく変えながら後退し続けている。
だが、純粋な走力では柴崎の方が圧倒的に速い。
玲奈自身も《身体能力強化》を使っているが、「逃げながら次の射撃地点を探して選ぶ玲奈」と、「ただ最短距離で標的を追えばいいだけの柴崎」とでは、どうしても速度差が出てしまうのだ。
水瀬が、インカムで冷徹に警告した。
『羽田さん。このままのペースなら、あと約三十秒で彼の間合い(近接格闘距離)に入られます』
「分かってます」
玲奈の声は、焦っておらず、驚くほど落ち着いていた。
◆
俺は、玲奈の逃げている『動線』をジッと見ていた。
玲奈は、確かに逃げている。
だが。俺には、彼女が「最短距離で安全な場所へ逃げている」ようには見えなかった。
わざと、柴崎をその中央の広い道路へと『誘導』しているように見えるのだ。しかも、何度か横へ逃げられるはずの細い脇道を、わざと見送ってスルーしている。
「……あいつ、一方的に追い込まれてるんじゃないな」
俺が言うと、水瀬がフフッと笑った。
『はい』
『追われているんじゃありません。彼女が、自分の意思で「追わせている」んです』
ここで初めて、俺にも分かった。
玲奈はただ逃げているのではなく、この広い戦場を使って、自分のための『盤面』を作り始めているのだ。
◆
中央道路は、確かに広い。
だが、その百メートル先では、状況が少し違っていた。
左側には、深い排水溝の列。
右側には、コンクリート製の重い車止めがズラリと並んでいる。
そして中央には、旧大型車両ゲートの錆びた鉄骨。
それらの障害物によって、広い道路の通路幅が、奥へ行くにつれて徐々に狭く、限定された『一本道』になっているのだ。
玲奈は、柴崎をそこへと誘導していた。
柴崎本人は、「射撃される物が少ない、安全なルートを自分で選んで走っている」と思っている。
しかし実際には、玲奈が他のルートを事前に撃って潰した結果、無意識のうちにそこを『選ばされていた』のだ。
◆
左側に、唯一の逃げ道となる細い通路があった。
玲奈が、柴崎本人ではなく、路肩に設置されている古い『可倒式の車両進入防止バー』の固定金具へと向けて、正確に撃ち抜いた。
ガチンッ!
金具が外れる。カウンターウェイトのバランスを失った長いバーが、ギィィィッと音を立ててゆっくりと下降し、左のルートを完全に塞いだ。
柴崎は、仕方なく前へ進む。
次は右側。
そこには、使われていない軽量の樹脂製車止めが、山のように積まれていた。
玲奈が、その最下段の固定ベルトの金具『だけ』を正確に撃ち抜いた。
バラバラバラッ!と、大量の樹脂製車止めが、道路上へと散乱する。
人体へ当たっても危険な重量ではない。だが、全力疾走している状態でそれを踏めば、確実に足を取られて転倒する。
柴崎は、右へと出ることもできなくなった。
前へ進むしか、道が残されていない。
◆
柴崎が、ここで初めて、ハッとして足を止めた。
後ろを振り返る。
左は、降りたバー。右は、散乱した車止め。そして正面には、銃を構えた玲奈。
自分で安全だと思って選んだはずの、何もない道路。
しかし実際には、最初から玲奈が彼をここへと誘導し、周りの環境を撃って退路を塞ぎ、完全に『袋小路』へと追い込んでいたのだ。
柴崎が、少し離れた玲奈へ向かって、呆然と呟いた。
「……最初から、俺を狙ってなかったのか」
玲奈は、距離を保ち、銃を構えたまま静かに返した。
「ずっと狙ってましたよ」
「……」
「あなたじゃなくて。……『あなたが通る場所』を、です」
それが、狙撃手である羽田玲奈の、明確な戦闘思想だった。
◆
だが、柴崎もそこで諦めて足を止めるような男ではない。
彼は《身体能力強化》の出力をさらに上げ、正面突破を図った。
距離、四十メートル。三十五メートル。三十メートル。
玲奈が撃ってこない以上、柴崎の頭に《反響標》の警告のアラートは鳴らない。
だが同時に、自分への直接攻撃(弾丸)も絶対に来ないという確信があった。
そのまま距離を詰めて懐へ入れれば、近接戦闘では自分が確実に勝つ。柴崎はそう判断し、突進の速度を上げた。
◆
二十五メートル。
柴崎が走りながら、玲奈を挑発するように叫んだ。
「撃たないんですか!」
「撃ってますよ!」
玲奈が叫び返した直後。
彼女がトリガーを引いたのは、柴崎の足元――ではなく。
柴崎の数メートル先にある、『排水溝の金属製の蓋』の、小さな固定ボルトだった。
シュガァンッ!
《反響標》は反応しない。
固定ボルトが弾け飛ぶ。ただし、蓋そのものはまだ落ちていない。
柴崎は、玲奈の意図を瞬時には理解できなかった。そのまま前進を続ける。
◆
玲奈は、さらに別の排水蓋の固定具を次々と撃ち抜いていく。
一枚。二枚。三枚。
蓋を破壊して穴を開けているのではない。固定だけを外して、不安定な状態にしているのだ。
そして玲奈自身が、その場所からスッと横へ離れる。
柴崎は、逃げる玲奈を最短距離で追うため、その固定を外された排水溝の区画の上へと、一切の躊躇なく進入した。
◆
玲奈は、柴崎へ一発も撃たない。
柴崎の絶対の能力は、沈黙したままだ。
柴崎が、一枚の排水蓋の上へと、強く足を踏み入れた。
通常なら、人間一人の体重が乗った程度では、重い金属の蓋はビクとも動かない。
しかし。四隅の固定具を完全に外された状態で、《身体能力強化》による高速走行の凄まじい踏み込みの荷重が一点にかかったことで。
ガコンッ!
という音と共に、金属の蓋がわずかに斜めに傾いた。
完全に落下して穴に落ちるほどではない。
だが、柴崎の右足が、数センチだけガクッと不自然に下に沈み込んだ。
全力疾走中の彼の姿勢が、ほんの一瞬だけ、大きく崩れた。
わずか〇・五秒の、致命的な隙。
◆
玲奈は、銃を投げ捨てなかった。
スリング(負い紐)で銃を身体へ固定したまま、一気に前へと飛び出した。
《身体能力強化》。
柴崎の姿勢が戻る前に、二十メートルの距離を一瞬で詰める。
玲奈は、近接格闘の達人ではない。俺のようにボクシングや空手で殴り合う技術はない。
だから、彼女は殴り合わなかった。
柴崎の右腕をガシッと取り、自分の肩を彼の胸元へと強く当てる。
そして、柴崎の『沈んだ右足側』へと、自分の全体重をグッと乗せて寄せる。
崩れかけていた姿勢を、さらに同じ方向へと押し込んだのだ。
バランスを完全に失った柴崎が、ドスンッ!と無様に地面へと転倒した。
◆
それでも、柴崎は強かった。
転倒しながらも見事な受け身を取り、即座に玲奈の腕を掴み返し、逆に彼女を地面へ引き倒そうとしてきた。
純粋な近接の組み技の技能では、柴崎の方が圧倒的に上だ。
玲奈の身体が、地面へと強引に引かれる。
俺はセコンド席で、思わず「ああっ!」と身を乗り出した。
だが、ルール上俺が介入することはできない。
玲奈は、無理に腕力勝負をして抵抗しようとはしなかった。
一歩だけ、柴崎が引く方向へと、自分からスッと入り込んだのだ。
重心を前へ。
柴崎の力任せの引きが、予想外の抵抗のなさに空振る。
そのまま、玲奈が身体をクルリと回転させた。
◆
二人が揉み合うすぐ横には、先ほど玲奈が固定具を外しておいた、もう一つの『排水蓋』があった。
玲奈は、柴崎をそこへ力任せに投げ飛ばすような真似はしなかった。
自分の踵(かかと)で、その蓋の端を強く踏みつけたのだ。
固定されていない蓋が、ガコンッ!と斜めに跳ね上がるように傾く。
柴崎は、足元で突然傾いた鉄の蓋に驚き、反射的にそこを避けるように身体を動かした。
その避けた方向は。
玲奈が、最初から欲しかった完璧な方向(ポジション)だった。
玲奈が、スッと脚を掛ける。
柴崎の膝裏のバランスを完全に崩す。
柴崎の身体が、横へと為す術もなく崩れ落ちる。
その背中へと、玲奈が素早く回り込んだ。
◆
玲奈が、倒れた柴崎の右腕を背中へと強引に回してロックした。
膝で、彼の腰をガッチリと押さえ込む。
狙撃銃のスリングを自分の身体へ固定したままなので、格闘中に武器を奪われる心配もない。
柴崎は《身体能力強化》の力で強引に起き上がろうと暴れる。
しかし、足元が排水蓋と車止めで極端に不安定なうえに、片腕を完全に制御されているため、力が上手く入らない。
レフェリーが、近寄ってカウントを開始した。
「三!」
「五!」
「七!」
柴崎は一度だけ大きく身体を捻って起きようとしたが、玲奈が冷静に体勢を修正し、再び押さえ込んだ。
「十!」
レフェリーストップ。
ブザーが鳴り響いた。
勝者、羽田玲奈。
◆
重要なのは。
玲奈はこの試合中、柴崎本人への有効な《圧縮射出》の直撃を、『一発も』当てていないということだ。
彼女が直接相手を狙ったのは、最初の検証のための二発だけ。どちらも外れた。
その後に彼女が撃ち続けた対象は、標識、路面、可倒式バー、車止めの固定具、そして排水蓋の固定具だけだ。
最後の決着も、射撃の威力で人を倒したのではない。
射撃で、相手が動ける地形(盤面)を自分に有利に作り替え。最後だけ、身体能力と体捌きで制圧したのだ。
◆
試合終了後。
玲奈が立ち上がり、乱れた息を整えた。
柴崎も、レフェリーの手を借りてゆっくりと起き上がった。
柴崎は、自分の作業服についた砂埃を払いながら、清々しい顔で言った。
「……完敗です」
「能力の相性的には、かなり嫌で厳しい相手でしたけど」
玲奈が正直に答えると、柴崎は苦笑した。
「俺は、ずっとあなたの(狙撃手の)姿を追っていたつもりだったんですがね」
彼は周囲の惨状を見た。
倒された標識。閉じたバー。散乱した車止め。固定の外れた無数の排水蓋。
「気づいた時には、俺が走る道を、全部あなたに決められていましたよ」
玲奈は、否定せずに小さく頷いた。
◆
玲奈が、セコンド区画へと戻ってきた。
俺は、タオルと水を渡しながら言った。
「お疲れ様。……結局、最後まで本人には一発も弾を当てなかったな」
「当てたら、私が負ける相手でしたから」
玲奈が水を飲みながら答える。
水瀬も笑顔で付け足した。
「正確には、直接撃てば撃つほど、玲奈さんが不利になる相手ですね♡」
玲奈が、肩の狙撃銃のストラップを掛け直して、誇らしげに言った。
「狙撃って、別に人の身体を撃ち抜いて殺すことだけじゃないですから」
「……」
「必要な場所に、必要な一発の力を通せれば。それでいいんです」
俺は、それを聞いて確信した。
玲奈はもう、俺が前に立って守らなければならない『ただの後衛』ではない。
一人で盤面を支配し、代理戦を勝ち抜ける、立派な選手(プロ)なのだと。
ただし、面と向かって大仰に成長を褒めるのは照れくさかったので、俺は軽く返した。
「……今度から俺が戦う時も、あんまり俺の足元の変な場所を撃って、俺ごと転ばせないでくれよ」
「代表が、変な場所に立たなければ大丈夫ですよ」
玲奈が、悪戯っぽく笑った。
◆
柴崎が、帰り際にFIELD WORKS側へ挨拶に来てくれた。
俺とも、軽く握手を交わす。
「佐伯さん。……俺はてっきり、あなたが近接戦で出てくるものだとばかり思っていました」
「俺も、最初は自分が戦うもんだとばかり思ってましたよ」
柴崎が、横にいる玲奈を見て苦笑した。
「でも、こちらとしては、羽田さんが一番最悪の相手でした」
水瀬が、自慢げに胸を張った。
「ですから、玲奈さんを選んだんですよ♡」
これで、試合前に俺が抱いていた「自分が出た方が相性的には楽ではないか」という疑問にも、答えが出た。
《反響標》という能力は。
直接攻撃の手札が多い俺のような相手よりも。「遠距離から、環境の一点を正確に操作して盤面を作る」玲奈の方が、実は攻略しやすかったのだ。
◆
俺は今回、柴崎の《反響標》を《ライブラリ》に登録することはできなかった。
理由は明白だ。
俺が外のセコンド席から観察できたのは、「柴崎が射撃の前に回避した」「射撃方向へ正確に振り向いた」「本人以外への射撃では無反応だった」という『結果』だけだからだ。
柴崎本人が、頭の中で「何を、どのように知覚しているのか(針の感覚)」を、俺は直接観測することができなかった。
《ライブラリ》にも、新しい登録の通知は出ない。
(……やっぱり、頭の中だけで完結する見えない能力は、外から見ただけじゃコピーして取れないか)
俺は内心で確認し、少しだけ残念に思った。
俺の登録異能数は、二十種類のままだ。今回は、新しい異能を増やすことはなかった。
◆
帰路の車内。
水瀬が、タブレットで玲奈の試合データを整理していた。
「直接射撃:二発。命中:ゼロ」
「環境への《圧縮射出》:複数回」
「柴崎選手本人への《圧縮射出》命中率:完全にゼロ」
「勝敗:羽田玲奈の勝利」
水瀬が、面白そうにクスクスと笑った。
「……狙撃手の公式の試合記録としては、かなり妙な数字になりましたね♡」
「勝ちは勝ちです。文句ありますか」と玲奈が言う。
「相手に一発も弾を当てずに勝った狙撃手か。前代未聞だな」
俺も笑って同意した。
◆
FIELD WORKSの事務所へ戻った。
玲奈が、自分のデスクで愛用の狙撃銃のメンテナンスを丁寧に始めている。
俺は横で、依頼主へ提出する今回の試合の報告書をパソコンで打っていた。
今回の『勝因』の入力欄。
俺は、
『環境利用による敵の移動経路制限』
と入力し、少しキーボードを止めて考えた。
玲奈が、横から画面を覗き込んで言った。
「代表。そこに『相手を撃たなかったから勝てた』って書かなくていいんですか?」
「そんなマヌケなこと、報告書に書く必要あるか?」
俺が言うと、水瀬が横から口を挟んだ。
「むしろ重要では? 狙撃担当が、対戦相手への射撃命中率ゼロで勝ったという偉業なんですよ♡」
「命中率ゼロって書かれると、私がすごく下手くそで弱そうに見えるじゃないですか!」
玲奈が怒った。
俺は苦笑して、バックスペースキーで文字を削除した。
代わりに、こう入力した。
『直接射撃に依存せず、戦術と体術にて制圧』
玲奈が、その文字を見て満足そうに頷いた。
「……うん。それなら、カッコいいからいいです」
狙撃手が、撃ったら負ける試合だった。
だから玲奈は、相手へ一発も当てることなく、見事に勝ってみせたのだ。
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