冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

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第5話 企業代理戦のために格闘技をコピーした

 日曜日の午前。

 

 遅めの起床を果たした俺は、インスタントコーヒーをマグカップへ注ぎ、狭い部屋の安テーブルの前に腰を下ろした。

 

 ぼんやりとスマートフォンへ手を伸ばすと、メッセージアプリに新着通知が入っている。

 

 送信者は、霧島。

 

 昨日の今日で、随分と仕事が早い。

 

『昨日お問い合わせいただいた、登録能力者向け業務の資料を送付します』

 

『※本資料は機密情報を含みます。第三者への転送、複製、および別端末での画面撮影は禁止されています。違反が確認された場合、法的措置および登録抹消の対象となります』

 

「物騒だな……」

 

 厳しい警告文とともに、専用アプリへの案内が添付されていた。

 

 指定されたアプリをインストールし、生体認証を済ませて資料を開く。

 

 画面へ現れた表紙には、堅苦しい明朝体でこう記されていた。

 

『企業間特殊調停制度・登録能力者向け概要』

 

 それが、昨日霧島の口にした『企業代理戦』の正式名称らしい。

 

 行政機関が管理する以上、表向きには整った名前が必要なのだろう。

 

 だが、ページをめくると、資料の中でも注釈として『企業代理戦』『権益戦』『代理決闘』といった呼び方が使われていた。

 

 現場では、そちらの方が一般的らしい。

 

 最初はコーヒーを飲みながら、適当に流し読みするつもりだった。

 

 しかし数ページ進んだところで、俺はマグカップをテーブルへ置き、画面へ食い入るように文字を追い始めていた。

 

     ◆

 

 資料の序盤には、企業代理戦の基本的なルールと理念が記されていた。

 

『原則として、能力者同士の一対一による対人戦とする』

 

『対象となる権利および契約内容を事前に明文化し、双方が試合結果へ従う旨の法的契約を締結すること』

 

『監督機関が指定する会場を使用し、公式審判および専門医療班を配置する』

 

『勝敗は、降参、十秒以上の行動不能、場外、または審判による試合停止によって決する』

 

『故意の殺害、および試合終了後の攻撃を固く禁ずる』

 

『※レギュレーションによっては、双方の事前合意に基づき、武器や特殊装備の使用を許可する場合がある』

 

「……要するに、企業同士の揉め事を、ルールのある殴り合いで決着させるわけか」

 

 思わず呆れた声が漏れる。

 

「狂ってるな」

 

 だが、読み進めていくと、この制度が作られた背景も簡潔に書かれていた。

 

 かつて、力を持った能力者たちが、企業や裏社会の組織に用心棒として雇われ、水面下で襲撃や報復を繰り返していた時代があったらしい。

 

 当然、一般社会への被害は大きい。

 

 目撃者や証拠が増えれば、能力者の存在そのものが公になる危険もある。

 

 そこで、監督機関が能力者同士の争いを管理された試合場へ押し込め、合法的な調停手段として制度化した。

 

 それが企業代理戦だった。

 

 正義のヒーローが頂点を決めるための、華やかな格闘大会ではない。

 

 欲望と暴力が、無秩序に街へあふれ出すことを防ぐための代替手段。

 

 企業代理戦とは、そういう制度だった。

 

 資料には、企業名や個人名を伏せた形で、過去の事例がいくつか掲載されていた。

 

 最初は、拍子抜けするほど小さな案件だ。

 

『事例一:地方の食品卸会社二社による、特定飲食チェーンへの優先納入ルート争い』

 

 通常なら、営業担当者による交渉や、価格競争によって決まるはずの案件だ。

 

 だが、両社の背後に能力者が関わり、営業妨害や物理的な襲撃へ発展しかけた。

 

 そこで監督機関が介入し、代理戦を実施。

 

 勝利した企業が、三年間の優先納入権を獲得している。

 

 俺は、普段何気なくコンビニで買っている弁当や、居酒屋で口にするビールを思い浮かべた。

 

 その商品の流通ルートを決めるために、どこかで見知らぬ能力者同士が殴り合っていた可能性がある。

 

 そう考えると、少し背筋が寒くなった。

 

 ほかにも、

 

『中小物流会社による特定地域の配送ルート使用権』

 

『大型商業施設への優先出店契約』

 

『地方テレビ局の番組スポンサー枠』

 

 など、一般人の生活にもつながる生々しい権利が、代理戦によって決定されていた。

 

 世間には、入札の結果。

 

 あるいは、企業間協議による合意。

 

 そう発表されたニュースの裏に、能力者の拳の重さが乗っているのだ。

 

 さらにページを進めると、案件の規模は一気に跳ね上がった。

 

『新薬の共同開発権および臨床データの優先利用権』

 

『次世代通信設備のインフラ敷設権』

 

『海外資源開発への優先出資権』

 

『動画配信サービス、および国際スポーツ大会の独占配信権』

 

 極めつけは、大手製薬会社二社が、希少疾病向け新薬の開発権を巡って争った事例だった。

 

 たった一人の能力者が、たった一度の試合で勝利した。

 

 それにより、数百億円規模の権利が、一方の企業へ転がり込んだという。

 

「なるほど……」

 

 ようやく理解できた。

 

 企業からすれば、強い能力者へ数千万円。

 

 場合によっては、数億円の報酬を支払っても安い。

 

 一度勝つだけで、それをはるかに超える利益が手に入るからだ。

 

 戦う力そのものが、莫大な経済的価値へ直結している。

 

 毎日、数千円の経費を精算するために上司へ頭を下げている俺のような会社員からすれば、あまりにも規模が違いすぎる話だった。

 

 しかも、企業代理戦は日本だけで行われているわけではない。

 

 国によって呼び名や規則は異なるが、世界各地で似たような制度が存在しているらしい。

 

 欧州では『特殊仲裁試合』。

 

 北米では『能力者権益調停』。

 

 一部の地域では、政府もほとんど介入しない決闘に近い形式で行われている。

 

 多国籍企業同士が第三国の会場で戦うこともある。

 

 さらに、国家間で表立った武力衝突を避けるため、能力者同士の一騎打ちが非公式な外交手段として利用される場合まであるという。

 

 海底資源の試掘区域。

 

 国境付近の開発権。

 

 異界ダンジョンの共同管理権。

 

 能力犯罪者の引き渡し条件。

 

 もちろん、一試合で国境線が変わるわけではない。

 

 それでも、能力者一人の勝敗が、国家間の交渉へ影響を与えることはある。

 

「能力者って……本当に社会の裏側を動かしてるんだな」

 

 昨日まで、俺が知っていた能力者は、コンビニで刃物を振り回す小悪党と、霧島のような管理側の人間だけだった。

 

 だが、実際は違う。

 

 能力者は、経済や外交。

 

 世界を動かす歯車の一つになっていた。

 

 とはいえ、資料は夢のある成功談だけを語っているわけではない。

 

 終盤のページには、負傷例や死亡事故に関する重苦しい記述が並んでいた。

 

 原則として殺害は禁止されている。

 

 会場には専門の医療班も配置される。

 

 それでも、人間を超えた力を持つ者同士が、本気でぶつかり合うのだ。

 

 骨折。

 

 内臓損傷。

 

 能力暴走による後遺症。

 

 試合で恨みを買ったことによる、場外での報復。

 

 そして、赤字で強調された警告文。

 

『※対戦相手の登録情報を過信しないこと』

 

『能力の全容を隠蔽、または登録Tierを意図的に低く申告して出場する、通称「詐欺下位」が一定数存在する』

 

『実戦においては、不測の能力や副次的効果を常に想定すること』

 

 以前、霧島が言っていたことだ。

 

 相手が、馬鹿正直に自分の手札をすべて公開してくれる保証はない。

 

 情報の差が、そのまま命の危険につながる世界なのだ。

 

     ◆

 

 一通り資料を読み終えた俺は、椅子の背もたれへ深く身体を預け、天井を仰いだ。

 

 危険だ。

 

 危険すぎる。

 

 覚醒して一週間も経っていない素人が、簡単に勝てるような世界ではない。

 

 それでも。

 

 俺の頭から、一つの考えが離れなかった。

 

 企業代理戦は、基本的に能力者同士の一対一で行われる。

 

 相手は俺を倒すため、自分の異能を使う。

 

 つまり俺は、防犯カメラの粗い映像でも、動画配信でもない。

 

 同じ会場の目の前で、異能が発動する瞬間を直接見ることができる。

 

 それは、《ライブラリ》の登録条件を、これ以上ないほど完璧に満たしている。

 

 視界へ画面を呼び出す。

 

『《身体能力強化》Tier4 残り十九回』

 

『《アイテムボックス》Tier4 残り二回』

 

 昨日、測定施設で身体強化系能力者を四人見ただけで、身体能力強化の使用可能回数は二十回まで増えた。

 

 企業代理戦へ出続ければ、未知の能力を持つ人間と戦うことになる。

 

 相手の異能を直接観測し、《ライブラリ》へ登録できる。

 

 見れば見るほど。

 

 戦えば戦うほど。

 

 俺の手札は増え、ライブラリは拡張されていく。

 

 この仕事は、まるで俺の能力のために用意されたような制度ではないか。

 

 ただし、一つ大きな問題がある。

 

 俺は、身体強化系能力者として登録されている。

 

 監督官や審判の目がある公式試合で、突然炎を出したり、物を宙へ浮かべたりすれば、登録内容との矛盾を疑われる。

 

 相手の能力をコピーできたとしても、それを何も考えず、その場で使うわけにはいかない。

 

 少なくとも、身体強化とは明らかに異なる現象を見せるのは危険だ。

 

 逆に、動体視力や反射神経の強化など、身体強化の副次的な性質として説明できる能力なら、使っても疑われにくい可能性はある。

 

 だが、どこまでが許容されるかは、実際に相手の能力を見なければ判断できない。

 

 基本方針は決まった。

 

 新しい異能は登録する。

 

 だが、正体を疑われそうな能力は、その場では使わず持ち帰る。

 

 試合自体は、《身体能力強化》と、能力として検知されない格闘技能を中心に戦う。

 

 それが、俺が秘密を守りながら代理戦へ参加するための最低条件だ。

 

 もちろん、能力を増やすためだけに、命の危険がある殴り合いへ飛び込むことには迷いもある。

 

 だが、胸の奥で燻っているのは恐怖だけではなかった。

 

 俺の能力は、本物の能力者を相手に、どこまで通用するのか。

 

 あの夜のコンビニ強盗は、対能力者戦を想定していたわけではない。

 

 相手は俺を、怯えているだけの会社員だと思っていた。

 

 だからこそ、不意を突いて一撃を当てられた。

 

 だが、互いに準備を整え、真正面から戦った時はどうなる。

 

 身体能力を五倍に高めただけで、本物の能力者へ勝てるのか。

 

 《ライブラリ》は、戦闘の最中でも相手の能力を正確に登録できるのか。

 

 俺は、自分の力がどこまで通じるのか試してみたかった。

 

 三十五年間、面倒なことや勝負事から距離を置いてきた。

 

 そんな俺の中に、これほど強い闘争心があったことへ、俺自身が一番驚いていた。

 

     ◆

 

 気づけば、俺はスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開いていた。

 

 霧島の連絡先を表示し、入力欄へ文字を打つ。

 

『企業代理戦について、いくつか質問があります』

 

 数秒見つめたあと、すべて削除する。

 

 言い訳がましい。

 

 迷っているなら、最初から連絡などしなければいい。

 

 もう一度、短い文章を入力した。

 

『企業代理戦への参加を希望します』

 

 送信ボタンを押す。

 

 数分後。

 

 メッセージの返信ではなく、霧島から電話がかかってきた。

 

「佐伯さん。先ほど送っていただいた内容について確認します」

 

「はい」

 

「資料を読んだ上で、企業代理戦を受けるおつもりですか?」

 

「……はい。受けてみたいと思っています」

 

 電話の向こうで、短い沈黙が流れた。

 

「昨日まで、ご自身が能力者であることすら知らなかった方とは思えない決断の早さですね」

 

「やっぱり、すぐ飛びつく人は珍しいですか?」

 

「いいえ」

 

 意外なことに、霧島はあっさり否定した。

 

「戦闘へ転用できる能力を覚醒させた方は、大抵一度は興味を示します」

 

「そうなんですか?」

 

「せっかく特別な力を得たのだから試したい。自分がどの程度強いのか、他人と比べてみたい。そう考えること自体は、珍しくありません」

 

「なるほど……」

 

 少しだけ安心した。

 

 俺だけが、突然血の気の多い戦闘狂になったわけではないらしい。

 

「もっとも、新規登録者を、いきなり企業の権益を背負う本戦へ出すことはできません」

 

「そうですよね」

 

「まずは、エントリー戦へ出ていただきます」

 

「エントリー戦?」

 

「企業代理戦への参加を希望する能力者が、ルールを守って安全に戦えるか確認するための評価試合です。監督機関が用意した相手と、一対一で戦っていただきます」

 

 霧島の説明によれば、エントリー戦で重視されるのは、単純な勝敗だけではない。

 

 能力を制御できるか。

 

 対人戦闘へ対応できるか。

 

 審判の指示に従えるか。

 

 危険な状況で、自分から攻撃を止められるか。

 

 それらを総合的に評価する。

 

 一定の基準を満たせば、『企業代理戦候補者名簿』へ登録される。

 

 その後、企業や能力者チームから仕事の依頼を受けられるようになるという。

 

「初回の相手は、佐伯さんと近い登録Tierの能力者から選出します」

 

「相手の能力は、事前に分かるんですか?」

 

「登録Tierは通知されます。能力系統は、原則として試合当日に開示されます」

 

「当日まで分からないんですか?」

 

「エントリー戦では、未知の相手へどう対応するかも評価対象となります。ただし、安全面を考慮し、初回は極端に相性の悪い能力者を避けて選定します」

 

 つまり、完全な無作為ではない。

 

 それでも、相手が隠している能力まで保証されるわけではないだろう。

 

「武器の持ち込みは?」

 

「標準ルールのため禁止です。指定された防具のみ使用可能。制限時間は最大十分。場外、降参、十秒以上の行動不能、または審判による停止で勝敗を決定します」

 

 最大十分。

 

 脳内で計算する。

 

 《身体能力強化》の持続時間は、一回三分。

 

 三回で九分。

 

 四回使えば十二分。

 

 現在のストックは十九回。

 

 十分間を戦い抜くだけなら、使用回数には十分な余裕がある。

 

「最後に」

 

 霧島が付け加えた。

 

「エントリー戦でも、日当として十万円程度の報酬が支払われます」

 

「……十万円?」

 

 思わず声が裏返った。

 

 休日に一試合出るだけで、会社員として数日働くよりも多い金額を受け取れる。

 

「交通費と事前検査費用は別途支給します。また、試合中の負傷については、指定医療機関での治療費を制度側が負担します」

 

「勝っても負けてもですか?」

 

「はい。権益を争う本戦ではなく、評価を目的とした試合ですので」

 

 大怪我をする危険はある。

 

 だが、報酬は十万円。

 

 医療費も支給される。

 

 何より、未知の能力者の異能を直接観測できる。

 

 俺にとっては、断る理由がなかった。

 

「お試しになりますか?」

 

「お願いします」

 

「即答ですね」

 

「一応、考えた結果です」

 

「資料を送ってから、まだ一時間も経過していませんが」

 

「集中して読みましたから」

 

 電話越しに、霧島が小さく息を吐いた気がした。

 

「分かりました。次の週末の候補枠へ、佐伯さんを仮登録します。詳細が決まり次第、専用アプリへ通知します」

 

「よろしくお願いします」

 

     ◆

 

 通話が切れる。

 

 俺はスマートフォンをテーブルへ置いた。

 

 自分で申し込んだにもかかわらず、電話が終わった途端、胃の奥を締めつけられるような緊張が込み上げてきた。

 

 次の週末。

 

 俺は試合場へ上がり、能力者と一対一で戦う。

 

 コンビニでは、《身体能力強化》と《空手》Lv.1だけでどうにかなった。

 

 だが、相手が最初から対人戦を想定している能力者なら、同じようにはいかない。

 

 大振りの拳を一度当てるだけで勝てるほど、甘くはないだろう。

 

 改めて、《ライブラリ》の手札を確認する。

 

『《身体能力強化》Tier4』

 

『《アイテムボックス》Tier4』

 

『《空手》Lv.1』

 

 身体能力は高められる。

 

 だが、戦闘技能は、強盗が見せた初歩的な空手だけ。

 

 《アイテムボックス》も、武器の持ち込みが禁止されている状況では使い道が限られる。

 

 しかも、空間収納を公衆の面前で使用すれば、身体強化系としての登録と矛盾する。

 

 実質的に、試合で見せられる手札は身体能力強化と空手だけだった。

 

「……このまま週末を待つわけにはいかないな」

 

 俺は立ち上がった。

 

「格闘技ジムでも巡るか」

 

 動画では、ライブラリへ技能を登録できない。

 

 だが、実際のジムへ足を運び、指導や練習を直接見れば、その技能を自分のものにできる。

 

 見学だけでも構わない。

 

 高度な技を、生で見ることさえできればいい。

 

 スマートフォンを取り、会社から通える範囲にある格闘技ジムを検索する。

 

 ボクシング。

 

 キックボクシング。

 

 総合格闘技。

 

 柔道。

 

 ブラジリアン柔術。

 

 候補はいくらでもあった。

 

 無料見学や体験入門を受け付けている施設を探し、フォームから連絡を送っていく。

 

 一日に何軒も回るのは不自然だ。

 

 体力も持たない。

 

 そのため、仕事終わりの平日に、一日一軒ずつ通うことにした。

 

 前覚えた仕事の技能が、思わぬところで役立った。

 

 昼間は仕事を効率よく終わらせ、余計な仕事を振られないよう適度に隠す。

 

 定時になれば退社し、夜は格闘技ジムで戦闘技能を集める。

 

 俺の奇妙な二重生活が、本格的に始まろうとしていた。

 

     ◆

 

 月曜日の仕事後。

 

 最初に訪れたのは、駅前の古い雑居ビルに入ったボクシングジムだった。

 

 ドアを開けた瞬間、熱気と汗。

 

 それに革製グローブの独特な匂いが鼻を突いた。

 

 リングではスパーリングが行われ、フロアにはミットを叩く乾いた音が響いている。

 

 初心者見学として壁際へ立たせてもらい、俺は上級者クラスの指導を注意深く観察した。

 

 見るのは、単純なパンチの打ち方だけではない。

 

 顎を引き、急所を守るガード。

 

 ジャブから右のストレートへつなぐワンツー。

 

 頭をずらして拳を避けるスリップ。

 

 上体を沈めるダッキング。

 

 相手の攻撃が届かない位置から踏み込み、すぐに距離を取るフットワーク。

 

 トレーナーの実演と、選手たちのスパーリングを見つめる。

 

 彼らは、力任せに殴り合っているわけではない。

 

 フェイントで相手の反応を引き出し、ガードが開いた一瞬へ拳を通している。

 

『《技能の使用を確認しました》』

 

『《ボクシング》Lv.2』

 

『習得しました』

 

 文字が浮かんだ瞬間、脳と身体の間に、新しい回路がつながったような感覚があった。

 

 《空手》Lv.1の時とは、入ってくる情報量が違う。

 

 相手の肩や腰の動きから、拳が飛んでくる軌道を予測する。

 

 どの位置へ頭を置けば、攻撃を受けにくいか。

 

 どの距離なら自分の拳だけが届くか。

 

 対人戦に必要な防御と距離感が、直感として理解できるようになった。

 

 見学後。

 

 トレーナーから、

 

「軽く体験してみませんか?」

 

 と勧められた。

 

 俺は貸出用のグローブを装着し、ミット打ちへ挑戦した。

 

 コピーした技能のため、構えも足運びも、初めてとは思えないほど自然にできてしまう。

 

「本当に未経験ですか? かなり形になってますよ」

 

「あ、いや……プロの試合を見るのが好きで。見よう見まねです」

 

 また苦しい言い訳をする。

 

 もちろん、《身体能力強化》は使わない。

 

 一般人の前で能力を発動するわけにはいかない。

 

 そして、能力を使っていない俺の肉体は、運動不足の三十五歳にすぎない。

 

 技術は理解できる。

 

 だが、それを長く動かす筋力も、心肺機能もない。

 

 一分間ミットを打ち続けただけで、肺が焼けるように苦しくなり、足が鉛のように重くなった。

 

 続く縄跳びでは、何度も足を引っかけた。

 

「フォームはかなりきれいですけど、まず基礎体力ですね」

 

 トレーナーの言葉に、肩で息をしながら頷く。

 

 技能をコピーしても、体力は増えない。

 

 その限界を、改めて思い知らされた。

 

     ◆

 

 水曜日の夜。

 

 今度は、少し離れた街のキックボクシングジムを訪れた。

 

 企業代理戦で、相手が拳しか使わない保証はない。

 

 足技を知らなければ、蹴りの間合いや防御へ対応できない。

 

 プロ志望の選手を相手に、トレーナーが技を実演する。

 

 ローキック。

 

 ミドルキック。

 

 前蹴り。

 

 相手の蹴りを脛で受けるカット。

 

 パンチから蹴りへつなげる連係。

 

 俺は瞬きするのも惜しみ、一つ一つの動きを目へ焼きつけた。

 

『《技能の使用を確認しました》』

 

『《キックボクシング》Lv.2』

 

『習得しました』

 

 体験練習では、サンドバッグへローキックを打つことになった。

 

 軸足を返す。

 

 腰を回転させる。

 

 体重を乗せ、脛を打ち込む。

 

 技術的には、かなり正しい蹴りだった。

 

 だが。

 

「痛っ……!」

 

 乾いた音が鳴った直後、脛へ鋭い痛みが走った。

 

 骨が折れたのではないかと思うほど痛い。

 

「最初から、そこまで腰の入った蹴りを出せる人も珍しいですよ」

 

 トレーナーが笑う。

 

「でも脛は完全に初心者ですね。最初はみんな痛い思いをしながら、少しずつ慣らしていきます」

 

 俺は引きつった笑みを返した。

 

 技術をコピーしても、皮膚の硬さや骨の強さまでは変わらない。

 

 身体能力強化を使えば耐久力も高まり、痛みは軽減できるだろう。

 

 しかし、通常時の肉体はあまりにも頼りなかった。

 

     ◆

 

 金曜日の仕事後。

 

 最後に選んだのは、地域に根ざした柔道場だった。

 

 打撃だけでは、相手に組みつかれた時に対応できない。

 

 それに、自分より出力の高い能力者を、正面から力だけで倒すのは難しい。

 

 柔道なら、相手の勢いや体勢を利用して勝てる可能性がある。

 

 道場では、黒帯の指導者が、白帯の子供たちへ受け身と基本的な崩しを教えていた。

 

 後ろ受け身。

 

 横受け身。

 

 相手の襟と袖をつかむ組み手。

 

 重心を動かし、体勢を崩す方法。

 

 そこから大外刈りや背負い投げへ移る、一連の動作。

 

『《技能の使用を確認しました》』

 

『《柔道》Lv.2』

 

『習得しました』

 

 技能が定着した瞬間。

 

 動いている人間の重心が、何となく線や点のように感じられるようになった。

 

 どちらの足へ体重が乗っているか。

 

 どの方向へ力を加えれば、体勢が崩れるか。

 

 頭ではなく、感覚として分かる。

 

 だが、実際に相手を投げるには、服や腕を強く引く握力が必要だ。

 

 踏ん張る足腰もいる。

 

 ここでも、俺の肉体の弱さが明確な問題として残った。

 

     ◆

 

 金曜日の夜。

 

 帰宅してシャワーを浴び、痛む筋肉をほぐした俺は、ベッドの上へ腰を下ろした。

 

 《ライブラリ》を開く。

 

『【異能】』

 

『《身体能力強化》Tier4 残り十九回』

 

『《アイテムボックス》Tier4 残り二回』

 

『【技能】』

 

『《空手》Lv.1』

 

『《ボクシング》Lv.2』

 

『《キックボクシング》Lv.2』

 

『《柔道》Lv.2』

 

『《事務機器操作》Lv.1』

 

『《表計算ソフト操作》Lv.2』

 

『《電話応対》Lv.2』

 

 一週間前まで、喧嘩の一つもしたことがない会社員だった。

 

 今では、打撃。

 

 蹴り。

 

 投げ。

 

 防御。

 

 受け身。

 

 複数の格闘技を、実用的な水準で理解している。

 

 だが、俺は浮かれてはいなかった。

 

 技術はある。

 

 身体能力強化もある。

 

 しかし、その二つを組み合わせ、本気で動く相手と戦った経験はない。

 

 強化された速度に、俺の感覚が追いつくのか。

 

 展開の速い実戦で、ボクシングの回避からキックボクシングの蹴りへつなげられるのか。

 

 相手が接近した瞬間、柔道の投げへ切り替えられるのか。

 

 ライブラリは技能を保存してくれる。

 

 だが、実戦の恐怖に慣れさせてくれるわけではない。

 

 状況に応じた判断を、すべて自動で行ってくれるわけでもない。

 

 明日のエントリー戦が、集めた技能と身体強化が、本当に一つの戦闘能力として機能するかを確かめる最初の場になる。

 

 その時、テーブルに置いたスマートフォンが短く振動した。

 

 専用アプリからの通知だ。

 

『エントリー戦の対戦日程が決定しました』

 

 日時は、翌日の土曜日。

 

 会場は、能力測定を受けた施設とは別の、湾岸エリアにある指定試合場。

 

『試合形式:標準一対一』

 

『制限時間:十分』

 

『報酬:十万円・別途交通費支給』

 

『持ち込み武器:禁止』

 

『集合時刻:午後一時』

 

『試合開始予定:午後二時』

 

 そして、対戦相手の情報欄。

 

『対戦者:登録Tier4』

 

『能力系統:当日開示』

 

 相手の能力は、まだ分からない。

 

 試合前の説明を受けるまで、どんな異能と戦うのかも知らされない。

 

 怖くないと言えば嘘になる。

 

 相手が俺より強ければ、無傷では済まない。

 

 それでも、胸の奥では、不安を上回るほどの高鳴りが響いていた。

 

 俺は部屋の中央へ立った。

 

 拳を目の高さへ上げ、ボクシングの構えを取る。

 

 ジャブを放ちながら踏み込み、すぐに距離を取る。

 

 そこから軸足を返し、キックボクシングのローキックへつなげる。

 

 相手が距離を詰めてきたと想定し、腕を取って柔道の崩しへ移る。

 

 一つ一つの動きは、一週間前の自分とは比べ物にならないほど洗練されていた。

 

 だが、数分動いただけで息が上がり、額から汗が流れる。

 

「……本当に、体力だけはどうにもならないな」

 

 苦笑しながら床へ座り、もう一度通知画面を見る。

 

 十万円の報酬。

 

 能力者との、初めての公式な戦い。

 

 そして、まだ見たことのない異能。

 

 試合でコピーした能力を、その場で使えるとは限らない。

 

 身体強化の延長として隠せる性質ならともかく、明らかに別系統の力なら封印するしかない。

 

 それでも構わなかった。

 

 まずは見る。

 

 生き残る。

 

 そして、今ある手札だけで勝つ。

 

 俺は小さく拳を握った。

 

 俺の能力は、本物の能力者を相手に、どこまで通用するのか。

 

 《ライブラリ》は、戦いの最中でも、相手の異能を正確に捉えられるのか。

 

 明日になれば、その答えが分かる。

 

 三十五年間、リスクを避け、勝負らしい勝負から逃げ続けてきた俺は。

 

 人生で初めて、明日という日が来るのを、これほど待ち遠しいと思っていた。

 




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