冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

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第6話 コピーした魔眼で初勝利した

 土曜日、午後零時四十分。

 

 電車を乗り継ぎ、潮風が吹き抜ける湾岸エリアへ到着した俺は、目の前にそびえ立つ建物を見上げて息を吐いた。

 

 灰色の外壁に覆われたその建物は、巨大な倉庫か、地方の展示会場のように見えた。

 

 正面入り口には『特殊災害対応訓練施設・第三競技棟』という、お役所仕事の極みのような看板が掲げられている。

 

 とてもではないが、ここで企業の利権を懸けた超人同士の殴り合いが行われているとは、誰も想像しないだろう。

 

 だが、入り口の警備は物々しかった。

 

 制服を着た一般的な警備員に加えて、スーツ姿の、明らかに体格がよく隙のない職員が数名配置されている。

 

 受付では、スマートフォンに送られた『特殊災害協力者証』の提示を求められ、顔写真と指紋による生体認証、体温と血圧の測定、当日の健康状態の問診が行われた。

 

 金属探知機と目視による手荷物検査も当然ある。

 

 スマートフォン自体は持ち込めたが、専用アプリが強制的に起動し、建物内にいる間はカメラと録音機能が完全にロックされる仕様になっていた。

 

 選手用通路を歩きながら、俺は何度も手を握ったり開いたりした。

 

 喉がやけに渇く。

 

 心臓の鼓動が、自分の耳に届くほど速い。

 

「……緊張してきたな」

 

 ぽつりとこぼした独り言が、殺風景な廊下に響いた。

 

 コンビニ事件の時は、考える暇すらなかった。

 

 目の前の刃物から人を助けなければならないという衝動だけで動いた。

 

 だが、今回は違う。

 

 自分で申し込み、一週間準備をし、自分の足でこの会場へ来た。

 

 これから、本物の能力者と一対一で、殺し合いにもなりかねない戦いをすると、頭ではっきり理解している。

 

 引き返そうと思えば、まだ帰れる。

 

 腹痛を理由に辞退しても、誰も殺しには来ないだろう。

 

 それでも、俺の足は前へ進むことを止めなかった。

 

     ◆

 

 指定された選手受付の前に、黒いジャケットとスラックス姿の霧島が立っていた。

 

 その細い腕には、運営関係者を示す赤い識別バンドが巻かれている。

 

 足元には、やけに大きなスポーツバッグが置かれていた。

 

「お待ちしておりました、佐伯さん」

 

「……霧島さんが、今日のセコンドですか?」

 

 俺が少し驚いて尋ねると、霧島は首を横に振った。

 

「正確には、付き添い、進行管理、出場手続きの代行、試合管理補助、および医療班との連携窓口です」

 

「まとめてセコンド兼マネージャーでいいんじゃないですか?」

 

「私は格闘技の専門的な指示を、インターバル中に出せるわけではありません。ですので、セコンドと呼ばれるのは実態と異なります」

 

「でも、試合中に水とタオルは持ってくれますよね?」

 

「必要であれば、ご用意しますが」

 

「やっぱりセコンドじゃないですか」

 

 俺が食い下がると、霧島は小さく息を吐き、それ以上は否定しなかった。

 

 ただ、今日の彼女はいつもより確認作業が細かかった。

 

 貸与されたオープンフィンガーグローブの手首の固定具合。

 

 特注のマウスピースの噛み合わせ。

 

 胸部防具のベルトの締めつけ。

 

 シューズの靴紐の結び目。

 

 そして、直前の血圧と、俺の指先の震えまで、じっと観察している。

 

 俺はふと、霧島の横顔を見た。

 

「霧島さんも、もしかして緊張してます?」

 

「……私も、自身の担当する新規覚醒者が、公式の代理戦へ参加するのは今回が初めてのケースですので」

 

「へえ。霧島さんにも『初めての仕事』ってあるんですね」

 

「私を何だと思っているんですか」

 

「何でも経験済みの、冷徹なお役所の人」

 

「偏見です」

 

 言葉の応酬はいつも通り淡々としていた。

 

 それでも俺には、彼女が普段よりわずかに硬くなっているのが分かった。

 

 その事実が、逆に俺の緊張を少しだけほぐしてくれた。

 

     ◆

 

 案内された個室の控室には、壁に大型のモニターがかけられており、試合会場の全景が映し出されていた。

 

 会場の中央には、四方を透明な強化アクリル壁で囲まれた、巨大な八角形の競技区画――オクタゴンが設置されている。

 

 床には場外判定用の太い白線が引かれていた。

 

 そして、俺が一番驚いたのは、その周囲を取り囲む観客席の光景だった。

 

 エントリー戦と聞いていたので、数十人の関係者がぱらぱらと見ている程度かと思っていた。

 

 だが、モニター越しに見えるすり鉢状の客席には、優に数百人の人間がひしめき合っており、座席はすでに七割ほど埋まっていたのだ。

 

「これ……初心者の試験なんですよね?」

 

「エントリー戦です」

 

「思ったより、人が多すぎる気がするんですが」

 

 霧島がタブレットを操作しながら、観客の構成を説明する。

 

「本日観戦を許可されているのは、一般の方ではありません。登録済みの能力者、能力者チームの関係者、代理戦へ参加している企業の法務担当者や経営層。そして、有望な人材を探すスカウトや、守秘義務契約を結んだ一部のスポンサーのみです」

 

 言われてみれば、客席の前方には高級なスーツを着こなした社長や役員らしき人間が陣取っている。

 

 その後ろには、目を光らせるスカウトたち。

 

 さらに後方には、純粋に試合を楽しみに来たと思われる、ラフな格好の能力者たちが群れていた。

 

「完成された上位の能力者の試合なら見応えがあるんでしょうけど、新人同士の試合でも、こんなに人気があるんですか?」

 

「上位戦とは、別の意味で需要があります」

 

「別の意味?」

 

「覚醒したばかりの能力者は、自身の能力の全容を完全に把握していません。そのため、極限の試合中にまったく新しい特性が発覚したり、突然想定外の成長を遂げたりすることが多々あります。何が飛び出すか分からない、その『不確定要素』が好まれるのです」

 

 要するに、荒削りな原石がどんな光り方をするのか。

 

 あるいは、自爆するのか。

 

 それを楽しむ見世物というわけだ。

 

 さらに企業やチームからすれば、無名だが素質のある能力者を、市場価値が跳ね上がる前の早い段階で青田買いできる絶好の機会でもある。

 

 俺は、自分が観客からショーケースの品物として値踏みされる側なのだと、改めて理解した。

 

     ◆

 

 場内の照明が一段階落ち、競技区画の中央だけがスポットライトで照らされた。

 

 客席から、地鳴りのような拍手と歓声が湧き起こる。

 

 スピーカーから、興奮を煽るようなアナウンスが響いた。

 

『次の試合は、企業間特殊調停制度・エントリー戦! 登録Tier4同士による、標準一対一試合です!』

 

 先に、青側の入場口へ青い照明が向く。

 

『青側――黒瀬拓海!』

 

 会場が大きく湧いた。

 

 俺はモニターを凝視した。

 

 黒瀬は、引き締まった身体を軽く揺らし、リズミカルなステップを踏みながら入場してくる。

 

 短く刈り込まれた髪。

 

 無駄な脂肪が削ぎ落とされ、実戦のために最適化された筋肉。

 

 まだ能力を使っていない素の状態でも、彼が本格的な格闘家であることは一目で分かった。

 

 黒瀬は観客席に向かって片手を上げ、歓声に応えている。

 

 一部の観客からは、名前まで呼ばれていた。

 

「随分と人気があるみたいですね」

 

「黒瀬選手は、能力覚醒以前からアマチュアのキックボクサーとして活動していました。地方のオープントーナメントでの入賞経験もあります。現在はスポーツ用品店に勤務しながらトレーニングを続けているようです」

 

「……それ、初心者の試験相手として出していい人なんですか?」

 

「能力者としての公式戦は、黒瀬選手も本日が初めてですので、条件は同じです」

 

「格闘技の技術については?」

 

「明確に、佐伯さんより格上です」

 

 霧島は一切のオブラートに包むことなく即答した。

 

 俺は少しだけ顔を引きつらせた。

 

「それで、相手の能力は?」

 

「こちらが事前開示された登録情報です」

 

 霧島がタブレットを俺へ向ける。

 

『登録Tier:4』

 

『能力系統:身体強化系・魔眼系』

 

『登録能力:《身体能力強化》《動体視の魔眼》』

 

「身体能力強化は俺と同じだから分かりますけど……魔眼?」

 

「魔眼とは、自らの目を介して発動する能力の総称です」

 

「見るだけで何か起こるんですか? 石化させるとか」

 

「能力の性質によります」

 

 霧島の説明によれば、魔眼には多種多様な種類があるらしい。

 

 視線を合わせた相手の動きを、金縛りのように止めるもの。

 

 相手の感情や嘘を読み取るもの。

 

 物体の構造的な弱点を透視するもの。

 

「今回の相手も、目を合わせたら動けなくなるとか、そういう初見殺しですか?」

 

「登録情報が正しければ、そこまで直接的で危険な能力ではありません。黒瀬選手の魔眼は、自身の視覚能力の総合的な強化です」

 

「……視覚?」

 

「動体視力、静止視力、周辺視野、焦点の移動速度、そして視覚情報の脳内処理能力が劇的に上昇します」

 

「なんだ。ものすごく目がよくなるだけですか」

 

「簡単に言えば、そうです」

 

「ちょっと安心しました」

 

「……登録情報に嘘や隠し玉がなければ、ですが」

 

 安心した直後に、霧島が冷や水を浴びせてきた。

 

     ◆

 

 入場開始の三分前。

 

 霧島がタブレットを閉じ、いつもより真剣な、氷のような瞳で俺を見つめた。

 

「いいですか、佐伯さん」

 

「はい」

 

「身体能力強化の純粋な出力については、おそらく同等か、事前の測定数値を信じるなら、佐伯さんの方がわずかに上回っています」

 

「じゃあ、単純な力比べなら負けない?」

 

「力比べに持ち込めれば、です」

 

 問題は、黒瀬が熟練の格闘家であること。

 

 そして、魔眼の存在だ。

 

「黒瀬選手は、身体強化によって高速化した自分自身の動きと、同じく高速で動く佐伯さんの攻撃を、魔眼によって完全に目で捉え、処理することができます」

 

 俺は息を呑んだ。

 

 能力測定の時、俺は《身体能力強化》の爆発的なスピードに、自分自身の感覚が追いつかなかった。

 

 走った後にブレーキをかけきれず、よろけた。

 

 だが、黒瀬は違う。

 

 超スピードの世界を、はっきりと認識して動けるのだ。

 

「佐伯さんの攻撃は、すべて避けられる可能性があります」

 

「全部ですか?」

 

「魔眼の精度次第ですが。さらに、相手は格闘家です。佐伯さんの肩の動き、腰の回転、膝の沈み込み、視線の移動。そうした微細な予備動作を魔眼で読み取り、攻撃が始まる前に、すでに回避行動を終えている危険性があります」

 

 拳を出してから避けるのではない。

 

 拳を出そうとした瞬間には、すでに避けられている。

 

「当たらないからといって、決して熱くならないでください。むきになって攻撃が大振りになれば、その分だけ強烈なカウンターをもらいます」

 

 俺は大きく深呼吸をし、胸部防具を拳で軽く叩いた。

 

「大丈夫です。勝ちますよ」

 

「……根拠はありますか?」

 

「この一週間、俺なりにできる準備はすべてやってきましたから」

 

「それだけですか?」

 

 俺は少しだけ笑った。

 

「勝ったら、十万円の報酬で焼き肉でも行きません?」

 

「……」

 

 霧島は一瞬だけ呆れたように黙り込んだ。

 

「ええ、それはいいですね。佐伯さんの奢りでしたら」

 

「本当に?」

 

「ただし、試合後の医療班の健康診断で、内臓や脳に重大な問題が発見されなければ、です」

 

「急にやる気が出てきました」

 

「焼き肉のことは忘れて、今は目の前の対戦相手に集中してください」

 

     ◆

 

 場内アナウンスが俺の名を呼んだ。

 

『赤側――新規覚醒者、佐伯直人!』

 

 黒瀬ほどの熱狂的な歓声はない。

 

 だが、客席がざわざわと波打つような、奇妙な熱気に包まれるのを感じた。

 

 三十五歳。

 

 普通の会社員。

 

 覚醒から一週間程度。

 

 格闘技の公式実績なし。

 

 そんな経歴が、逆に観客たちの好奇心を煽っているらしい。

 

「本当に、ただの会社員なのか?」

 

「測定データじゃ、身体出力は五倍出てるらしいぞ」

 

「元キックボクサー相手に、素人がどう戦うんだ?」

 

 囁き声が入り混じる通路を抜け、俺は競技区画のゲートをくぐった。

 

 オクタゴンの中に足を踏み入れた瞬間、歓声の音がすっと遠のき、世界が急に静かになったような気がした。

 

 中央で、黒瀬が待っていた。

 

 彼は爽やかな笑顔で、俺にグローブを差し出してくる。

 

「黒瀬です。同じ新人同士、いい試合にしましょう」

 

「佐伯です。よろしくお願いします」

 

 グローブを軽く合わせる。

 

 嫌な相手ではない。

 

 むしろ、スポーツマンシップにあふれた好青年だ。

 

 それでも、俺はこの男に勝ちたいと強く思っていた。

 

     ◆

 

 黒のポロシャツを着た公式審判が、二人を中央へ呼び寄せた。

 

 ルール確認が行われる。

 

「故意の目つぶし、金的、後頭部、喉への直接攻撃は禁止。私の停止命令には絶対に従うこと。ダウン後、十秒以上立ち上がれなければ敗北。場外の白線を完全に出れば敗北。降参はいつでも認める。以上だ。下がれ」

 

 俺と黒瀬は数歩後退し、互いに距離を取った。

 

 俺は左足を前に出し、両拳を顎の高さに構える。

 

 ボクシングの基本スタイルだ。

 

 対する黒瀬は、重心をやや後ろ足に残し、前足でいつでも蹴りを放てるキックボクシングの構えを取った。

 

 審判の右手が、高く振り上げられる。

 

「始め!」

 

 振り下ろされた手刀を合図に、黒瀬が即座に動いた。

 

 能力の発動。

 

 全身の筋肉が弾け飛ぶような圧力が放たれ、周囲の空気がびりっと震える。

 

 同時に、彼の瞳孔がぎゅっと鋭く絞られ、焦点が異様なまでに俺を捉えて離さなくなった。

 

 視界の端に、青白い文字列が滝のように流れる。

 

『《類似異能の発動を確認しました》』

 

『《身体能力強化》Tier4』

 

『再観測情報を登録します』

 

『使用可能回数を上限まで補充しました』

 

『使用可能回数:20回』

 

 昨日の測定で一回分消費したストックが、ここで回復した。

 

 だが、それよりも重要なのは次の表示だった。

 

『《新規異能の発動を確認しました》』

 

『《動体視の魔眼》Tier4』

 

『登録しました』

 

 詳細画面を開いて確認している暇はない。

 

 俺も即座に、脳内で発動の意志を叩きつける。

 

『《身体能力強化》を発動します』

 

『使用可能回数:残り19回』

 

『残り時間:2分59秒』

 

 ドクン、と心臓が跳ね、世界が一段階加速する。

 

 床を蹴り、俺は一気に黒瀬の懐へ距離を詰めた。

 

     ◆

 

 俺は、ジムでコピーしたばかりの《ボクシング》Lv.2の技能を引き出した。

 

 左のジャブ。

 

 強化された筋力が生み出す、見えないほどの速さ。

 

 最短距離で黒瀬の顔面へ伸びる。

 

 だが。

 

 俺の拳は、黒瀬の頬をかすめることすらなかった。

 

 黒瀬は、首をほんの数センチ、左へ傾けただけだ。

 

 俺のグローブが空を切り、空しい風切り音だけが響く。

 

 続けて、身体の捻りを利用した右ストレート。

 

 黒瀬は半歩だけ後退し、紙一重で俺の拳を避けた。

 

 当たらない。

 

 なら、下段だ。

 

 俺は右ストレートの勢いを殺さず、そのまま《キックボクシング》Lv.2のローキックへつなげた。

 

 しかし、黒瀬は最初からそれが見えていたかのように、左脚を上げて正確に俺の蹴りを脛でカットした。

 

 ばちん、と鈍い音が鳴る。

 

 そこから、黒瀬はカットした脚を下ろす反動を利用し、逆に強烈な右のローキックを俺の左太腿へ叩き込んできた。

 

 ドンッ!

 

「ぐっ……!」

 

 太腿の筋肉が断裂するかと思うほどの衝撃。

 

 身体強化で耐久力が上がっていなければ、一撃で足が機能不全に陥っていた。

 

 黒瀬が、余裕の笑みを浮かべる。

 

「本当に未経験ですか? ボクシングからキックへのつなぎ、結構いい動きですね」

 

 俺は答えず、ステップを踏んで距離を取った。

 

 一連の攻撃の組み立ては悪くなかったはずだ。

 

 素人の大振りではなく、格闘技の技能を正確にトレースしていた。

 

 それでも、一発も当たらない。

 

     ◆

 

 俺は攻撃のリズムを変えることにした。

 

 ジャブを二回細かく刻み、三発目と見せかけて、強烈な前蹴りを放つ。

 

 だが、黒瀬は身体をわずかにひねるだけで、蹴りの軌道から完全に逃れる。

 

 踏み込みながらの左フック。

 

 黒瀬はひょいと上体を沈めるダッキングで、俺の拳を頭上へ通過させる。

 

 そして低い姿勢のまま、俺の空いた脇腹へ右のボディブローを放ってきた。

 

 ゴッ!

 

「かはっ……!」

 

 強化された拳が、俺の腹部にめり込む。

 

 内臓が揺らされ、呼吸が数秒間止まる。

 

 俺はたまらず数歩後退した。

 

 黒瀬は深追いせず、オクタゴンの中央を悠然と陣取っている。

 

 競技区画の外から、霧島が鋭い声を上げた。

 

「佐伯さん! 攻撃の開始を読まれています! 単発のフェイントでは当たりません!」

 

 言われなくても分かっている。

 

 黒瀬は、飛んでくる拳を見てから避けているのではない。

 

 俺の肩が動く瞬間。

 

 重心が前へ移る瞬間。

 

 足の指が床をかむ瞬間。

 

 そのすべての攻撃前の変化を魔眼で捉え、俺が技を出すと決めた時には、すでに彼の回避行動は始まっているのだ。

 

     ◆

 

 今度は黒瀬が前に出た。

 

 俺の付け焼き刃とは違う、長年の修練によって最適化された滑らかな連撃。

 

 左ジャブ。

 

 右ストレート。

 

 左フック。

 

 右ローキック。

 

 嵐のような攻撃が襲いかかる。

 

 俺はコピーしたボクシングとキックの防御技術を総動員して対応した。

 

 ジャブを右手でパリングし、ストレートをスリップで避ける。

 

 フックを両腕でガードし、ローキックを脛で受ける。

 

 技術自体は機能している。

 

 しかし、黒瀬の攻撃は止まらない。

 

 パンチを避けた先には、次の蹴りの軌道が置かれている。

 

 蹴りを防いで重心が崩れた瞬間には、次の拳が顔面に迫っている。

 

 俺は防御するだけで精いっぱいだった。

 

 一つ一つの技なら、対応できる。

 

 だが、技と技のつながりが決定的に違う。

 

 コピーした技能を個別の部品として持っているだけの俺と、血のにじむような反復練習で、すべてを一つの戦術として完成させている黒瀬。

 

 その絶対的な経験値の差が、試合の主導権を完全に黒瀬へ渡していた。

 

     ◆

 

 打撃だけでやり合っては不利だ。

 

 俺は作戦を切り替えた。

 

 黒瀬の右ストレートを外側へ避け、そのまま伸びきった腕に触れ、懐へ一気に踏み込む。

 

 《柔道》Lv.2の技術。

 

 黒瀬の腕と肩をつかみ、重心を崩して大外刈りへ移行しようとする。

 

 一瞬、黒瀬の体勢がぐらついた。

 

 観客席から「おおっ!」と、どよめきが上がる。

 

 俺の身体出力は、黒瀬よりわずかに上だ。

 

 完全に組みついてしまえば、強引にでも投げられる。

 

 しかし。

 

 黒瀬の魔眼は、俺の足が刈りに動く初動すら見逃さなかった。

 

 彼は刈られる側の足を素早く引き、同時に空いている膝を、無防備になった俺の腹へ突き上げてきた。

 

 ゴッ!

 

「あがっ!」

 

 強烈な膝蹴りに、俺の身体がふわりと浮く。

 

 組み手が外れた瞬間、黒瀬は独楽のように回転し、左のハイキックを放ってきた。

 

 俺は咄嗟に両腕を交差させ、頭部を守る。

 

 バァンッ!

 

 凄まじい衝撃。

 

 俺の身体は数メートルも後方へ滑り、透明な強化アクリル壁の手前で、どうにか踏みとどまった。

 

 観客が沸き立つ。

 

 黒瀬は追撃を止め、再び構え直した。

 

「……純粋な力は、そっちが上みたいですね」

 

「褒めてもらっても、手加減はしませんよ」

 

「手加減されたら、こっちが困ります」

 

 俺もガードを上げ、構え直す。

 

 ハイキックを受けた両腕が、麻痺したようにじんじんと痺れていた。

 

     ◆

 

 視界の隅で、タイムリミットの数字が赤く点滅し始めた。

 

『残り時間:3秒』

 

『2秒』

 

『1秒』

 

 選択肢が現れる。

 

『効果を継続しますか?』

 

『【YES】 【NO】』

 

 俺は迷わず【YES】を選択した。

 

『使用可能回数:残り18回』

 

 全身を巡る力は、途切れることなく持続する。

 

 外から見ている霧島は、俺が三分で能力を一度解除することなく、そのまま継続したことを確認しているはずだ。

 

 黒瀬も能力を維持したまま。

 

 制限時間の十分間まで、試合はまだ半分以上残っている。

 

     ◆

 

 俺は、同じ流派の動きを続けるのをやめた。

 

 ボクシングの構えからジャブを放ち、黒瀬が避けたところへ、右ストレートではなく唐突に前蹴りを放つ。

 

 黒瀬がそれもかわした瞬間、そのまま踏み込んで柔道の組み手へ入る。

 

 一つの格闘技として見れば、定石を無視した不自然な動きだ。

 

 しかし、黒瀬の魔眼はそれすらも正確に視認し、最適解で対処してくる。

 

 俺の腕を払い、ステップで横へ回り込み、死角からローキックを打ち込む。

 

 俺は柔道の受け身に近い前転で衝撃を逃がし、すぐに立ち上がる。

 

 観客席から驚きの声が漏れる。

 

「おい、あの会社員、柔道までできるのか?」

 

「ボクシングにキックも使ってるぞ。総合格闘技の選手か?」

 

「どれも技の練度は中途半端だが……切り替えの速度が異常だ」

 

 スカウトたちが熱心にタブレットへ記録を書き込んでいるのが見えた。

 

 霧島も、目を細めて俺の動きを分析しているだろう。

 

 一週間前まで喧嘩すらしたことがない男の動きではないと。

 

 だが、当の俺自身は完全に追い詰められていた。

 

 技の引き出しは増えた。

 

 だが、どれだけ技を増やしても、何を出しても、黒瀬には見えている。

 

 見えている相手には、決定打が届かない。

 

     ◆

 

 黒瀬が、少し楽しそうに笑みを浮かべた。

 

「……いろんな技が使えるんですね。でも、動きがまだ素直すぎます」

 

 俺が息を整えながら拳を構えると、黒瀬は続けた。

 

「技を出す前に、必ず出す場所を見てる。顔を狙う時は顔を、足を狙う時は足を。投げる時は、つかむ襟元を」

 

 視線。

 

 肩。

 

 重心。

 

 俺はライブラリで技能をコピーできても、実戦における素人の癖までは消し去れていなかったのだ。

 

 魔眼を持つ黒瀬にとって、俺の動きはすべて、親切な攻撃予告がついているようなものだった。

 

「見えてるものは、避けられますよ」

 

 黒瀬が一気に踏み込んできた。

 

 その瞬間、俺は完全に後手へ回った。

 

     ◆

 

 黒瀬の怒涛の連続攻撃が始まる。

 

 ジャブ。

 

 ストレート。

 

 左フック。

 

 右ボディ。

 

 左ロー。

 

 右ミドル。

 

 流れるような連係。

 

 そのすべてが、魔眼の補正と身体強化によって、常人には見えない速度で放たれる。

 

 俺は必死に防御する。

 

 一発目をスリップで避ける。

 

 二発目をパリングで弾く。

 

 だが、三発目のフックがガードの上から頬をかすめる。

 

 四発目のボディが腹へ食い込む。

 

 五発目のローキックで、俺の足が完全に止まる。

 

 そして、最後。

 

 完璧なタイミングで放たれた黒瀬の右ミドルキックが、俺の腕ごと脇腹へ深く叩き込まれた。

 

 ドォンッ!

 

 俺の身体が、真横へ吹き飛んだ。

 

 空中で体勢を崩し、肩から床へ落ちる。

 

 無意識に柔道の受け身を取って衝撃を散らしたが、肺から一気に空気が搾り出された。

 

「がっ……は……っ!」

 

 審判が俺と黒瀬の間に割って入り、カウントを始める。

 

「ワン! ツー!」

 

 観客が沸き立つ。

 

 霧島の「佐伯さん!」という悲痛な声が聞こえた。

 

 俺は床へ手をつき、歯を食いしばる。

 

 立たなければ。

 

 身体強化は続いている。

 

 肉体はまだ動く。

 

 しかし、脳が揺さぶられ、視界がぐるぐると回っていた。

 

「ファイブ! シックス!」

 

 黒瀬はニュートラルコーナーへ下がり、俺が立ち上がるのを静かに待っている。

 

 その立ち姿には、圧倒的な余裕があった。

 

「セブン!」

 

 俺はよろけながらも、両足に力を込めて立ち上がった。

 

「エイト!」

 

 両拳を目の前に構える。

 

 審判が俺の顔をのぞき込み、目の焦点を確認する。

 

「続行できるか?」

 

「……できます」

 

 審判が黒瀬に向かって、試合再開の合図を出した。

 

     ◆

 

 競技区画の外から、霧島が叫んだ。

 

「佐伯さん、無理に勝つ必要はありません!」

 

 エントリー戦では、勝敗だけがすべてではない。

 

 ルールを守り、危険な状況で降参を選択できる理性があるかどうかも評価の対象だ。

 

 ここで負けても、俺の能力者としての道が閉ざされるわけではない。

 

「十分戦えています! これ以上は危険だと判断したら――」

 

 俺は、霧島の言葉を遮るように大声を上げた。

 

「焼き肉!」

 

「……は?」

 

「勝ったら、焼き肉行くんでしょう!」

 

「今、それを気にする場面ですか!」

 

「気にしますよ! 十万稼ぐんですから!」

 

 俺は黒瀬を真っ直ぐに見据えた。

 

「それに、俺にはまだ……試してない手がある」

 

 霧島がぴくりと眉を寄せたのが見えた。

 

 当然だ。

 

 そんな手は、事前の書類には一切報告されていないのだから。

 

     ◆

 

 俺は一瞬だけ、脳内で《ライブラリ》を開いた。

 

『《動体視の魔眼》Tier4』

 

『使用可能回数:2回』

 

『最大持続時間:1分』

 

『発動しますか?』

 

『【YES】 【NO】』

 

 俺は、まだ【YES】を押さない。

 

 今すぐ使えば勝てるという保証はない。

 

 それに、霧島や監督官たちに、身体強化とは別の能力を使っていると見抜かれる危険性もある。

 

 まずは、黒瀬の魔眼がどこまで見えているのか、その限界を確かめる必要があった。

 

 俺は再び攻撃に出る。

 

 わざと大きく右肩を引き、右ストレートを打つという強烈な予告を入れる。

 

 黒瀬がそれを読み、左へ回避行動を取る。

 

 俺はストレートを途中でぴたりと止め、そのまま右足でのローキックへ軌道を切り替えた。

 

 しかし。

 

 黒瀬は、その足の動きの変化すら見てから反応し、左脚を上げてきっちりとカットしてみせた。

 

 フェイントでも崩せない。

 

 途中で攻撃を変えても、それを見てから対処が間に合っている。

 

 俺は理解した。

 

 黒瀬の魔眼は、未来を予知しているわけではない。

 

 だが、あの眼には世界が限りなく遅く、あるいは情報量が何倍にも解像度を増して見えているのだ。

 

 だからこそ、俺が途中で攻撃を変えても、その変化を見てから対応できる。

 

 奴と同じ視界に立たなければ、絶対に攻撃は届かない。

 

     ◆

 

 視界の隅で、二度目の三分が経過した。

 

 試合開始から六分。

 

『効果を継続しますか?』

 

『【YES】』

 

『使用可能回数:残り17回』

 

 俺の力は衰えない。

 

 だが、ふと見ると、黒瀬の呼吸も明らかに荒くなっていた。

 

 魔眼は、あくまで視覚情報を得るだけの能力だ。

 

 疲労を消し去る魔法ではない。

 

 身体強化を全開にして高速で動き、さらに魔眼の膨大な情報を脳で処理し続ければ、肉体にも精神にも凄まじい負荷がかかるはずだ。

 

 黒瀬は優勢だが、無傷ではない。

 

 俺の攻撃を避け続けるために、確実に集中力を削られている。

 

 ここが、勝負どころだ。

 

     ◆

 

 黒瀬が、今度こそ勝負を決めようと深く踏み込んできた。

 

 俺の視界に、再び選択肢が浮かぶ。

 

『《動体視の魔眼》を発動しますか?』

 

 俺は、心の奥底で【YES】を叩きつけた。

 

『《動体視の魔眼》を発動します』

 

『使用可能回数:残り1回』

 

『残り時間:59秒』

 

 その瞬間。

 

 世界が、一変した。

 

 時間が遅くなったわけではない。

 

 黒瀬も、客席の人間も、今までと同じ速度で動いている。

 

 ただ、俺の目が。

 

 脳が。

 

 今まで取りこぼしていた圧倒的な情報量を、すべて処理できるようになったのだ。

 

 黒瀬の瞳孔の開き具合。

 

 左肩のわずかな沈み込み。

 

 右足のつま先から踵へ移る重心。

 

 拳を握り込む指の、微細な筋肉の収縮。

 

 それらが、次に彼がどのような攻撃を出してくるかを示す一本の線となって、俺の頭の中へ流れ込んでくる。

 

 見える。

 

 俺は、無意識のうちに口角を上げていた。

 

 全部、見える。

 

     ◆

 

 黒瀬の左ジャブ。

 

 俺は、首をほんの数センチだけ傾けた。

 

 拳が俺の頬の横を、熱を帯びて通過していく。

 

 続けて放たれた右ストレート。

 

 俺は半歩だけ外側へステップし、紙一重でかわす。

 

 左フック。

 

 上体を沈め、ダッキングで潜り抜ける。

 

 右ローキック。

 

 脚を上げ、脛の硬い部分で完璧にカットする。

 

 左ミドルキック。

 

 俺は後ろへ下がらず、逆に踏み込んで懐へ入り、蹴りの威力が乗る前に距離を潰した。

 

 先ほど、俺が手も足も出ずに一方的に殴られた連続攻撃。

 

 それを今度は、俺がすべて、最小限の動きで、紙一重で回避してみせたのだ。

 

 観客席の空気が、一瞬にして凍りついたように変わった。

 

「おい……今、全部避けたぞ?」

 

「さっきまで、あんな動きできてなかっただろ!」

 

「……試合中に、相手の速度へ適応したのか?」

 

 黒瀬の表情から、初めて余裕が消え去った。

 

「……急に、何だ?」

 

 俺は答えない。

 

 魔眼の持続時間は、たったの一分。

 

 もたもたしている暇はない。

 

 秘密を守るためにも、長引かせるわけにはいかない。

 

 一気に決める。

 

     ◆

 

 俺がジャブを放つ。

 

 黒瀬も魔眼でそれを見て、首を振って避ける。

 

 単純に攻撃の速度を上げただけでは当たらない。

 

 二人とも、相手の攻撃の初動が見えているからだ。

 

 純粋な格闘技の技術や経験では、黒瀬の方が圧倒的に上。

 

 だが、俺には複数の格闘技を使い分ける多様性と、わずかに高い身体出力がある。

 

 勝敗を分けるのは、技の巧拙ではない。

 

 相手の身体を、物理的に逃げられない位置へ追い込めるかどうかだ。

 

 俺は、ボクシングのジャブを連続で放った。

 

 黒瀬が左、右と首を振って避ける。

 

 俺は、黒瀬が回避した方向を見て、彼の逃げ道を限定していく。

 

 右ストレートを放つと見せかけ、軌道を変えて前蹴り。

 

 黒瀬は横へステップしてかわす。

 

 そこへ、逃げ道を塞ぐようにローキックを放つ。

 

 黒瀬は魔眼でそれを見て、脚を上げてカットしようとする。

 

 黒瀬が片足立ちになった、その瞬間。

 

 俺は一気に踏み込んだ。

 

     ◆

 

 俺は黒瀬の左腕へ触れた。

 

 だが、投げようとはしない。

 

 柔道の崩しの技術だけを使う。

 

 片足立ちで不安定になっている黒瀬の肩と腕を引き、重心をわずかに前へずらした。

 

 黒瀬の魔眼には、俺が崩しに来た動きが完全に見えているはずだ。

 

 だが、見えていても、片足立ちで重心を崩された状態では、完全な回避行動は取れない。

 

 黒瀬が必死に体勢を戻そうと、浮いている足を床へ着こうとする。

 

 俺は、その動きを魔眼で捉える。

 

 黒瀬が足を着く場所。

 

 重心を戻す方向。

 

 次に顔がある位置。

 

 すべてが、手に取るように分かる。

 

 黒瀬が床へ足を着いた瞬間。

 

 俺はすでに、彼の至近距離へ入り込んでいた。

 

 拳を大きく振りかぶる必要はない。

 

 黒瀬には、もう逃げる空間も残されていない。

 

     ◆

 

 黒瀬が最後の抵抗とばかりに、短い左フックを放ってくる。

 

 俺は数センチだけ頭をずらし、拳を耳の横へ逃がす。

 

 黒瀬の顎が、完全に無防備に開いた。

 

 俺は腰を沈める。

 

 足の踏み込み。

 

 腰の回転。

 

 背中の筋肉。

 

 肩の押し出し。

 

 コピーしたボクシングの動作が、一つの完璧な線となってつながる。

 

 ただし、身体強化の全力を乗せてはいけない。

 

 殺してしまえば、俺の負けだ。

 

 出力をぎりぎりまで絞る。

 

「――そこだ」

 

 右のショートアッパー。

 

 至近距離から放たれた俺の拳が、黒瀬の顎の先端を正確に撃ち抜いた。

 

 ドンッ!

 

 黒瀬の頭が真上へ跳ね上がる。

 

 身体が一瞬宙へ浮き、全身から糸が切れたように力が抜け、そのまま床へ崩れ落ちた。

 

 オクタゴンの中が、水を打ったように静まり返る。

 

 一拍遅れて、割れんばかりの巨大な歓声と絶叫が爆発した。

 

 審判が駆け寄り、カウントを始める。

 

「ワン! ツー!」

 

 黒瀬はぴくりとも動かない。

 

「ファイブ! シックス!」

 

 黒瀬の目は開いているが、焦点は完全に虚空をさまよっている。

 

 脳が揺らされ、意識が飛んでいる状態だ。

 

「エイト!」

 

 黒瀬が本能で腕を動かそうとするが、立ち上がることはできない。

 

「テン!」

 

 審判が俺と黒瀬の間へ割って入り、両手を大きく交差させた。

 

「試合終了!」

 

     ◆

 

 場内アナウンスが、割れんばかりの歓声の中で響き渡った。

 

『勝者――赤側、佐伯直人!』

 

 会場が熱狂の渦に包まれる。

 

 黒瀬目当てだった観客たちまでが、立ち上がって俺に拍手を送っていた。

 

 客席の前方では、企業関係者やスカウトたちが一斉にタブレットへ記録を打ち込んでいる。

 

『身体出力はTier4上位クラス』

 

『ボクシング、キックボクシング、柔道を状況に応じて使用』

 

『防御能力および見切りが試合中に急上昇。視覚補正の副能力を持つ可能性あり』

 

『学習、適応速度が極めて高い』

 

『出力制御は良好。フィニッシュブローの威力を意図的に抑制』

 

『審判の指示を遵守。安全性高し』

 

 審判に腕を高く上げられ、俺は勝者としてオクタゴンの中央に立った。

 

 だが、実感がまるで追いつかない。

 

 勝った。

 

 俺が。

 

 本物の、熟練した能力者を相手に。

 

     ◆

 

 すぐに医療班が駆け込み、黒瀬の容態を確認する。

 

 数分後、処置を受けた黒瀬は意識を取り戻し、上体を起こした。

 

 顎と脳への衝撃で一時的に脳震盪を起こしただけで、大きな怪我はないとのことだった。

 

 黒瀬は座ったまま、俺を見上げて苦笑いした。

 

「……途中から、俺の動きが急に見えるようになりましたね」

 

「……」

 

 俺は少し警戒し、言葉を選んだ。

 

「戦っているうちに、相手のリズムへ目が慣れたんだと思います」

 

「試合中の、たった数分であそこまで?」

 

「こっちは必死でしたから」

 

 黒瀬は疑うというより、心底面白そうに笑った。

 

「凄まじい適応力ですね。次は負けませんよ」

 

「できれば、しばらくは戦いたくないです。痛いんで」

 

「勝った人が言う台詞じゃないでしょう」

 

 俺と黒瀬は、互いのグローブを軽く合わせた。

 

 殺伐とした敵対関係ではない。

 

 ただのスポーツマンシップ。

 

 俺は彼に、不思議なほどの清々しさを感じていた。

 

     ◆

 

 控室へ戻ると、霧島がすぐにスポーツドリンクとタオルを渡してきた。

 

「お疲れさまでした。怪我は?」

 

「全身が打撲で痛いです。あと、肺が破れそう」

 

「頭痛、吐き気、視界の異常はありますか?」

 

「今のところは、特に」

 

 霧島はペンライトを取り出し、俺の瞳孔の反応を細かく確認する。

 

 そして、ライトをしまいながら、静かな声で尋ねてきた。

 

「後半、黒瀬選手の攻撃が、急に見えているように回避していましたね」

 

「相手のリズムと動きに慣れたんだと思います」

 

「……それだけでしょうか?」

 

「それだけだと思いますけど」

 

 霧島はじっと俺の目を見つめた。

 

 俺も視線を逸らさず、心の中で冷や汗をかきながら平静を装う。

 

 霧島は断定しなかった。

 

 新規覚醒者には、戦闘の極限状態において新しい性質が発現することがある。

 

 俺の身体能力強化に、動体視力や認識速度の補正という副次効果が含まれていたとしても、この世界では不自然ではない。

 

 霧島はタブレットへ文字を打ち込む。

 

「暫定的に、『身体強化発動中の視覚機能向上、または極度の戦闘適応の可能性あり』として記録しておきます」

 

「……能力の追加登録になるんですか?」

 

「現時点では、完全に別系統の能力だと判断できるだけの十分な情報がありません。あくまで保留です」

 

 俺は内心で、深く安堵した。

 

 魔眼は外見的な変化がないため、身体強化の副次効果として偽装できたのだ。

 

     ◆

 

 医療班の診断が終わり、俺の身体には、

 

『軽い打撲と筋肉疲労のみ。翌日まで激しい運動は控えること』

 

 という指示が出た。

 

「健康診断上、大きな問題はありませんね」

 

「じゃあ、焼き肉ですね」

 

 俺がタオルで顔の汗を拭きながら笑うと、霧島は少しだけ呆れたような顔をした。

 

「……覚えていらしたんですか」

 

「俺が勝つ理由の、半分でしたからね」

 

「では、残りの半分は?」

 

「秘密です」

 

 霧島が、わずかに目を細める。

 

「……そうですか」

 

「焼き肉は?」

 

「ええ。お約束しましたので、お付き合いします」

 

「報酬の十万円が、一日で消えそうだな……」

 

「私は、高級店を指定した覚えはありませんよ」

 

 相変わらずの乾いたやり取り。

 

 だが、その声の調子は、最初に出会った時よりも、ほんの少しだけ柔らかくなっている気がした。

 

     ◆

 

 医療検査を終え、一人になった更衣室で、俺は《ライブラリ》を開いた。

 

『【異能】』

 

『《身体能力強化》Tier4 残り17回』

 

『《アイテムボックス》Tier4 残り2回』

 

『《動体視の魔眼》Tier4 残り1回』

 

『【技能】』

 

『《空手》Lv.1』

 

『《ボクシング》Lv.2』

 

『《キックボクシング》Lv.2』

 

『《柔道》Lv.2』

 

『《事務機器操作》Lv.1』

 

『《表計算ソフト操作》Lv.2』

 

『《電話応対》Lv.2』

 

 俺は、新たに加わった《動体視の魔眼》の項目をじっと見つめた。

 

 初めて、犯罪者ではない正式な登録能力者からコピーした異能。

 

 そして、コピーした直後に実戦で使用し、その力で格上の相手を倒した。

 

 身体強化だけでは、黒瀬には勝てなかった。

 

 格闘技能を集めただけでも、届かなかった。

 

 だが、相手の能力をコピーし、同じ視界を手に入れた瞬間、俺は勝負をひっくり返すことができた。

 

 事務仕事も。

 

 格闘技も。

 

 異能も。

 

 一度この目で捉えたものは、すべてライブラリの中に残り続ける。

 

 他人が生まれ持った異能を複製し、自分の手札として即座に使える《ライブラリ》が、対能力者戦においてどれほど強力な切り札になるのか。

 

 その恐ろしいまでの一端が、今日の試合で証明されたのだ。

 

     ◆

 

 着替えを終えて更衣室を出ると、廊下で霧島が待っていた。

 

 彼女の持つタブレット端末に、次々と通知音が鳴り響いている。

 

「何かありました?」

 

「先ほどの試合を観戦していた複数の企業と能力者派遣チームから、佐伯さんへの面談希望が届いています」

 

「……もうですか?」

 

「言ったでしょう。エントリー戦は、新人能力者の展示会でもあるのです」

 

「嫌な言い方ですね」

 

「事実ですから」

 

 通知は三件、四件と増え続けていく。

 

 霧島はその中の一件を見て、わずかに眉を動かした。

 

 大企業ではなく、小規模な能力者派遣チームからの接触らしい。

 

 俺は、さっきまで包まれていた会場の熱狂と歓声を思い出した。

 

 これまでの三十五年の人生で、自分の名前があれほど大勢の人間から熱を持って呼ばれたことなど、一度もなかった。

 

 会社では、誰もやりたがらない仕事を押しつけられる時にだけ、名字を呼ばれる。

 

 だが、今日は違った。

 

 俺は自分の力で戦い。

 

 自分の力で勝ち。

 

 観客が。

 

 世界が。

 

 俺という人間を、確かに見ていた。

 

 三十五歳にして初めて手にした勝利の味は、十万円の報酬や焼き肉の味よりも、ずっと甘く、俺の奥底を熱く焦がしていた。

 




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