冴えない中年平社員、見た技と異能をコピーして企業代理戦で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

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第8話 今度の異能はすぐにコピーできない

 週半ばの水曜日。

 

 霧島から送られてきた資料に目を通し、俺は小さく息を吐いた。

 

 ネクサス・マッチング経由で舞い込んだ、基本報酬百二十万円の試合依頼。

 

 依頼企業。

 

 対立する企業。

 

 契約の対象となる権益。

 

 報酬や負傷時の補償。

 

 それらについては、霧島が事前に精査してくれたおかげで、法的な危険や安全管理上の大きな問題は見当たらなかった。

 

 だが、俺の視線は対戦相手のプロファイル欄へ釘づけになっていた。

 

『対戦相手:荒木宗介』

 

『登録評価:Tier4』

 

『公式戦績:二勝一敗』

 

『主能力系統:状態変化系・詳細一部非公開』

 

「二勝一敗……黒瀬さんより、公式戦の経験が多いんですね」

 

 スマートフォンの通話口越しに尋ねると、霧島はいつもの淡々とした声で答えた。

 

『純粋な格闘技経験や基礎的な打撃技術については、黒瀬選手ほど洗練されていないと評価されています』

 

「だったら、前回よりは戦いやすいんですか?」

 

『そう判断するのは危険です。荒木選手が経験した三試合は、すべて地形利用型です』

 

「今回の形式では、向こうが先輩ってことですか」

 

『はい。平坦なリングでの戦闘力だけでなく、遮蔽物、高低差、足場、建物の構造を含めた総合的な立ち回りを警戒してください』

 

 俺はもう一度、荒木の資料へ目を落とした。

 

 能力の詳細は非公開。

 

 公開されているのは、状態変化系という大雑把な分類だけだ。

 

 黒瀬の時は、《身体能力強化》と《動体視の魔眼》という情報が事前に与えられていた。

 

 今回は、何が起きるのかさえ分からない。

 

「分かりました」

 

 そう答え、画面に表示された受諾ボタンへ触れる。

 

 もちろん、百二十万円という報酬に目がくらんだわけではない。

 

 いや、まったく魅力を感じていないと言えば嘘になる。

 

 それでも、それ以上に興味があった。

 

 リングとは違う地形戦。

 

 まだ見たことのない異能。

 

 前回とは異なる条件で、今の自分がどこまで戦えるのか。

 

 それを確かめてみたかった。

 

     ◆

 

 試合は、週末の土曜日。

 

 それまでの平日は、昼間は普通の会社員として働きながら、夜に試合の準備を進めた。

 

 まずはランニング。

 

 もちろん、《身体能力強化》には頼らない。

 

 素の三十五歳の肉体を引きずり、夜の街を走る。

 

 始めてから、まだ数日。

 

 映画の主人公のように、一週間で別人並みの心肺機能を手に入れられるほど現実は甘くない。

 

 相変わらず十分ほど走れば息が上がる。

 

 後ろから来た年配のランナーにも、軽々と追い抜かれた。

 

 それでも、初日よりわずかに足を止めず走れる距離が伸びている。

 

 信号待ちへ着いた時の呼吸も、少しだけ早く整うようになった。

 

 何もしなかった一週間前よりは、確実にましだ。

 

 そして、週に二回のジム通い。

 

 今回は、新しい格闘技を《ライブラリ》へ追加することはしなかった。

 

 すでに持っている、

 

 《ボクシング》。

 

 《キックボクシング》。

 

 《柔道》。

 

 《空手》。

 

 それらを、実戦の流れの中でどう切り替えるか。

 

 打撃から組み技への移行。

 

 組みついた状態からの離脱。

 

 狭い場所での体さばき。

 

 長い物を持った時の足運び。

 

 通常状態の速度で、繰り返し確認する。

 

 ジムで《身体能力強化》を発動し、サンドバッグや床を破壊するわけにはいかない。

 

 そのため練習は地味だった。

 

 それでも、黒瀬との試合で分かったことがある。

 

 技能をコピーしただけでは、戦い方は完成しない。

 

 どの技を、どの場面で選ぶのか。

 

 それを決めるのは、あくまで俺自身だ。

 

 木曜日の夜、霧島から短いメッセージが届いた。

 

『地形利用型では、相手だけでなく建物の状態にも注意してください。床や壁も含めてです』

 

 俺は『了解しました』と返信する。

 

 続けて、もう一通。

 

『能力者同士が全力で衝突すれば、一見頑丈に見えるコンクリートの床であっても崩落する可能性があります』

 

 その時の俺は、霧島の警告を理解したつもりでいた。

 

 実際には、まるで理解できていなかった。

 

     ◆

 

 試合当日。

 

 俺はネクサス・マッチングが手配した黒い送迎車に揺られ、湾岸地区の端にある指定会場へ向かった。

 

 到着した場所には、解体工事用の無骨な足場が組まれた、古びた七階建てのオフィスビルが建っていた。

 

 窓ガラスは、ところどころベニヤ板で塞がれている。

 

 正面玄関には、

 

『特殊災害対応構造試験』

 

 という、もっともらしい偽装看板が立てかけられていた。

 

 前回の会場は、設備が整い、安全管理が行き届いた透明なオクタゴンだった。

 

 今回は、この薄汚れた廃ビルそのものが俺たちのリングになる。

 

「これ……戦っている途中で、ビルごと崩れたりしませんよね?」

 

 少し不安になって尋ねると、隣を歩く霧島は無表情のまま答えた。

 

「試合に使用する四階から六階の制限区域については、事前に構造検査が行われています。通常の活動の範囲であれば、倒壊しないことは確認済みです」

 

「……通常の活動なら?」

 

「はい」

 

「能力者同士の戦闘は、通常の活動に入ります?」

 

「運営が想定している範囲内であれば」

 

「想定を超えたら?」

 

「保証の限りではありません」

 

 まるで安心できない回答だった。

 

     ◆

 

 俺たちが廃ビルの内部へ入っていた頃。

 

 隣接する別棟の防音された観戦ホールでは、すでに異様な熱気が生まれていた。

 

 壁面を覆う巨大モニターには、廃ビル内部の様子が複数の角度から映し出されている。

 

 廊下や各部屋に設置された固定カメラ。

 

 天井付近を飛行する小型撮影ドローン。

 

 赤外線カメラ。

 

 集音マイク。

 

 さらに、両選手の心拍数、体温、建物の振動を測定する構造センサーの数値までが並ぶ。

 

「間もなく試合開始です! 佐伯選手、荒木選手ともに、すでに指定された開始地点へ到着しています!」

 

 マイクを握るネクサス社員の実況に続き、隣へ座る元Tier3選手の解説者が言葉を添える。

 

「佐伯選手は、エントリー戦で黒瀬選手を破った注目の新人です。しかし、リングと廃ビルは別競技と考えた方がいいでしょう」

 

「対する荒木選手は、地形利用型で二勝を挙げています」

 

「ええ。地形戦では、単純な身体出力だけで勝敗は決まりません。新人にとっては厳しい試合になるでしょう」

 

 観戦席の最前列では、今回の権益――湾岸地区に新設される大型物流センターの、五年間にわたる設備管理・夜間警備契約を巡って争う両企業の幹部たちが、モニターを食い入るように見つめていた。

 

 俺を雇った企業の社長は、ハンカチで額の汗を拭っている。

 

 対して、荒木側企業の専務は腕を組み、余裕の笑みを浮かべていた。

 

 後方の運営席では、霧島が無言でモニターを見上げている。

 

 表情は、いつもの鉄面皮。

 

 ただ、タブレットの縁を握る指先には、わずかに力が入っていた。

 

     ◆

 

 試合開始地点。

 

 六階にある、かつて開放型オフィスとして使われていた大部屋。

 

 約二十メートルの距離を空け、俺と荒木宗介が向かい合っていた。

 

 フロアには、スチールデスクやキャスターつきの椅子、倒れたパーティションが乱雑に散らばっている。

 

 荒木は、作業着に似た動きやすそうな服を着ていた。

 

 膝と肘には黒いプロテクター。

 

 身長は百七十八センチ。

 

 体重は八十八キロ。

 

 筋肉質ではあるが、黒瀬のように極限まで絞り込まれた格闘家の肉体ではない。

 

 互いに近づき、グローブを軽く合わせる。

 

「どうも。荒木です」

 

「佐伯です。よろしくお願いします」

 

「黒瀬さんを倒した新人って、あんたっすよね。映像、見ましたよ」

 

 荒木は人懐っこい声で笑った。

 

 敵意や殺気は感じない。

 

「いやあ、俺、ああいう本格的な格闘技経験者って苦手なんすよ。やりづらくて仕方ない」

 

「俺は、本格的な格闘家じゃありませんよ」

 

「マジっすか? じゃあ、似た者同士っすね」

 

 荒木は軽く肩を回す。

 

「まあ、お互い大怪我しない程度に、本気でやりましょうや」

 

「そうですね」

 

 気さくな態度。

 

 だが、俺は気づいていた。

 

 荒木は会話を続けながら、フロア全体を観察している。

 

 机の位置。

 

 壁の材質。

 

 床の状態。

 

 非常階段への動線。

 

 遮蔽物。

 

 あれは、ただ周囲を見回しているのではない。

 

 この地形をどう使って戦うか、計算している目だ。

 

     ◆

 

 二人が距離を取り、フロアへ静寂が訪れる。

 

 やがて、設置されたスピーカーから無機質な声が流れた。

 

『地形利用型・一対一企業代理戦を開始します』

 

 甲高い電子音。

 

 その瞬間、荒木のまとう空気が変わった。

 

 《身体能力強化》を発動したのだ。

 

 全身の筋肉が張り、床を踏む圧力が増す。

 

 俺の視界に青白い文字が浮かんだ。

 

『既登録異能の発動を確認しました』

 

『《身体能力強化》Tier4』

 

『使用可能回数を上限まで補充しました』

 

『使用可能回数:20回』

 

 前回の試合終了時には十七回だったストックが、上限まで戻る。

 

 俺も即座に発動した。

 

『《身体能力強化》Tier4を発動します』

 

『使用可能回数:残り19回』

 

 全身の血管を、熱い奔流が駆け抜ける。

 

 周囲の動きが、一段階遅くなったように感じた。

 

 《身体能力強化》は、近接戦へ出る能力者が比較的よく持っている基礎的な異能だ。

 

 事前の測定情報が正しければ、純粋な出力は俺の方がわずかに高い。

 

 床を強く蹴る。

 

 散乱したパーティションを避け、荒木へ向かって一気に距離を詰めた。

 

     ◆

 

 荒木は逃げなかった。

 

 小さく息を吸い、その視線を一瞬だけ、自分の斜め上にある虚空へ向ける。

 

 まるで、そこに俺には見えない画面でも浮かんでいるように。

 

「《ウェイトシフト》」

 

 荒木が短くつぶやいた瞬間。

 

 その身体が、ずん、とわずかに沈んだ。

 

 ただ立っているだけなのに、足元のコンクリートが重圧を受けたように軋む。

 

 俺は、その発動の瞬間を正面から捉えていた。

 

 《ライブラリ》が反応する。

 

『未登録の因果現象を捕捉しました』

 

『発動起点の観測に成功』

 

『複合因果構造を検出』

 

『再現情報が不足しています』

 

『解析率:6%』

 

「……え?」

 

 走りながら、思考が一瞬止まった。

 

 能力名が表示されない。

 

 使用可能回数も出ない。

 

『登録しました』

 

 の文字が現れない。

 

 つまり、コピーできていない。

 

 これまでは違った。

 

 《身体能力強化》も。

 

 《アイテムボックス》も。

 

 《動体視の魔眼》も。

 

 発動の瞬間を目撃してから、わずかな時間で登録が完了していた。

 

 今までは、ほとんど即座にコピーできたのに。

 

 背筋を冷たい汗が流れる。

 

 発動を見逃したわけではない。

 

『発動起点の観測に成功』

 

 と表示されている。

 

 それでも、解析が終わらない。

 

 荒木の能力が、これまで見た異能よりも複雑な構造を持っているということだ。

 

 Tier4だから、単純な能力とは限らない。

 

 Tierが示すのは、能力の危険性や影響力、戦術的な評価だ。

 

 《ライブラリ》にとって再現しやすいかどうかとは、別の話らしい。

 

 出力そのものは最下位等級。

 

 それでも、この能力の中には、まだ俺が観測していない仕組みがいくつも組み込まれている。

 

 俺は急ブレーキをかけた。

 

 コピーできない以上、能力の全容も分からない。

 

 そんな相手の懐へ、素手で飛び込むのは危険すぎる。

 

     ◆

 

 周囲へ視線を走らせ、床へ落ちていた太い木製角材を拾い上げた。

 

 身体強化の出力を乗せ、野球のバットを振るように、荒木の胴体へ角材を薙ぎ払う。

 

 荒木は避けなかった。

 

 両腕を顔の前へ上げ、ガードの姿勢を取る。

 

 俺の身体出力なら、角材ごと腕をへし折り、横へ吹き飛ばせる。

 

 そう思った。

 

 だが。

 

 バキィッ!

 

 凄まじい破壊音。

 

 折れたのは、角材の方だった。

 

 真ん中からへし折れた木片が宙を舞う。

 

 荒木は、その場から一歩も動いていない。

 

 それどころか、俺の一撃を受け止めた荒木の靴の下で、コンクリートの床が蜘蛛の巣状にひび割れていた。

 

 反動が両腕へ跳ね返ってくる。

 

「うおっ、やべえ……!」

 

 地面の奥深くまで埋め込まれた鉄骨を、全力で殴りつけたような感触。

 

 たまらず後方へ跳び、距離を取る。

 

 硬化能力か?

 

 いや、皮膚が硬くなっただけではない。

 

 角材が当たった瞬間、衝撃を荒木の全身と床が一緒に受け止めた。

 

 荒木という存在そのものが、異常なまでに重くなったような。

 

『解析率:11%』

 

 《ライブラリ》は、まだ答えを教えてくれない。

 

 だが、一つ気になることがあった。

 

 俺の攻撃を受け止めた直後、荒木は反撃してこなかった。

 

 こちらの両腕は痺れ、完全に無防備だった。

 

 あの状態なら、一発殴るだけで大きな損傷を与えられたはずだ。

 

 それなのに荒木は、その場で俺を見ただけだった。

 

 追撃する気がない?

 

 いや。

 

 一瞬だけ、何かを待っていたような。

 

     ◆

 

 俺が折れた角材を捨てた直後、荒木が床を軽く蹴った。

 

 先ほどまで微動だにしなかった身体が、今度は信じられないほど軽く、ふわりと後方へ舞い上がる。

 

 一度の跳躍で、間にある三つのスチールデスクを飛び越えた。

 

 空中へ浮いている時間も、明らかに長い。

 

 たんっ。

 

 着地音は、八十八キロの男とは思えないほど軽かった。

 

 さっきまで、巨大な柱のように動かなかった。

 

 なのに今は、紙のように跳んでいる。

 

 荒木は倒れたパーティションを蹴り、さらに後方へ距離を取った。

 

「なんだ、今の……」

 

 俺は追いながら、思わずつぶやく。

 

「軽い?」

 

『同一因果現象の異なる状態変化を確認』

 

『解析率:24%』

 

 単純な硬化能力ではない。

 

 俺の中で、その可能性が消えた。

 

 そして、また違和感があった。

 

 あれだけ大きく跳んだのに、荒木はすぐに攻撃へ移らない。

 

 わざわざ距離を取り、俺が追ってくるのを待っている。

 

 接近して。

 

 一度能力を使い。

 

 距離を離す。

 

 荒木の戦い方には、妙な区切りがある。

 

     ◆

 

 別棟の遠隔観戦ホール。

 

 俺を雇った企業の社長が、モニターへ身を乗り出す。

 

「な、なんだ今のは! 荒木選手は空を飛んだのか!?」

 

 元Tier3の解説者が冷静に否定した。

 

「飛行能力ではありません。床を蹴って跳躍しています」

 

「ですが、八十キロ以上ある人間の動きには見えません!」

 

「ええ。体重と跳躍力の釣り合いが、明らかに崩れています」

 

 荒木側企業の専務が、余裕の笑い声を漏らす。

 

「あれが、荒木の得意な戦い方ですよ。ここからが見物です」

 

 実況が声を張り上げた。

 

「佐伯選手、後退する荒木選手を追う! しかし荒木選手、デスクや壁を足場に、立体的な動きで距離を保ちます!」

 

 運営席の霧島は、腕を組んだまま画面を凝視していた。

 

「……硬化ではありませんね」

 

 小さくつぶやく。

 

「質量そのものを操作している?」

 

     ◆

 

 六階フロア。

 

 荒木は軽量状態のまま、スチールデスクの上を猫のように駆け抜け、俺の右側へ回り込んだ。

 

 俺はキックボクシングの構えを取る。

 

 荒木がデスクの端を蹴り、空中から俺へ迫った。

 

 宙にいる身体は、羽のように軽い。

 

 このままなら、カウンターで撃ち落とせる。

 

 そう思った、接触の直前。

 

 荒木の身体が、急激に沈んだ。

 

 軽やかだった動きが、一瞬で岩盤の落下へ変わる。

 

 肩からの体当たり。

 

 俺は両腕を顔の前で交差し、防御した。

 

 ドォンッ!

 

「がはっ……!」

 

 身体強化状態の俺が、十メートル近く吹き飛ばされた。

 

 床を滑り、倒れたパーティションを突き破る。

 

 そのまま会議室の壁へ、背中から激突。

 

 石膏ボードが砕け、肺から空気が押し出された。

 

 荒木が、床を踏み抜きそうな音を立てて着地する。

 

 俺は咳き込みながら身体を起こす。

 

 移動する時は軽い。

 

 攻撃する瞬間だけ、異常なほど重くなる。

 

 硬さではない。

 

 こいつは、自分の重さを切り替えている。

 

『解析率:38%』

 

 まだ正式登録されない。

 

 そして荒木は、また追撃しなかった。

 

 俺は壁へ叩きつけられ、呼吸もできていない。

 

 今なら、さらに攻め込める。

 

 だが荒木は、その場で構えたまま、こちらが立ち上がるのを待っている。

 

 なぜだ。

 

 余裕を見せている?

 

 性格が甘い?

 

 それとも。

 

 すぐには次の変化を使えない?

 

     ◆

 

 荒木が重い足音を立てて近づいてくる。

 

 俺は足元の瓦礫を蹴り上げ、その視界を塞いだ。

 

 同時に、ボクシングのジャブを顔面へ放つ。

 

 拳が当たる瞬間、荒木の身体が重くなる。

 

 首をわずかに揺らしただけ。

 

 ほとんどダメージを受けていない。

 

 俺は即座に下段へ切り替え、軸足へローキックを叩き込む。

 

 だが、その時には荒木の身体はすでに通常の重さへ戻っていた。

 

 蹴りが荒木の太腿へ食い込む。

 

 荒木が顔をしかめ、一歩下がった。

 

「っ……!」

 

 今度は通った。

 

 荒木は、俺のジャブを受けた直後に再び重くならなかった。

 

 できなかったのか?

 

 荒木が右フックを振る。

 

 俺はダッキングで避ける。

 

 拳は遅い。

 

 荒木は拳を振り切ると、そのまま距離を離した。

 

 追撃の左は来ない。

 

 重い一撃。

 

 その後は、離脱。

 

 荒木は、能力を乗せた攻撃を連続させていない。

 

 正確には、連続させられない?

 

『解析率:44%』

 

 数字が上がった。

 

 《ライブラリ》も、今の一連を能力の情報として認識したらしい。

 

 荒木が再び軽くなり、横へ大きく跳ぶ。

 

 重くなる。

 

 攻撃する。

 

 離れる。

 

 少し間を置く。

 

 また軽くなる。

 

 派手で不規則に見えていた動きに、一定の空白が存在する。

 

 その空白が何秒なのか、まだ正確には分からない。

 

 だが、何かの制限がある。

 

     ◆

 

 打撃で倒せないなら、投げる。

 

 荒木の接近へ合わせ、その左腕をつかんだ。

 

 柔道の体落とし。

 

 腰を深く落とし、重心を前へ引き崩す。

 

 その瞬間、荒木が楽しそうに笑った。

 

「それ、無理っすよ」

 

 荒木の身体が、最大質量へ変わる。

 

 つかんでいた腕に、突然、四百キロを超える重さがのしかかった。

 

 肩の関節が外れそうになる。

 

 荒木の両足が、コンクリートへめり込むように固定された。

 

 動かない。

 

 巨大な岩を投げようとしているようなものだ。

 

 荒木は固定された足場を利用し、今度は俺の腕を引き寄せる。

 

 質量を乗せた膝蹴り。

 

「ぐはっ……!」

 

 腹部へ深く突き刺さった。

 

 呼吸が止まる。

 

 俺は次の肘打ちを警戒し、両腕で頭を守った。

 

 しかし、攻撃は来なかった。

 

 荒木は俺を突き放し、その場から離れた。

 

 まただ。

 

 俺は完全に体勢を崩していた。

 

 もう一発あれば、倒されていたかもしれない。

 

 なのに荒木は、膝蹴りの次を出さない。

 

 荒木本人も、俺が連撃を警戒していることに気づいたらしい。

 

 軽く笑う。

 

「慎重っすね」

 

「そっちが、続けて殴ってこないからですよ」

 

「へえ」

 

 荒木の笑みが、ほんの少しだけ固くなった。

 

『投擲抵抗時の状態変化を確認』

 

『状態遷移に一定の制限を検出』

 

『解析率:54%』

 

 能力の正体は、ほぼ理解できた。

 

 自分の質量を、重くも軽くも変化させる。

 

 だが、好きな瞬間に好きなだけ変えられるわけではない。

 

 切り替えた直後には、次の切り替えができない時間がある。

 

 それでも、どう倒せばいい?

 

     ◆

 

 俺が体勢を立て直す前に、荒木は再び軽量状態へ入った。

 

 廊下へ飛び出し、積まれたスチール机を踏み台にして、非常階段へ飛び込む。

 

 六階から五階へ。

 

 地形を利用した追跡戦。

 

 俺も後を追う。

 

 荒木は階段の手すりへ飛び乗り、軽い身体で滑り降りた。

 

 俺は三段飛ばしで階段を駆け下りる。

 

 ここで、仕事後に続けていたランニングが、ほんの少しだけ役に立った。

 

 身体強化の出力に振り回されず、自分の呼吸のペースを整える。

 

 以前の俺なら、激しい打撃戦の後に全力で階段を下れば、とっくに息が乱れていたはずだ。

 

 五階の踊り場へ着地した荒木が、後ろを振り返る。

 

「あれ、意外とペース落ちないっすね! 新人にしてはタフだ」

 

「最近、健康のために走り始めたんでね!」

 

「試合中に聞くと、めちゃくちゃ地味な回答っすね!」

 

 軽口を交わしながら、廃ビルの階段を駆ける。

 

 だが、その途中で俺は妙なことに気づいた。

 

 荒木は、息を切らしていない。

 

 軽量状態とはいえ、机や壁を蹴り、何度も大跳躍を繰り返している。

 

 身体能力強化も使用中。

 

 これだけ激しく動けば、普通は少しずつ呼吸が荒くなる。

 

 黒瀬もそうだった。

 

 俺自身も、身体強化を使っていても疲労は蓄積する。

 

 だが荒木の呼吸は、試合開始時とほとんど変わっていない。

 

 汗も少ない。

 

 動きにも、肉体的な疲労は見えない。

 

 疲れていない?

 

 それなら、なぜ一度攻撃した後に必ず距離を取る?

 

 体力を温存しているわけではない。

 

 別の何かを待っている。

 

     ◆

 

 荒木が階段の踊り場から大きく跳んだ。

 

 軽量状態のまま、異常な高さまで浮き上がる。

 

 俺の頭上。

 

 空中で両足をそろえ、こちらを見下ろした。

 

「《ヘビードロップ》!」

 

 荒木が叫んだ瞬間、身体が最大質量へ切り替わる。

 

 四百キロを超える重さが、身体強化と落下速度を伴って迫る。

 

 俺は正面から受けることを諦め、全力で横へ飛んだ。

 

 直後。

 

 荒木の両足が、階段の踊り場へ激突する。

 

 ドゴォォォンッ!

 

 爆発のような轟音。

 

 老朽化したコンクリートが、質量に耐えきれず粉々に砕けた。

 

 階段の一部が崩落する。

 

 俺と荒木は、瓦礫とともに下の五階へ落下した。

 

 空中で身体をひねる。

 

 柔道の受け身を取り、木製デスクの残骸へ転がって衝撃を逃がす。

 

 一方の荒木は、重量状態のまま五階の床へ激突。

 

 さらに床面へ巨大なひびを作った。

 

 粉塵が舞い上がる。

 

 どこかの配管が壊れ、警報が鳴り始めた。

 

『落下時の質量変化を確認』

 

『解析率:69%』

 

     ◆

 

 遠隔観戦ホール。

 

 構造センサーの警告ランプが赤く点滅し、室内が騒然となった。

 

「おい、止めなくていいのか!? ビルが崩れるぞ!」

 

 依頼側の社長が立ち上がる。

 

 医療担当者が冷静に報告した。

 

「両選手とも生命反応は安定しています。試合継続は可能です」

 

 荒木側の専務が得意げに鼻を鳴らす。

 

「荒木の能力を知らなければ、あんな攻撃は初見で防げませんよ」

 

 実況が声を張り上げる。

 

「佐伯選手、瓦礫の中から立ち上がります! まだ試合を続ける意思があります!」

 

 元Tier3の解説者は、画面の中の俺を凝視していた。

 

「佐伯選手は、ただ防戦一方になっているわけではありません」

 

「どういう意味ですか?」

 

「攻撃を受けるたびに、荒木選手の足、視線、能力を切り替える間隔を観察しています」

 

 解説者が、荒木の映像へ目を移す。

 

「それに妙ですね」

 

「何がです?」

 

「あれだけ激しく動いているのに、荒木選手の心拍と呼吸がほとんど乱れていない」

 

 メインモニターには、二人の心拍数が表示されている。

 

 俺の数値は明らかに上昇している。

 

 荒木の数値は、運動量の割に異様なほど安定していた。

 

「体力に余裕があるのに、荒木選手は能力を使った攻撃を連続させていません」

 

 荒木側企業の専務から、笑みが消える。

 

 霧島は無言のまま、画面へ映る荒木の挙動を追っていた。

 

     ◆

 

 粉塵が漂う五階フロア。

 

 俺は、ゆっくりと立ち上がった。

 

 口の中を切ったらしく、血の味がする。

 

 受け身を取った左肩も痛い。

 

 視界の端で、身体能力強化の制限時間がゼロになる。

 

 三分経過。

 

『効果を継続しますか?』

 

 迷わず【YES】を選んだ。

 

『使用可能回数:残り18回』

 

 瓦礫の向こうから、荒木も姿を現す。

 

 服には粉塵が付着している。

 

 しかし、呼吸は乱れていない。

 

 何度も跳び。

 

 何度も自分を数百キロまで重くし。

 

 床を砕くほどの攻撃を放った。

 

 それなのに、荒木の身体には、俺ほどの疲労が見えない。

 

 俺の予想が外れていた。

 

 質量変更のたびに、普通の体力を消耗しているわけではない。

 

 では、何を消費している?

 

 いや。

 

 そもそも、消費しているのか?

 

 荒木は疲れていない。

 

 それでも、能力を使った直後には攻撃を続けない。

 

 角材を受け止めた後。

 

 体当たりを当てた後。

 

 膝蹴りを入れた後。

 

 ヘビードロップの後。

 

 いつも一度で止まり、わずかな間を置いている。

 

 肉体の疲労とは別の制限がある。

 

 使うたびに休んでいるのではない。

 

 使った直後は、次の能力を使えない。

 

 《ライブラリ》の表示をにらむ。

 

『解析率:69%』

 

『再現情報が不足しています』

 

 これまでの能力なら、とっくにコピーできていた。

 

 それでも、まだ三割以上足りない。

 

 軽量化。

 

 重量化。

 

 変化した身体を守る自動的な補正。

 

 攻撃、防御、移動への転用。

 

 そして、連続使用を阻む何らかの制限。

 

 一つの異能の中に、複数の仕組みが組み込まれている。

 

 荒木が再び、自分の斜め上の虚空へ視線を動かした。

 

 何かを確認している。

 

 俺には見えないものを。

 

 次の瞬間、荒木の身体が軽くなる。

 

 机の残骸を踏み台にして、天井近くまで跳び上がった。

 

 先ほどと同じ、空からの最大質量攻撃。

 

 俺は両拳を握り、顔の前へ構える。

 

 解析が終わるまで逃げ回るか?

 

 違う。

 

 《ライブラリ》は、能力を手に入れるための力だ。

 

 だが、戦い方まで代わりに考えてはくれない。

 

 俺はこれまで、大きな勝負とは無縁に生きてきた。

 

 それでも今は、コピーした能力を並べているだけで、この場所に立っているわけではない。

 

 コピーが終わるまで耐えるんじゃない。

 

 解析が終わる前に、俺自身がこいつの能力を攻略する。

 

 荒木が頭上から落下を開始した。

 

 今度は、荒木の身体だけを見ない。

 

 攻撃を放った後に生まれる空白。

 

 連続して質量を変えられない時間。

 

 俺が狙うべきなのは、そこだ。

 

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