舞踏会から十二分消えただけなのに、私には十二年が経っていました ~異世界帰りの二十九歳令嬢は、年下近衛だけの「おかえり」に泣いてしまう~   作:aquali

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1. 十二分と十二年

 光の膜を、一歩で抜けた。

 

 呆気ない、と思う。帰還の門は、開くまでに十二年かかって、抜けるのは一歩である。

 

 靴の底が、硬いものを踏んだ。磨かれた大理石。頭上に、星のかわりにシャンデリア。香水と蜜蝋の匂い――汗と鉄と灰を十二年吸った鼻に、それは砂糖菓子の暴力である。

 

 そして、音楽。ワルツが流れていた。

 

 ――同じ曲が。

 

 『春の贈り物』。今夜の最初の一曲に、と楽団長へ願い出たのは私だ。この曲で婚約者と踊って、私は大人になるはずだった。十二年前――彼らにとっては、ほんの少し前に。

 

 まるで誰かが世界の譜面のページを、私のいない間じゅう、指で押さえて待っていたかのように。

 

 悲鳴は、三拍遅れて上がった。

 

「な、何者だ!?」「どこから……」「衛兵! 衛兵!」

 

 声の洪水の中で、私の身体は勝手に仕事を始める。半歩下がって壁を背にし、燭台までの距離を測り、人垣の薄い場所を二箇所。退路の確認。癖である。十二年、これをやめた者から死んでいった。

 

 壁の大時計が目に入る。九時五十九分。

 

 止まっているのかと思った。私の記憶にある針は、九時四十七分を指している。光に呑まれる、その直前の針が。

 

 十二分。

 

 私の十二年は、この広間の、十二分だった――。

 

「……イレーネ、様?」

 

 震える声に振り向く。金の髪の、細い少年が立っていた。祝いの夜の正装、胸に白い花。その顔で分かった。ユージーン・ハウエル。私の婚約者。十七歳の。

 

 十二年前のままの。

 

 彼の視線が、私を上から下までなぞる。焦げてぼろぼろになった若草色のドレス――卒業舞踏会のための、あの日のドレスの、なれの果て。短く刈った髪。左の眉尻の白い傷。日に灼けて、傷だらけになった、二十九歳の女。

 

 このドレスは、十二年、行李(こうり)の底で守り抜いたものである。ナジャの術式は、帰る座標を「出発の日の衣装」に覚えさせる設計だった。帰還の晩、私は十二年ぶりに袖を通して、門をくぐったのだ。戦火の中を、これだけは焼かせなかった。帰り道を、焼かせないのと同じことだったので。

 

「違う」

 

 彼は首を振った。一歩、二歩と後ずさりながら。

 

「違う違う……イレーネ様は光に呑まれて、まだ、ほんの少ししか経っていない。こんな……こんな女の人じゃない。偽物だ。――偽物を捕らえろ!!」

 

 剣が鞘を滑る音は、世界のどちら側でも同じ音がする。

 

 近衛が三人、扇状に広がって間合いを詰めてくる。腰の落とし方で練度が知れる。武器がなくても三人までなら捌ける、と私の身体が算段を終える。

 

 ――それをしない、と決めるために、私の十二年のぜんぶが要った。

 

 ここは戦場ではない。ここは、私が帰りたかった場所だ。

 

 人垣の向こうで、母が口を覆って崩れるのが見えた。父がその前に立つ。私から、母を庇う側で。

 

 十二年、幾度も夢に見た再会である。夢の中の私は、いつも上手に「ただいま」を言えるのだ。現実の私は、両親に庇われる側ではなく、退路を数えていた。

 

 胸のどこが痛いのか、もう分からない。

 

 ――そのとき。

 

 鞘に剣の戻る音が、ひとつだけ響いた。

 

 テラスの扉の前にいた若い近衛が、まっすぐこちらへ歩いてくる。誰の制止も聞かず、抜き身の剣の間を抜けて。その手に――靴。片方だけの、焦げた繻子(しゅす)の靴。私が光に呑まれた床に、脱げ落ちたはずの。

 

 彼は床の焦げ跡の縁で膝をつき、両手で靴を捧げた。

 

「お預かりして、おりました」

 

 声が、少しだけ掠れていた。

 

「――おかえりなさい、イレーネ様」

 

 膝が、落ちた。

 

 剣で崩されたことは、十二年で三度ある。言葉で崩されたのは、初めてである。

 

 おかえりなさい、を言う側は、十二年やった。門の砦へ帰ってくる隊に、篝火(かがりび)の下で、幾百度も。言われる番は、一度も来なかった。私の帰る場所は、ここにしか――この、十二分の世界にしか、なかったので。

 

 頬が濡れている、と気づくまでに時間がかかった。涙は、戦場で真っ先に涸れる。泣く者から死ぬからだ。ナジャの葬式でも、セヴラン隊長の墓標の前でも、出なかったものが。

 

 そのひと言で、十二年ぶんが、決壊した。

 

 どれだけそうしていたのか。私は立ち上がり、剣を構えたままの近衛たちへ告げた。

 

「……検分は、結構です。五体満足で戻りました。武器も持っておりません」

 

 ドレスに武器を隠す場所がないのは、こちらの世界の服飾の、設計上の欠陥だと思う。

 

 ――――その夜。

 

 私は王宮の客間に「保護」された。窓の外に見張りが二人、扉の外に二人。数えるのは癖である。保護、という言葉がこんなに錠前の音をさせるとは知らなかった。

 

 寝台は雲のように柔らかく、だから眠れない。背中が沈むと、起き上がりが一拍遅れる。一拍は、致命の長さである。

 

 毛布を一枚だけ取って床に座ったとき――天井から、灰が降りはじめた。

 

 雪のように。音もなく。ひとひら手に受けると、指先の熱で崩れて、戦場の匂いをひとつ残して消える。

 

 床の下から、地鳴りに似た咆哮が響く。

 

 知っている声だった。〈黒鉄口〉の主。三年前、私が喉を裂いた魔物である。死んだ者の声が、なぜ。

 

 気づけば燭台を逆手に握り、壁を背にしていた。

 

「どうされましたか!? カースウェルです。入ります!」

 

 扉が開く。あの近衛だった。非番の軽装のまま、けれど廊下にいてくれたらしい。なぜ、と問う余裕は私にない。世界が半分、あちらの色に沈みかけている。

 

 彼は武器を抜かない。降る灰の中、まっすぐ私を見て、はっきりと言った。

 

「イレーネ様、大丈夫ですか?」

 

「あら、ごめんなさい。もう……大丈夫」

 

 カースウェルは怪訝そうに降る灰を見上げ、叫んだ。

 

「ここは王都です。今は春で、夜で、――あなたは、帰ってきた人です」

 

 今。ここ。その二つが、声の形で届く。

 

 私は燭台を置き、指印を結んだ。ナジャに教わった、門を撫でて閉じる手順。息を三つ。

 

 灰が、止んだ。咆哮が遠ざかり、絨毯の上には本物の灰だけが残る。

 

「……古い知り合いの、声です。もう死んでいます。私が、そうしました」

 

「そうですか」と彼は頷いた。「では、もう安全ですね」

 

 この男は、私を怖がらない。それが、どれほど珍しいことか、たぶん本人だけが知らない。

 

 彼は敬礼して廊下へ戻り、扉を閉める寸前、小さく言った。

 

「おやすみなさい」

 

 おかえりの次は、おやすみ。この世界の言葉は、なんて柔らかいのだろう。

 

 翌朝――物々しい封蝋の召喚状が、王宮から届いた。

 

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